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今回は、京都市北区衣笠地域にある「一条天皇・三条天皇火葬塚」です。
衣笠地域には二つの火葬塚(一条天皇・三条天皇火葬塚&白河天皇火葬塚)がありますが、地理的にはかなり離れているので、個別に書いてみます。
さて、前回の「三条天皇北山陵(さんじょうてんのうきたやまのみささぎ)」から、鏡石通を北上すること約五百メートル、北区衣笠鏡石町にあるのが、「一条天皇・三条天皇火葬塚」です。
この地は、平安時代の第六十六代一条天皇と、従兄に当る第六十七代三条天皇が火葬されたとされる場所で、京都の天皇火葬塚の中では最も大きな火葬塚の一つになります。この火葬塚の南側は、鏡石公園という小さな公園に接していて、そこから塚内の森を見上げると、火葬塚というより陵墓のような印象もあります。
前回、北山陵を採り上げた際に、三条天皇の生涯について書きました。また、一条天皇の生涯についても、今後、その陵墓を取り上げる際に書くこととして、今回は簡単に火葬塚に関係する点のみを書いてみます。
平安時代の寛弘八年(1011)、一条天皇は重病となって、同年六月十三日に一条院で居貞親王(おきさだしんのう 三条天皇)に譲位して出家しますが、間もなく二十二日に、三十二歳で崩御しました。遺体は、山城葛野郡北山長坂野(岩陰)の地で火葬にされ、七月九日、遺骨は東山の椿ヶ峰の麓にあった円成寺に安置され、正式に二十日に埋葬されました。この円成寺という寺院は、その後廃寺となってしまいますが、、現在、哲学の道(左京区)の傍にある大豊神社(駒ネズミで知られます)はその鎮守社だったと伝えられます。
藤原実資(前回の三条天皇陵の時にも出てきましたが)の日記「小右記」によると、当時大納言だった実資は、この頃、宮中で権中納言・藤原頼通から、「亡き天皇(一条天皇)は、生前に、自分が死んだら土葬にして、父の円融法皇(円融天皇)の御陵付近に埋めて欲しいと、左大臣(頼道の父の藤原道長)や周りの人々にお話されていましたが、皆そのことを忘れてしまっていて、今になって左大臣は思い出されて、歎息されておられました。」と告げられます。
そこで実資は、一条帝の御遺骨は、方忌を避けるため、とりあえず円成寺に奉安して、三年を過ぎて、方位神の金星(太白)の精の大将軍が西方に位置したら、円融法皇の陵の付近に移すべきだと提案しました。そして、結局、九年後の寛仁四年(1020)六月、一条天皇の御骨は、道長によって円融天皇ゆかりの円融寺の北(竜安寺の北にある円融寺北陵)移されました。
尚、この円融寺という寺院は、石庭で有名な竜安寺(京都市右京区)の前身ともいうべき寺院で、永観元年(983)に創建された円融天皇の勅願寺でした。円融天皇は、翌永観二年(984)に退位した後、寛和元年(985)に出家してこの円融寺を住居としました。そして、正暦二年(991)に円融寺で死去し、円融寺の北原で火葬されました。(竜安寺の裏山に円融天皇火葬塚があります)その遺骨は、父の村上天皇の村上陵の傍らに葬られたと伝えられます。(円融天皇後村上陵はブログに掲載しています)
その後、前回に登場した三条天皇も、一条帝と同じ地で火葬されたと伝えられます・・三条帝は、寛仁元年(1017)四月二十九日に出家し、五月九日に四十二歳で崩御しました。そして、五月十二日に山城葛野郡北山岩陰で火葬され同地の北山陵に埋葬されました。一条天皇と違って、そのまま北山の地に陵墓が造られたようです。
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