京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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京都市上京区堀川通寺之内上る扇町にある水火天満宮(すいかてんまんぐう)は、水難け火難除けの神として知られています。鳥居横の「日本最初 水火天満宮」という石標が目立つ、隠れ家的な雰囲気もある親しみやすい神社です。また、境内の東南一帯に地域の人々の憩いの場になっている扇町児童公園があるので、狭い境内の割には開放感も感じられます。(初春の写真を引っ張り出して使わせてもらいます)


以前に、このブログで「天神信仰発祥の地」といわれる文子天満宮(あやこてんまんぐう)を採り上げましたが、文子天満宮は、天暦元年(947)の北野天満宮創始前から、道真の乳母ともいわれる多治比文子(たじひのあやこ)が、自宅の庭に道真を祀っていた伝説の地として、日本最初の天満宮と称していました。今回の水火天満宮も、北野天満宮以前から道真を祀ったという伝承から、日本最初の天満宮と称しているようです。



さて、水火天満宮は、延長元年(923)六月二十五日、醍醐天皇の勅願によって、洛陽一条上る下り松の地に、雨雷火災を消除する守護神として菅原道真の神霊を祀ったとのが創始と伝えられています。
菅原道真は、延喜三年(903)に配流された大宰府で五十九歳で死去しましたが、死の間際に自身の遺髪を仏教の師だった延暦寺の僧、法正坊尊意に届けました。そして、尊意僧正が一条下り松にあった自身の屋敷に道真の霊を祀り、後に勅命により新たに社殿を建立して神社として発展していったということです。

また、室町時代頃までこの地にあった悲田院の鎮守社が、この天神信仰と結びついて現在の水火天満宮になったとも伝えられます。
天満宮のあるこの一帯には、九世紀初期に、熱心に仏教を信仰したことでも知られる檀林皇后(786〜850 嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子 たちばなのかちこ)が、「悲田院(ひでんいん)」があったと伝わります。悲田院というのは、仏教思想に基づいて、貧病人や孤児等の救済施設として作られた施設のことで、日本では聖徳太子が四天王寺に建てた「悲田院」が最も古く、奈良時代の養老七年(723)に光明皇后によって作られたものが有名です。その後、平安時代になると、京都に東西二ヶ所に設けられたようで、東は当時の鴨川の三条河原付近にありました(現在、河原町御池に碑があります)、その後、鎌倉時代末期から室町時代初期に、現在の水火天満宮や大応寺、興聖寺のある一帯(上京区扇町・天神北町・上天神町・瑞光院前付近)に移り、寺院として整備されていきますが、室町時代の戦乱により荒廃して、江戸時代の正保ニ年(1645)に現在の泉涌寺(東山区)の山内に移されて今日に至っています。しかし、鎮守社はこの地に残り、これが現在の水火天満宮となったということです。

その他神社の記録は少ないようですが、室町時代末期の文明四年(1474)旧暦九月十日には、後土御門帝が水火天満宮に行幸し天神名号の震筆を賜ったという記録もあり、天明八年(1788)の天明の大火で消失した後に再建されています。また、天満宮は、元々、堀川通を挟んだ西側の上天神町にありましたが、昭和二十七年(1952)の堀川通の拡張工事により現在の地へ移されています。




さて、狭い境内には所々に石標や面白い石が置かれています。

道真伝説として知られるのが、「登天石(とうてんせき)」です。古来、性神、道祖神として祀られてきたようですが、この石には以下のような伝説があります。

道真の死後、都では雷火の災いが続いて、道真の祟りであると噂が立ちます。
時の醍醐天皇は、延暦寺から道真の仏教の師・法正坊尊意僧正を呼び寄せて、雷除けの祈祷をさせました。尊意が御所へと向かう途中、鴨川が急に増水して渡れなくなりました。そこで、尊意が川を前に祈願すると、水面が二つに割れて川中の石の上に道真の霊が現れました。道真の霊はそのまま天に昇って行って、たちまち雷雨も止んだということです。
尊意は、道真が現れたこの石を自邸に持ち帰ってその霊を弔いましたが、それが境内にある「登天石」と伝えられます。

その他、鳥居の傍「日本最初 水火天満宮」という石標の左には、「孝学堂跡」の石標があります。
孝学堂は、江戸時代に水火天満宮境内に開設された塾で、民衆に孝道を説いていました。そして、この孝学堂に由来する孝学氏が、代々の天満宮の宮司を務めているということです。
また、「登天石(とうてんせき)」と並んでいるのが「出世石(しゅっせいし)」です。
近年に成功した寄贈者から贈られたものですが、菅原道真のように大出世して活躍する効力ある石として信仰されています。また、眼病に効能があるという「金龍水」という湧き水、また、その上に置かれているのが、妊娠五ヶ月でこの石を拝むと安産するという「玉子石」です。

さらに、末社の六玉稲荷社は、六玉稲荷・玉光稲荷・生島稲荷を合祀しています。元々、東本願寺・枳毅邸の鎮守社だったものが、明治時代にこの地に移されたもので、就職祈願の信仰を集めています。
最後になりますが、境内にある紅枝垂桜が花を咲かせる頃は、天満宮境内は隠れた桜の名所になります。

「西陣・北野天満宮他」書庫の記事一覧

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ブログに記事を投稿したところ

こんな記事もあります・・・と紹介されました。

早速訪問させて頂きました。

2010/7/10(土) 午後 6:08 [ 出水の秀ちゃん ]

ご訪問ありがとうございます。西陣方面には観光ガイドには出てきませんが、小さな面白い史跡が多いですね。この神社も何となく好きな神社です。

2010/7/17(土) 午前 11:53 [ hir**i1600 ]

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ウイキペディアの藤川神社で菅原道真が鹿児島の出水市まで船で逃げ、薩摩川内市の藤川天神までに逃げてきた事、隠棲、死亡をまとめています。

手伝って下されば幸いです。

2011/11/23(水) 午後 1:50 [ 高砂のPCB汚泥の盛立地浄化 ]

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鹿児島県出水市壮の菅原神社

縁起によると、左遷された菅公には尚追撃の手厳しく、薩摩はこの荘之津に着船し、ジョウス(城須)という老夫婦の家にて休憩した。老夫婦は公の容貌の非凡なことに驚き、織りかけの茣蓙を絶ち切り敷物に供えて茶をすすめ、飲み干すと二杯目を、更に追っ手を気にする公に三杯目をすすめ、これを飲み干す間に、檳榔の笠を被り白羽の矢を持った追っ手は通り過ぎ、難を免れたという。

この故事から当社を勧請し、ジョウスの家をゴザテンといい、例祭の時は茣蓙を持ってきて神事に用いた。ジョウス家は昭和六年、江内に移った後絶えたという。
神社の北西二,三百米の地に御手洗池、西三,四百米の地に御腰掛石があり、菅公持参の数珠・財布が宝物としてあったが、今に伝わっていない。

付近の人々は、往時を偲び今日でも朝茶三杯を飲むといわれ、以前は檳榔の笠を被らぬ事を例とし、白羽の矢を見るのも忌むといわれた。

2011/12/3(土) 午後 0:50 [ 健康環境安全のために法律を学ぶ ]

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