京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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京都市左京区北白川追分町、京都大学北部キャンパス内にある後二条天皇北白河陵(ごにじょうてんのうきたしらかわのみささぎ)は、鎌倉時代の第九十四代・後二条天皇の陵墓です。
後二条天皇は在位七年、僅か二十四歳で崩御したために、歴史的に重要な天皇ではありませんが、三歳下の異母弟には有名な後醍醐天皇がいます。また、北白河陵陵墓の脇にあるのは、後二条天皇の第一皇子・邦良親王(くによししんのう くにながしんのう)の墓になります。(写真)邦良親王は一時、叔父に当たる後醍醐天皇の皇太子となりますが、惜しくも二十七歳で病死した人物です。
北白河陵は、京都大学に囲まれた街中の陵墓なので敷地面積は実際より狭く感じられますが、北白川にある数少ない史跡の一つです。


さて、鎌倉時代中期以降の天皇は、大覚寺統と持明院統が交互に皇位継承するという複雑なもので、簡単に書くのは難しいのですが、後二条天皇を採り上げるためには、どうしても遡って書く必要がありそうです。ただ、後二条帝はあくまで脇役で、「治天の君」として実権を握っていた後嵯峨、後深草、亀山、後宇多、伏見といった諸帝が主人公となります。



まず、鎌倉時代初期に遡ってみます・・
鎌倉初期の皇統に大きな変化をもたらしたのが「承久の変」です。承久三年(1121)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げて敗北した結果、後鳥羽、土御門、順徳の三上皇は流罪となり、順徳上皇の皇子・懐成親王(明治に仲恭天皇と追号)は退位させられます。
幕府は、後鳥羽の直系を排除して皇位継承者を探した結果、後鳥羽上皇の甥で、当時十歳だった後堀河天皇を即位させ、その父で出家していた守貞親王(後鳥羽上皇の兄、後高倉院)を上皇として院政を行わせました。

貞応二年(1223)に後高倉上皇(守貞親王)が亡くなり、貞永元年(1232)、後堀川天皇は、僅か二歳の四条天皇に譲位して上皇となりましたが、天福二年(1234)に二十三歳で崩御。四条天皇も仁治三年(1242)に十二歳で事故死したために、後高倉上皇(守貞親王)の血統が途絶え、再び後鳥羽の血統から皇位継承者が選ばれることになります。天皇候補としては、土御門、順徳の両上皇の皇子がありましたが、幕府執権・北条泰時の判断によって、「承久の変」に直接関与しなかった土御門上皇の皇子が選ばれました・・これが後嵯峨天皇です。




歴史物語「増鏡」には、後嵯峨天皇の即位によって「承久の変」後沈滞していた宮中にも、ようやく華やかな活気が戻ってきた様子が描かれています。
仁治三年(1242)、二十三歳で即位した後嵯峨天皇は、在位四年の寛元四年(1246)に僅か四歳の久仁親王(後深草天皇)に譲位して院政を敷いて実権を握りました。若く派手好きな後嵯峨は、上皇という自由な立場でしばしば豪華な遊宴歌合等を行い、衰えていた宮中文化も復興していくことになります。

即位した後深草天皇は、非常に小柄で病弱、足が悪かったという記録もあり、後嵯峨上皇は、正嘉二年(1258)に後深草の同母弟で十歳の恒仁親王(亀山天皇)を立太子し、翌正元元年(1259)に後深草に対し、恒仁親王への譲位を促しました。父の圧力で心ならずも譲位させられた十六歳の後深草天皇の無念な気持ちが、その後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の対立、さらに南北朝時代に至る皇統分裂の原因の一つとなります。

さらに、後嵯峨上皇は文永五年(1268)に、当時三歳の後深草上皇の皇子・熈仁親王(ひろひとしんのう 後の伏見天皇)ではなく、生後間もない亀山天皇の皇子・世仁親王(よひとしんのう 後の後宇多天皇)を立太子しました。
これらのことから、後嵯峨が亀山系の血統に皇位を継承させたいと考えていたことは明らかでしたが、文永九年(1272)に後嵯峨が五十三歳で崩御した際には、遺詔で後深草、亀山両帝への皇室領の配分は示したものの、皇室内の長として実権を握り、また子孫に皇位を継承させることのできる「治天の君」を誰にするかという点については明確な意思を示さず、鎌倉幕府の決定に委ねるとしていました。
派手好きな後嵯峨ですが、幼少期は叔父の順徳系に、「承久の変」以降は後高倉上皇系の天皇の影で忘れられた存在でした。幸運にも幕府によって天皇に選ばれた後嵯峨としては、自分が「治天の君」を決めても幕府の認可を受けられなければ意味が無いと考えていたようです。




「増鏡」によると、父後嵯峨上皇の生前は、常に一緒に遊宴を楽しんで、表面上は仲の良い様子だったという後深草上皇ですが、弟の系統が皇位継承するように定められ、内心は深く傷ついていたようです。
父帝が亡くなると、兄である後深草が治天の君であるべきという宮中の声も多く、後深草は治天の君への意欲を燃やします。一方、現天皇である亀山も、当然、治天の君を強く望んでいました。こうして、宮中は後深草派と亀山派に分かれ対立していきました。
鎌倉幕府は、この問題を解決するために、後嵯峨の中宮で、後深草・亀山両帝の生母である大宮院(おおみやいん・西園寺姞子 さいおんじきつし)に後嵯峨の真意を確認します。そして、大宮院が先帝は亀山を望んでいたと表明したことから亀山天皇が治天の君に選ばれることになりました。

さて、明朗快活で才気にあふれた亀山天皇は、文永十一年(1274)に八歳の世仁親王(後宇多天皇)に譲位して上皇となりました。実権はもちろん自身が握って、さらに自由な立場で宮中の改革にも取り組みました。一方、日陰の身を嘆いていた後深草上皇は、建治元年(1275)に太上天皇の尊号を辞退して出家しようとします。自身の立場の不満を表明した抗議行動だったのですが、これには宮中も大いに驚きました。伝え聞いた鎌倉幕府は、後深草の不満を解消して出家を止めさせようと、亀山上皇に奏上して、後深草天皇の皇子・熈仁親王(後の伏見天皇)を立太子させました。

後宇多天皇よりも、皇太子となった熈仁親王(後の伏見天皇)が年長(三歳)であったことは、近い将来、伏見天皇が即位することが予想され、自分が治天の君となることが保証された後深草は出家を見合わせました。一方の亀山上皇は内心は納得していませんでしたが、幕府の意見に従わざるを得なかったのでした。それはともかく「増鏡」によると、後深草・亀山兄弟の和解ムードも高まったようで、一緒に遊宴を楽しむなど交流も深まったと記しています。




その後、後深草上皇派の巻き返しが加速していきます。
亀山上皇が宮中で熱心に改革を推進してきたことや、弘安八年(1285)に鎌倉で起こった「霜月騒動」で滅んだ有力御家人・安達泰盛との交流があったこと等が鎌倉幕府に疑われ、さらに亀山上皇と不和だった関東申次・西園寺実兼(さいおんじさねかね)が後深草派と結んで、かつて後嵯峨上皇が後継者として望んでいたのは、亀山ではなく後深草だったと主張し、政権を早期に後深草に譲渡させるべきだと幕府に活発に働きかけたのでした。こうして、弘安十年(1287)、幕府の圧力を受けて二十歳の後宇多天皇は、後深草天皇の皇子・熈仁親王(伏見天皇)に譲位しました。

伏見天皇の即位によって、父・後深草上皇はさっそく院政を開始します。
正応二年(1289)には、伏見天皇は皇子・胤仁親王(たねひとしんのう 後の後伏見天皇)を立太子させ、次代も持明院統(後深草天皇の血統)が政権を握ることが確実になりました。また、鎌倉では第七代鎌倉将軍・惟康親王(六代将軍宗尊親王の子、宗尊親王は、後深草・亀山両帝の異母兄)が廃され、後深草上皇の皇子・久明親王(ひさあきしんのう)が第八代将軍に就任しました。これも後深草派が幕府との関係強化に成功した結果でした。




こうして、鎌倉幕府の支持を得た持明院統(後深草天皇の血統)が繁栄し、大覚寺統(亀山天皇の血統)が日陰の身となる時代となりました。
これまで大覚寺統に仕えていた貴族達も、一斉に持明院統に鞍替えすることになり、大覚寺統は衰退します。大覚寺統の亀山上皇は、失意のうちに正応ニ年(1289)に四十一歳で出家しました。一方、権力を奪回した後深草も、正応三年(1290)に、四十八歳で出家して引退し、治天の君は後継者の伏見帝に譲られました。

また、この正応三年三月には、浅原為頼(あさはらためより)という甲斐源氏・小笠原氏に属する武士が一族数名で、夜間に御所に乱入するという騒動が起こり、伏見天皇は危なく難を逃れました。この為頼は、霜月騒動で安達泰盛に加担したために所領を失った武士といわれ、駆けつけた追っ手に包囲され自害しました。事件の真相は不明ですが、一部貴族が事件に関与していたことから、伏見帝殺害計画の裏には亀山上皇がいるのではないかという噂が世間に広がり、伏見帝もそれを信じていたようです。疑いをかけられた亀山上皇は、自分は決して関与していないという起請文を幕府に提出して、ようやく騒動は収まることになります。しかし、これにより大覚寺統はさらに不利な立場となりました。




さて、伏見天皇は、積極的に宮中改革を行って朝廷の権威を高めようとしましたが、これが幕府の警戒を呼びます。また、伏見帝が中級貴族の京極為兼(きょうごくためかね)等を抜擢したことから、貴族中の第一人者で関東申次の西園寺実兼を大覚寺統に接近させていくことになりました。実兼を味方にした大覚寺統の巻き返しが始まり、永仁四年(1296)に、大覚寺統の後宇多上皇の皇子・邦治親王(くにはるしんのう 後の後二条天皇)が立太子されます。この時も、先に立太子されていた胤仁親王(後伏見天皇)よりも、邦治親王親王(後二条天皇)は年長(三歳)でした。

大覚寺統の攻勢に危機感を感じた伏見帝は、永仁六年(1298)に十歳の胤仁親王(後伏見天皇)に譲位して院政を敷きますが、幕府の圧力によって、正安三年(1301)に後伏見天皇は十四歳で邦治親王(後二条天皇)に譲位しました。ただ、持明院統は、後伏見天皇の異母弟・富仁親王(とみひとしんのう 後の花園天皇)を立太子させることには成功します。(伏見帝は、後伏見が幼少で子供がいなかったことから、その弟を立太子したのですが、さらに兄弟で皇統が分裂する危険を回避するために、富仁親王を後伏見の猶子としました)
この時以後、鎌倉幕府は、持明院統と大覚寺統の子孫の間で、約十年ごとに交互に皇位を継承(両統迭立)することを公式に定めました。




ようやく今回の主人公の後二条天皇です。
後二条天皇は、大覚寺統の後宇多天皇の第一皇子として、弘安八年(1285)に誕生し、名は邦治(くにはる)といいました。
上記のように、永仁四年(1296)に持明院統の三歳下の後伏見天皇の皇太子となり、正安二年(1300)には、第一皇子の邦良親王(くによししんのう くにながしんのう)を得ています。
その後、正安三年(1301)の後伏見天皇の退位により十七歳で即位し、父の後宇多上皇が院政を行いました。久しぶりの大覚寺統の天皇の登場は、亀山や後宇多が積極的に幕府に働きかけた結果でした。

在位七年余の後二条帝治世の事件としては、嘉元二年(1304)に後深草が六十二歳で、翌嘉元三年(1305)には亀山が五十七歳で崩御したことで、両統迭立時代の主役は伏見・後宇多の両上皇が担うことになります。
徳治三年(1308)後二条は、病気により二十四歳で崩御しました・・これにより、弟の後醍醐が歴史に登場していくことになります。

さて、現在の陵墓は、明治二十ニ年(1989)にその埋葬地と伝えられる北白河殿跡地に作られたものです。また、その皇子・邦良親王も後醍醐天皇の皇太子となりながら正中三年(1326)に二十七歳で病死した後この地に埋葬されたと伝えられ、同じく墓が整備されました。



字数オーバーのため、その後の展開はまたの機会に譲りたいと思います。

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宮内庁管理の天皇陵や皇族墓において草木を刈る人が多いのでしょうか。
看板の「一、竹木等を切らぬこと」の部分に、(おそらく強調するために)上下の端が赤色のフィルム板がかぶせてある陵墓をよく見かけるような気がします。

2008/8/20(水) 午前 0:47 [ hig*_p*ste2*00 ] 返信する

今は天皇陵めぐりをしているのは、一部の歴史ファン程度だと思いますが、戦前は観光名所に行くような感じで御陵めぐりがブームになっていたこともあったと聞きます。その頃は訪問記念に木々等を持ち帰る人とかもいたのでしょうか?魚等を採るというのも、昔は有名寺院の池で釣りをした子供とかいたので、そういう事もあったのかもしれませんね。

2008/8/20(水) 午後 1:30 [ hir**i1600 ] 返信する

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