京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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今回は、奈良時代の第四十九代・光仁天皇の夫人・贈皇太后、高野新笠(たかののにいがさ=諡は「天高知日之子姫尊(あまたかしらすひのひめのみこと)」の御陵「大枝(おおえのみささぎ)」です。(西京区大枝沓掛町)

高野新笠は桓武天皇の生母として知られ、百済系氏族の末裔とされます。平成三年(2001)に、天皇陛下が、翌年のサッカーワールドカップ共催に際しての記者会見で、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と発言され、韓国や日本で話題になったことは記憶に新しいです。


さて、前に大枝神社(西京区大枝沓掛町)を採り上げた時に書きましたが、大枝陵がある西京区「大枝(おおえ)」という地名は、古くは山城国乙訓郡大枝郷と呼ばれ、古代氏族・土師(はじ)氏の流れを汲む大枝(大江)氏に関係する地名と考えられています。
土師(はじ)氏は、古代神話の神・天穂日命(あめのほひのみこと)の後裔である野見宿禰(のみのすくね)を始祖とするとも、また、渡来系氏族という説もある古代氏族で、高野新笠の母方の家系も土師氏の一派、毛受(もず)の系統に属していたと『続日本紀』は記します。この一族は大枝郷を本拠としていて、新笠の母・大枝朝臣真妹(おおえだのあそみまいも 土師宿禰真妹(はじのすくねまいも))もこの地の出身で、幼少期の桓武天皇も、大枝の母の里で育てられたと考えられています。



『続日本紀』によると、高野朝臣新笠(?〜789 たかののあそみ(あそん)にいがさ)の生年は不明ですが、性を和(倭 やまと)氏といい、当初は、和新笠(やまとのにいがさ 和史新笠=やまとのふひとにいがさ)といいました。父は和乙継(やまとのおとつぐ 後に贈正一位・高野朝臣乙継(たかのあそみおとつぐ))、母は土師宿禰真妹(はじのすくねまいも 後に贈正一位・大枝朝臣真妹(おおえだのあそみまいも))と伝わります。『続日本紀』によると、和(倭)氏は百済系渡来氏族で、先祖は百済の武寧王(在位501〜523)の子の純陀(じゅんだ)太子に至るとします。


その後、新笠は、当時日陰の身だった天智系の白壁王(天智天皇の皇子・施基親王の第六子、後の光仁天皇)の側室となりました。新笠は王の寵愛を受けたようで、天平五年(733)に能登内親王を、天平九年(737)に山部王(後の桓武天皇)を出産しています。また、この年(天平九年)の八月二十八日、白壁王は二十九歳になって、ようやく無位から従四位下に叙せられているようにかなり遅い出世でした。尚、王と子供達の年齢から、新笠は白壁王より十歳程年下だったと推測されます。

さて、天平十六年(744)、伊勢神宮の斎王として伊勢に下向していた聖武天皇の皇女・井上内親王が、斎王を退下して都に戻り、白壁王の妃となりました。(井上内親王に比べると、新笠は妃になるには低い身分でした。ただ、天平勝宝二年(750)頃、新笠が早良王(後に親王)を産んでいることからも、その後も寵愛を受けていたと推測されます)
そして、井上内親王を通じて天武系との関係が深まると、白壁王の地位も次第に上昇します。天平宝字五年(761)に井上内親王との間に、他戸王(後に親王)が誕生し(天平勝宝三年(751)誕生説もあり)、天平宝字八年(764)九月十二日には、正三位、天平神護元年正月には、藤原仲麻呂の乱平定の功績から勲二等を受け、翌天平神護二年(766)正月八日には、大納言に昇進しています。ただ、この頃の白壁王は、相次ぐ政変で皇位継承者候補が失脚する中、用心して酒を飲んでは凡庸を装い、度々難を逃れたと伝えられます。


さて、神護景雲四年(770)八月四日、称徳天皇が崩御します。当時、天武系の男性皇族は、聖武天皇の外孫の白壁王の子の他戸王しか残っていませんでした。そこで、左大臣・藤原永手等大臣達が協議した結果、称徳天皇の遺言の宣命に基づいて、諸王の中で年齢が高く(六十二歳という当時としては大変な高齢)これまでの功績を評価して、白壁王が立太子されました。こうして、宝亀元年(770 即位により神護景雲から改元)十月一日に白壁王(光仁天皇)は即位します。

その後、光仁天皇は、宝亀元年(770)十一月六日に、妃の井上内親王を皇后に定め、翌二年(771)正月二十三日に、他戸親王を皇太子と定めました。
ところが、 宝亀三年(772)三月二日、皇后・井上内親王が、光仁天皇の姉・難波内親王を呪詛した罪に連座して皇后位を廃されるという事件が起こります。この事件の詳細は不明ですが、五月二十七日には、他戸親王も皇太子を廃されて庶人とされました。この時、光仁天皇は、井上内親王が呪詛により大逆を行うのは度々のことであるとし、謀反人の子を皇太子に定めておくことは出来ないと詔しています。そして、翌宝亀四年(773)正月二日に、新笠との間に生まれた山部親王(後の桓武天皇)を皇太子に定めました。

井上内親王と他戸親王の失脚の背景には、山部親王の擁立を図る藤原式家の内臣藤原良継(山部親王の妃・藤原乙牟漏の父)や参議藤原百川らの陰謀があったという説が有力です。
その後、同年十月十九日、井上内親王は、同月十四日に病死した光仁天皇姉・難波内親王を再び呪詛した罪により、廃太子他戸王とともに大和国宇智郡の邸宅に幽閉されました。そして、宝亀六年(775)四月二十七日に二人は幽閉先で亡くなりましたが、自殺や殺害の可能性が高いと考えられます。



さて、『続日本紀』によると、宝亀年中に、新笠は性を「高野朝臣」と改めていますが、これは、当時、称徳天皇が「高野天皇」とも呼ばれていたことから(尚、高野天皇という名称は、称徳が崩御後に埋葬された高野山陵に由来する、または生前の天皇の山荘のあった地名による説などあります)、新笠の氏性を高野天皇(天武系)と関係が強いように改称し、新笠や山部親王(後の桓武天皇)の地位向上を図ったとも推測されます。そして、宝亀九年(778)正月二十九日、従四位下・高野朝臣新笠が、従三位を授けられていますが、正式に天皇の夫人(ぶにん)とされたと思われます。その後、天応元年(781)二月十七日、新笠の娘、三品能登内親王が四十九歳で亡くなりましたが、光仁天皇は娘の死を悲しみ、そのためか重い病気となり、同年四月三日、皇太子山部親王に譲位しました。(光仁は十二月二十三日に七十三歳で崩御)

こうして、即位した桓武天皇は、即位の翌日(四月四日)皇弟早良親王を皇太子に選び、四月十五日には、母の高野夫人(高野朝臣新笠)を皇太夫人と称するように詔し、同二十七日、皇太夫人・従三位の高野朝臣新笠を正三位に加叙しました。その後、延暦三年(784)十一月十一日に桓武天皇は平城宮から造営なった長岡宮に移り、同十七日、桓武天皇は使者を遣わして中宮(新笠)と皇后(藤原乙牟漏)を長岡宮に迎え入れるべく手配し、二十四日に二人は長岡京に到着しています。
その後、延暦四年(785)九月二十三日に、中納言藤原種継の暗殺事件が起こり、事件に関係して十月八日に早良親王が皇太子を廃され乙訓寺(現長岡京市)に幽閉され、十日余り後、淡路に配流の途中で憤死しています。


さて、延暦八年(789)十二月二十三日、中宮高野新笠が病気となり、医療に努めても十数日経過しても回復せず、桓武天皇は病気回復のため、畿内と七道諸国の諸寺に七日間の大般若経の読誦を命じました。しかし、新笠は二十八日に崩御しました。年齢は七十歳近いと推測されます。また、『続日本紀』は、新笠は徳が優れ、容姿上品で麗しく、若い頃から評判が高かったと記します。

桓武天皇は、中宮新笠の葬儀のため、翌二十九日、従二位藤原継縄以下従五位以上の十四名の貴族と、六位以下の官人九人を葬儀の御葬司に任じました。また、正三位藤原小黒麻呂以下従五位以上の九人の貴族と六位以下の官人十四人を山作司(山陵を造る司)に任じ、他に、養民司(養役夫司 葬儀のために人夫に衣食を提供する司)に貴族二名、官人八人、貴族二名、官人三人を作路司に任じました。

さらに、左右京、畿内五ヶ国、近江、丹波等からそれぞれ労役の人夫を徴発し、百官と畿内の官人は三十日を服喪期間とし、その他の官人は三日とし、夫々の管轄の人民に哀悼の意を表させました。そして、四十九日の音斎会は来年の二月十六日にあたることから、諸国の国分寺、国分尼寺の僧侶尼僧に中宮のために読経させ、七日ごとに使者を諸寺に派遣し、僧侶らに経を読ませ中宮の冥福を念じさせるように命じました。

翌延暦九年(790)正月十四日、中納言・正三位の藤原小黒麻呂が誄人(しのびごとひと)を率いて、亡き皇太后のために誄を奉り「は「天高知日之子姫尊(あまたかしらすひのひめのみこと)」と諡しました・・百済の遠祖・都慕(つも)王が、河伯の娘が太陽の精に感応して生まれたという伝承があり、皇太后はその末裔であることから、この名が奉られたのでした。また、崩御により皇太后の尊称を追称されました。

そして、正月十五日、皇太后を大枝山陵(円墳)に埋葬しました。
『延喜式』の「諸陵寮」によれば、「大枝陵 太皇大后高野氏。在山城国乙訓郡。兆域東一町一段。西九段。南二町。北三町。守戸五烟」とあり、大体百〜三百メートル四方の面積があったようです。また、大同元年(806)五月十九日、平城天皇の即位により、太皇太后を追贈されています。



さて、その後の大枝陵についてです・・『日本三代実録』によると、天安二年(858)十二月九日、清和天皇は、毎年十二月に御陵の霊を祀るために荷前使を派遣する十陵四墓を定めました。当時の天皇や朝廷が最も重要視していた陵墓ということになりますが、この中に、大枝陵も選ばれています。

この時に選ばれたのは、
○天智天皇山階山陵(在山城國宇治郡)
○春日宮御宇天皇(光仁天皇父-施基皇子)田原山陵(在大和國添上郡)
○光仁天皇(天宗高紹天皇)後田原山陵(在大和國添上郡)
○光仁天皇.贈太皇大后-高野氏(桓武天皇母-高野新笠)大枝山陵(在山城國乙訓郡)
○桓武天皇柏原山陵(在山城國紀伊郡)
○贈太皇大后-藤原氏(平城・嵯峨天皇母-藤原乙牟漏)長岡山陵(在山城國乙訓郡)
○崇道天皇(早良親王)八嶋山陵(在大和國添上郡)
○平城天皇楊梅山陵(在大和國添上郡)
○仁明天皇深草山陵(在山城國紀伊郡)
○文天皇田邑山陵(在山城國葛野郡)
○贈太政大臣正一位・藤原鎌足多武峰墓(在大和國十市郡)
○後贈太政大臣正一位・藤原冬嗣宇治墓(在山城國宇治郡)
○尚侍贈正一位・藤原美都子(冬嗣妻・良房母)次宇治墓(在山城國宇治郡)
○贈正一位・源潔姫(嵯峨天皇皇女・藤原良房妻)愛宕墓(在山城國愛宕郡)
でした。

しかし、その後、貞観十四年(872)十二月十三日、公卿らの進言により、贈太皇大后-高野氏(桓武天皇母-高野新笠)大枝山陵を十陵四墓から除外し、代わりに、太皇大后・藤原氏後山階山陵(藤原明子は藤原良房の娘。文徳天皇女御・清和天皇母)を追加。また、十月に亡くなった藤原良房の愛宕墓を加え十陵五墓と改めています。大枝陵が除外されたのは、清和帝の身近な親族・藤原良房と明子の陵墓を加わえるために経済的理由等で一部の陵墓を除外する必要となり、清和帝との関係が疎いことと、『延喜式』でも「遠陵」と記される地理的な遠さからでしょう。



最後に現在の大枝陵ですが、「桓武天皇御母・高野新笠陵」の石標の脇から山に入ると、急なつづら折の参道が山上へと続いています。参道の雰囲気と違い山上の御陵は、どこか女性的で森に囲まれて佇んでいます。尚、長岡京時代に亡くなった高野新笠、桓武の皇后藤原乙牟漏、夫人藤原旅子の御陵は、すべて長岡京を基準にして北の丘陵地に造られていますので、合わせて訪問されても良いかもしれません(他の二つの御陵はブログパート1、パート2掲載)

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京都の繁華街、四条河原町から八坂神社に向かって東へ向かうと、最初に出会うお寺が、通称「目疾(めやみ)地蔵」こと仲源寺(ちゅうげんじ)です。
狭い境内の小さなお寺ですが、通行途中で参拝に寄る人も多く、有名な観光名所の少ない四条界隈に位置していることもあって、観光ガイドに掲載されることが多い寺院です。(人通りが多い四条通に面しているため写真を撮るのが難しく、これまでブログ掲載を敬遠してきました)


仲源寺(ちゅうげんじ 京都市東山区四条通大和大路東入ル祇園町南側)は、山号を寿福山という浄土宗寺院で、本尊の丈六の地蔵菩薩坐像は、目疾(めやみ)地蔵と呼ばれ、眼病に霊験があるとして広く信仰されています。また、収蔵庫に祀られている千手観音菩薩立像は、平安時代の作で国重要文化財に指定されています。また、この観音像は洛陽三十三所観音霊場の第十六番札所にもなっています。


仲源寺の創建には諸説あるようですが、平安時代中期の治安二年(1022)に、仏師として有名な定朝(じょうちょう)が、四条大橋の北東に建てた一堂に自作の木造地蔵菩薩像を祀ったのが始まりとも、土中に埋まっていた地蔵菩薩が掘り出されて、同じく橋の北東の地に安置されたのが始まりとも伝えられます。
(また、元治元年(1864)刊の『花洛名勝図会』は、仲源寺についての記載が多いのですが、この寺は、大和大路四条の東南角にあり、中間寺或いは仲源寺と記し、開基は不明だが、中国からの渡来系の塩瀬浄因という人物が大壇越として建立したとも言われていると記します)しかし、間もなく、この地蔵堂は荒廃し、地蔵菩薩像が鴨川の河原付近に人知れず残されていたようです。

その後、鎌倉時代の後堀河天皇の時代、安貞二年(1228)秋八月、台風の影響で鴨川が洪水となったため、朝廷から洪水対策を担当する防鴨河使(ぼうかし)に任じられた勢多判官・中原為兼(せたのはんがん・なかはらためかね)が、四条河原に祀られていたこの地蔵尊を知って、止雨を祈願したところ、雨が止み洪水も治まったと伝えられます。
そこで、荒廃していた地蔵堂は、中原為兼の名字に人と水を添えて、「仲源寺」と称した寺院として再興され、霊験あらたかな「雨止(あめやみ)地蔵菩薩」として後堀河天皇の勅願寺となったとされます。(『花洛名勝図会』は、この時、中原為兼は、地蔵菩薩の化身の異僧に会い、洪水は人力を持って防ぐのは難しく、この川上北に弁財天を勧請し、また川の南に古代中国の夏国の禹(う)王(恐らく、黄河の治水に成功した聖君という伝承があることからでしょう。)の廟を祀って祭祀を行うようにと指示し、為兼が両社を祀ると、水はたちまち引いて洪水が治まったといわれ、その後、両社は荒廃したという説を記しています。)

また、「雨止み」という名前の由来として、近くの祇園社(現八坂神社)の参詣者等がにわか雨に遭った際、当時は近くに家々も無く田畑の中に仲源寺だけが建っていたことから、寺で雨宿りをして雨の止むのを待つことが多く、いつしか「雨止地蔵」と呼ばれるようになったとも伝えられます。
その後、仲源寺は、豊臣秀吉の時代の天正十三年(1585)に、現在地へと移転しています。


また、別の伝承があります・・・その後、この付近に、地蔵菩薩を熱心に信仰していた老夫婦がありましたが、ある時、夫が失明してしまいます。すると、夢に地蔵菩薩が現れ、仲源寺の井戸の沸き水で目を洗うようにと告げました。早速、お告げ通りに目を洗うと、たちまち目は回復したということです。そして、夫婦が地蔵菩薩にお礼参りをすると、地蔵の右目が朱色に変色し涙が流れていました・・・この、地蔵菩薩が自らの右目に眼病を移して、夫婦を苦しみから救ったという伝承から、いつしか「雨止」から転じ、眼病に御利益がある地蔵菩薩、「目疾(めやみ)地蔵」と呼ばれるようになったとも伝えられます。


さて、「雨奇晴好(うきせいこう)」の額がかかる山門を潜ると、狭い境内の正面に本堂があり、土中から出現したとも、定朝作という伝承もある本尊の丈六(約二百九十センチ)の地蔵菩薩坐像が祀られています。この像は、実際は室町時代の作と考えられていて、梅疾(めやみ)地蔵の名前で知られ、眼病に霊験があるとして現在も多くの参拝者に信仰されています。

また、本堂の地蔵菩薩像の傍には、「山越阿弥陀像」と呼ばれる室町時代の阿弥陀座像があります(江戸時代の名所図会の類では、恵心僧都作と記します)
さらに、現在は本堂右手の収蔵庫(観音堂)に安置されている、同じく丈六(約二百五十センチ)の木像千手観世音菩薩坐像(重要文化財)は、平安時代の作で(春日仏師の作とも、古くは行基作とも伝承)、洛陽三十三所観音巡礼第十六番札所として信仰を集めています。
その他、境内には、天道大日如来、大黒天、妙見大菩薩、道了大権現、水子地蔵尊等が祀られています。

また、仲源寺の年中行事としては、節分会(節分の前・当日)、彼岸会(三月二十三日、九月二十三日)、地蔵会(八月二十三日〜二十四日)、月例祈願会(毎月二十三日)、水子供養会(毎月二十四日)があります。

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今回は、「五山送り火の船形や六斎念仏で知られるお寺」としましたが、太田垣連月や北大路魯山人の墓のある寺としても知られる西方寺(さいほうじ)です。
西方寺は船山の東南、西賀茂地区の最南端に位置し(正伝寺の南東、神荒院の西 市バス「神光院前」から直ぐ)、境内の建物も比較的新しいため、明るい印象のある寺院です。


大船院西方寺(たいせんいんさいほうじ)は、山号を来迎山(らいごうざん)という浄土宗寺院です。
寺伝によると、平安時代の承和年間(834〜48)に、慈覚大師円仁(じかくだいし えんにん)によってされたと伝えられ、元々は天台宗山門派に属していましたが、鎌倉時代の正和年間(1312〜16)に道空(どうくう)上人が中興して、この時に浄土宗に改められました。また、道空(どうくう)上人は、彼岸や盆に鉦と太鼓を打って、節を付けて唱える六斎念仏の創始者ともいわれ、以後、西方寺は六斎念仏の寺として知られるようになりました。(尚、以下に記すように、六斎念仏は空也上人が起源ともいわれていますが、実際は不明です)


さて、毎年八月十六日に行われる京都の夏の風物詩、「五山の送り火」では、東山の「大文字送り火」、松ケ崎の「妙・法送り火」、西賀茂の「船形万燈籠送り火」、衣笠の「左大文字送り火」、嵯峨の「鳥居形松明」の五ヶ所六つの送り火行事が行われますが、「鳥居形」を除けば、各山の麓にある寺院の宗教行事が大きく関わっています。

○「大文字」は、銀閣寺の隣にある浄土宗寺院の浄土院(大文字寺)が関係しています。
「大文字」送り火の起源が弘法大師空海によるという伝承もあることから、元々天台宗寺院だった浄土院(大文字寺)は、弘法大師像を送り火の本尊として祀っています。門前で護摩木の受け付けを行い、大文字の点火の際は、大の字の中心部の火床「金尾(かなわ)」の傍にある「弘法大師堂」の中で、住職が灯明を灯し読経が行われます。

○「妙法」は、日蓮宗寺院、涌泉寺(ゆうせんじ)が深く関係しています。
「妙法」は、「南無妙法蓮華経」という日蓮宗の題目に由来しているように、日蓮宗との関わりの深い送り火で、「妙」のある西山で、点火の際に涌泉寺の住職が読経を行い、さらに送り火の後に涌泉寺境内で京都市の無形民俗文化財に指定されている「題目踊り」と「さし踊り」が行われます。
特に「題目踊」は、日本最古の盆踊りとも呼ばれ、その起源には以下の伝承があります・・鎌倉時代末期に日蓮上人の孫弟子・日像上人が松ヶ崎村で布教を行い、この地にあった天台宗寺院・歓喜寺住職の実眼和尚も法華宗に改宗します。そして、徳治二年(1307)、全村民が日蓮宗に帰依したことを喜んだ実眼が、歓喜のあまり太鼓を打ちながら法華題目を唱え、村人も次々と「南無妙法蓮華経」と唱えながら踊ったというのが「題目踊」の始まりと伝えられます。

○「左大文字」は、 浄土宗西山派寺院、法音寺が関係しています。
「左大文字」は、他の送り火より遅く江戸時代初期頃に始まりましたが、法音寺は、左大文字の発祥地、旧大北山村の菩提寺でもあったため、寺院を中心とした旧大北山村の人々が代々行事を受け継いできました。送り火の当日の朝、本堂で施餓鬼会(せがきえ)が行われ、灯明の火によって親火台へ点火されます。また、夕方、住職の読経があり大松明に火が移されます。他の送り火と違うのは、寺から大北山(大文字山)まで松明行列が行われることです。そして、送り火の後、法音寺本堂で「大文字御詠歌」奉納が行われます。

○愛宕神社との関わりを起源とするという説もある「鳥居形」は、特定寺院との関わりは無いですが、化野念仏寺の駐車場で護摩木の受け付けを行い、当日夜には、地元住民でつくる嵯峨仏徒連盟が「嵐山灯ろう流し」を行います。地元の女性がご詠歌を唱え、僧侶の読経と拍子木を合図に、先祖の戒名などを記した灯篭を桂川に流します。



さて、「船形」は、船山東山麓にある、今回の西方寺(さいほうじ)が行事を行います。
この送り火は、正式には「船形万燈籠送り火(ふながたまんとうろうおくりび)」と呼ばれ、西方寺開山の慈覚大師円仁が、承和六年(839)、唐からの帰路に暴風雨に遭い、南無阿弥陀仏と名号を唱えたところ無事帰還できたという逸話に由来すると伝えられています。
西方寺では寺で護摩木の受け付けを行い、船山で万燈籠が点火されます。また、送り火の後は、境内のかがり火を囲んで西方寺六斎念仏保存会による六斎念仏(昭和五十八年(1983)国の重要無形民俗文化財に指定)が行われます。
当寺の六斎念仏は、鉦や太鼓を使って念仏を唱える極めて古風なもので、六斎念仏の古態を今に伝えるものとして知られています。



少し、六斎念仏について書いておきます・・
過去にも何度か書きましたが、この六斎念仏というのは、鉦や太鼓を鳴らし念仏を唱えながら踊る民俗芸能です。
今も京都各地の寺院及び保存団体によって伝承され、国の重要無形民俗文化財に指定されています。六斎念仏がいつ頃から始まったのかは不明ですが、平安時代に空也上人が、仏教の忌日である六斎日(八、十四、十五、二十三、二十九、三十日の六日)に、京都の市中で、念仏を唱え鉦や太鼓を叩いて「踊躍念仏(ゆうやくねんぶつ)」を広めたことが起源ともいわれ、現在は六斎日とは関係なく、京都各地でお盆をはじめとする行事の際に行われています。

尚、六斎念仏は、江戸時代になると念仏踊を中心とする従来の「念仏六斎系」の他に、浄瑠璃や歌舞伎等の要素を取り入れより風流娯楽化した「芸能六斎系」が登場して、今日までこの二系統に分れて伝承されています。また、六斎念仏には、空也堂の傘下の「空也堂系」と、光福寺傘下の「干菜寺系(光福寺)」の二つがあり、各六斎念仏団体はどちらかの寺院から免許を与えられその傘下に入っていました。
また、明治以前は「干菜寺系(光福寺)」が盛んでしたが、現在は「干菜寺系(光福寺)」は西方寺の六斎念仏が残るのみで、今回の嵯峨野六斎念仏をはじめその他の六斎念仏は全て「空也堂系」で、嵯峨野六斎念仏は、能や長唄・歌舞伎の要素を採り入れて、独自に発展した芸能的六斎になります。


他の主な六斎念仏として

○中堂寺六斎念仏(8月9、16日壬生寺)
○千本六斎念仏(8月15日千本ゑんま堂(引接寺)
○西方寺六斎念仏(8月16日西方寺)
○円覚寺六歳念仏(8月16日円覚寺)
○小山郷六斎念仏(8月18日上御霊神社・8月22日上善寺)
○上鳥羽六斎念仏(8月22日鳥羽地蔵(浄禅寺))
○桂六斎念仏(8月22日、23日桂地蔵(地蔵寺))
○嵯峨野六斎念仏(8月23日阿弥陀寺・9月2日松尾大社)
○梅津六斎念仏(8月25日梅宮大社)
○吉祥院六斎念仏(8月25日吉祥院天満宮)
○久世六斎念仏(8月31日蔵王堂光福寺)
等があります。





さて、西方寺の境内には、皇室制度や神道史の研究家として知られるイギリス人リチャード・ポンソンビー教授の「本尊美君碑」や幕末の歌人・太田垣蓮月尼(おおたがきれんげつに)の記念碑等が建てられています。また、寺の西側にある小谷墓地には、太田垣蓮月尼や上賀茂神社の祠官賀茂季鷹(かものすえたか) 、また著名な料理人で陶芸家でもある、北大路魯山人(きたおおじろさんじん)の墓があります。


太田垣蓮月(おおたがきれんげつ 1791〜1875)は、寛政三年(1791)一月八日に、伊賀国上野の城代家老・藤堂良聖の子として京都に生まれました。名を誠といい、生後直ぐに知恩院門跡に仕える大田垣光古(当時は山崎常右衛門)の養女となります。(養父光古は実子を相次いで亡くし、養子をとることで知恩院譜代の家柄を維持していました。)その後、生母が丹波亀山藩藩士の妻となった関係で、丹波亀山城で御殿奉公を勤めました。

誠(蓮月)は十六歳頃に、養父大田垣光古の養子の望古と結婚し、二人の間には、長男、長女、次女が生まれましたが、いずれも夭折します。文化十二年(1815)二十五歳の時、夫の望古とも死別しました。その四年後の文政二年(1819)、誠は、新たに大田垣家の養子となった古肥と再婚し、二人の間には一女が生まれますが、文政六年(1823)には古肥とも死別しました。
三十三歳で夫と二度も死別し、三人の子供を亡くした誠は、養父光古と共に剃髪し、蓮月と号しました。その後、蓮月は、養父西心(光古)と共に知恩院山内の真葛庵に移りましたが、二年後に唯一残っていた女児(古肥との間の子)、さらに二年後に養父西心が亡くなったため、知恩院を去って岡崎村に移りました。

その後は、煩わしさを逃れ生涯三十数回住まいを替え「引越しの蓮月」と異名されるほど住居を転々としました(幕末に勤皇の志士を匿ったためと言われます)
また、戊辰戦争の際に、三条大橋を通りかかった官軍の西郷隆盛に歌を渡したというエピソードでも知られます・・「あだみかたかつもまくるも哀れなり 同じ御国の人と思へば」・・同じ日本人同士が戦うことの悲劇を詠ったこの歌が、江戸城の無血開城に影響を与えたとも伝えられています。

晩年は西方寺に近い神光院(ブログ掲載)境内に隠棲し、歌や書、茶道に親しみ、また陶芸の才も発揮し、「蓮月焼」は、京都の土産物として人気を博します。また、この頃は、当時二十二歳の孫のような富岡鉄斎に作陶の仕事を手伝ってもらいながら共同生活を送り、飢饉救済の募金活動や、丸太町に橋を架けるなどボランティアにも努めました。
明治八年(1875)、八十五歳で亡くなりましたが、遺言で「ただ無用の者が消えゆくのみ、他を煩わすな、富岡だけに知らせてほしい」と頼んだということです。
(尚、神光院にある茶室「蓮月庵」は、太田垣蓮月の隠棲していた場所として知られ、境内には住居跡を示す「蓮月尼旧栖茶所」という石標と蓮月の歌碑が建っています。)

蓮月尼の墓は、小谷墓地の南側地域にあり、石標の案内板に従って進むと、墓地の入口からあまり遠くない木の根元に丸い五十センチ程の墓があります。




賀茂季鷹(かものすえたか 1754〜1841)は、江戸時代末期の上賀茂神社の祠官で、宝暦四年(1754)頃、京都の上賀茂神社の神職の家に生まれました。少年時代から、有栖川宮家に諸大夫として仕えて和歌を学び、その後、江戸で江戸派の歌人と親交しました。京都に戻った後は、賀茂社の祠官を勤めながら多くの文人と交遊し、天保十二年(1841)十月九日に八十八歳で亡くなりました。幅広い人脈を持って多くの門人を育て、古典学者としても才能を発揮しました。
西方寺にはたいへん多くの多くの賀茂氏一族の墓があり、季鷹の墓としては特定できませんでしたが、賀茂氏の墓の一部を掲載しておきます。



長くなりましたので、有名な北大路魯山人に関しては、その墓についてのみ書いておきます・・

北大路魯山人(きたおおじろさんじん 1883〜1959)は美術家、料理家等多彩な才能を発揮し、傲慢で辛辣な性格に関しては非難も多いとはいえ、その才能は、今も多くの美術や料理関係者から尊敬されています。京都の料理関係者等、西方寺の墓に詣でる人も多いようですが、かなり広い墓地でもあるため、場所を知らないと探すのに苦労します。また、魯山人とは関係のない北大路家の墓も墓地内に点在しているので要注意です。

魯山人の墓は、小谷墓地の北側地域の最も北西奥にあり、なだらかな坂を上った高台の北端近くにあります。墓地全体の北西を目指して行けば、比較的簡単に見つかるでしょう。
尚、現在ネット上で見られる墓の写真は、かつての古い墓の写真ですが、近年新しい墓に整備されましたので、参拝される方は、掲載した写真を参照してください。

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賀茂川の上流に位置する「西賀茂」と呼ばれる地域は、「大文字五山の送り火」の一つ、「船形(山の名は船山)」のあることで知られている地域です。

この地域の観光寺院としては、正伝寺(しょうでんじ)が有名ですが、正伝寺から北へ約五百メートル新興住宅地の中を北上すると、京都グルフ倶楽部の船山コースの傍に、土塀に五本線が引かれ皇室との関係を伺わせる寺院があります・・これが、霊源寺(れいげんじ)です。
霊源寺は、境内のみ自由で、春は桜、ツツジの名所でもあります。



霊源寺(京都市北区西賀茂北今原町)は、正式には霊源皇寺、山号を清凉山という臨済宗の単立寺院です。江戸時代の寛永十三年(1636 寛永十五年とも)に、第百八代・後水尾上皇の勅願により、仏頂国師(一絲文守、いっしぶんしゅ)上人を開山として創建されました。
また、当初は、霊源庵(れいげんあん)と呼ばれていましたが、寛文六年(1666)に上皇より「清凉山霊源寺」という勅額を贈られ、現在の山号、寺名に改められました。
さらに寛文十一年(1671)には、御所・清涼殿の用材を賜って、仏殿が建立されたと伝えられ、その後も、第百十二代・霊元上皇の勅願所となるなど朝廷の厚い崇敬を受けました。仏殿には、本尊釈迦如来像をはじめ、後水尾上皇、開山・仏頂国師像などを安置しています。山門を入ると、ツツジが多く植えられた小さな庭園があり、左奥の瓦筋塀にある木戸から本堂の前庭に入るようになっています。


また、開山仏頂国師(一絲文守、いっしぶんしゅ)が、江戸時代初期の公家で、岩倉家の祖となった岩倉具堯(いわくらともたか ?〜1633 村上源氏久我家の出身)の子だった関係から、霊源寺は岩倉家の菩提寺ともなり、幕末には、和宮降嫁問題で排斥された岩倉具視が潜伏した寺院としても知られます。



さて、岩倉具視(1825〜83)は、文政八年(1825)九月十五日、公家・堀河康親(後に従二位権中納言)の次男として京都に生まれ、天保九年(1838)八月に下級公家・岩倉具慶の養子となりました。その後、第百二十一代・孝明天皇の侍従となり、安政五年(1858)に、日米修好通商条約を締結した幕府が条約勅許を朝廷に求めると、岩倉は、反対派公卿を結集してこれに強く反対しました。
安政七年(1860)年の井伊直弼の暗殺後は、公武合体を唱え、和宮降嫁の進言者として活躍しましたが、これらの行動が、尊王攘夷派の志士から佐幕派とみなされ、朝廷内の三条実美ら尊王攘夷派公卿からも排斥されることになりました。

尊攘派の圧力で、文久二年(1862)七月、岩倉は孝明天皇の近習を辞職しますが、岩倉排斥の動きは止みませんでした。孝明天皇の信頼も失った岩倉は、八月二十日に蟄居処分となり、さらに、辞官と出家を強制されます。出家した後は、九月半ばに岩倉家菩提寺・霊源寺から西芳寺に移り、十月初旬に洛中からの追放令を受けて洛北岩倉村に隠棲しました。そして、慶応三年(1887)までの約五年間、岩倉村で隠棲しながら諸藩の志士と交流し明治維新の原動力となりました。
現在、霊源寺の山門前には、岩倉具視の旧跡を示す石標があり、境内には、具視の歯牙(しが)塚もあります。


また、平成十年(1998)に、江戸時代に池があったという庭に、建築家の山口隆氏設計による庫裏「透静庵/ Glass Templ」が」が建てられました。
この庫裡は、庭から地下に続く階段の下にあり、天井がガラス張り、全面が白壁というアート空間で、当時内外の建築界で話題になり、平成十三年(2001)には「ベネディクタス国際建築賞」の大賞を受賞しました。当時、数日間のみ特別一般公開されましたが、それを最後に一般公開は行われていません。

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京都市北区の大徳寺の周辺の紫野(むらさきの)や北西の紫竹(しちく)は、源義経やその母・常盤御前ゆかりの史跡が多いことで知られる地域です。これは、平安時代末期に源氏の棟梁・源義朝の別邸がこの地にあり、常盤御前が住んでいたという伝承によります。

これまで、ブログに、「牛若丸誕生井」&「胞衣(えな)塚」(共に京都市北区紫竹牛若町)、「源義経産湯ノ遺址」(京都市北区紫竹牛若町)、常盤御前の守り本尊と伝わる「腹帯地蔵」を祀る「光念寺」(京都市北区紫野上野町)」、常盤御前が牛若丸の安産祈願をしたと伝わる「常盤地蔵」を安置する「常徳寺」(京都市北区紫竹東栗栖町)といった史跡を掲載してきましたが、今回は、大徳寺の南側にある義経ゆかりの小さな史跡です。


市バスの大徳寺前停留所で下車し、そのまま南へ進むと、雲林院(ブログ掲載)を過ぎた先に(北大路通から三筋目)右手(西)に、少しカーブした建勲北中通りという小さな通りがあります。この建勲北中通りが大きくカーブする直前の右手の民家の前にあるのが、「常槃井」です。(京都市北区紫野下築山町)
「常槃井」は、「常盤化粧井」とも呼ばれ、常盤御前が化粧に用いた井戸といわれています。現在は、井戸は涸れていますが、「常槃井」と記した石碑の文字が僅かに読めます。


また、「常槃井」の横から民家の間の細い路地を入っていくと、瓦礫が積み上げられた丸い塚があります・・これが、「衣掛塚(ころもかけづか)」です。
常盤御前の着物が掛けられたという伝承から「衣掛塚」また「鏡塚」とも呼ばれますが、現在、周囲は廃材置き場のような少し不気味な雰囲気で、「築山之墓地」と刻まれた石標や五輪塔の残欠と思われる石が無造作に置かれています。

さて、江戸時代の文化年間(1804〜17)に行われた天皇陵調査では、この塚は、後朱雀天皇・堀河天皇・二条天皇の三人の天皇陵の内の一つではないかと考えられていましたが、どの天皇陵とするかは決定できなかったようです。この時の調査をまとめた『文化山陵図』にもこの塚は描かれていて、当時、塚は田畑の中にあって、盛り上がった墳丘の周りには水のある溝があったことがわかります。現在の無残な姿からは想像できませんが、江戸時代には、遠くからも目立ち、天皇陵の候補になりうるそれなりの雰囲気があったのでしょう。

そして、その後、何度か行われた天皇陵調査では、この塚は候補にも挙げられずに忘れ去られていったようです。天皇陵はともかく、歴史ある塚の遺構であることは確かで、この地は、平安時代の葬送地として知られる蓮台野に当ることから、当時の貴重な遺構の可能性もあるということです。

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