|
京都市の中京・下京区には数多い小さな神社がありますが、写真は撮ったものの情報不足で現在、お蔵入り状態のものも有ります。
今回の越後神社(えちごじんじゃ)は、境内に駒札が立ち、その来歴はわかるのですが、ご覧のように境内の車が邪魔で写真が撮れません・・どうも休日の境内は駐車場状態なのでしょう。
こんな小さな神社をわざわざ訪ねたのに残念と、これまで採り上げませんでした。しかし、今回、マイナーな神社であることに免じていただいて書いてしまいます(機会があれば再訪問して、写真を差し替えます。)
さて、中京区六角通油小路西入上る越後町、曲がりくねった路地の奥に隠れたような小さな社があります。これが越後神社で、その名は地域名「越後町」に由来しています。
「越後町」という町名は、大正時代の京都地名辞典「京都坊目誌」に拠ると、室町時代に杉若越後守という武将が住んでいたことから、町名となったと伝えられているそうです。
その後、この地域一帯は、戦国時代には近江の大名・浅井長政など諸大名の所有となりましたが、幕末には丹波篠山藩・青山家の京屋敷となりました。神社への参道でもある路地を、通称「青山路地」と呼ぶのは、このことに由来しているということです。
越後神社は、元々、この青山家の屋敷に祀られていた鎮守社だったということで、弁財天、福鷹龍神及び福徳稲荷大明神を祀っています。また、その脇には、おまつ地蔵尊が安置されています。
かつては神社の境内は三百坪余りで、大きな池もあったようですが、時代の推移によって池の大部分は埋め立てられ、現在のような小さな神社となってしまったようです。しかし、地元町民は親しみを込めて「弁天さん」と呼んで崇敬しているということです。
また、この地は、廣瀬治助(廣瀬備治 1822〜90)の遺跡としても知られています。
廣瀬治助(廣瀬備治)は、元禄時代の友禅染めの祖・宮崎友禅斎に次いで、友禅染めの中興の祖と呼ばれている人物です。明治十年代、手書き友禅の名工だった廣瀬治助は、型紙と色糊、科学染料を組み合わせて、試行錯誤の末に型紙を用いた「写し友禅」を創案しました。
そして明治二十一年(1888)頃、当地に染工場を建てて境内の泉水を使って大量生産を行い、今日の友禅染め普及の基礎を築くことになります。このため、染色に携わる人達は、越後神社を「友禅神社」と呼んで崇敬しているということです。
越後町では、廣瀬治助(廣瀬備治)の偉業を称え顕彰祭を毎年四月に、神社の例大祭と共に行っています。
また、越後神社の東北、それ程遠くない中京区三条小川上る西堂町にある稲荷神社の写真も掲載しておきます。
幾世稲荷社(いくせいなりしゃ)という、小さな西堂町の鎮守社で、幾世稲荷大明神を祀っています。
|
ご訪問ありがとうございます。越後神社の由緒ではここに記した程度の内容しか不明のようです。また、「京都坊目誌」は、図書館の郷土史コーナー等にも所蔵されて自由に閲覧できるかと思いますが、現在手元には無いので掲載事項は確認していません。ただ、上京区にある杉若町が、室町時代に杉若氏の領地だったことは確かのようです。杉若町の隣にある紋屋町には本隆寺という日蓮宗系寺院(法華宗真門流総本山)がありますが、この寺院は、天文法乱で焼失した後、天文年間に旧地から杉若若狭守旧地の現在地に移転建立したと伝えられています。この杉若若狭守は、近江六角氏の流れを汲む杉若氏ではないかとも思われますが、朝倉氏の家臣にも杉若氏がいて、杉若盛安が大津市坂本に盛安寺を創建しているなど、杉若無心との関係はともかく、杉若氏は京都周辺で歴史に名を残していたようです。室町時代の古記録を丹念に調べると面白いのかもしれませんね。
2009/2/20(金) 午後 2:27 [ hir**i1600 ]
細かな情報ありがとうございます。しかも、無人(間違い)→無心の訂正文面にもなっておりますね。ありがとうございます。【若狭守】【紋屋町には本隆寺】情報もいただきましてありがとうございます。室町時代の古記録を、調べてみます。本当に貴重な情報ありがとうございます。また、よろしくおねがいします!
2009/2/20(金) 午後 11:04 [ sam*a*a910*84* ]