京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

中京・下京

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下京区油小路通木津屋橋上る油小路町にある本光寺(ほんこうじ)は、どこにでもあるような小さな尼寺ですが、幕末の「七条油小路の変」で、元新選組参謀・伊東甲子太郎が殺害された地になります。新選組ゆかりの史跡については、熱心な幕末ファン、新選組ファンが色々書いていますので、ここでは簡単に書いてみます。


伊東甲子太郎(いとうかしたろう、1835〜1867)は、天保六年(1835)、常陸国志筑藩の郷目付・鈴木忠明の長男として生まれ、本名は鈴木大蔵といいました。水戸の金子健四郎の道場で神道無念流剣術と水戸学を学んだ後、江戸の深川佐賀町にあった北辰一刀流伊東精一道場に入門し、伊東精一から才能を認められて、後に道場を継いで伊東姓に改めます。元治元年(1864)十月、同門の藤堂平助の紹介で、江戸での新撰組隊士募集に応じて入隊。同年十一月、弟の鈴木三樹三郎や篠原泰之進、加納鷲雄、服部武雄、内海二郎、中西昇、佐野七五三之助らと上洛しました。この時に、元治元年甲子に因んで伊東甲子太郎と改名しました。


新撰組入隊後の伊東は、北辰一刀流の達人である上に、国学や和歌にも精通することから、参謀兼文学師範に抜擢されますが、水戸学の勤皇思想に傾倒していたため、佐幕派の近藤や土方とは意見が相容れず、また、かねてから新撰組の内部分裂や勤皇派への方向転換を計画していたともいわれます。
慶応二年(1866)九月二十六日、伊東は近藤の妾宅で激論して物別れとなり、慶応三年(1867)三月十日、ついに新選組を離脱して、泉湧寺塔中の戒光寺の長老、湛然上人の仲介によって孝明天皇の御陵守護の任(御陵衛士)を拝命し、直ちに長命寺(五条通り大和路東入る南側 現存せず)に移りました。同年六月、高台寺の塔頭・月真院を新たに屯所としたため、高台寺党とも呼ばれます。この時、伊東に同行した者は、弟の鈴木三樹三郎(三木三郎)、篠原泰之進、藤堂平助、新井忠雄、服部武雄、毛内有之助、加納鷲雄、富山弥兵衛、阿部十郎、内海次郎、中西昇、橋本皆助、清原清、斎藤一(斎藤は新選組の密偵とも)の十五名でした。


その後、伊東は、大納言柳原光愛を通して、開国による富国強兵策や国民皆兵論等の新政府基本政策の建白書を提唱するなど勤皇の志士として活発な活動を行い、同志たちも各地に遊説、例えば藤堂平助は美濃(岐阜)で農民兵を組織する等も行ったとも伝えられます。そして、伊東らが、実際にどこまで計画していたのかは不明のようですが、薩摩と通謀して近藤勇を暗殺しようと計画しているという情報が、新撰組の密偵として御陵衛士に参加していた斎藤一によって近藤に知らされました。そこで、近藤と土方は、先手を打って伊東殺害を計画します。

慶応三年十一月十八日、近藤は、かねて伊東が金子借用を申し入れていたことから、その用立が出来たと伊東を単身で呼び出し、七条醒ヶ井の近藤妾宅に招いて酒宴を催しました。和やかに歓待されて油断したのか、伊東は盃を重ね大いに酔って亥の告(午後十時)過ぎに帰途に着きました。
伊東が油小路木津屋橋の東、禁門の変で消失したために板囲いで町並みが囲まれている辺りにさしかかった時、突然、板囲いの中から突き出された槍に肩から喉を突き通されました。近藤が待ち伏せさせていた大石鍬次郎ら数名による襲撃でした。伊東は瀕死の重傷を負うも、抜刀して立ち向かいますが、本光寺門前に建てられている石塔(門派石 題目石塔)に倒れ掛かって「おのれ、奸賊ばら」と叫んで絶命したといわれます。現在、本光寺の門内右側にある供養塔がその石塔で、明治維新当時は、現在とは逆にこの石塔が表通りの油小路にありました。


新撰組は、伊東の遺骸を油小路七条の辻に運んで放置する一方で、伊東が襲撃されたことを月真院の高台寺党に知らせ、遺体を引き取りにきた同志を殺害するために十数名で待ち伏せました。そして、駆けつけてきた高台寺党七名と乱闘になり、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助が討死し、鈴木三樹三郎、加納道之助、富山弥兵衛、篠原泰之進の四名が逃走して薩摩藩邸に逃れました・・世にいう「油小路の変」です。尚、伊東ら四人の遺体はしばらく放置された後、一旦光縁寺に埋葬されましたが、後に高台寺党残党によって泉湧寺の塔頭・戒光寺に改葬されました。
(伊東らの戒光寺の御陵衛士墓所は、以前にブログに採り上げました。残念なことに、現在は、心無い人の墓所での仕業のために、伊東らの命日十一月十八日以外は墓所への立ち入りは禁止となったようです。)


現在、本光寺の門前にある石碑と駒札(伊東甲子太郎他数名殉難の地)は、昭和四十六年(1971)十一月に設けられました。明治維新から百年となる昭和四十三年(1968)以降、各地で様々な明治維新を記念する行事が行われ、京都各地の明治維新史跡の調査が進みました。こうして、新撰組と油小路の深い因縁が判明したことにより、これらの事績を広く一般に人にも知って欲しいと設置されたものです。

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