京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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右京区山ノ内宮前町、叡山電鉄嵐山線に乗ると「山ノ内駅」付近で北側に見えてくる小さなお寺が、念仏寺(念佛寺 ねんぶつじ)です。念仏寺は、伝教大師の母・妙徳尼ゆかりの史跡として知られます。


念仏寺は、山号を紫雲山(しんざん)という天台宗寺院で、「山ノ内 根元地水子供養寺 念佛寺」と称しています。比叡山延暦寺の開祖・伝教大師最澄の母・妙徳尼の生誕地及び菩提寺として千二百有余年の歴史のある寺院と伝えられ、宗派等に関係なく水子供養の菩提所として信仰されています。


さて、妙徳尼は、左大臣藤原魚名(ふじわらのうおな 藤原四兄弟の房前の子。721〜783)を祖とする藤原北家の傍系の出身で、本名は藤子といい、正四位下河辺備前守正雄の妹に当たると伝えられます。この下河辺一族は、この山城国山之内(山ノ内)の地を本拠としていたようです。そして、藤子(後の妙徳尼)は江州滋賀郡(滋賀県)古市郷(大津市坂本付近)を領する豪族・三津首百枝(みつのおびとももえ)に嫁ぎます。三津首氏は、中国後漢の孝献帝(こうけんてい)に連なる登萬貴王(とまきおう)の子孫といわれる漢人系渡来氏族でした。

藤子(後の妙徳尼)は、子に恵まれなかったため、度々この里方の山之内(山ノ内)の館に帰って地蔵菩薩に一心に祈願していました。すると、幸運にも一子を授かりました・・・これが三津首広野(みつのおびとひろの)、後の伝教大師最澄です。

妙徳尼は、夫・三津首百枝と死別した後、自身の生地である山ノ内に戻って、比叡山延暦寺で修行している息子(伝教大師最澄)の身を案じながら日々を送っていましたが、当時、比叡山は女人禁制の霊峰だったため、母といえども訪ねて行く事は出来ませんでした。そこで、最澄は母のために慈母観音菩薩像を自ら刻んで贈りました。こうして、妙徳尼は、日夜この観音像を拝んで我が子最澄の行く末を祈願し、また、儚くも散った多くの水子の冥福を祈って余生をこの地に過したということです。

弘仁八年(817)五月、妙徳尼が七十一歳で亡くなると、最澄は、延暦寺で母の法要に百僧をもって供養して追孝の気持ちを表したと伝えられます・・以来この行事は五十年目毎に引継がれて、昭和四十八年(1978)五月には、千百五十年忌の百僧供養が行われています。
その後、最澄は母の菩提を弔うために、この地に延暦寺を象った寺塔を建立して寺院を創建し、最澄自身の自作の利剣名号の阿弥陀如来像を安置して比叡山之内(山ノ内)と称しました。これが現在の念仏寺で、本尊の阿弥陀如来像は鉄で鋳造されたもので、秘仏となっています。また境内には旧い石碑があり、これらは妙徳尼の実家・下河辺氏の先祖の墓碑ということです。


念仏寺では、毎月二十四日に、秘仏地蔵菩薩と妙徳夫人母子尊像、そして、それらを囲むように壁一面に多くの水子供養地蔵尊が祀られている本堂で、弥陀四十八願万灯籠水子供養を行い、秘仏の御開扉が行われます。また、「一日尼僧修行」という京都らしい体験修行も受け付けています。

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2012/8/29(水) 午後 7:06 [ サーモン ]


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