京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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阪急電鉄西院駅から西へ約一キロ、右京区西院日照町にある西院・野々宮神社は、「西四条斎宮(にししじょうさいぐう)」とも称する神社です。

西院という地域は、西院・春日神社(西院春日町、阪急電鉄西院駅の西)を除けば有名な史跡の少ない地域で、さらに西の梅津や西京極と共に「京都の郊外」といった雰囲気があります。この神社の周囲にも、自動車教習所や中学校、変電所、集合住宅等がありますが、木々に囲まれた神社の境内に入ると、周囲の喧騒を忘れさせる静けさが漂っています。
また、野々宮神社は、江戸時代から西院・春日神社の御旅所となっていて、十月第二日曜日に行われる春日神社の春日際では、神輿二基が千人もの供奉を従えて渡御し、この地で祭典が営まれます。(野々宮神社のHPを引用させていただきます。)


さて、野々宮神社の祭神は、倭姫命(やまとひめのみこと)と布勢内親王(ふせないしんのう)のニ女神で、共に天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王となりました・・倭姫命は、第十一代・垂仁天皇の皇女で、伊勢神宮を創建したという伝説的な皇女として知られます。また、布勢内親王は、第五十代・桓武天皇の皇女で、平安時代としては初めて伊勢へ下った斎王になります。


神社の創建時期は不明ですが、元々この地は、平安時代に伊勢神宮の斎王に選ばれた皇女が、伊勢へ下向するまでの間、心身を清めるための潔斎所「野宮(野々宮)」が築かれた聖地で、各地に残る「野宮(野々宮)」の名称はこの地が発祥ともいわれています。
桓武天皇の皇女で斎王となった布勢内親王を祀るように、平安時代最初の「野宮(野々宮)」があった由緒ある場所ということのようです。


「野宮(野々宮)」の場所は、天皇の即位毎に定められていたために、京都にも嵯峨野周辺に幾つかの跡地とされる神社があります。
最も有名なものとしては、嵐山にある観光地として知られる野宮神社(右京区嵯峨野宮町)が思い浮かびます。この野宮神社の地は、第五十三代・嵯峨天皇の皇女仁子内親王を最初として「野宮(野々宮)」として用いられたと伝えられています。
また、同じく嵯峨野にある斎宮神社(右京区嵯峨宮ノ元町)、斎明神社(神明神社、右京区嵯峨柳田町)も野宮跡といわれ、これらの三つの神社は黒木の鳥居(白木もありますが)が印象的です。


一方、西院・野々宮神社のHPによると、この野々宮神社は、現存する「野宮(野々宮)」跡の中で最もその風情を留めているということです。
確かに、黒木の鳥居は無いとはいえ、他の「野宮(野々宮)」ゆかりの神社のある嵯峨野とは違って訪れる人はほとんどいません。このような末社や社務所も無い、木々に覆われた広い静かな空間が、本来の禊の場「野宮(野々宮)」のイメージに近いものなのかもしれません。


さて、平安時代以後、この「野宮(野々宮)」の地は、倭姫命と布勢内親王を祀る神社となり、その後、皇室や公家から庶民にいたるまで広く崇敬を集めたと伝えられます。また、古くは機織の守護神として織女の信仰が厚く、その後は、ニ女神の徳の偲んで広く女性の守護神として崇敬を集めているということです。
そして、江戸時代以降は、西院・春日神社の御旅所とされ、毎年十月の春日神社の祭典には、天皇の勅使をはじめ多くの公家が参列したといわれ、現在も十月第二日曜日の春日祭では、春日神社宮司斎主のもとに祭典が営まれています。 また、現在の社殿は、安永四年(1774)十一月二十八日に、後桃園天皇より宮中・賢所を拝領して造営されたものということです。

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左京区南禅寺北ノ坊町にある三つの皇室ゆかりの史跡を採り上げてみます・・哲学の道を歩かれた方はご存知の史跡かと思います。


さて、哲学の道沿いにある「後伏伏見天皇十八世皇孫女・宗諄女王墓」については、以前に「紅葉のある風景・・」として掲載していますが、今回は墓内部の写真を追加してみます。
宗諄女王は、江戸時代末期の伏見宮貞敬親王の皇女で、文化十三年(1816)に生まれました。文政二年(1819)に第百十九代・光格天皇の養女となり、幼年期より哲学の道付近の霊鑑寺に入って、文政六年(1822)に得度して法名を宗諄としました。そして霊鑑寺に住持して布教に務め、明治二十四年(1889)に七十六歳で病死しています。
宗諄女王墓は、京都の多くの皇室関係者の墓の中でも、特に目立つ存在といえるでしょう。一年を通じて、観光地として知られる哲学の道の写真撮影スポットのひとつになっていますが、特に秋は、墓内に植えられている真っ赤な楓が素晴らしく、哲学の道で一番の紅葉の見所になるからです。



さて、「宗諄女王墓」の西、哲学の道の下には、以前にブログに採り上げた光雲寺があり、その南にある白壁に囲まれた「後水尾天皇皇女・昭子内親王墓」を見下ろすことが出来ます。(さらに、光雲寺の南側にある石段を下ると、「昭子内親王墓」の正面に出られます。)
昭子内親王(1629〜75 妙荘厳院宮)は、後水尾天皇の第四皇女で、母は将軍徳川秀忠の娘・東福門院(徳川和子)です。以前は姉の光明心院(女二宮・近衛尚嗣室)が「昭子内親王」と考えられていた経過から、「顕子内親王」と呼ばれていました。現在も混同があるようですが、現在、宮内庁は昭子内親王としています。また、昭子内親王(顕子内親王)は、左京区岩倉に岩倉御所(岩倉上蔵町)に御所を構え現在はその跡地に石碑が建っています。








最後に、光雲寺の北側には「久邇宮墓地(くにのみやぼち)」があります。
久邇宮家は、江戸時代末期の伏見宮邦家親王の第四王子・朝彦親王(あさひこしんのう、ともよししんのう)が創設した宮家です。朝彦親王は、特に「中川宮」の名前で幕末ファンに知られていて、佐幕派の親王として活躍し、明治維新で反政府陰謀罪の疑いで逮捕され、親王の身分を剥奪されるなど時代の波に逆らった人物です。その後、罪を許されて皇室に復帰した朝彦親王は、明治八年(1875)に久邇宮家を創設しました。
多くの子女に恵まれた朝彦親王ですが、光雲寺の「久邇宮墓地(くにのみやぼち)」には、親王の子女の四墓一塔があります。生後間もなく亡くなった暢(のぶ)王と、一言足彦命(ひとことたらしひこ)王、二歳で亡くなった懐子(やすこ)女王、十八歳で亡くなった飛呂子(ひろこ)女王の墓と、軍人として活躍した久邇宮第二代・邦彦王(1873〜1929)の髪爪塔です。

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下京区七条御前上る西七条北東野町にある小さな天満宮が綱敷行衛天満宮(つなしきゆきえてんまんぐう)です。「つなしきゆきえ」とは発音し難いので、一般に「つなしきいくえい」とも呼ばれているようです。

綱敷行衛天満宮は、元々綱敷天満宮と行衛天満宮というこの西七条村に祀られていた二つの天満宮でした。綱敷天満宮は現在地付近に、行衛天満宮はさらに西に鎮座していて、共に洛陽天満宮二十五社の一つに数えられていたようです。その後、昭和九年(1934)に、この二つの天満宮は合併され現在地に鎮座することになりました。

綱敷天満宮は、京都以外にも西日本各地にも鎮座している天満宮で、以下のような伝説に由来する天満宮です・・・菅原道真が九州筑紫(福岡県)に左遷され博多に上陸した際、激しい風雨に遭って避難しましたが、土地の者たちは敷物が無いために船の綱を巻いて円座を作って道真の御座としたということです。
また、この時に、一夜にして道真の髪が白髪になったとも伝えられ、道真は白髪姿の自身の姿を写した画像(綱敷天神像、一夜白髪の御影といわれます)にしました。そしてこの神像を祀ったことから綱敷天満宮の名が付けられたと伝えられます。

一方、近衛天満宮は、元々は「靱負(ゆきえ)天満宮」が正しいとされ、平安京の右京を南北に通る「西靱負小路」に面していたことから、社名となったと考えられています。西靱負小路は、別名「猪隅通」とも呼ばれ、北野天満宮の南門から南区の唐橋を経て、吉祥院天満宮に通じる道で、道真はこの道を通って吉祥院へ向ったということです。
また、近衛天満宮は、前にブログに採り上げた文子天満宮(下京区間之町通花屋町下る天神町)の伝承とは異なりますが、道真の乳母と伝えられる多治比文子の旧宅がこの西七条にあったことから、その跡地に創祀されたとも伝えられているようです。

尚、綱敷行衛天満宮は、現在は松尾大社の境外末社ということです。また、現在の本殿は寛政年間(1789〜1801)の建立で、その保護のために本殿覆屋が昭和九年(1934)に建てられ、その後、平成十六年(2004)に修復されています。

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土御門家ゆかりの史跡が続きますが、下京区梅小路石橋町にある稲住神社(いなずみじんじゃ)は、土御門家の祖といわれる安倍晴明を祭神とする神社です。

境内にある駒札によると、この神社のある付近は、明治以前には池がある広場だったということで、農家が稲束を積んでいたことから、「稲積社」と呼ばれ、これが転じて「稲住神社」という社名となったようです。神社の創建由来については不明で、元々江戸時代から土御門家屋敷内に安倍晴明を祀っていたものか、土御門家の屋敷跡だからと後に安倍晴明を祀るようになったのかも判明しません。


ともかく、前回の梅林寺の時に詳しく書きましたが、この梅小路(梅小路八条)一帯は、平安時代以来、陰陽道を以って朝廷に仕えた土御門家の邸宅があった地域でした。駒札を引用すると、その屋敷は一町(約百十メートル)四方あって、北部が住居、 南部が祭場となっていました。そして、この祭場には、祭壇や本宮、権殿その他の建物があり、 代々の天皇の即位に当っては、聖寿の長久を祈る天曹地府祭を行なったということです。
また、貞亨元年(1684)に、貞亨暦を作って幕府の天文方となった渋川春海(しぶかわはるみ しぶかわしゅんかい)は、暦を完成させる際に、陰陽頭だった土御門泰福(つちみかどやすとみ)に協力を求めて、共にこの地に星台を建て渾天儀で天体を観測してその正確を証明した場所でもあるということです。


境内には奥に本社、手前に魔王尊社があります。本社には安倍晴明の他にも、龍王や弁財天、薬一大明神等を合祀しているようです。また、木の根をご神体とした魔王尊社が境内中央に斜めに鎮座しているのが特徴的で、一見、小屋か何かが無造作に配置されているような印象もあります。

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JR京都駅の西にある下京区梅小路一帯は、陰陽道の大家として知られた土御門家(つちみかどけ)の邸宅があった地域です。
土御門家は、平安時代の陰陽師として知られる安倍晴明の子孫で、梅小路東中町の梅林寺、梅小路東西中町の円光寺、梅小路石橋町の稲住神社等がゆかりの史跡として残っています。今回は土御門家の菩提寺として知られる梅林寺(ばいりんじ)を採り上げます。(尚、これまで観光とは縁の無かったこれらの史跡ですが、陰陽師ブーム以降は、無断で境内に入る観光客が増えて困っているということで、予約して訪問することをお勧めします。今回私も予約していないため、写真は外観のみ)



さて、土御門家は、室町時代初期に活躍した安倍晴明の十四代目の子孫・安倍有世(あべのありよ 1327〜1405)の流れを汲む陰陽師の名門です。
安倍有世は、将軍足利義満から重用されて、陰陽師としては初めて刑部卿という公卿に昇進しました。以後、有世の子孫も公卿に任じられ、その曾孫・有宣(ありのぶ 1433〜1514)の頃、朝廷より土御門家の称号を許されて、これを家名としました。しかし、その後この有宣から、有春、有脩の三代にわたって歴代土御門家は、応仁の乱後の都の戦乱を避け、先祖・有世の時代以来の所領のあった若狭名田庄村(福井県おおい町)に移り住んで、若狭の守護大名・武田氏の庇護を受けることになりました。

その後、ようやく戦乱が収まり、有脩の子・土御門久脩(つちみかどひさなが 1560〜1625)は都へ戻りますが、関白秀次事件に連座して蟄居の身となります。しかし、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの後、久脩は徳川家康に見いだされて復権し、京都の梅小路の邸宅に居住します。その後、土御門泰重、泰広を経て、土御門泰福(やすとみ 1655〜1717)の時代の天和三年(1683)、霊元天皇の勅許によって、土御門家は全国の陰陽師の統括と暦作成の権利を得ます。こうして、土御門家は全国の陰陽師を支配下に置いて全権を握ることになりました。

しかし、貞享元年(1684)に、渋川春海(しぶかわはるみ しぶかわしゅんかい)が、初の日本独自の暦「貞享暦」を作成し、それまで約八百年間使われてきた中国唐伝来の「宣明暦」から切り替えると、江戸幕府は天文方を設置して渋川春海を初代天文方に任命します。こうして、編暦業務は、朝廷の陰陽寮(土御門家を陰陽頭とする)の所轄から幕府天文方に移ることになりました。
しかし、権限を奪われることに抵抗した泰福の子・土御門泰邦(1711〜84)は、宝暦五年(1755)に「宝暦暦」の作成に成功して、改暦権限は再び土御門家が取り戻しました。しかし、この「宝暦暦」は、精度で劣り問題が多かったことから、その後、寛政九年(1797)の「寛政暦」、天保十五年(1844)の「天保暦」と、幕府天文方が精度の高い暦を作成して主導権を奪回することになります・・・既に伝統ある陰陽師の名門土御門家の時代は終わりつつあったのでしょう。

最後の抵抗を試みたのは、幕末の土御門晴雄(つちみかどはるお 1827〜69)でした。
晴雄は、明治維新の混乱に乗じて、新政府に旧幕府の天文方を廃止させ、再び天文観測や暦の権限を土御門家が手中に収めます。さらに晴雄は西洋の太陽暦(グレゴリオ暦)導入に強く反対し、太陰太陽暦の継続を提案しますが、明治二年(1869)に病死してしまいました。こうして、安倍晴明の流れを汲む陰陽道の名門・土御門家の時代は終わりました。明治三年(1870)に明治政府は、陰陽寮を廃止し、天文・暦学は大学や天文台、海軍等など移管されることになりました。


さて、梅林寺は、土御門家を檀越として、江戸の元禄年間(1688〜1703)頃に創建されたと考えられています。境内墓地には歴代の安倍家(土御門家)の墓があり、「宝暦暦」作成した正二位・土御門家泰邦の墓もあります。また、皇女和宮付上臈だった安倍邦子の墓などもあり、安倍家(土御門家)歴代の位牌も安置しています。
土御門家はその広大な屋敷内に、天文観測を行った星台を設けられていましたが、現在の梅林寺の前庭にも天体観測で用いられた天球儀「渾天儀」が置かれたという東西南北を現す十字が刻まれた台石が残っていて、石には土御門泰邦の名前が彫られています。
また、山門横には、平安時代中期の作といわれる大日如来像が祀られていて、これは平安時代初期に創建され、東寺と並ぶ官寺だった西寺の旧仏と伝えられているということです。

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