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左京区北白川西町、今出川通の京大農学部前と銀閣寺道交差点の中間辺り(吉田神社の北参道前でもあります)に、大きな石仏が安置されています。
これが、通称「子安観世音」とも呼ばれる石造・阿弥陀如来座像で、「安産地蔵」、「子安地蔵」とも呼ばれています。
この石仏の付近は、かつては旧白川の村(現在の北白川地域)の入り口にあたり、すぐ前を京都から近江(滋賀県)へ抜ける山越えの街道「山中越え(「志賀越え」とも)」が通っていました。
この「山中越え(志賀越え)」は、平安時代にはじまるという京都と近江(滋賀県)を結ぶ旧街道で、東は白川の村(北白川)から山を越えて近江に向かい、洛中へは斜めに荒神口(上京区)に通じていました。
北白川の久保田町から仕伏町に続く志賀越道や、現在は京都大学の中央キャンパスが道を塞いでいますが、川端近衛(川端通と近衛通の交差付近)から東山東一条(東大路通と東一条通の交差付近)に至る斜めの道が当時の名残として残っています。
また、この石仏のある場所は、出町(出町柳 河原町今出川交差点付近)から百万遍(東大路通と今出川通の交差点付近)を経て浄土寺(銀閣寺方面)に向う細道(現在は今出川通)と「山中越え(志賀越え)」の交差点でもあり、この石仏は、交通の要所である白川村の入り口付近でずっと旅人を守っていたのでしょう。
この高さ2メートル程の堂々とした石造・阿弥陀如来座像は鎌倉時代の作で、京都名所案内「捨遺都名所図会」では希代の大像として描かれています。現在は年月経過によってかなりの風化がありますが、古来「子安観世音」として人々の信仰を集め、安産祈願の参拝者も多かったということです。
また、白川女(しらかわめ かつて、白川の里の女性たちが、頭上に切り花を盛り上げて、京の町へ売りに出ていました。京都を代表する風俗の一つとして知られます。)は必ずここに花を供えて町に商いに出たということです。
さらに、この石仏には面白い伝説が伝わります。
太閤豊臣秀吉がこの地を通りかかった時、この石仏を非常に気に入って聚楽第に運ばせました。ところが、夜になると地響きのような大きな声がするようになりました。どうやら、石仏が北白川の里が恋しくて泣いているようなのです。それで、秀吉は元の北白川の地に返したと伝わります。そして、このエピソードから、この石仏は、「太閤の石仏」とも呼ばれています。
行事として、八月十七日の盆供養、十一月十七日にお火焚が行われています。また、この巨大な石仏の横には多くの小さな石仏が祀られています。(写真)
さらに、今出川通を渡った南側(北白川西町の外れ)にも大きな二体の大きな石仏が祀られています。(写真)この二体は大日如来像で、こちらも「山中越え(志賀越え)」の旧街道沿いに街道を行き来する人々を見守っていたのでしょう。
また、その横には、高さ約2メートル余の江戸時代末の嘉永二年(1849)に立てられた道標があります。(南側には、三条大橋・祇園・清水・知恩院・本願寺、西には、比ゑいさん・唐崎・坂本。北側には北野天満宮・平野社・加茂・今宮・金閣寺。東には、吉田社・真如堂・銀閣寺・黒谷といった寺社が記されています。)
今回は大きな石仏でしたが、京都の史跡で一番印象的なものは、各町内に必ず祀られている「お地蔵さん」かもしれないと思うことがあります。
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あはは…なにやら気難しそうなお顔をされていますね^^
「子安観世音」というぐらいですか観音様かと思ったら阿弥陀様なのですね、しかも地蔵様とも呼ばれているのですね!なにやら少し難しいですがきっと昔から地域の人を見守ってくださっているのでしょうね。
2011/2/3(木) 午後 7:02 [ シトクロムc ]