京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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京都市西京区にある樫原(かたぎはら)という区域は、阪急電鉄桂駅の西南に広がる地域で、元々、葛野郡岡村(後に川島村と合併して川岡村)といいました。この地は、東西に走る旧山陰街道と南北に走る物集女(もずめ)街道(山陰街道と西国街道を繋ぐ重要な街道)との合流点にあたるため、江戸時代には交通の要衝として、本陣や旅宿が設けられた宿場町として栄えました。現在も、樫原には、樫原本陣跡(樫原下ノ町 京都市指定文化財)等の史跡が残り、古き宿場町の雰囲気が僅かに感じられます。


さて、今回はこの樫原に残る幕末の史跡を採り上げました。
京都市内には数多い幕末の史跡がありますが、幕末史跡の少ない西京区にあるためか、知名度的にマイナーな志士の墓にもかかわらず、幕末の悲劇を今に伝える、地域を代表する史跡になっているようです。


さて、幕末の元治元年(1864)七月十九日に蛤御門の変(禁門の変)が起こります。激戦の末、長州藩は会津や薩摩藩を中心とした幕府側連合軍に敗れて、多くの兵士が戦死や自殺、また捕らえられて殺害されました。
この時、長州軍に属していた長州藩集義隊の楳本僊之助直政、元下野宇都宮藩出身の相良頼光、同じく相良新八郎(相良兄弟は、元薩摩藩と名乗ったともいわれています)の三人が、長州藩御用達の木屋仁左衛門宅に身を寄せようとしたのか、天王山の長州軍本隊に合流しようとしたのか不明ですが、ともかく、この樫原の地まで逃れて来ました。しかし、幕府の命により樫原の辻を警備していた小浜藩兵に囲まれて討たれてしまいました。
三人が惨殺されたのは、現在の樫原秤谷町、かつて「札の辻」と呼ばれていた樫原交差点付近とされ、「勤皇家殉難之地」の石標が建てられています。

その後、三人の遺体は放置されていましたが、村人達が、付近の丘の中腹にある共同墓地に手厚く葬り、墓標が建てられました。
現在、樫原秤谷町にある墓地のある丘の登り口には、「維新殉難志士墓所在此丘上」と記された石標があり、傍には、「樫原札の辻 三士殉難の地」の京都市の案内板が立てられています。そして丘の上には、三人の墓が並んでいます。

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