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松尾大社(西京区嵐山宮町)といえば、お酒の神様として知られる京都市西部最大の神社です。
京都の神社としては、北の賀茂(上賀茂、下鴨)社、南の伏見稲荷大社、東の八坂神社等と並んで広く親しまれています。また、古代京都を開墾した秦氏の氏神としても知られ、平安遷都以前の京都の歴史はこの神社を抜きにしては語れないでしょう。また、その後の平安京でも王城鎮護の大社として、「賀茂の厳神、松尾の猛霊」と並び称されてきました。今回はこの松尾大社の御旅所について書いてみます。
さて、松尾大社の「松尾祭」は、京都の西の地域では最も有名な祭で、毎年四月二十日以後の第一日曜日に神幸祭、そのニ十一日目の日曜日に還幸祭が行われます。
今回の松尾大社西七条御旅所にある由緒書きによると、平安時代の学者として知られる大江匡房(おおえのまさふさ)は、「江家次第」の中で、松尾祭は、清和天皇の貞観年中(859〜876)に始まったと記しています。当初は、四月上中旬に行われていた祭祀に、その後、御旅所が生まれ、神輿による神幸祭と還幸祭が行われることになっていったようです。
神幸祭では、分霊された祭神が、松尾七社と呼ばれる月読神社・櫟谷社・宗像社・四之社・大宮社・衣手社・三宮社・の七つの神輿(月読社は唐櫃)に遷られて出発し、途中、桂川を駕輿丁船(かよちょうふね)に乗って渡御します。そして、対岸の河原斎場に七基の神輿(月読神社は唐櫃)が揃うと神事が行われ、その後、各神輿は、それぞれの御旅所に向かいます・・・月読神社・四之社・宗像社・櫟谷社・大宮社の五つの神輿は西七条御旅所へ、また、衣手社は末社の衣手社の御旅所、三宮社は末社・三宮神社の御旅所へと向います。
こうして、神輿は三つの御旅所に安置され、二十一日後に還幸祭が行われます。還幸祭では、各御旅所を出発した神輿は、一旦、西寺跡の旭の杜に集まって祭典を行った後、今度は末社 松尾総神社の朱雀御旅所に立ち寄って神事を行い、その後、松尾大橋を渡って松尾大社に帰還します。
さて、下京区西七条南中野町にある松尾大社の西七条御旅所についてです・・・
神社と違って、その御旅所となると情報が少ないのですが、幸い西七条御旅所には来歴が書かれた掲示板があり引用させていただきます。
御旅所の創建時期は不明ですが、平安時代の宮中年中行事について記した「年中行事秘抄」によると、平安時代の天仁二年(1109)、当時最も重んじられ大事件の際に朝廷から特別に奉幣されていた伊勢(伊勢神宮)、岩清水(岩清水八幡宮)、賀茂(上賀茂、下鴨神社)、松尾(松尾大社)、平野(平野神社)、稲荷(伏見稲荷大社)、春日(奈良の春日大社)の七社に行幸・奉幣した記述があり、松尾社や稲荷社に御旅所があったと記されています。
また、平安末〜鎌倉時代の公卿・中山忠親(なかやまただちか)の日記「山槐記(さんかいき)」にも、仁平二年(1152)四月五日の記載に「櫟谷社旅所」とあることから、十二世紀には、既に松尾大社の御旅所が西七条に存在していたようです。
江戸時代の「松尾略注全冊」によると、西七条村には、大宮・月読相殿御旅所、櫟谷社御旅所、宗像社御旅所の三ヶ所の御旅所があり、また、四太神(四之社)御旅所は大宮御旅所の、衣手社御旅所は宗像社御旅所の同域内にあり、他に川勝寺村に三宮社御旅所、朱雀村に惣神社の神供場(松尾総神社)があったようです。当時は各々の神輿が別々の御旅所を持っていて、神輿は祭の時以外は本社で管理していました。
また、御旅所でありながら、朱印地が認められていて、天正十三年(1585)十一月二十一日、豊臣秀吉により百四十五石が与えられ、徳川幕府の下でも同じ石高の朱印地が認められていました。
その後、明治時代に、東四社の御旅所が大宮社の御旅所に統合され、官幣大社松尾神社御旅所として現在の地に定められました。尚、昭和五十九年(1984)五月、松尾大社西七条御旅所の造営整備計画が始まり、松尾大神を祭神とする本殿、神輿庫、社務所の改築が行われ、翌六十年(1985)四月に竣工しています。
ついでという感じですが、西七条御旅所の東、下京区朱雀裏畑町にあるのが、松尾大社の末社・松尾総神社です。
祭神は月読尊で、上記したように、古来、松尾祭の還幸祭の際に各神輿が集結する御旅所とされ、現在も「朱雀御旅所」という名前で知られています。
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