京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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今回は、「五山送り火の船形や六斎念仏で知られるお寺」としましたが、太田垣連月や北大路魯山人の墓のある寺としても知られる西方寺(さいほうじ)です。
西方寺は船山の東南、西賀茂地区の最南端に位置し(正伝寺の南東、神荒院の西 市バス「神光院前」から直ぐ)、境内の建物も比較的新しいため、明るい印象のある寺院です。


大船院西方寺(たいせんいんさいほうじ)は、山号を来迎山(らいごうざん)という浄土宗寺院です。
寺伝によると、平安時代の承和年間(834〜48)に、慈覚大師円仁(じかくだいし えんにん)によってされたと伝えられ、元々は天台宗山門派に属していましたが、鎌倉時代の正和年間(1312〜16)に道空(どうくう)上人が中興して、この時に浄土宗に改められました。また、道空(どうくう)上人は、彼岸や盆に鉦と太鼓を打って、節を付けて唱える六斎念仏の創始者ともいわれ、以後、西方寺は六斎念仏の寺として知られるようになりました。(尚、以下に記すように、六斎念仏は空也上人が起源ともいわれていますが、実際は不明です)


さて、毎年八月十六日に行われる京都の夏の風物詩、「五山の送り火」では、東山の「大文字送り火」、松ケ崎の「妙・法送り火」、西賀茂の「船形万燈籠送り火」、衣笠の「左大文字送り火」、嵯峨の「鳥居形松明」の五ヶ所六つの送り火行事が行われますが、「鳥居形」を除けば、各山の麓にある寺院の宗教行事が大きく関わっています。

○「大文字」は、銀閣寺の隣にある浄土宗寺院の浄土院(大文字寺)が関係しています。
「大文字」送り火の起源が弘法大師空海によるという伝承もあることから、元々天台宗寺院だった浄土院(大文字寺)は、弘法大師像を送り火の本尊として祀っています。門前で護摩木の受け付けを行い、大文字の点火の際は、大の字の中心部の火床「金尾(かなわ)」の傍にある「弘法大師堂」の中で、住職が灯明を灯し読経が行われます。

○「妙法」は、日蓮宗寺院、涌泉寺(ゆうせんじ)が深く関係しています。
「妙法」は、「南無妙法蓮華経」という日蓮宗の題目に由来しているように、日蓮宗との関わりの深い送り火で、「妙」のある西山で、点火の際に涌泉寺の住職が読経を行い、さらに送り火の後に涌泉寺境内で京都市の無形民俗文化財に指定されている「題目踊り」と「さし踊り」が行われます。
特に「題目踊」は、日本最古の盆踊りとも呼ばれ、その起源には以下の伝承があります・・鎌倉時代末期に日蓮上人の孫弟子・日像上人が松ヶ崎村で布教を行い、この地にあった天台宗寺院・歓喜寺住職の実眼和尚も法華宗に改宗します。そして、徳治二年(1307)、全村民が日蓮宗に帰依したことを喜んだ実眼が、歓喜のあまり太鼓を打ちながら法華題目を唱え、村人も次々と「南無妙法蓮華経」と唱えながら踊ったというのが「題目踊」の始まりと伝えられます。

○「左大文字」は、 浄土宗西山派寺院、法音寺が関係しています。
「左大文字」は、他の送り火より遅く江戸時代初期頃に始まりましたが、法音寺は、左大文字の発祥地、旧大北山村の菩提寺でもあったため、寺院を中心とした旧大北山村の人々が代々行事を受け継いできました。送り火の当日の朝、本堂で施餓鬼会(せがきえ)が行われ、灯明の火によって親火台へ点火されます。また、夕方、住職の読経があり大松明に火が移されます。他の送り火と違うのは、寺から大北山(大文字山)まで松明行列が行われることです。そして、送り火の後、法音寺本堂で「大文字御詠歌」奉納が行われます。

○愛宕神社との関わりを起源とするという説もある「鳥居形」は、特定寺院との関わりは無いですが、化野念仏寺の駐車場で護摩木の受け付けを行い、当日夜には、地元住民でつくる嵯峨仏徒連盟が「嵐山灯ろう流し」を行います。地元の女性がご詠歌を唱え、僧侶の読経と拍子木を合図に、先祖の戒名などを記した灯篭を桂川に流します。



さて、「船形」は、船山東山麓にある、今回の西方寺(さいほうじ)が行事を行います。
この送り火は、正式には「船形万燈籠送り火(ふながたまんとうろうおくりび)」と呼ばれ、西方寺開山の慈覚大師円仁が、承和六年(839)、唐からの帰路に暴風雨に遭い、南無阿弥陀仏と名号を唱えたところ無事帰還できたという逸話に由来すると伝えられています。
西方寺では寺で護摩木の受け付けを行い、船山で万燈籠が点火されます。また、送り火の後は、境内のかがり火を囲んで西方寺六斎念仏保存会による六斎念仏(昭和五十八年(1983)国の重要無形民俗文化財に指定)が行われます。
当寺の六斎念仏は、鉦や太鼓を使って念仏を唱える極めて古風なもので、六斎念仏の古態を今に伝えるものとして知られています。



少し、六斎念仏について書いておきます・・
過去にも何度か書きましたが、この六斎念仏というのは、鉦や太鼓を鳴らし念仏を唱えながら踊る民俗芸能です。
今も京都各地の寺院及び保存団体によって伝承され、国の重要無形民俗文化財に指定されています。六斎念仏がいつ頃から始まったのかは不明ですが、平安時代に空也上人が、仏教の忌日である六斎日(八、十四、十五、二十三、二十九、三十日の六日)に、京都の市中で、念仏を唱え鉦や太鼓を叩いて「踊躍念仏(ゆうやくねんぶつ)」を広めたことが起源ともいわれ、現在は六斎日とは関係なく、京都各地でお盆をはじめとする行事の際に行われています。

尚、六斎念仏は、江戸時代になると念仏踊を中心とする従来の「念仏六斎系」の他に、浄瑠璃や歌舞伎等の要素を取り入れより風流娯楽化した「芸能六斎系」が登場して、今日までこの二系統に分れて伝承されています。また、六斎念仏には、空也堂の傘下の「空也堂系」と、光福寺傘下の「干菜寺系(光福寺)」の二つがあり、各六斎念仏団体はどちらかの寺院から免許を与えられその傘下に入っていました。
また、明治以前は「干菜寺系(光福寺)」が盛んでしたが、現在は「干菜寺系(光福寺)」は西方寺の六斎念仏が残るのみで、今回の嵯峨野六斎念仏をはじめその他の六斎念仏は全て「空也堂系」で、嵯峨野六斎念仏は、能や長唄・歌舞伎の要素を採り入れて、独自に発展した芸能的六斎になります。


他の主な六斎念仏として

○中堂寺六斎念仏(8月9、16日壬生寺)
○千本六斎念仏(8月15日千本ゑんま堂(引接寺)
○西方寺六斎念仏(8月16日西方寺)
○円覚寺六歳念仏(8月16日円覚寺)
○小山郷六斎念仏(8月18日上御霊神社・8月22日上善寺)
○上鳥羽六斎念仏(8月22日鳥羽地蔵(浄禅寺))
○桂六斎念仏(8月22日、23日桂地蔵(地蔵寺))
○嵯峨野六斎念仏(8月23日阿弥陀寺・9月2日松尾大社)
○梅津六斎念仏(8月25日梅宮大社)
○吉祥院六斎念仏(8月25日吉祥院天満宮)
○久世六斎念仏(8月31日蔵王堂光福寺)
等があります。





さて、西方寺の境内には、皇室制度や神道史の研究家として知られるイギリス人リチャード・ポンソンビー教授の「本尊美君碑」や幕末の歌人・太田垣蓮月尼(おおたがきれんげつに)の記念碑等が建てられています。また、寺の西側にある小谷墓地には、太田垣蓮月尼や上賀茂神社の祠官賀茂季鷹(かものすえたか) 、また著名な料理人で陶芸家でもある、北大路魯山人(きたおおじろさんじん)の墓があります。


太田垣蓮月(おおたがきれんげつ 1791〜1875)は、寛政三年(1791)一月八日に、伊賀国上野の城代家老・藤堂良聖の子として京都に生まれました。名を誠といい、生後直ぐに知恩院門跡に仕える大田垣光古(当時は山崎常右衛門)の養女となります。(養父光古は実子を相次いで亡くし、養子をとることで知恩院譜代の家柄を維持していました。)その後、生母が丹波亀山藩藩士の妻となった関係で、丹波亀山城で御殿奉公を勤めました。

誠(蓮月)は十六歳頃に、養父大田垣光古の養子の望古と結婚し、二人の間には、長男、長女、次女が生まれましたが、いずれも夭折します。文化十二年(1815)二十五歳の時、夫の望古とも死別しました。その四年後の文政二年(1819)、誠は、新たに大田垣家の養子となった古肥と再婚し、二人の間には一女が生まれますが、文政六年(1823)には古肥とも死別しました。
三十三歳で夫と二度も死別し、三人の子供を亡くした誠は、養父光古と共に剃髪し、蓮月と号しました。その後、蓮月は、養父西心(光古)と共に知恩院山内の真葛庵に移りましたが、二年後に唯一残っていた女児(古肥との間の子)、さらに二年後に養父西心が亡くなったため、知恩院を去って岡崎村に移りました。

その後は、煩わしさを逃れ生涯三十数回住まいを替え「引越しの蓮月」と異名されるほど住居を転々としました(幕末に勤皇の志士を匿ったためと言われます)
また、戊辰戦争の際に、三条大橋を通りかかった官軍の西郷隆盛に歌を渡したというエピソードでも知られます・・「あだみかたかつもまくるも哀れなり 同じ御国の人と思へば」・・同じ日本人同士が戦うことの悲劇を詠ったこの歌が、江戸城の無血開城に影響を与えたとも伝えられています。

晩年は西方寺に近い神光院(ブログ掲載)境内に隠棲し、歌や書、茶道に親しみ、また陶芸の才も発揮し、「蓮月焼」は、京都の土産物として人気を博します。また、この頃は、当時二十二歳の孫のような富岡鉄斎に作陶の仕事を手伝ってもらいながら共同生活を送り、飢饉救済の募金活動や、丸太町に橋を架けるなどボランティアにも努めました。
明治八年(1875)、八十五歳で亡くなりましたが、遺言で「ただ無用の者が消えゆくのみ、他を煩わすな、富岡だけに知らせてほしい」と頼んだということです。
(尚、神光院にある茶室「蓮月庵」は、太田垣蓮月の隠棲していた場所として知られ、境内には住居跡を示す「蓮月尼旧栖茶所」という石標と蓮月の歌碑が建っています。)

蓮月尼の墓は、小谷墓地の南側地域にあり、石標の案内板に従って進むと、墓地の入口からあまり遠くない木の根元に丸い五十センチ程の墓があります。




賀茂季鷹(かものすえたか 1754〜1841)は、江戸時代末期の上賀茂神社の祠官で、宝暦四年(1754)頃、京都の上賀茂神社の神職の家に生まれました。少年時代から、有栖川宮家に諸大夫として仕えて和歌を学び、その後、江戸で江戸派の歌人と親交しました。京都に戻った後は、賀茂社の祠官を勤めながら多くの文人と交遊し、天保十二年(1841)十月九日に八十八歳で亡くなりました。幅広い人脈を持って多くの門人を育て、古典学者としても才能を発揮しました。
西方寺にはたいへん多くの多くの賀茂氏一族の墓があり、季鷹の墓としては特定できませんでしたが、賀茂氏の墓の一部を掲載しておきます。



長くなりましたので、有名な北大路魯山人に関しては、その墓についてのみ書いておきます・・

北大路魯山人(きたおおじろさんじん 1883〜1959)は美術家、料理家等多彩な才能を発揮し、傲慢で辛辣な性格に関しては非難も多いとはいえ、その才能は、今も多くの美術や料理関係者から尊敬されています。京都の料理関係者等、西方寺の墓に詣でる人も多いようですが、かなり広い墓地でもあるため、場所を知らないと探すのに苦労します。また、魯山人とは関係のない北大路家の墓も墓地内に点在しているので要注意です。

魯山人の墓は、小谷墓地の北側地域の最も北西奥にあり、なだらかな坂を上った高台の北端近くにあります。墓地全体の北西を目指して行けば、比較的簡単に見つかるでしょう。
尚、現在ネット上で見られる墓の写真は、かつての古い墓の写真ですが、近年新しい墓に整備されましたので、参拝される方は、掲載した写真を参照してください。

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知らなかったです。一度行ってみます。
有難う御座いました。

2010/6/1(火) 午後 10:58 KEN-kyoto

先日、上賀茂神社の東にある大田神社を再訪問しましたが、鳥居の傍に魯山人の誕生地を示す石標があります。
その掲示板には、墓は西賀茂の小谷墓地にあると書かれているのですが、興味深げに眺めている人達も、小谷墓地ってどこかな?という感じでした。魯山人には関心があっても、西方寺の小谷墓地にあるそのの墓の場所を知らない方は多いようです。

2010/6/12(土) 午前 11:59 [ hir**i1600 ]

御免なさい。少し、気が付くのが遅かったかも知れない。
Wikiでは書けない踏み込んだ内容と、羅列制の良いところが出ています。
ポチして帰ります。
参考にします。

今年も、五山送り火が近づきました。
ライブカメラはどうなるのでしょうか?
ホテル藤田は名前も変わりましたが・・・今年は、大文字はどうするのででしょう。
雨が降らないように祈ります。

2011/8/11(木) 午後 11:28 みぃにゃん

セシウム騒ぎで違った意味で話題となった今年の送り火ですが、無事に終了して良かったです。

2011/8/17(水) 午後 2:26 [ hir**i1600 ]

そうですね。
お互いに、善意を汲み取りたいものですね。

2011/8/19(金) 午前 5:38 みぃにゃん

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5月に奈良に行く予定がありまして、夜行バスで京都駅で待ち合わせする予定です。 待ち時間を利用して魯山人の墓参りをしたいと思っています。 お聞きしたいのですがコメントの『現在ネット上で見られる墓の写真は、かつての古い墓の写真ですが』に関して、この写真を探しているのですが現在はネットでは見つけることが出来ません。墓碑は娘さんが幼少の頃書いた字を刻んだらしいのですが、現在の墓と違いは有りますでしょうか?

2016/3/18(金) 午後 1:01 [ hkt*ki*0*4 ]

ご訪問ありがとうございます。このブログを書いたのは、10年近い前のことですので、古い情報もあるかと思いますので、よろしくお願いします。10年前当時は、かなり磨耗した魯山人の旧墓石の写真がネットに出回っていたのですが、現在は、ブログに掲載した現在のものに代わっているのかと思います。今の墓は敷地もきれいに整備され見つけやすいかと思いますので、他の方の写真も参考に、またお寺にお尋ねになるなどして参拝ください。

2016/3/18(金) 午後 2:34 [ hir**i1600 ]

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返信有難うございました。
家に1983年春発行の別冊太陽の北大路魯山人特集号がありました。これに墓の写真が載ってあります。 墓碑銘が変わってるかとよく見ましたが現在の墓と全く同一と判断します。 周りの石碑等は更新されたようですが肝心の棹部は全く変わりないので安心しました。

2016/3/18(金) 午後 7:07 [ hkt*ki*0*4 ]


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