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京都市北区紫野(むらさきの)には、三つの皇室関係者の火葬塚がありますが、今回は紫野花ノ坊町にある近衛天皇火葬塚を採り上げました。
平安時代末期の第七十六代・近衛天皇については、以前にその陵墓「近衛天皇安楽寿院南陵(あんらくじゅいんみなみのみささぎ 伏見区竹田浄菩提院町)」を採り上げた際に、書いていますので、今回は火葬塚に関係のあることを中心に書いてみます。
さて、近衛天皇は、鳥羽上皇の第九皇子で、異母兄には第七十五代・崇徳天皇、第七十七代・後白河天皇がいます。保延五年(1139)五月、体仁新王(なりひとしんのう 後の近衛天皇)が誕生すると、鳥羽上皇は、母親が寵愛する皇后・美福門院(藤原得子(ふじわらのなりこ)ということもあり、嫌っていた子の崇徳天皇(鳥羽が子の崇徳を、自身の祖父・白河上皇の子と疑い、叔父子と呼んだという話は良く知られます。)に迫って譲位させて、僅か2歳の体仁親王を天皇に即位させました。これが近衛天皇です。もちろん実際の政治は父の鳥羽が院政をしいて行いました。
こうして、永治元年十二月に二歳で即位した近衛天皇ですが、生来病弱だったようで、康治二年(1143)五月に疱瘡に罹って以来、天養元年(1144)八月、仁平ニ年(1152)七月、仁平三年(1153)五月としばしば病気になっています。特に仁平三年(1153)夏頃からは眼病を患って視力を失い、八月には、宮中や寺院で病気平癒の祈祷が繰り返し行われています。
その後、久寿二年(1155)六月七日に重病となり、父の鳥羽上皇や母の美福門院が連日のように病気平癒の祈祷を行うも効果なく、七月十八日には容態が悪化し、七月二十三日に十七歳で崩御しました。
同二十七日、先帝を近衛院と号し葬儀の日時が決定され、八月一日、船岡山の西野で火葬にされました。
現在の近衛天皇火葬塚はこの記録から、船岡山の西(頂上から約三百メートル西)に地定されています。そして遺骨は知足院(ちそくいん)本堂に安置されました。
この知足院という寺院は、当時、紫野船岡山付近にあった大寺院でした。(前に北区紫竹東栗栖町にある常徳寺を取り上げた時にも登場しましたが、常徳寺は、知足院の跡地一部に創建されたと伝えられます。)
現在、この地域の大寺院といえば、すぐ大徳寺を思い出すのですが、大徳寺創建以前の平安時代には、知足院や雲林院(前にブログに採り上げました。)の広大な寺域がこの地にあって、清少納言の枕草子にもその名が登場します。
また、知足院は、平安時代末期の関白・藤原忠実の邸宅となり、忠実は「知足院殿」と呼ばれていました。知足院が近衛天皇の墓所となったのは、その保護者でもあった忠実との深い関係があったのでしょう(近衛帝の中宮・藤原呈子(ふじわらのていし)は美福門院や忠実の養女となり、また帝の皇后・藤原多子(ふじわらのまさるこ)も忠実の子・藤原頼長の養女という関係でした。)
さて、近衛帝の父・鳥羽上皇は、保延五年(1139)、鳥羽離宮(鳥羽殿)東殿の御堂・安楽寿院(あんらくじゅいん)に三重塔(本御塔 ほんみとう)を、さらに続いて新御塔(しんみとう)を造営していました。そして、保元元年(1156)七月二日に上皇が安楽寿院で亡くなると、遺言に従って本御塔に埋葬されました。一方、新御塔の方は、鳥羽の寵愛する皇后・美福門院の墓所に予定されていましたが、永暦元年(1160)十一月二十三日に美福門院が亡くなると、その遺言によって遺骨は、同年十二月二日、高野山に埋葬されました。これは晩年の女院が自身の領地のある高野山・金剛峰寺に深く帰依していたためでした。
そこで、息子の近衛天皇の遺骨が知足院から改葬されることになり、長寛元年(1163)十一月二十八日、近衛帝の遺骨は知足院本堂から、鳥羽東殿の美福門院御塔(新御塔)に移されました。
尚、この鳥羽東殿の新御塔は、室町末期まで残ったと伝えられますが、慶長元年(1596)の慶長伏見地震で倒壊し、現在の「近衛天皇安楽寿院南陵(あんらくじゅいんみなみのみささぎ 伏見区竹田浄菩提院町)」多宝塔は、慶長十一年(1606)、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として再建したものということです。
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近衛帝陵の多宝塔は、数ある天皇、皇族墓の中でもひときわ目立った存在ですね。
シンプルな石造神明鳥居にこんもりとした茂みがスタンダードな陵墓の形式で普通の人には詰まらないかもしれませんが、殊、安楽寿院陵に関しては普通に観光に来られた方でも一見の価値はあるかもしれませんね。
2008/11/2(日) 午後 7:55 [ hig*_p*ste2*00 ]
そうですね。京都の天皇陵で普通の観光客の方にもお勧めするのは、近衛帝の安楽寿院南陵と、大きな明治天皇陵という感じでしょうか。
近衛帝の陵墓は一番美しい天皇陵の一つですね。
2008/11/2(日) 午後 9:28 [ hir**i1600 ]
あと私自身の個人的な好みとしては、御寺泉涌寺内の月輪陵(入ることはできませんが)の殻破風造りの門です。ここは近くに寄る事さえできないのですが、それだけに一層引きつけられるものがあります。
ただ西本願寺の国宝唐門などと比べてしまうと全然劣ってしまうのですけども・・。
2008/11/2(日) 午後 10:55 [ hig*_p*ste2*00 ]
>慶長十一年(1606)、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として再建したものということです。
そうだったのですね。知りませんでした。
たしかに、平安後期の天皇陵がほぼ完全な形で今でも残っているのは少々不思議でした。
平安中期作で最古級の流れ造りである宇治上神社の社殿でさえ国宝なのに、この多宝塔がなんの指定も受けていないのは、宮内庁管理なのだからかなと推測したほどです。
江戸時代には尊王論の隆盛によって天皇陵墓の比定、修繕活動が広く行われたようですが、秀頼の時代にこのようなことが行われていたのは興味深いですね。
2008/11/2(日) 午後 11:20 [ hig*_p*ste2*00 ]
泉涌寺と月輪陵はやはり一見に値しますね。室町後期以降の陵墓なので信憑性のある陵墓でもありますね。他にも、十二帝陵の深草北陵、参道の長さで天智天皇陵とか、それなりに面白い陵墓もありますね。(私も、例の幾つかの山奥の陵墓は未だ行けていないのです)
2008/11/8(土) 午前 0:42 [ hir**i1600 ]
この陵墓は、豊臣秀頼が慶長11年に安楽寿院を修復した時に合わせて再建したようです。戦国時代に荒廃した京都の寺社の再建については、やはり豊臣家の功績は大きいですね。
2008/11/8(土) 午前 0:52 [ hir**i1600 ]
>(私も、例の幾つかの山奥の陵墓は未だ行けていないのです)
なるほど。淳和天皇陵とか清和天皇陵などですよね。私も行ったことはありません。
清和天皇、水尾山陵は車があれば近くまで行けますけど、私のような一観光客にとっては(普通の観光客はこんなところは絶対行かれないのでしょうが)非常に行きづらいですね。
しかし、清和帝(≒水尾天皇)は天下の大族で武士の名門、清和源氏の祖と言われていますし、有名な後水尾天皇(≒後清和天皇)の「水尾」の地でもありますから、一度は行ってみたいという気持ちは抑えがたいですね。
おそらく、宮内庁の高札、石造の神明鳥居、こんもりと鬱蒼とした森・・・、というどこの陵墓でもあるスタンダードな形式は水尾山陵でも変わらないのでしょうが、実際に行ってみるとなにかしらの感動は受けるのでしょう。山奥ですし。
2008/11/9(日) 午後 11:13 [ hig*_p*ste2*00 ]