京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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上京区寺之内通新町西入る妙顕寺前町にある妙顕寺は、日蓮宗京都十六本山の一つとして知られる大寺院です。妙顕寺については、いずれブログに採り上げたいと思いますが、今回は本山の東にある塔頭の泉妙院(せんみょういん)を採り上げました。
泉妙院は、普段はいつも門が閉まっている地味な小さな寺院ですが、門前に「尾形光琳(尾形一族・乾山)菩提所、興善院旧跡」の石標と掲示版があるように、有名な尾形光琳や乾山の菩提所という点で注目されます。



情報の少ない塔頭のために、本山妙顕寺のHPを引用して書いてみます・・
泉妙院は、室町時代の永和元年(1375)、日縁上人によって創建されたということです。その後、天文五年(1536)に、比叡山延暦寺が大軍を動員して、京都の日蓮宗寺院京都二十一ヶ本山を全て焼き払った「天文法華の乱(天文法難・天文法乱)」に遭って他の寺院と共に堺に逃れ、後に京都へ戻って、京都五辻(上京区)にあった二十一箇本山の一つ、弘経寺(永和元年(1375)に日誉上人によって創建)の境内跡地に身を寄せました。
弘経寺自体は、天文十一年(1542)に京都に帰還した日蓮宗十五ヶ本山に含まれず、後に廃絶したためにその詳細は不明ですが、妙顕寺のHPによると、天明八年(1788)の「天明の大火」の後、「弘経寺の天徳院日法上人が、本行院と合併して興善院跡に泉妙院を再建した」と書かれています。(弘経寺の詳細が不明なために、弘経寺の名跡を継ぐという泉妙院が、どのようにして妙顕寺の塔頭となったのか等わかり難いですが、泉妙院前の掲示石版を参照して後で少し書いてみます。)


さて、尾形光琳は、江戸時代の万治元年(1658)、京都の大呉服商「雁金屋(かりがねや)」の当主・尾形宗謙(おがたそうけん)の次男として生まれ、本名を惟富(これとみ 市之丞とも)といいました。また、五歳下には、前にその釜跡を採り上げた尾形乾山がいます。尾形家は、雁金屋の初代・尾形道柏(どうはく 光琳・乾山の曽祖父)の代に、当時のファッションの最先端でもあった呉服染色業を始めたといわれます。また、道柏の妻は本阿弥光悦の姉法秀(ほうしゅう)で、その後、尾形家から優れた芸術家が生まれたのは本阿弥家の影響があったのかもしれません。事実、道柏の子・雁金屋二代宗柏や、その子三代宗謙も諸芸に優れた多趣味な人物として知られ、光琳や乾山も若くして絵画や書道、茶道等の芸術に触れて育ったようです。

貞享四年(1687)の父の死後、遺産を譲られた光琳は、放蕩三昧の生活を送って財産を使い果たし、ようやく四十歳を過ぎてから本格的な絵師としての活動を始めたようです。元々狩野派に学んでいましたが、やがて本阿弥光悦や俵屋宗達の影響を受けて、独自な斬新で装飾性に富む琳派様式を大成していきます。光琳は多くの公家や大名の支援を受けましたが、特に、京都の銀座(貨幣鋳造所)の担当役人・中村内蔵助との関係が深く、江戸詰に転じた内蔵助を頼って宝永元年(1704)頃に江戸に向います。しかし、相変わらずの借金暮らしで、自宅を手放して宝永六年(1709)に京都へ戻り、新町通り二条下る(中京区)へ移り住んでいます。そして、享保元年(1716)六月二日に五十九歳で亡くなり、尾形家一族の菩提寺・興善院に埋葬されました。



光琳は、絵師を職業と考えていなかったためか、宝永五年(1706)に、嫡子・寿市郎を小西家に養嗣子としています。こうして、尾形家の血筋は小西家に受け継がれることになりました。しかし、このために、尾形一族から代々の住職を出していた興善院はその後無住となって、墓だけを残して建物も取り払われ、妙顕寺塔頭の本行院が管轄することになりました。
しかし、この本行院も、天明八年(1788)の「天明の大火」で消失し、また、小西家も困窮してしまっていたために、改めて墓域を整備することが出来ず、文化ニ年(1805)五月三日、光琳の墓石は、多くの墓の並ぶ妙顕寺総墓所に移されました。
そして、恐らく多くの墓の中に埋もれてしまっていたのでしょう・・・光琳没後百年の後、光琳を常々尊敬していた、江戸末期の江戸琳派の画家・酒井抱一は、光琳百回忌を行おうとしますが、墓地で光琳の墓を見つけ出すことが出来ませんでした。そこで、抱一は、文政ニ年(1819)に、新たに「長江軒青々光琳墓」と刻まれた墓石を本行院跡地に建立したということです。

さて、文政三年(1820)、「天明の大火」で消失した本行院(妙顕寺本堂の東に位置)は、泉妙院(妙顕寺本堂北に位置)と合併して、尾形家一族の菩提寺だった興善院跡(妙顕寺の南東)に再建され、本行院跡地の墓碑は泉妙院が管理することになりました。
小西家は縁戚として代々尾形家の墓を守ってきましたが、明治四十一年(1908)六月、三越呉服本店(現・株式会社三越)が、光琳一族の縁戚、小西得太郎と共に、施主となって光琳忌法要を行いました。その後、昭和二十ニ年(1947)頃、小西家は断絶しますが、現在も三越が毎年光琳忌法要を営んでいるとうことです。
その後、昭和三十四年(1959)、文化財専門審議会の琳派の研究家が、妙顕寺総墓所へ移されていた光琳の墓石を元の場所へ戻すことを提案し、昭和三十七年(1962)、妙顕寺の正門が南側に移転したのを切欠として、光琳の墓を埋葬地の泉妙院に戻して現在に至っています。
また、泉妙院は小西家の寄贈品や光琳とその一族の作、文献等を所蔵し、一族の位牌を祀っているということです。

門は常に閉ざされていますが、外から遠景で写真を撮ってみました。境内中央の比較的新しい白い墓石が、酒井抱一が建てたと伝わる「長江軒青々光琳墓」と刻まれた墓、その横に並ぶのが総墓地から移された尾形光琳や乾山等一族墓、右端が三越が建立した供養塔です。

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