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上京区寺之内通新町西入る妙顕寺前町、日蓮宗大本山・妙顕寺山内の東側にある塔頭の善行院(ぜんこういん)は、新しい現代的な建物が目立つお寺です。
この鉄筋コンクリートの建物は平成十五年(2003)四月の平成の大修理で完成したものですが、それまでとは寺観を一新して、他の妙顕寺塔頭とはかなり異質な雰囲気となっています。
境内には、改築工事で二階建てとなった妙見堂があり、善行院は、「洛陽十二支妙見」の「子(ね)の寺」、「西陣の妙見さま」として親しまれています。
「洛陽十二支妙見めぐり」についてはこれまでも何度か書いていますが、以下再掲載します。
妙見菩薩とは、北極星・北斗七星を神格化した、宇宙万物の運気を司り支配する菩薩になります。
奈良時代にはすでに民間の信仰を集めていたようで、天台宗、真言宗、日蓮宗等にも取り入れられて広まりました。最初は「方角の神様」でしたが、徐々に商売繁盛、厄除け、安産などあらゆる方面にご利益のある神として朝廷から民衆まで広い信仰を集めたようです。
「十二支妙見めぐり」というのは、江戸時代中期に、京都の御所の紫宸殿を中心に十二支の方角に、各々妙見菩薩を祀ったことに始まり、江戸時代を通してこの十二のお寺を順番に訪問して、開運や厄除けを祈願することが大いに流行りました。明治時代の廃仏毀釈の影響で妙見信仰は一時衰退しますが、その後、昭和になって再び妙見講として信仰は受け継がれることになりました。
そして、昭和六十一年(1986)、京都の日蓮宗のお寺を中心として「洛陽十二支妙見会」が発足し、再び「十二支妙見めぐり(洛陽十二支妙見めぐり)」が復活しました。現在の十二の寺院は、江戸時代とは大半が入れ替わっているようですが、当時の歴史と伝統を今に伝えようとする試みのようです。こうして、善行院でも、「洛陽十二支妙見」の第一番「子」として妙見宮が復興されました。
「洛陽十二支妙見めぐり」の十二ヶ寺・・・いくつかはこれまでに登場しています。
●子(北)西陣の妙見宮(善行院)
●丑(北北東)出町の妙見宮(本満寺)
●寅(東北東)修学院の妙見さん(道入寺)
●卯(東)鹿ケ谷の妙見さん(霊鑑寺)
●辰(東南東)岡崎の妙見さん(満願寺)
●巳(南南東)清水の妙見宮(日体寺)
●午(南)伏見大手筋の妙見さん(本教寺)
●未(南南西)未の方の妙見さん(法華寺)
●申(西南西)島原の妙見さん(慈雲寺)
●酉(西)小倉山の妙見宮(常寂光寺)
●戌(西北西)鳴滝の妙見宮(三宝寺)
●亥(北北西)鷹峯の岩戸妙見宮(円成寺)
さて、善行院は、山号を日洋山といい、室町時代の文正元年(1466)、開山の恵眼院日冨上人によって創建されたと伝えられます。天明八年(1788)の大火で妙顕寺本山と共に類焼する以前からほぼ現在の位置にあったようです。
善行院にある由緒書きによると、妙見堂に祀られる妙見大菩薩は、十二支妙見の中で唯一の「天拝の妙見菩薩」といわれていて、元々御所の清涼殿に安置されていたということです。江戸時代初期の第百十一代・後西天皇(後西院天皇)は、この菩薩像を篤く信仰して、日々清涼殿で国家の安泰を祈念していましたが、法華経を以って祭祀せよとの霊夢によって、妙顕寺山内に妙見堂を建立しました。
その後、この妙見菩薩は、近隣の人々の信仰を集めた後、幾多の盛衰を経て、天保七年(1836)善行院第二十七世・大漸院日謙上人の時代に、現在の妙見堂が復興され、「洛陽十二支妙見めぐり」第十二番として信仰を集めたと記されています。また、幕末の万延元年(1860)に、善行院境内に一堂を建立して妙見堂が奉安されたとも伝えられ、妙顕寺にあったという妙見堂が、現在のように塔頭の善行院に祀られるまでには幾度かの変遷があったのでしょう。
尚、今年、平成二十年(2008)は子歳ということで、「福子」と命名された信楽焼のネズミの置物が新しく妙見堂内に安置されました。この幸福を導くようにと金色に彩色された大きなネズミ(高さ四十八センチ、幅六十二センチ、奥行五十二センチ)像は、信楽焼作家の大熊狸心(おおくまりしん)氏の作になります。
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2/19・3/5の2日で参拝しました。
2011/7/27(水) 午後 5:15 [ いっちゃん ]
江戸時代には京都各所の妙見めぐりは広く流行していたということですが、現在の京都観光ガイドなどではまったく出てきませんね。このブログでは、有名どころは他にまかせて、マイナーな史跡を広く漁っています。
2011/8/4(木) 午後 2:07 [ hir**i1600 ]