京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

京都御苑周辺

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阿弥陀寺の「信長忌」

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今回は、以前に「織田信長の墓といえばこのお寺(阿弥陀寺)」としてブログに採り上げた阿弥陀寺の再登場です。6月2日に行われた「信長忌」の様子を掲載します。
「信長忌」は、天正十年(1582)六月二日、本能寺で明智光秀に襲撃され自刃した織田信長の忌日法要になります。

上京区寺町通今出川上る鶴山町にある阿弥陀寺は、織田信長の墓があることで知られるお寺です。(京都市内の信長の墓としては、本能寺、阿弥陀寺、大徳寺総見院、妙心寺玉鳳院、大雲院の5つが知られていて、ブログにはこれらの墓の写真を掲載しています。)寺は普段は非公開(信長の墓のある墓地は普段も見られます)ですが、6月2日の「信長忌」に因んで、本堂が一般公開されました。
(以下沿革については「織田信長の墓といえばこのお寺(阿弥陀寺)」の文章を再掲載します)


阿弥陀寺は、蓮台山と号する浄土宗寺院で、本尊として丈六の大きな阿弥陀如来を祀っています。創建は、天文年間(1532〜54)、清玉(せいぎょく)上人が近江(滋賀県)の坂本に開創しました。その後、永禄年間(1558〜70)織田信長の帰依を得て京の地に移し、当初、西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川大宮東)に大きな境内(八町四方)と塔頭十一ヶ寺(十三ヶ寺とも)を構えていたということです。また正親町天皇は清玉上人に深く帰依し、東大寺大仏殿再建の勧進職を命じるとともに、当寺を勅願所としていました。
さて、清玉上人は織田家と深い親交があったため、天正十年(1582)六月二日の本能寺の変の際、本能寺等に駆けつけて、信長、信忠父子及び家臣百有余名の遺骸を阿弥陀寺に埋葬したと伝わり、本堂には織田信長・信忠父子等の木像が安置されています。その後、天正十五年(1587)に、秀吉の命で、蓮台野から現在の地に移り、その後、延宝三年(1675)、天明八年(1788)の「天明の大火」で類焼し再建されています。また京都四十八願寺巡拝の十六番札所でもあります。


さて、寺伝によれば、明智光秀が謀反を起し本能寺に攻め寄せているという報せを聞いた清玉上人は、塔頭の僧徒二十人余りを引き連れて本能寺に駆けつけました。
既に本能寺は明智軍により四方を囲まれていて表門からは境内に入る事は出来なかったので、裏道よりなんとか境内に入りますが、既に堂宇に火が放たれ、信長公は切腹した後ということでした。
見ると近くの竹林に十人ほどの武士が集まって火を焚いています。彼らは信長公の家臣達だったので、清玉上人が彼らに顛末を聞くと、一同は、信長公は切腹する時に、必ず死骸を敵に渡すなと遺言されたのですが、四方を敵に囲まれ死骸を抱いて逃れる事が出来ないので、やむなく火葬にして隠し、我々は皆自殺しようとしているということでした。
上人は、私は信長公とは格別の由縁ある者なので、火葬はもちろん、将来の御追悼をしましょうといって武士達に乞い、皆さんは自殺するよりも、むしろ信長公の為に敵と戦って戦死する方が公も望まれるでしょうと語りました。主君の火葬や供養を上人に委ねた武士らは大いに安堵して戦いに参加していきました。
そして、彼らが門前の敵と戦っている隙に、上人は火葬した白骨を法衣に包んで、本能寺の僧徒らが逃げるのに紛れてうまく帰寺する事が出来たのでした。そして白骨を深く土中に隠し置いたということです。

また、信長公の嫡男・信忠公も、同時に二条城新殿で明智軍と戦って自害し、死体を敵に渡さないために火中に投じたと聞いた上人は、何とかして信忠公の遺骸も得ようと苦慮します。
同日昼八つ時(午後二時頃)、明智光秀が七条河原で休憩していると聞いた上人は、陣中見舞いと称して、多くの餅や焼飯らを携えて赴いて光秀に献上し、本能寺や二条城における戦死者の中には阿弥陀寺の檀家の者も多いので、彼らの遺骨を阿弥陀寺に葬りたいと願い出ると、光秀もその志に感じて、許可を得ることが出来ました。
そこで、上人は直ちに寺僧を多数引き連れて、本能寺と二条城に戻って信忠公の遺体や討ち死にした者達の死骸を持ち帰って、暫く時を経て、塔頭の僧達と密かに信長公をはじめ戦死者の葬儀を行いました。


その後、光秀を滅ぼして政権を握った秀吉が、信長公の遺骨が阿弥陀寺にあると聞いて、信長公の一周忌を行おうと清玉上人に法事を頼んだ所、上人は、相当の法事は既に行ったとしてこれを受けず、また法事料として三百石の朱印を下附されたのも辞退しました。
秀吉は三度まで使いを派遣して、永代墓所供養のために寺領を受けるように命じますが、上人は断固として受けませんでした。上人は、信長公亡き後の秀吉の振舞いは織田家の乗っ取りを狙うもので、一周忌を自分自身の宣伝効果のために利用しようとしていると嫌って、申し出を断ったのでした。
ついに怒った秀吉は、紫野大徳寺境内に新たに一寺(信長公の法名を採って総見院)を建立して寺領を与え、遺骸が無いので信長の木像を二体作りそのうち一体を火葬にし一体を寺に祀ることにしました。
その後、阿弥陀寺は、天正十五年(1587)に、秀吉の命令で、蓮台野から現在の地に移されますが、秀吉の恨みを買っていたので広大な寺域を削られ現在のような小さな寺となったと伝えられます。




さて、特別公開された本堂には、巨大な本尊阿弥陀如来を中心に、右に運慶作と伝わる地蔵菩薩像や開山・清玉上人の木像が安置されています。また、本尊の左には、厨子に納められた織田信長・信忠父子、信長の庶兄・信広の木像が安置されています。信長像は青木加賀の法邦の作ということです。
また真偽の程は定かではありませんが、本能寺で信長が使ったとされる手槍、後陽成天皇の勅額、鼓、弓掛、鞍掛、本能寺打討死者の位牌等の信長の遺品、また羽柴秀吉、明智光秀、松永久秀らの書状等が展示されています。

境内墓地には、信長・信忠父子の墓の他に、本能寺の変で討ち死にした家臣・森蘭丸、坊丸、力丸の三兄弟の墓があります。他に猪子兵助ら12名の家臣の墓があるということですが各々の確認は難しいです。その奥には本能寺の変の討死衆の合葬墓や織田一族の墓(江戸期の一族の名があります)があり、他に墓地には、儒者皆川淇園、俳人蝶夢の墓等があります。


さて、「信長忌」の2日は、午前十時から檀家信徒を中心とする法要が行われ、十一時から信長に関する約一時間の講演会が行われました。昨年の「信長の棺」の著者・加藤寛氏に続いて、今年は「信長燃ゆ」「天下布武」等の安部龍太郎氏の講演でした。その後、信長に関する寺宝の説明がありました。
(尚、安部龍太郎氏は、本能寺の変の理解には、日本国内の事件という視点だけでは無く、世界史的な視点が必要で、事件の黒幕としてイエズス会があると考えられているようです。
それまで信長の天下統一のために、鉄砲の技術や貿易によって信長政権を支えてきたイエズス会が、信長が晩年に自身を神と崇めさせるような態度を示し始めたことから、信長を危険視しし、信長を見限ったことが事件の遠因ということです。イエズス会は、キリシタン大名の黒田如水(黒田官兵衛孝高 本能寺の変を秀吉の政権取りの絶好の機会として、毛利家との和睦や中国大返しを進言した。)を介して、豊臣秀吉に政権を取らせようと事件を仕組んだ・・というような説です。)

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閉じる コメント(4)

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英雄も庶民もつかの間。

すぐでしょうね、

2008/6/8(日) 午前 10:50 [ zen*o*hara6* ]

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総見院と書かれた後陽成院勅願がなぜ阿弥陀寺にあるのでしょうか。
総見院(総の字は本来は手へんかもしれませんが)は後に廃寺となったのでしょうか。

2008/6/8(日) 午後 10:05 [ hig*_p*ste2*00 ]

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なぜ、後陽成天皇の総見院の扁額があるのかは実際の所は不明のようです。本能寺の変で使用したと伝わる太刀もそうですが、いつの頃からか阿弥陀寺に伝承されてきているということ以外はわからないようです。大徳寺の塔頭・総見院は信長の戒名「総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀」から寺名が生まれましたが、信長は死後は「総見院」と呼ばれたようですから、信長の功績を顕彰するために、当時誰かが造らせたものかもしれませんね。

2008/6/9(月) 午前 8:17 [ hir**i1600 ]

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なるほどどうもありがとうございます。

2008/6/9(月) 午後 1:17 [ hig*_p*ste2*00 ]


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