京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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左京区南禅寺北ノ坊町にある三つの皇室ゆかりの史跡を採り上げてみます・・哲学の道を歩かれた方はご存知の史跡かと思います。


さて、哲学の道沿いにある「後伏伏見天皇十八世皇孫女・宗諄女王墓」については、以前に「紅葉のある風景・・」として掲載していますが、今回は墓内部の写真を追加してみます。
宗諄女王は、江戸時代末期の伏見宮貞敬親王の皇女で、文化十三年(1816)に生まれました。文政二年(1819)に第百十九代・光格天皇の養女となり、幼年期より哲学の道付近の霊鑑寺に入って、文政六年(1822)に得度して法名を宗諄としました。そして霊鑑寺に住持して布教に務め、明治二十四年(1889)に七十六歳で病死しています。
宗諄女王墓は、京都の多くの皇室関係者の墓の中でも、特に目立つ存在といえるでしょう。一年を通じて、観光地として知られる哲学の道の写真撮影スポットのひとつになっていますが、特に秋は、墓内に植えられている真っ赤な楓が素晴らしく、哲学の道で一番の紅葉の見所になるからです。



さて、「宗諄女王墓」の西、哲学の道の下には、以前にブログに採り上げた光雲寺があり、その南にある白壁に囲まれた「後水尾天皇皇女・昭子内親王墓」を見下ろすことが出来ます。(さらに、光雲寺の南側にある石段を下ると、「昭子内親王墓」の正面に出られます。)
昭子内親王(1629〜75 妙荘厳院宮)は、後水尾天皇の第四皇女で、母は将軍徳川秀忠の娘・東福門院(徳川和子)です。以前は姉の光明心院(女二宮・近衛尚嗣室)が「昭子内親王」と考えられていた経過から、「顕子内親王」と呼ばれていました。現在も混同があるようですが、現在、宮内庁は昭子内親王としています。また、昭子内親王(顕子内親王)は、左京区岩倉に岩倉御所(岩倉上蔵町)に御所を構え現在はその跡地に石碑が建っています。








最後に、光雲寺の北側には「久邇宮墓地(くにのみやぼち)」があります。
久邇宮家は、江戸時代末期の伏見宮邦家親王の第四王子・朝彦親王(あさひこしんのう、ともよししんのう)が創設した宮家です。朝彦親王は、特に「中川宮」の名前で幕末ファンに知られていて、佐幕派の親王として活躍し、明治維新で反政府陰謀罪の疑いで逮捕され、親王の身分を剥奪されるなど時代の波に逆らった人物です。その後、罪を許されて皇室に復帰した朝彦親王は、明治八年(1875)に久邇宮家を創設しました。
多くの子女に恵まれた朝彦親王ですが、光雲寺の「久邇宮墓地(くにのみやぼち)」には、親王の子女の四墓一塔があります。生後間もなく亡くなった暢(のぶ)王と、一言足彦命(ひとことたらしひこ)王、二歳で亡くなった懐子(やすこ)女王、十八歳で亡くなった飛呂子(ひろこ)女王の墓と、軍人として活躍した久邇宮第二代・邦彦王(1873〜1929)の髪爪塔です。


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