京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

京都御苑周辺

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上京区寺町通今出川上る鶴山町にある本満寺(ほんまんじ)は、本尊十界大曼荼羅を祀る日蓮宗の本山です。山門横には「洛陽十二支妙見めぐり」の妙見宮があり、戦国武将・山中鹿之助(鹿介)の墓があることでも知られています。(以前に少し書いていますが、書き足りない所も多かったので、写真を撮り直して再掲載してみます。)


さて、本満寺は、寺伝によると、室町時代の応永十七年(1410)関白・近衛道嗣(このえみちつぐ)の嫡子で、本山本圀寺(現在、山科区 ブログに採り上げました)五世・日伝上人の弟子だった玉洞妙院日秀(にっしゅう)上人によって創建されました。上人は父の菩提を弔うために、朝廷から三万坪の敷地を与えられ、今出川新町(現同志社大学新町キャンパス付近)にあった近衛道嗣の邸内に「広宣流布山(こうせんるふざん)本願満足寺(ほんがんまんぞくじ)」という殿内道場を造りました・・現在の寺号「広布山(こうふざん)本満寺」はその略称ということです。
現在、同志社大学新町キャンパスの南半分は近衛殿表町に属し、その南には元本満寺町があります。この地名から本満寺は近衛殿の南に建てられたと考えられています。


その後、天文5年(1536)比叡山延暦寺が、京都の日蓮宗寺院京都二十一箇本山を焼き払った「天文法華の乱(天文法難・天文法乱)」に遭って他の寺院と共に堺に逃れました。そして、他の本山に先駆けて天文八年(1539)、関白・近衛尚道の外護によって京都帰還が許され、天文年間(1532〜55)後半、寺町通今出川の現在地に再建されたと伝えられます。
(ただ、現在の寺町通の多くの寺院が豊臣秀吉の京都改造計画によって移転してきた経過を考えると、本満寺も桃山時代の慶長頃に移転したのではとも考えられています。その根拠の一つとして、天文年間後期に描かれたとされる「上杉本洛中洛外図屏風」があります。この屏風絵では本満寺は、創建地の元本満寺町から南へ約三百メートルの一条小川付近に描かれていて、京都帰還後に一条小川に再建され、その後現在地に移転したと考えられるからです)


ともかく、本満寺は、その後、第百五代・後奈良天皇(在位1526〜1557)の勅願所となって栄えました。この頃の歴代貫首の中には、第十二世・一如院日重(1549〜1623)上人、第十三世・寂照院日乾(1560〜1635)上人、第十四世・心性院日遠(1572〜1642)上人といった日蓮宗・身延山久遠寺の中興となった名僧が輩出しています。
その後、宝暦元年(1751)に第三十五世・慈雲院日鳳上人が、八代将軍徳川吉宗の病気平癒祈祷をして効力があり、以来、徳川家の祈願所にもなりました。万治四年(1661)、宝永五年(1708)、そして天明八年(1788)の「天明の大火」に遭って三度類焼しますが、その都度再建されています。また、現在の本堂や妙見堂は、明治四十四年(1911)の焼失後、昭和二年(1927)に再建されたものということです。

境内には、表門、本堂、方丈、書院、客殿、鐘楼、庫裡、妙見堂、第十四世・心性院日遠上人が七面山(身延山)で感得したという七面大明神が安置された七面堂等があります。江戸時代には三十もの塔頭があったようですが、現在まで一乗院、守玄院、実泉院、法泉院の四つの塔頭寺院が存続しています。


また、本堂左には徳川家康の次男・結城秀康の正室、蓮乗院(鶴姫 ?〜1621)の石廟があります。これは平成十七年(2005)に一年がかりで修復完成されたものです。(京都新聞の記事を参照します)

蓮乗院(鶴姫)は、下総国(千葉県北部・茨城県南部)結城城主・結城晴朝の養女(生父は水戸城主・江戸重通)で、後に晴朝の養子となった徳川家康の次男・結城秀康(後に初代福井藩主)の正室となりました。慶長十二年(1607)の秀康の死後は、公家の烏丸光広(1579〜1638)の正室となって、元和七年(1621)に亡くなっています。
この石廟(高さは約2・7m、幅約2・1m、奥行き約1・7mあり、内部に高さ約1・3mの石塔が収められています)は、蓮乗院の死去した元和七年(1621)に建立されたもので、夫の烏丸光広が、御所と関係が深かった本満寺に建立したものと考えられています。京都に現存する数少ない石廟でしたが、経年により崩落寸前の状態となっていました。しかし、調査によって、かつては極彩色の天女や仏像の浮き彫りが施されていた豪華な石造物と判明し、現在高野山(和歌山県)にある重要文化財指定の結城秀康の石廟と同様の特徴を持つ「姉妹廟」の可能性もあるために、文化財的な価値を損なわないように修復され、江戸初期の外観を再現しました。(写真)

また、寺宝として、重文指定の「紺紙金泥一字宝塔法華経並普賢経(京都国立博物館寄託)」をはじめ、宗祖日蓮大聖人の真蹟「十界大曼荼羅(御本尊)」ニ幅、筆の祖師像狩野元信、「土木殿御返事(龍口消息)」、第十二世日重上人の筆による「本満寺御書」等の多くを所蔵しています。




さて、境内裏の墓地には戦国時代の尼子家家臣、山中鹿之助幸盛(やまなかしかのすけゆきもり・鹿介)の墓があります。山中鹿之助は、中国地方の戦国大名・尼子氏に仕えた忠臣として知られます。

戦国時代前半には、山陰山陽八ヶ国を領して一大戦国大名として君臨していた出雲(島根県)の尼子氏も、山中鹿之助の時代には、安芸(広島県)を本拠とする毛利氏に次第に圧迫されて衰亡の危機にありました。ついに永禄八年(1565)、当主の尼子義久は、本拠地の月山富田城を毛利の大軍に包囲され、翌九年(1566)ついに落城、義久は毛利に降伏し尼子家は滅亡します。

しかし、山中鹿之助ら遺臣たちは、尼子氏の再興を諦めず、永禄十一年(1568)、京都で僧籍にあった一族の遺児・勝久を見つけて擁立し、旧領回復に挑んで出雲や因幡で攻撃を再開します。永禄十二年(1569)、尼子勝久と鹿之助らは、出雲に残っていた尼子家遺臣を糾合し、新山城を占領して出雲周辺を奪回していきます。しかし、毛利氏の反撃にあって、元亀二年(1571)に新山城は落城しました。鹿之介も毛利軍に捕らえられますが、監視の目を逃れて脱走し、主君勝久と京都に逃れました。

さて、京へ逃れた尼子勝久と鹿之助らは、織田信長に謁見して、中国攻めの先方に任じられます。元亀三年(1572)、因幡国(鳥取県)の山名氏の軍勢に加わって因幡を転戦、その後、毛利氏に接近した山名氏から離反して因幡の諸城を攻略します。しかし、天正四年(1576)頃になると、毛利の反撃と、石山本願寺や上杉謙信と対立していた信長が毛利との休戦を望んで尼子遺臣への援助を中止したことにより、鹿之介らは敗北して丹波へ逃れました。

その後、天正五年(1577)、尼子勝久と鹿之助らは、羽柴秀吉の中国遠征の先鋒に任じられます。そして、秀吉が、毛利に属する備前国(岡山県)の宇喜多直家の支城、播磨国(兵庫県)の上月城を占拠すると、鹿之介らは上月城を守備を命じられました。しかし、天正六年(1578)に毛利・宇喜多軍の大軍によって上月城が包囲されると、播磨の別所氏が三木城で反旗を翻して東播州が反織田勢力の手に落ちたこともあり、退路を絶たれることを警戒した織田軍は播磨から撤退します。これにより上月城は孤立して、ついに尼子勝久は毛利に降伏して自害、鹿之助は毛利陣中への護送中に殺害されました。

山中鹿之助の生涯は、江戸時代には講談などで「真田十勇士」と同様の「尼子十勇士」の筆頭として喧伝され、悲劇の忠臣として有名になりました。特に、山中鹿之助が三日月を信仰し「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったという有名なエピソードは、戦前は、武士道精神を象徴する物語として教科書にも採り上げられました。山中鹿之助の墓(供養塔)は全国に有るようですが、本満寺の墓も存在感あるお墓です。



さて、本満寺の山門横には、京都「洛陽十二支妙見めぐり」の「丑(北北東)」に位置する「出町の妙見宮」があります。
妙見菩薩とは、北極星、北斗七星を神格化した、宇宙万物の運気を司り支配する菩薩になります。奈良時代にはすでに民間の信仰を集めていたようで、方位の神から、徐々に商売繁盛、厄除け、安産などあらゆる方面にご利益のある神として朝廷から民衆まで広い信仰を集めました。

「十二支妙見めぐり」というのは、江戸時代中期に、御所の紫宸殿を中心に十二支の方角に、各々妙見菩薩を祀ったことに始まります。そして、この十二の妙見を順番に訪問して開運や厄除けを祈願することが流行りました。しかし、明治時代になると衰退してしまったようです。その後、昭和六十一年(1986)京都の日蓮宗寺院を中心に「洛陽十二支妙見会」が発足し、十二支妙見めぐりが復活しました。現在の十二の寺院は、江戸時代とは大半が入れ替わっていますが、当時の歴史と伝統を今に伝えています。


「洛陽十二支妙見めぐり」の寺院です。

●子(北)西陣の妙見宮(善行院)

●丑(北北東)出町の妙見宮(本満寺)

●寅(東北東)修学院の妙見さん(道入寺)

●卯(東)鹿ケ谷の妙見さん(霊鑑寺)

●辰(東南東)岡崎の妙見さん(満願寺)

●巳(南南東)清水の妙見宮(日体寺)

●午(南)伏見大手筋の妙見さん(本教寺)

●未(南南西)未の方の妙見さん(法華寺)

●申(西南西)島原の妙見さん(慈雲寺)

●酉(西)小倉山の妙見宮(常寂光寺)

●戌(西北西)鳴滝の妙見宮(三宝寺)

●亥(北北西)鷹峯の岩戸妙見宮(円成寺)


さて、上記した本満寺第十三世・日乾上人は、大阪にある能勢妙見山(大阪府豊能郡能勢町野間中)を創建した事でも知られます。上人は、慶長七年(1602)、摂津国(現大阪)の豪族・能勢氏の帰依を得て、能勢町地黄に真如寺を創建し、翌年(1603)にその飛び地境内に能勢妙見山を建立します。本満寺の妙見堂には、この能勢と同体の妙見大菩薩像が安置されているということなので、ここで長くなりますが、能勢妙見山の創建について書いてみます。

戦国時代末期の能勢の豪族・能勢頼通は、代々足利氏に仕えていたために、織田信長に臣従することを拒絶します。そのため、信長の命で討伐され、天正八年(1580)に殺害されました。遺臣たちは頼通の弟、頼次を後継者として戦いますが敗れ、為楽山(現妙見山)に逃れて、居城を築きました。天正十年(1582)に本能寺の変が起こると、能勢頼次は、隣接する亀岡城主の明智光秀と普段から親しく、また信長が兄を殺害させたこともあって、光秀に味方しました。しかし、このため、光秀を滅ぼした秀吉軍によって領地を攻められます。

領地を奪われた頼次は、備前国(岡山県)まで落ち延び、妙勝寺という日蓮宗の寺院で変名を名乗って隠れ住みました。秀吉の死後、徳川家康が頼次の弟が住職だった京都の実相寺(現在の南区上鳥羽)でたまたま休憩したことから、頼次は家康に知られ召し抱えられるという幸運にめぐり合います。そして、頼次が関ヶ原の戦いで戦功を立てたことから、能勢氏の旧領を与えられることになります。

頼次は、放浪中の妙勝寺で能勢氏再興を願っていましたが、これが実現したことで、日蓮宗への信仰を深め、身延山久遠寺の日乾上人に帰依してその広い山屋敷を寄進しました。こうして、慶長七年(1602)真如寺が創建されました。また、日乾上人は、翌八年(1603)に能勢氏が古くから祀っていた「鎮宅霊符神」を、「妙見大菩薩」として武具甲冑姿の尊像を自ら彫刻して為楽山の山頂に祀りました。これが能勢妙見山の始まりになります。本満寺の妙見堂にはこの能勢と同体の由緒ある「妙見大菩薩」が祀られているということです。



最後に、本満寺の境内には地域の誇りの木となっているソメイヨシノが植えられていて、春には境内は華やかな雰囲気となります。

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