京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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前回の三宮神社に隣接する桓武天皇夫人贈皇太后・藤原旅子(ふじわらのたびこ)の宇波多(うわた)陵を採り上げます。(京都市西京区大枝中山町)
この御陵は、村上天皇陵や文徳天皇陵に似て見晴らしの良い丘上にありますが、小さなお寺のような参道が細く続いていて女性的な印象です。



藤原旅子(ふじわらのたびこ 759〜788)は、天平宝字三年(759)、参議従三位(贈従二位右大臣を経て、贈正一位太政大臣)藤原百川(ふじわらのももかわ)の長女として誕生しました。
また、母は従二位内大臣(贈正一位太政大臣)藤原良継の娘、尚縫従三位・藤原諸姉(ふじわらのもろね 後に贈正一位)です。また、異母弟には正二位左大臣藤原緒嗣があり、経費の掛かる蝦夷平定と平安京建設という桓武朝の二大政策を中止するように桓武天皇に諫言した名臣として知られます。

因みに、桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ ブログパート2にその御陵を掲載)は、母方の叔母(乙牟漏は藤原良継の娘で、旅子の母藤原諸姉とは異母姉妹)、父方の従妹(乙牟漏の父藤原良継は、旅子の父藤原百川の兄)で、ほぼ同年齢という関係でした(旅子が1歳程上)
その後、二人は同じ年に皇子を産み(後の嵯峨、淳和天皇)、若くして相次いで亡くなることになります。(また、旅子の同母妹・帯子(後に贈皇后)も、桓武天皇の皇太子・安殿親王(後の平城天皇)に入内しますが平安遷都前に夭折しています。)



長くなりますが、少し旅子の父、藤原百川について補足してみます

藤原百川(雄田麻呂)は、藤原式家の始祖・宇合の六男で、青年期は、兄の広嗣が九州で反乱を起こして鎮圧された影響もあって不遇でしたが、その後、兄の藤原良継と共に式家の復権を図り、良継や北家の藤原永手等と共に、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱以後、政界で後退していた藤原氏勢力を挽回させました。

そして、宇佐八幡宮神託事件で、称徳天皇(孝謙天皇)や弓削道鏡の怒りを買って和気清麻呂が流刑となると、百川は秘かに清麻呂に仕送りを続けて援助しました。戦前忠臣と讃えられた和気清麻呂の行動の背後には、道鏡失脚を狙う永手や百川等の藤原氏の存在があったと考えられています。そして、称徳天皇(孝謙天皇)が崩御すると、百川らは、直ちに弓削道鏡を失脚させ、光仁・桓武朝の成立に深く関わりました

『日本紀略』が引用する『藤原百川伝』によれば、称徳天皇(孝謙天皇)崩御後の皇嗣継承問題では、天智系の白壁王(後の光仁天皇)の擁立を狙う左大臣長手、百川、良継らは、天武系の候補を推す反対派の右大臣吉備真備を出し抜いて偽の遺言の宣命を作って白壁王を擁立することに成功し、これには、さすがの吉備真備もまったく手が出なかったと伝えます。ただ、『続日本紀』は、光仁天皇の擁立は、藤原永手や吉備真備、藤原良継達が協力して策を練ったものであると記し、また百川の名前はこの擁立メンバーに出てこないので、『百川伝』の記載は、次代の桓武天皇擁立の際の活躍を混同させているという説が有力のようです。

さて、宝亀元年(770)光仁天皇が即位すると、百川は、正四位下に叙せられ、翌宝亀二年(771)ニ月に実力者の左大臣藤原永手が亡くなると、三月十三日、百川の兄・藤原良継が内臣に任ぜられ藤原氏一門の中心的存在となり、百川も大宰帥に任ぜられています。
その後、宝亀三年(772)、三月二日、光仁帝の皇后、井上内親王が天皇に対する呪詛罪に連座して皇后を廃され、さらに、五月二十七日には、皇太子の他戸親王(光仁天皇と井上内親王との子)も皇太子を廃されるという大事件が起こりました。そして、翌宝亀四年(773)正月二日、山部親王(後の桓武天皇)が立太子されることになりました・・これらの事件の真相は不明ですが、事件の背後には山部親王(後の桓武天皇)を支持する百川の暗躍があったと考えられています。
その後、百川は宝亀九年(778)二月二十三日、従三位式部卿兼中衛大将に任じられますが、翌十年(779)七月九日に四十八歳で亡くなりました。



『続日本紀』の百川の薨伝によると、「百川は幼少時より度量があって重要な地位を歴任し、勤勉で真面目に職務を務めた。光仁天皇は百川を厚く信任し、腹心として事を委ねられた。内外の重要な政務で百川が預かり知らないものはなかった。桓武天皇が皇太子の頃、特に心を寄せられ・・百川が亡くなった時は、殊の外悲しみ惜しまれた」と記し、桓武帝は、即位後の延暦二年(783)二月五日に、百川の生前の労を追思して右大臣を贈りました。

また、『続日本後紀』の百川の子、左大臣正二位藤原緒嗣の薨伝によると、延暦七年(788)春、桓武天皇は宮中で百川の子、緒嗣の元服の儀を行い、天皇自身の手で、加冠と百川旧蔵の剣の賜与が行われ、その場で正六位上内舎人に任じ、封戸一五〇戸を与える厚遇を与えました。
この時、桓武天皇は「汝の父百川の朕への祝辞の言葉を忘れたことが無い。思い出す度に涙が出る」と語ったということです。そして、桓武は百川の功に報いるため、年少にもかかわらず、緒嗣の階位を上げていきます。

また、延暦二十一年(802)六月には、桓武天皇は神泉苑に行幸して宴を催しましたが、この時、緒嗣は琴を弾き、その美しい音色に天皇は涙しました。そして、「緒嗣の父(百川)がいなければ、朕は帝位に就ける事も無かっただろう。緒嗣はまだ若いので(当時、緒嗣は二十九歳)、臣下達は怪しむかもしれないが、 朕は彼の父の功労を忘れたことがない。緒嗣を参議に任じて、緒嗣の父の恩に報いたい」と詔りました。
以上のように、桓武天皇が百川に対して生涯感謝の気持ちを持っていたことからも、百川が山部親王(桓武天皇)の立太子に至る事件の中心人物だったと考えられています。




さて、ようやく藤原旅子についてです。

『続日本紀』によると、藤原旅子は、父百川の死から三年後、延暦元年(782)に後宮に入りました。年は二十三歳前後だったようです。延暦二年(783)二月五日には、旅子の父、故式部卿藤原百川に右大臣が贈られます(同時に、それまで無位の藤原乙牟漏が正三位、藤原吉子が従三位を与えられています。また、同年四月に乙牟漏は立后されました。)

功臣百川の娘ということもあってか、帝の寵愛を受けたようで、延暦四年(785)十一月二十四日に、無位の身分から従三位へと階位を授けられ、翌延暦五年(786)正月十七日に夫人(ぶにん)に任じられました。また、この年、大伴皇子(後の淳和天皇)を産んでいます。(大伴皇子の誕生月日は不明です)その後、同年六月二十九日には、旅子の母、尚縫従三位・藤原諸姉(ふじわらのもろね)が亡くなっています。

しかし、延暦七年(788)五月四日、藤原旅子は三十歳で亡くなりました。
天皇は勅して、中納言正三位・中務卿兼任の藤原小黒麻呂、参議治部卿正四位下の壱志濃王らを遣わして、葬儀を監督護衛させました。また、中納言従三位で、兵部卿・皇后宮大夫兼任の石川名足、参議左大弁正四位下・春宮大夫と中将兼任の紀古佐美を邸宅に遣わして、天皇の詔を宣べさせ、妃の地位と正一位の位を贈りました。
また、『日本後紀』によると、二歳で母と死別した大伴皇子(後の淳和天皇)を哀れんだ桓武天皇は、従四位下大宰大弐・文室与伎の妻、従四位下・平田孫王を養母として育てさせたということです。



さて、弘仁十四年(823)四月二十七日、異母兄・嵯峨天皇の譲位を受けて淳和天皇が即位すると、五月一日、天皇は、「皇妣(母の藤原旅子)は寿命が短く夭逝した。朕は幼くして母の慈しみ深い世話を受けることが出来なかった。尊号を追贈して皇太后にしようと思う。」と詔りました。
さらに、同月六日には、「朕の外祖父の贈右大臣従二位・藤原百川と、外祖母の尚縫従三位・藤原諸姉に高位を与え、黄泉の国での生活に栄誉を与えたいと思う。外祖父は太政大臣正一位、外祖母は正一位をするように」と命じました。

また、天皇が射宮で兵士たちを観閲する五月五日節は、国の軍備のためにも重要な行事でしたが、母旅子の忌日の翌日に当たるため、淳和天皇は悩んでいました。
天長元年三月八日、天皇は「朕は天助を得ず、幼い時に母を失い、その教導を受けることが出来ず、慈しみを被っていない。年月が経ち、消息を通じたくても不可能である。天皇位に当る北極星を見ては心が挫け、白雲に亡き母を想って悲しみに倒れ伏す思いである。親の弔いに関する礼は定められているが、母を偲ぶ気持ちが胸中から消えることはない。五月四日は贈皇太后(旅子)の忌日である。どうして、忌日の翌日に五月五日節を実施できようか。」と詔りました・・
ただ、軍事は国の大事なので、従来どおり実施したいとし、その実施日について公卿らで審議するようにと命じています(その結果、九月九日の重陽の節に行うことに決まりました)

その後も、旅子の忌日は、国忌(当時、先帝や母后の忌日には天皇は政務を行わず斎会を行いました)として扱われていましたが、『文徳実録』によると、天安二年(858)三月十三日、公卿達が上奏して、五月四日の贈皇太后國忌は、贈皇太后(旅子)と天皇(文徳天皇)の親等とが離れて疎遠である理由で、国忌から除くように進言し、以後、除かれました。



さて、旅子の御陵、宇波多陵についてです。「宇波多」という地域名は現在ありませんが、元々は現在の大枝地域の古名といわれます。(丹波との国境大枝山山麓一帯が大枝郷と呼ばれたように、「大枝」も古名で、より正しくは、現在の大枝地域の東部で、以下に記すように、江戸時代には、樫原と大原野の間の地域と考えられていました)
そして、明治時代以降に各地の皇族の陵墓治定が行われた際、「宇波多」が地域名で無くなっていたことから、一時、この御陵は、高野新笠の大枝陵に対して、後大枝陵とも呼ばれていたということですが、その後、『延喜式』にも記載されている古称に戻されたようです。

『延喜式』の諸陵寮によると、「宇波多陵 贈皇太后藤原氏。在山城国乙訓郡。兆域東西四町。南一町。北三町。守戸五烟」とあり、東西四百メートル、南百メートル、北三百メートルの大きなものだったようです。
正徳元年(1711)の『山州名跡志』は、宇波多陵について記載し、「宇波多(愬搬燭筏す)」という地域は、堅木原(樫原)と大原野の間にあるとし、「愬搬拭廚正しく「宇波多」は誤って伝えられたものと記しています。また、幕末の安政元年(1854)の『聖蹟図志』は、同じく、「愬搬仁諭廚箸靴董堅木原(樫原)と大原野の間、小畠川の東一町にある楢林のある小丘として描いています。
現在の宇波多陵は、標高百十〜百二十メートルの丘陵にあり、竹林に囲まれた御陵の円墳の直ぐ傍には、塚原古墳群と呼ばれる古墳時代後期の円墳二基が点在していて、この御陵も古墳郡の一つなのかもしれません。



(尚、旅子に関しては、あくまで伝説ですが、滋賀県大津市伊香立途中町にある還来神社が旅子ゆかりの神社と伝えられています。社伝によると、現在の神社の鎮座地はかつての藤原百川の領地で、この栗原の地で生まれた旅子が、「生まれ故郷の比良山南麓の椰の木の根元に埋葬して欲しい」と遺言し、その通りに誕生地に埋葬されたところから、旅子を祭神として神社が創建されたとしています。)

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桓武天皇の皇后ですか。傑作

2010/5/1(土) 午後 5:55 あるく

正確には、旅子は生前は「夫人」で、まあ皇后に次ぐ立場の側室のようなもので、皇后は藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)ですね。
死後に、子供が天皇になったので、皇太后位を与えられました。
そして、墓も、御陵扱いになりました。

2010/5/1(土) 午後 7:43 [ hir**i1600 ]

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初めまして。
とても興味深く拝読しました。
時々お邪魔させて下さいね。

2010/5/2(日) 午前 1:22 見習いぽっぽ

ご訪問ありがとうございます。あまり有名な史跡は登場しませんが、どうぞ、よろしくお願いします。

2010/5/2(日) 午前 8:36 [ hir**i1600 ]

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こんばんは 大変お詳しく、勉強になりました とても美しい御陵ですね 環境の良いこと、素晴らしいです 撮影がお上手なので良く伝わります 旅子さまの入内、23才って、当時にしたらかなり遅いほうだと思います わりと若死にの系統なんですね、お気の毒な事です 淳和天皇の、遠慮深い性格は、きっと聡明な方で、小さい時から母無くして色々神経を使っていたせいもあるんじゃないかなと思います 伝わっている範囲でも、ワガママな天皇さんが多い中で、帝王に似合わない繊細さですものね でも素晴らしいと思いますよ、帝王にして思慮深いそういう御気性 楽しみに又拝見させていただきます

2019/3/6(水) 午前 2:45 [ きゃてい ]

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続投すみません そういえば、井上内親王さま、あの方は呪詛などなさってないと思います だって必要が無いもの 夫君が寿命迎えるのを普通に待てばいいだけだし 母の身分が全ての時代に、息子の世が来るのはまず確定なのに、焦る必要がありますか 焦っているのは藤原氏の方だと思うんです その昔、皇子を幼くして無くして女児しかいない光明子を皇后にゴリ押しした時から、藤原氏の強引なやり方は、当時周囲にいたら見るに堪えなかったでしょうね 内親王さまはダントツで高貴だから、狙い撃ちされただけだと思います 上御霊神社の祭神の御一柱でいらっしゃいますが、そもそも後ろめたいことがあるから祀るんですよ 桓武天皇は我欲の塊みたいで個人的にあまり好きでないのですが(そういう方は多いですが)、お妃さま方に免じてまあ、いいです 上御霊神社にお参りするたび、何だか割り切れない思いが残ります、お気の毒だなと思います 旅子さまは、若くして嬰児を残して亡くなる母としての無念は察して余りありますが、医療の拙い当時には珍しくない話でもあり、結果的に、お子様が天子の君になられて良かったですね そう思います

2019/3/6(水) 午前 2:54 [ きゃてい ]


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