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京都市の東山一帯には、清水寺をはじめとする有名社寺が立ち並び、いつも多くの観光客を集めています。一方、京都の西に位置する山々にも魅力的な史跡があることを知ってもらおうと、平成十六年(2004)から「西山三山」として3つの寺院が連携を強めています。
この「西山三山」とは、全国的にも知られている西国三十三ヶ所巡礼の第二十番札所でもある善峯寺(京都市西京区)、紅葉の名所として知られる光明寺(長岡京市 西山浄土宗総本山)、そして今回の楊谷寺(ようこくじ)です。
京都府長岡京市浄土谷堂ノ谷にある楊谷寺(ようこくじ)は、通称「柳谷観音(やなぎだにかんのん)」の名前で知られるお寺です。「眼病の観音さま」、「独鈷水(おこうずい)の観音様」として親しまれ、また「新西国三十三ヶ所巡礼」の第十七番札所でもあります。
信仰のお寺なので、観光ガイドにはあまり登場しないのですが、清水寺を創建した延鎮(えんちん)僧都によって創建されたことから「西の清水(きよみず)」ともいわれるだけあって、参道の両側には数軒の土産物屋等もあり、巡礼札所らしい親しみやすい雰囲気があります。
ただ、アクセス面でやや問題があり、毎月十七日の御縁日のみ阪急京都線大山崎駅より参拝バスが出て、多くの参詣者が集まりますが、それ以外の日は、自動車・タクシーを利用するか、阪急・JRの最寄駅から約五〜六キロ程度の舗装道路を歩くしかありません。(今回、六月二十八・二十九日に行われた「あじさいまつり」に行ってきました。この両日は特別にシャトルバスが運行しているからです。また秋には「もみじまつり」がありますので、紅葉時もお勧めです。)
さて、楊谷寺は、山号を立願山(りょうがんざん)という西山浄土宗(浄土宗西山派)寺院で、同派総本山の光明寺(長岡京市 西山三山の一つ)の末寺になり、本尊は秘仏・十一面千手千眼観音菩薩です。
寺伝によると、平安時代初期の大同元年(806)、京都東山の清水寺を創建したことで知られる延鎮(えんちん)僧都によって創建されたと伝えられます。
延鎮僧都が、日夜、観音菩薩に出会いたいと祈願していたところ、ある夜、夢の中に観音菩薩が現れ、京都の西山へ行けば、生身の観音菩薩に出会えると告げられました。直ぐに、延鎮僧都が西山に向うと、柳の生い茂った谷間から光明が射していて、その巌上を見上げると、そこに生身の十一面千手千眼観音様が立っていたということです。早速、延鎮僧都は観音菩薩に出会ったこの西山の山中に草庵を建て、出合った観音菩薩像を自ら刻んで祀りました。これが楊谷寺の開創と伝えられます。その後、僧都は清水寺の本尊を刻むという大任のために帰洛することになりました。
延鎮僧都が下山した後、弘仁十二年(811)、弘法大師空海が嵯峨天皇によって乙訓寺(長岡京市 ブログを参照)の別当に任命されました。弘法大師は乙訓寺に程近い楊谷寺にも度々参詣して修行していましたが、ある時、お堂の傍らにある岩窟の溜り水で、親猿が眼の潰れた小猿を抱いて一心不乱に眼を洗っている姿を見かけました。その姿に心打たれた弘法大師は小猿のために十七日間にわたって祈祷を行いました。すると、その満願の日に小猿の眼が開き、親子の猿は喜んで山へ帰っていったということです。
この様子を見た弘法大師は、獣に効力が有るならば人間にも効果があるのではないかと考え、この不思議な湧き水を眼病に悩む人々のための霊水にしようと決意して、さらに十七日間の熱心な祈祷を続け、独鈷で清水をかき回して祈り、また深く掘り広げて眼病平癒の霊水としました。これが、現在も湧き出す独鈷水(おこうずい おこうすい)となりました。
そして、このような縁で、楊谷寺は開山第一声延鎮僧都に続いて、弘法大師空海を第二世としています。
その後の楊谷寺は中世の戦乱などで荒廃したようですが、豊臣秀頼や淀君の援助によって再建されました。慶長十九年(1614)四月、当時の住持・志筌(しぜん)禅師は、豊臣氏の援助を受け七間四面の本堂を建立したと伝えられています。
長岡京市市役所のHPを参照して、江戸時代の楊谷寺の歴史を追ってみると・・元和九年(1623)七月、楊谷寺観音講規約が作られ、寛文四年(1664)十月、楊谷寺梵鐘が鋳造されています。元禄年間(1688〜1704)に現在の本堂等が再建されようで、元禄十四年(1701)十二月、浄土谷村が楊谷寺に薪山八ヵ所を寄進、正徳四年(1714)十一月、浄土谷村が楊谷山を楊谷寺観音の薪山としています。享保三年(1718)二〜四月、楊谷寺観音堂修理のため本尊・霊宝等の開帳を行い、享保七年(1722)三月、楊谷寺半鐘が鋳造されました。寛延四年(1751)四月、楊谷寺本堂が神足大工を棟梁として修復され、天明二年(1782)四月、楊谷寺で本尊の開帳を行っています。寛政十二年(1800)楊谷寺住持と浄土谷村役人・講中惣代が楊谷寺永代定式を定め、弘化四年(1847)に、楊谷寺本堂が神足大工を棟梁として再興されているようです。
また、楊谷寺は天皇家との関係も深く、山門の四脚門は、かつては皇族・貴族達専用の門でした。また、境内を囲んでいる塀には、皇室との関係を示す五本線が描かれています。
そして、江戸時代初期の第百十一代・霊元天皇(在位1663〜87)が独鈷水(おこうずい)で眼病を治癒したのを始まりとして、独鈷水を天皇へ献上するようになり、明治時代に御所が東京に移るまで続いたと伝えられています。また、第百十二代・東山天皇(在位1687〜1709)の皇妃・新崇賢門院(四条の局)が皇子の誕生に恵まれず、当山本尊に祈祷したところ、念願の皇子(後の第百十三代中御門天皇)を出産したと伝えられます。
この中御門天皇(在位1709〜35)が九歳の時に両親が崩御したため、その追善菩提のために当山本尊を摸して勅刻し、享保四年(1719)に奉安堂とともに当山に移されたのが現在の奥ノ院の本尊十一面千手千眼観世音菩薩になります。
現在の本堂や庫裏・表門は元禄年間(1688〜1704)頃に再建されたもので、京都府の登録文化財に指定されています。本堂には本尊の秘仏・十一面千手千眼観音が安置され、眼病に霊験あらたかな仏様として知られます。この観音像は平成十年(1998)に大修理を終えましたが、その際、胎内から寄進者の名前等が書かれた文章が発見され、この貴重な資料は、京都府の重要文化財に指定されました。(本尊は、御縁日の毎月十七日、十八日に開帳されます。)
また本尊を納めた厨子は淀君が寄進したと伝えられ、桃山時代の豪華絢爛なものです。観音像の両脇には、右に勝敵毘沙門天王、左に将軍地蔵大菩薩が祀られていて、清水寺の十一面観音の脇侍と同様になっています。(こちらも普段は扉が閉められています)さらに、両脇段には右に弘法大師像(その前に江戸時代から伝わる勤行式とご詠歌をあげる場所が設けられています。)左には阿弥陀如来と歴代上人の位牌が安置されています。その他、中御門天皇の寄進した御鏡等の皇室ゆかりの品々が寺宝庫に保管されています。
本堂の周辺には、書院、阿弥陀堂、鐘楼、経蔵、護摩堂、地蔵堂、寺宝庫、弁天堂等が立ち並んでいます。江戸時代に建立された阿弥陀堂は、かつては念仏堂とも呼ばれ、本尊の阿弥陀如来像を中心に、右に中国の高僧・善導大師像、左に法然上人像が安置されています。また、堂内の厨子は、淀君の寄進と伝えられています。本来この厨子は本尊十一面千手千眼観音のものだったということですが、豊臣家の紋が入っているために、徳川の世となって迫害を受けるのを恐れた当時の住職が阿弥陀堂に移したと伝えられています。この阿弥陀堂では、法事やサークル活動、毎年八月十八日の盆大施餓鬼の法要等が行われていて、今回のあじさい祭りでもイベント会場として用いられていました。(写真)また、阿弥陀堂の横にある小さな寺宝庫には、歴代天皇の数々の寺宝が納められていて、毎月十七日と文化の日等に開館します。
尚、阿弥陀堂の左にある中陽門からは奥の院へ参道があり、途中の本堂の山側には、 当山鎮守神の眼力稲荷社があります。「がんりきさん」として親しまれている眼力稲荷大明神は、学問に霊験あらたかな神で、特に先見の明(心眼・心の目)を授ける神といわれ、信仰者に最善の方法を指し示すということです。また稲荷社の向かい側には弁天堂もあります。
社務所の横から門を潜ると、有名な独鈷水(おこうずい)があります。
境内の岩穴から湧き出る清水で、眼病平癒の霊水として、目を病む人々から信仰され、毎月十七日の御縁日には多くの参詣者で賑わいます。
先程書きましたが、弘法大師空海が楊谷寺に参詣した際、岩窟の溜り水で親猿が小猿の眼を洗っている姿を見かけ、獣に効力が有るならば人間にも効果があるのではないかと考え、十七日間の熱心な祈祷を続け、独鈷で清水をかき回して祈り、また深く掘り広げて眼病平癒の霊水としたと伝えられます。さらに、江戸時代の霊元天皇が眼病を治癒されたことをきっかけに明治に世に至るまで天皇家に独鈷水を献上していたということです。普段、参拝者は自由に水を汲めますが、水は一度観音様にお供えしてから持ち帰るのが慣わしになっていて、家で観音様にお祈りしながら目を洗うと効力があるとされます。
次回に続きます。
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私も楊谷寺のアジサイ祭り行きました。良かったです。
2008/7/19(土) 午後 6:27 [ kuro ]
京都の三千院や三室戸寺、藤森神社などのあじさいの名所に比べると、地味ですが綺麗でしたね。
2008/7/24(木) 午後 10:09 [ hir**i1600 ]