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東山区松原通大和大路東入る轆轤町、有名な六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)の北にある浄土宗寺院、西福寺(さいふくじ)を採り上げます。小さな寺院ですが、門前には、「六道の辻」を示す石標が建てられていて、六波羅蜜寺や六道珍皇寺等と共に六波羅を代表するお寺の一つです。
西福寺のある付近一帯は「六波羅(西は鴨川東岸から、北は五条大路(現松原通)〜南は七条大路一帯)」と呼ばれる地域になります。
「六波羅」は、「六原」とも記されていて、その語源は、この地に建立された六波羅蜜寺に由来するとか、また、この地がかつて「轆轤原(ろくろがはら)」と呼ばれていたことに拠るという説等があります。尚、「轆轤原(ろくろがはら)」という地名については、東山の山麓の原野「麓原(ろくはら)」に由来するとか、平安時代にはこの地域には人骨が散乱していたことから、この髑髏(どくろ)の散乱した原野=「髑髏原(どくろがはら)」を、江戸時代に「轆轤原(ろくろがはら)」に改称したともいわれています。ともかく、この六波羅の地は、嵯峨野の「化野(あだしの)」、船岡山西一帯の「蓮台野(れんだいの)」と並んで平安京の三大葬送地といわれる「鳥辺野(とりべの)」の入口に当たり、あの世とこの世の境界の地と考えられたことから、空也上人が創建した六波羅蜜寺、小野篁(おののたかむら)が冥府と現世を行き来したという六道珍皇寺などの寺院が建てられて、信仰の場となっていきました。
この鳥辺野の入口付近は、また「六道の辻」とも言われてきました。
「六道」とは、仏教で衆生が生前の行いによって生死を繰り返す六つの迷いの世界で、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上の六つを指します。「六道の辻」は、この六道へ通じる道の分岐点という意味で、冥界へ入り口と考えられてきました。
前に採り上げた六道珍皇寺には、小野篁が冥府と現世を行き来したという井戸が残されていて、珍皇寺門前の松原通に面する轆轤町と新シ町の間を南に抜ける丁字路が「六道の辻」として知られます。今回の西福寺の地蔵尊も、同じく冥府と現世の境界付近に祀られたことから、「六道の辻地蔵尊」、「六道の地蔵尊」と呼ばれて信仰を集めてきたようです。
さて、西福寺は、山号を桂光山という浄土宗寺院です。(一部西福寺の由来記を引用してみます)
寺院としての西福寺は江戸時代に創建されましたが、元々は、平安時代初期の第五十二代・嵯峨天皇の時代、弘法大師空海が鳥辺野の無常所(墓地)入口にあたるこの地に地蔵堂を建立して、自作の土仏地蔵尊像を祀ったのが始まりと伝えられています。
この地蔵堂建立の頃、嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子(檀林皇后)がこの地を訪れ、弘法大師に深く帰依したと伝えられています。また、皇子正良親王が病気となった際には、皇后は病気回復をこの「六道の辻」地蔵尊に祈願しました。霊験によって皇子は無事回復して成長し第五十四代・仁明天皇となったので、当時の人々は、この地蔵尊を「子育て地蔵」「六はら地蔵」と呼ぶようになったとも伝わります。
(尚、六道の辻地蔵尊の御詠歌として、壇林皇后の御歌が一首残されているということです。「はかなしや 朝夕なでし黒髪も よもぎが本のちりとこそなれ」)
また、室町時代の謡曲「熊野(ゆや)」では、「河原おもてを過行ば、急ぐ心の程もなく、車大路や六波羅の地蔵堂よとふしをがむ観音も同座あり闇堤救世の方便あらたにたらちねをまもり給へや、実にや守りの末すぐに頼む命は志ら玉の愛宕の寺も打過ぎぬ六道の辻とかや、実におそろしや此の道は冥途に通ふものなるを心ぼそ鳥辺山」と謡われていて、六波羅の地蔵堂が当時良く知られていたことがわかります。
その後、江戸時代の慶長八年(1603)、蓮性上人がこの地蔵堂のある地に寺院を創建し、西福寺と称しました。そして、江戸中期の享保十二年(1727)に、関白・二条綱平が亡父のために再建したのが現在の建物と伝えられます。かつては六つの仏堂があったようですが、現在は三つの仏堂が残り、境内には末廣不動明王を祀る不動堂を中心に石仏や人形等が多数安置されています。また、洛陽四十八願巡りの第三十一番札所でもあります。
普段は静かな西福寺ですが、毎年八月のお盆にはお精霊迎えの「六道詣り」で多くの人々で賑わいます。また、この時には、寺宝の「六道十戒図」「六道絵」「檀林皇后九相図」「十王図」などが公開されます。
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