京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

金閣寺・大徳寺・鷹峯他

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北区衣笠西尊上院町、五山の送り火で知られる「左大文字」の山裾の閑静な住宅街の中にあるのが、第六十七代・三条天皇の陵墓、「三条天皇北山陵(さんじょうてんのうきたやまのみささぎ)」です。
この衣笠地域の山沿いの一角は、京都の高級住宅地の一つに数えられていて、大きな住宅に囲まれた三条天皇陵は、周囲の静かな雰囲気にマッチして、街中の天皇陵の中ではかなり良い環境にあるように感じます。(ただ、区画された住宅地のため、道路に直面し参道が無いに等しいという欠点はありますが)



さて、第六十七代・三条天皇(在位1011〜1016)は、天延四年(976)、第六十三代・冷泉天皇の第二皇子として生まれ、名を居貞(おきさだ)といいました。母は、太政大臣・藤原兼家の長女・藤原超子(ふじわらのちょうし とおこ)で、また異母兄として花山天皇がいます。

永観二年(984)に即位した第六十五代・花山天皇は、摂政だった外祖父・藤原伊尹(ふじわらのこれただ、これまさ)が、天禄三年(972)に亡くなった後は、有力な後ろ楯を失っていたために、寛和ニ年(986)、在位二年で伊尹の弟、藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の陰謀によって出家させられ退位させられました。兼家は、早速、自身の外孫・懐仁親王(やすひとしんのう 母は藤原兼家の娘・:藤原詮子)を即位させます。これが第六十六代一条天皇です。

一方、居貞親王(後の三条天皇)は、異母兄・花山天皇とは対照的に、母超子が兼家の娘ということもあって、天元五年(982)、七歳で母を失った後も、外祖父・兼家の寵愛を受けて育ちました。
そして、寛和ニ年(986)、従兄弟の一条天皇が即位した際に、兼家の後押しで元服して、一条帝より四歳年上の十一歳で皇太子となりました。歴史物語「大鏡」は、地震や雷など異変が起こった際、兼家は、「お前たち(子の道隆・道兼・道長ら)は、帝(一条天皇)の元へ参上せよ。私は皇太子(居貞親王)の元にお伺いするから」と、居貞親王を気遣っていた様子を記しています。しかし、永祚二年(990)に、兼家が亡くなった後は、その一門とは疎遠な関係になっていったようです。

その後、居貞親王は、正暦ニ年(991)に、藤原娍子(ふじわらのせいし すけこ 藤原済時の娘)を妃に迎え、二人の間には、敦明親王(あつあきらしんのう 小一条院)をはじめ四男ニ女が生まれています。また、藤原道長も、これまで疎遠だった居貞親王との繋がりを強めるために、寛弘七年(1010)に次女の藤原妍子(ふじわらのけんし きよこ)を入内させています。(同九年(1012)に中宮に冊立)



さて、関白藤原兼家の死後、その子、道隆・道兼・道長三兄弟が外戚としてそれぞれ一条天皇を二十五年という長期にわたって支えていたために、寛弘八年(1011)一条帝が病気のため退位し、ようやく居貞親王(三条天皇)に即位の順番が回って来た時には、親王は当時としては高齢の三十六歳になっていました。幼少で即位し藤原氏の傀儡として育った多くの天皇とは違って、熟年になって即位した三条帝は親政を望んでいたようです。

しかし、三条天皇にとって不幸だったのは、時代が藤原道長の全盛期だったことでした。道長は、長女の中宮藤原彰子(ふじわらのあきこ しょうし 上東門院)が一条天皇との間に、敦成親王(あつひらしんおう 後の後一条天皇)、敦良親王(あつよししんのう 後の後朱雀天皇)を生んでいて、これら若い皇子を擁立することで、次世代にも揺ぎ無い権力を握ることが確実となっていました。道長は早速、三条帝即位にともなって、皇太子として敦成親王(後一条天皇)を定めました。

翌長和元年(1012)、三条天皇は、皇太子時代から寵愛してきた娍子を皇后に立てたいと願います。道長はこれに賛同する態度をとって天皇を安心させながら、立后の儀式当日になって中宮妍子の元へ参内するとして儀式に出席せず、宮中の公卿達も皆、道長に従って中宮殿の東三条第へ行ってしまいました。天皇は儀式への出席を求めて東三条第へ使いを送りますが、集まっていた公卿達は勅命を無視する態度をとる始末でした。

わずかに道長の威光に逆らって立后の儀式に参加したのは、反道長派と思われていた公卿たち・・娍子の弟・藤原通任(ふじわらのみちとう)、道長と権力争いをしたことで知られる藤原伊周(これちか)の弟・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)、そして、藤原懐平(ふじわらのかねひら)・藤原実資(ふじわらのさねすけ)兄弟に過ぎませんでした。また、上記したように、道長は娘の妍子を三条帝の中宮に立て皇子の誕生を期待していましたが、残念ながら長和二年(1013)に生まれたのは皇女(禎子内親王)で、道長は大変失望しました。こうして、道長にとって三条天皇は無用な存在となっていきます。

三条帝の意向を無視する道長の妨害工作が続き、孤立感を深めた三条天皇が、頼りにしたのは、前記の立后騒動など宮中の出来事を現在に伝える貴重な同時代資料、日記「小右記」の著者として知られる藤原実資(ふじわらのさねすけ 小野宮実資  藤原北家の藤原斉敏の子で、祖父実頼の養子)でした。藤原実資は、道長の批判者として、その傲慢ぶりを日記に記したことで知られますが、学問に秀でた正義感の強い剛直な人物でした。実資は病身にもかかわらず、娍子立后の儀式に駆けつけて、三条帝から感謝されます。実資は、飛ぶ鳥を落とす勢いの道長に対して直接対抗する愚を犯さず、是々非々の正論を唱えることで、その野望を牽制しました。



しかし、道長の圧力に加え、三条天皇には生来眼病があり、長和三年(1014)頃より病状が悪化します。病気平癒の祈祷を繰り返しますが効果は無く、さらに、長和四年(1015)十一月には、新造されたばかりの内裏が炎上する事件が起こり、三条帝は道長の枇杷殿を里御所とします。道長は、事あるごとに帝に退位を勧めて圧力をかけ、ついに、長和五年(1016)正月、三条帝は、在位六年にして、道長の勧めを聞き入れて退位を決意せざるを得ませんでした。そして、退位の条件として、娍子との間に生まれた第一皇子・敦明親王を、敦成親王(後一条天皇)の皇太子にすることを道長に認めさせた後、退位しました・・・「小右記」によると、道長は三条天皇の御前で、後一条天皇即位の時には、敦良親王(あつながしんのう 後の後朱雀天皇)を皇太子にする意志のあることを明言したということですが、当然ながら、三条天皇は自身の子・敦明親王(あつあきらしんのう)を皇太子にするとして譲りませんでした。結局、道長は妥協して、三条帝の退位を条件に敦明親王を立太子せざるを得なかったのでした。

「大鏡」は、退位後に三条天皇が完全に失明したと記していて、三条上皇は、外見は普通の人と変わらない綺麗な澄んだ目をしていて、眼が見えないというのが嘘のような様子だったということです。また、時々は見えることもあって、御座所の簾の編み糸がはっきりと見えると語ったり、寵愛する娘の禎子内親王が参内した時には、その乳母の櫛の刺し方を注意したりしています。さらに、幼い禎子の美しい髪を撫でながら、この美しい髪を見られないとはと何とも悔しいと、声をあげて泣いたと記しています。

また、同じく「大鏡」は、上皇の目が見えなくなった理由について、以前から病気のために服用していた万病に効くという秘薬・金液丹の副作用のためだとか、桓算供奉(かんざんくぶ)の祟りのためとも噂されたことを記しています。桓算というのは、醍醐天皇の時代の比叡山の僧で、宮中内の道場に奉仕していましたが、僧位のことで恨みをもって憤死し、以来代々の天皇に祟っていると考えられた怨霊で、そのモデルは、村上天皇の時代の天台僧の賀静(がしょう、887〜967)ともいわれています。賀静は、康保四年(967)期待していた天台座主になれなかった衝撃から病没したと伝えられる人物で、死後には怨霊になったと考えられていました。

また、前に冷泉天皇陵の時に書きましたが、当時の人々は、藤原元方(888〜953)も怨霊として三条帝を苦しめたと考えました。元方は、大臣職を歴任する藤原北家の後塵を拝してきた南家の出身でしたが、村上天皇に嫁いだ娘(祐姫)が生んだ第一皇子(広平親王)が皇太子となれば、外祖父として権勢を握ることが出来るはずでした。しかし、北家の右大臣・藤原師輔(ふじわらのもろすけ)の娘、中宮・藤原安子が生んだ皇子(憲平親王)が立太子され、元方は天暦七年(953)に無念の思いを抱いて世を恨みながら病死したと伝えられ、また、皇太子になれなかった広平親王も、天禄二年(971)に二十二歳で亡くなりました。その後、冷泉天皇が精神に異常をきたし、その子・花山天皇と三条天皇が病気に苦しんだのも、元方や広平親王の怨霊が祟ったのだと噂されました。三条帝の信頼厚かった藤原実資も日記「小右記」の中で、三条帝の眼病の原因は、賀静と藤原元方の怨霊によるものであると記しています。

三条上皇は、比叡山延暦寺の根本中堂や太秦の広隆寺などで病気平癒の祈願を行いますが、やはり効果はありませんでした。また、十二歳で伊勢の斎宮に選ばれていた娘の当子内親王(とうし 皇后娍子との子)が父帝の譲位で帰京するや、藤原伊周の子・道雅と密通事件を起こして、上皇に勘当され出家するなどの騒動もあり、晩年まで不幸が続いたといえます。そして、寛仁元年(1017)四月末に出家し、五月初めに四十二歳で崩御しました。遺骸は船岡山の西野(岩陰 衣笠鏡石町)で火葬され、同地の北山陵に埋葬されました。

その後、道長は、三条帝との約束を反故にし、皇太子の敦明親王に対して、代々の皇太子(東宮)に伝領されてきた宝剣・壷切の太刀を授けないなど無言の圧力をかけます。道長を憚って敦明親王を訪ねる者も絶え、ついに敦明親王は母娍子の反対を押し切って、自ら皇太子を辞退したいと道長に申し出ました。
事がうまく運んだと喜んだ道長は、敦明親王に報いるために小一条院太上天皇の尊号を贈って准上皇として厚遇し、三女の藤原寛子(ふじわらのかんし ひろこ)を嫁がせました。
尚、この時、敦明親王の先妃・藤原延子(ふじわらのえんし のぶこ 左大臣藤原顕光の娘)は、夫を寛子に奪われて絶望のあまり病気となり、寛仁三年(1019)に非業の死を遂げたとされ、この延子とその父・右大臣藤原顕光も死後に怨霊となって、後に寛子や道長一族に祟り、道長一族の相次ぐ死の原因となったと噂されることになります。

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