京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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下京区五条通高倉東入る堺町、五条通に面した所にある西念寺(さいねんじ)は、総本山を永観堂とする浄土宗西山禅林寺派の寺院です。この西念寺の山門脇にあるのが、千喜万悦天満宮(せんきまんえつてんまんぐう)という変わった社名の天満宮です。
(尚、この神社の前は、いつも隣の会社の自動車が邪魔をしています。)

社名の「千喜万悦」とは、「千万は無量」という意味の語呂合わせの当て字で、数で表せない、これ以上無いといった喜びの意味です。ほとんど知られていないような小さな天満宮ですが、ご利益がありそうな名前ですね。


さて、この天満宮の前を通る広い五条通は、平安時代には六条坊門小路と世ばれ、嵯峨天皇の皇子で、源氏物語の光源氏のモデルといわれる源融(みなもとのとおる 822〜95)が広大な邸宅・六条河原院を営んでいた地になります。河原院はその後衰退していきましたが、これまでもブログに採り上げて来たように、この跡地には今も多くの由緒ある寺社が点在しています。

今回の千喜万悦天満宮も、河原院跡地に建つ史跡の一つですが、創建や由緒等は不明です。ただ、ご神体は天神像に加えて、菅原家の繁盛の様子を描いた絵図になります。この絵図は、寛平元年(889)に、菅原道真が宇多天皇から右大臣に任じられ、また同三年(891)には、公達や重臣たちと共に列座することを許された時、喜びのあまりこの慶事の様子を道真自身が指図して描かせたものと伝わります。ここから社名の「千喜万悦」という名前が付けられたようです。
その後、天満宮は五条通の拡張によって、現在の西念寺門前に遷座したということです。

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右京区山ノ内宮前町、叡山電鉄嵐山線に乗ると「山ノ内駅」付近で北側に見えてくる小さなお寺が、念仏寺(念佛寺 ねんぶつじ)です。念仏寺は、伝教大師の母・妙徳尼ゆかりの史跡として知られます。


念仏寺は、山号を紫雲山(しんざん)という天台宗寺院で、「山ノ内 根元地水子供養寺 念佛寺」と称しています。比叡山延暦寺の開祖・伝教大師最澄の母・妙徳尼の生誕地及び菩提寺として千二百有余年の歴史のある寺院と伝えられ、宗派等に関係なく水子供養の菩提所として信仰されています。


さて、妙徳尼は、左大臣藤原魚名(ふじわらのうおな 藤原四兄弟の房前の子。721〜783)を祖とする藤原北家の傍系の出身で、本名は藤子といい、正四位下河辺備前守正雄の妹に当たると伝えられます。この下河辺一族は、この山城国山之内(山ノ内)の地を本拠としていたようです。そして、藤子(後の妙徳尼)は江州滋賀郡(滋賀県)古市郷(大津市坂本付近)を領する豪族・三津首百枝(みつのおびとももえ)に嫁ぎます。三津首氏は、中国後漢の孝献帝(こうけんてい)に連なる登萬貴王(とまきおう)の子孫といわれる漢人系渡来氏族でした。

藤子(後の妙徳尼)は、子に恵まれなかったため、度々この里方の山之内(山ノ内)の館に帰って地蔵菩薩に一心に祈願していました。すると、幸運にも一子を授かりました・・・これが三津首広野(みつのおびとひろの)、後の伝教大師最澄です。

妙徳尼は、夫・三津首百枝と死別した後、自身の生地である山ノ内に戻って、比叡山延暦寺で修行している息子(伝教大師最澄)の身を案じながら日々を送っていましたが、当時、比叡山は女人禁制の霊峰だったため、母といえども訪ねて行く事は出来ませんでした。そこで、最澄は母のために慈母観音菩薩像を自ら刻んで贈りました。こうして、妙徳尼は、日夜この観音像を拝んで我が子最澄の行く末を祈願し、また、儚くも散った多くの水子の冥福を祈って余生をこの地に過したということです。

弘仁八年(817)五月、妙徳尼が七十一歳で亡くなると、最澄は、延暦寺で母の法要に百僧をもって供養して追孝の気持ちを表したと伝えられます・・以来この行事は五十年目毎に引継がれて、昭和四十八年(1978)五月には、千百五十年忌の百僧供養が行われています。
その後、最澄は母の菩提を弔うために、この地に延暦寺を象った寺塔を建立して寺院を創建し、最澄自身の自作の利剣名号の阿弥陀如来像を安置して比叡山之内(山ノ内)と称しました。これが現在の念仏寺で、本尊の阿弥陀如来像は鉄で鋳造されたもので、秘仏となっています。また境内には旧い石碑があり、これらは妙徳尼の実家・下河辺氏の先祖の墓碑ということです。


念仏寺では、毎月二十四日に、秘仏地蔵菩薩と妙徳夫人母子尊像、そして、それらを囲むように壁一面に多くの水子供養地蔵尊が祀られている本堂で、弥陀四十八願万灯籠水子供養を行い、秘仏の御開扉が行われます。また、「一日尼僧修行」という京都らしい体験修行も受け付けています。

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中京区西ノ京という地域には、「太子道(たいしみち)」という細い道路が東西に走っています。
この太子道という道名は、聖徳太子ゆかりの太秦の広隆寺への参詣道だったことに由来しています。現在は上京区の出世稲荷神社から右京区太秦安井までで道は途絶え、広隆寺までは通じていません。また今では特徴の無い小さな道に過ぎませんが、かつての平安京の大炊御門大路に該当し、当時は人々が多数行き来していた道だったのかもしれません。


さて、この太子道に面して小さな史跡があります・・・中京区西ノ京北壺井町、太子道と佐井通が交差する南東角に、コンクリートの塀で囲まれた古い井戸があり、傍には「古蹟・壺井地蔵尊」と記された石標が立っています。石段を数段降りると、井戸の上の小さなスペースに地蔵菩薩像が祀られていて、他にも小さな石仏が安置されています・・・・これが壺井地蔵です。

山城国(京都)の地誌「雍州府志」等で知られる江戸時代初期の医者・歴史家の黒川道祐によれば、この地の壺井という井戸の中から地蔵菩薩像が発掘されたので、壺井地蔵と称して安置されたと伝わります。虫がいたり、少し不気味な雰囲気もあるのですが、今でも近所の方が大事に守って花を生けておられるようです。また、この地は、付近に西土手刑場(西ノ京刑場)があり、この壺井の井戸水で末期の水を飲ませたという説もあるということです。


この壺井地蔵から、太子道を西へ少し歩くと、民家のようなお堂があります・・これが壺井堂です。
庭先に供養塔や祠などが祀られていて、「茶所」と記された石標があります。堂内には、壺形の台座に座る木造地蔵菩薩像が祀られています。仏像は後世の作ですが、壺井地蔵の伝説を現在に伝えているようです。

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中京区西大路下立売西入る西ノ京御輿岡町(みこしがおかちょう)、西大路通から妙心寺道を少し西に入ると、広いスペースと大きな鳥居が見えてきます・・・これが北野天満宮(かつては北野神社)の御旅所です。言うまでもありませんが、御旅所というのは、神社の祭礼の際に、祭神を神輿に遷して巡幸した後、神輿を一時鎮座しておく仮宮のことです。
京都の大きな神社の御旅所は、広い敷地を持つ場合も多く、地域のシンボル的な存在になっています。このブログでも前に今宮神社の御旅所を採り上げていますが、今後も幾つかピックアップしてみたいと思います。


さて、いつも参拝者の絶えない北野天満宮と違って、その御旅所は、京都市指定の保存樹・クロガネモチの大きな木が目立つ静かな空間といった印象です。
しかし、これから秋十月に行われる「ずいき祭」では、神幸祭(しんこうさい)から還幸祭(かんこうさい)までの間、三基の鳳輦や、ずいき神輿がこの御旅所に駐輦して、着御祭(八乙女舞 やおとめたまい)や表千家宗匠による献茶祭、甲御供奉饌などの祭典・行事で賑わうことになります。


この北野天満宮の「ずいき祭」は、御旅所の駒札によると、慶長十二年(1607)、天満宮の本社造営の際、西ノ京の氏子らが、造営を祝って新鮮な農作物で神輿(ずいき御輿)を作って、九月四日に神前に奉納したのが始まりと伝えられ、以来、現在まで受け継がれてきているということです。

また、北野天満宮のHPによると、この西ノ京他の氏子の祭りは室町時代に遡るとされ、この祭りに、明治時代になって神幸祭(神輿に遷られた祭神が氏子区域を巡行する祭)が取り入れられ、現在の形になったということです。神幸祭は、かつては「北野祭」と呼ばれていた天満宮の官祭(現在、毎年八月四日に例祭が行われています。)の一部で、その頃は本殿祭と神幸祭が一体となって行われていましたが、応仁の乱によって神幸祭が途絶えてしまったようです。
その後、明治時代初期に、神幸祭の復興を願った氏子有志達の努力によって、氏子達が諸具や祭典にかかる費用を負担することを条件として、明治八年(1875)京都府から私祭として許可されたということです。

こうして、再興された神幸祭は、毎年の十月一日、本社北野天満宮から祭神(天神様)をお遷しした神輿がこの西ノ京御輿岡の御旅所へ渡御し、三日間の駐輦の後に、十月四日に本社に還幸されることと定められました。また、祭礼期間中は「ずいき御輿」が御旅所に供えられ、還幸祭にあわせて氏子区域を練り歩くことも定められました。そして、かつての「北野祭」の八月四日は例祭として本殿祭だけが斎行されるようになりました。


北野天満宮のHPによると、「ずいき祭」の中でも、還幸祭は特別の意味がある重要な行事ということです。一般的な神社の祭礼でいう、祭神が本社にお帰りになるという意味だけでなく、「おいでまつり」という別名があるように、「大宰府で御隠れになった菅原道真公の御霊が神として初めて北野の地においでになる」という北野天満宮御鎮座の由来を回顧し、再現する意味もあるということです。歴史伝承を再現したページェント(宗教劇)的な性格もあるということなのでしょう。
そして、かつては、氏子達も神幸祭の行われる一日には普段どおりの仕事をしていても、還幸祭の行われる四日には親類等を招いて御馳走を作って行列に供奉したり、沿道から御輿を拝んだということです。



さて、御旅所の中に小さな神社が祀られています・・これが、御輿岡神社(みこしがおかじんじゃ)で、この土地の守り神として大巳貴命(おおなむちのみこと=大国主命(おくににぬしのみこと))、医薬・病気平癒の神として少彦名命(すくなひこなのみこと)、そして学徳成就の神として菅原大神(菅原道真公・天神)を祀っています。

北野天満宮の創建以前、この御旅所の一帯は、古くは「神楽岡(かぐらおか)」と呼ばれる大きな森林地帯で、鎮守の神として、早くから大巳貴命と少彦名命の二神が祀られていたと伝えられます。
その後、平安時代の天暦元年(947)、北野の地に天満宮が創建され、初めてこの場所に神輿が渡御したことによって御旅所と定められ、地名も「御輿岡(みこしがおか)」と改められたということです。
こうして、この地にあった鎮守社も、菅原大神(菅原道真公・天神)を合祀して、御輿岡神社と呼ばれる北野天満宮の境外末社となったと伝えられています。

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下京区大宮松原西入る中堂寺西寺町には、多くの寺院が集まっていますが、その中で地域以外の方にも比較的知られているのが、長円寺(長圓寺 ちょうえんじ)です。(寺院の来歴が記された駒札があるのもここだけです。)
長円寺は、京都の三十三の観音菩薩を祀っている「洛陽三十三所観音霊場」の第二十四番の札所ということもあって、巡礼で来られた方の受け入れ体制も整っているという印象です・・小さな観音堂で、心静かに端正な観音菩薩像と対面させていただけます。



さて、長円寺は、山号を延命山(えんめいざん)という浄土宗寺院です。江戸時代の慶長十三年(1608)、当時の京都所司代・板倉伊賀守勝重が、清巌和尚に請じて建立したのが始まりで、勝重の死後、その法諱(諱 ほうき)の「長円院(長圓院)」にちなんで寺名を「長円寺(長圓寺)」としたということです。ただ、観音堂はそれより早い時期にこの地に建立されていたという伝承があり、以下のような観音菩薩像の由来が伝わります・・・

平安時代の天禄三年(973)、一条天皇の時代に、京の都に疱瘡が流行しました。時の大納言・藤原親衡は、これを鎮めんとして、名僧として知られる恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)に一体の観音像を作らせました。そして、この像を宮中に安置して二十一日間の祈願法要を行ったところ、たちまち疱瘡は治まったということです。以来、疫病除けの霊験あらたかな観音様として今日まで祀られるようになったと伝わります。
その後、この観音像は比叡山に安置されますが、天正十五年(1587)、三河国(愛知県東部)の永安寺の住職であった清巌和尚が、応仁の乱後の京都の寺院の荒廃を嘆いて、観音像を比叡山から移して空き地となっていたこの地に小庵を建立し祀ったといわれます・・これが長円寺の観音堂の由来ということです。そして前記したように、京都所司代となった板倉勝重が、清巌和尚に帰依して土地を寄進して堂宇を整え、長円寺(長圓寺)を創建したということです。



ここで板倉勝重について少し書いてみます・・板倉勝重(いたくらかつしげ 1545〜1624)は、江戸時代の歴代京都所司代の中で最も良く知られた人物でしょう。

京都所司代は、江戸の徳川幕府の代理として、天皇家や公卿の動向を監督して京都市政を指揮し、また近畿八ヵ国の訴訟の処理や西国大名の監視なども務めました。
板倉勝重は所司代を務めること十八年、その跡を継いだ子の重宗は三十五年という長期の在職で、この二代の板倉氏の行政手腕が、江戸初期の京都市政を確立したといえます。江戸時代を通して京都所司代は短期のものを含め五十八代を数えますが、その多くがニ〜三年程度で交代していて、大阪の夏・冬の陣前後の豊臣家への監視や、禁中並公家諸法度の施行等の諸問題を処理した板倉勝重と子の重宗の業績に並ぶ京都所司代はいなかったといえます。

さて、板倉勝重は、天文十四年(1545)に三河国(愛知県)に板倉好重の子として誕生しました。
板倉氏は足利一族の出身で三河に定着し、戦国時代初期に三河の松平氏(後の徳川氏)仕えた家柄です。勝重は幼少時に出家しますが、永禄四年(1561)に父・好重が、そして跡を継いだ弟の定重も天正九年(1581)に戦死したことから、家康の命によって還俗して家督を継ぐことになります。
その後、天正十四年(1586)に駿府町奉行を務め、天正十八年(1590)の家康の関東転封後は、直轄領の代官や小田原奉行、江戸町奉行を兼務しました。そして、慶長六年(1601)京都町奉行を経て、京都所司代に就任しました。所司代屋敷は、二条城の北一帯に及ぶ広大な敷地があり、上屋敷や堀川屋敷、千本屋敷などから構成されていました。(本屋敷跡は上京区藁屋町の待賢小学校付近、下屋敷跡は上京区下堀川町のひまわり幼稚園付近に石標があります。)

その後、板倉勝重は、慶長十四年(1609)に山城・近江国に領地を加増され、すべて一万六千六百余石を領する大名となっています。また、元和元年(1615)の大坂の陣の原因となった方広寺鐘銘事件では強硬策を主張して重要な役割を果たし、禁中並公家諸法度の施行後はその指導と監視に当たりました。元和六年(1620)に、高齢を理由に子の重宗に京都所司代の職を譲って京都堀川で隠居し、寛永元年(1624)に七十九歳で死去しました。


さて、長円寺は、その後、天明八年(1788)の天明の大火で堂宇を焼失しますが、第十五世・瑞誉上人が再建し、華頂宮尊頂法親王から「長円寺(長圓寺)」の額を賜っています。
境内には、本堂・庫裡・客殿・観音堂等があり、本堂には本尊として慈覚大師円仁作と伝える阿弥陀三尊像を祀っています。そして、先程も書きましたが、本堂北の観音堂に安置する聖観音像は、恵心僧都作と伝えられ、「洛陽三十三所観音霊場」の第二十四番の札所として静かに巡礼者を迎え入れています。


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