京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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下京区堀川通松原上る来迎堂町・・堀川五条の交差点から堀川警察署を越えて少し北へ歩くと、堀川通沿いに小さな地蔵堂があります。これが松原通堀川西入るの南側と北側にある二つの町、北門前町と来迎堂町が祀るお地蔵様「北来地蔵菩薩 (ほくらいじぞうぼさつ)」です。
京都には、数え切れない程の石の「お地蔵さん」が町内ごとに祀られていますが、このお地蔵様は珍しい木彫仏で、駒札が立てられ来歴が記されています。


京都市の駒札によると、松原通の南側にある北門前町という町名は、日蓮宗の大本山本圀寺の北門前に位置することに由来するということです・・・
現在、山科区にある日蓮宗の大本山・本圀寺については前にブログに採り上げましたが、南北朝時代以降、この堀川六条付近(現下京区堀川通五条下る柿本町付近)に東西二町・南北六町にわたる広大な寺領を有していました。その当時、多くの塔頭を数える大寺院として、妙顕寺と並んで京都での日蓮宗布教に最も大きな役割を果たしますが、天文五年(1536)、比叡山延暦寺宗徒が日蓮宗ニ十一箇本山を焼き払った「天文法華の乱(天文法難・天文法乱)」に遭って他の寺院と共に堺に逃れました。
その後、同十一年(1542)に勅令によって帰洛を許され、同十六年(1547)に京都六条に再建しました。本國寺はその後、松永久秀や加藤清正、豊臣秀次の母・瑞龍院日秀尼の庇護を受けて栄え、江戸時代には徳川光圀の熱心な帰依を受けたことから、光圀に因んで寺名を本圀寺と改称したと言われます。その後、天明八年(1788)、天明の大火で経蔵等一部を残して類焼しましたが、順次再建復興しました。しかし、昭和の敗戦後、本寺末寺の解体や寺所の散失等により衰退し、経営難からついに昭和四十六年(1971)寺地を売却し、多くの塔頭を残したまま、本山を現在の京都山科区御陵に移転しています。

また、松原通の北側にある来迎堂町という町名は、平安時代の天仁二年(1109)、この地に創建された来迎堂という寺院に由来するということです・・
この来迎堂という寺院は、以前にブログに採り上げた浄土宗寺院の新善光寺(下京区富小路通五条下ル本塩竈町)のことで、古くから来迎堂新善光寺と呼ばれてきました。
新善光寺(来迎堂)の本尊・阿弥陀如来像は、信州善光寺を創建した本田善光の子、善助によって善光寺本尊の阿弥陀像の分身として同型に造られたと伝えられます。元々この阿弥陀像は、南都(奈良県)にありましたが、平安時代の天仁二年(1109)に、堀川松原のこの地に伽藍が建立された際に、安置されたと伝わります。応仁の乱で焼失した後は、各地を転々とし、天正十九年(1591)に、豊臣秀吉の命により本塩竈町に移されたと伝えられます。


さて、この由緒ある寺院ゆかりの北門前町と来迎堂町ですが、江戸時代の天明八年(1788)、「天明の大火」で罹災します。そして、その後、町内の人々の深い地蔵信仰によって作られたのが、この木造地蔵菩薩像であるといわれています。
二体の地蔵菩薩像は、近年まで町内の古老の家に祀られていましたが、堀川通の暗渠整備に伴って、町内の人々によって地蔵堂が建設され安置されました。地蔵堂の中の二体は、外から見えませんが、北門前町が立像、来迎堂町が坐像で、共に江戸時代の木彫仏で貴重なものということです。尚、「北来」という名称は、北門前町と来迎堂町の頭文字をとったもので昭和十五年(1940)以来、一般にこのように呼ばれているということです。




ついでですが、来迎堂町のすぐ北、猪熊通松原下る高辻猪熊町に一つの神社があります・・杉蛭子大神宮(すぎえびすだいじんぐう)です。
「区民の誇りの樹」に選ばれたイチョウの大木が目印となっている極めて情報の少ない神社です。(ネット検索してみると、全国の神社を巡って研究をされている方のホームページとこのブログ程度しかヒットしない程です。)

祭神の蛭子神(ひるこのかみ)は、中世以降に恵比寿(えびす)神と同一化して広く信仰されましたが、元々は「古事記」や「日本書紀」に登場する神で、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の間に生まれた最初の子として登場します。しかし、蛭子神は生育が悪かったために、両神は、この幼子を葦船に乗せて海に流したと記されています。その後、蛭子神は、仏教やその他の影響で恵比寿(えびす)信仰と結び付いていったようです。
杉蛭子大神宮のある猪熊町の隣が杉蛭子町という町名であることから、杉蛭子町の鎮守社として祀られてきたのでしょう。また、境内には末社の稲荷社を安置しています。

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上京区寺町通今出川上る鶴山町にある本満寺(ほんまんじ)は、本尊十界大曼荼羅を祀る日蓮宗の本山です。山門横には「洛陽十二支妙見めぐり」の妙見宮があり、戦国武将・山中鹿之助(鹿介)の墓があることでも知られています。(以前に少し書いていますが、書き足りない所も多かったので、写真を撮り直して再掲載してみます。)


さて、本満寺は、寺伝によると、室町時代の応永十七年(1410)関白・近衛道嗣(このえみちつぐ)の嫡子で、本山本圀寺(現在、山科区 ブログに採り上げました)五世・日伝上人の弟子だった玉洞妙院日秀(にっしゅう)上人によって創建されました。上人は父の菩提を弔うために、朝廷から三万坪の敷地を与えられ、今出川新町(現同志社大学新町キャンパス付近)にあった近衛道嗣の邸内に「広宣流布山(こうせんるふざん)本願満足寺(ほんがんまんぞくじ)」という殿内道場を造りました・・現在の寺号「広布山(こうふざん)本満寺」はその略称ということです。
現在、同志社大学新町キャンパスの南半分は近衛殿表町に属し、その南には元本満寺町があります。この地名から本満寺は近衛殿の南に建てられたと考えられています。


その後、天文5年(1536)比叡山延暦寺が、京都の日蓮宗寺院京都二十一箇本山を焼き払った「天文法華の乱(天文法難・天文法乱)」に遭って他の寺院と共に堺に逃れました。そして、他の本山に先駆けて天文八年(1539)、関白・近衛尚道の外護によって京都帰還が許され、天文年間(1532〜55)後半、寺町通今出川の現在地に再建されたと伝えられます。
(ただ、現在の寺町通の多くの寺院が豊臣秀吉の京都改造計画によって移転してきた経過を考えると、本満寺も桃山時代の慶長頃に移転したのではとも考えられています。その根拠の一つとして、天文年間後期に描かれたとされる「上杉本洛中洛外図屏風」があります。この屏風絵では本満寺は、創建地の元本満寺町から南へ約三百メートルの一条小川付近に描かれていて、京都帰還後に一条小川に再建され、その後現在地に移転したと考えられるからです)


ともかく、本満寺は、その後、第百五代・後奈良天皇(在位1526〜1557)の勅願所となって栄えました。この頃の歴代貫首の中には、第十二世・一如院日重(1549〜1623)上人、第十三世・寂照院日乾(1560〜1635)上人、第十四世・心性院日遠(1572〜1642)上人といった日蓮宗・身延山久遠寺の中興となった名僧が輩出しています。
その後、宝暦元年(1751)に第三十五世・慈雲院日鳳上人が、八代将軍徳川吉宗の病気平癒祈祷をして効力があり、以来、徳川家の祈願所にもなりました。万治四年(1661)、宝永五年(1708)、そして天明八年(1788)の「天明の大火」に遭って三度類焼しますが、その都度再建されています。また、現在の本堂や妙見堂は、明治四十四年(1911)の焼失後、昭和二年(1927)に再建されたものということです。

境内には、表門、本堂、方丈、書院、客殿、鐘楼、庫裡、妙見堂、第十四世・心性院日遠上人が七面山(身延山)で感得したという七面大明神が安置された七面堂等があります。江戸時代には三十もの塔頭があったようですが、現在まで一乗院、守玄院、実泉院、法泉院の四つの塔頭寺院が存続しています。


また、本堂左には徳川家康の次男・結城秀康の正室、蓮乗院(鶴姫 ?〜1621)の石廟があります。これは平成十七年(2005)に一年がかりで修復完成されたものです。(京都新聞の記事を参照します)

蓮乗院(鶴姫)は、下総国(千葉県北部・茨城県南部)結城城主・結城晴朝の養女(生父は水戸城主・江戸重通)で、後に晴朝の養子となった徳川家康の次男・結城秀康(後に初代福井藩主)の正室となりました。慶長十二年(1607)の秀康の死後は、公家の烏丸光広(1579〜1638)の正室となって、元和七年(1621)に亡くなっています。
この石廟(高さは約2・7m、幅約2・1m、奥行き約1・7mあり、内部に高さ約1・3mの石塔が収められています)は、蓮乗院の死去した元和七年(1621)に建立されたもので、夫の烏丸光広が、御所と関係が深かった本満寺に建立したものと考えられています。京都に現存する数少ない石廟でしたが、経年により崩落寸前の状態となっていました。しかし、調査によって、かつては極彩色の天女や仏像の浮き彫りが施されていた豪華な石造物と判明し、現在高野山(和歌山県)にある重要文化財指定の結城秀康の石廟と同様の特徴を持つ「姉妹廟」の可能性もあるために、文化財的な価値を損なわないように修復され、江戸初期の外観を再現しました。(写真)

また、寺宝として、重文指定の「紺紙金泥一字宝塔法華経並普賢経(京都国立博物館寄託)」をはじめ、宗祖日蓮大聖人の真蹟「十界大曼荼羅(御本尊)」ニ幅、筆の祖師像狩野元信、「土木殿御返事(龍口消息)」、第十二世日重上人の筆による「本満寺御書」等の多くを所蔵しています。




さて、境内裏の墓地には戦国時代の尼子家家臣、山中鹿之助幸盛(やまなかしかのすけゆきもり・鹿介)の墓があります。山中鹿之助は、中国地方の戦国大名・尼子氏に仕えた忠臣として知られます。

戦国時代前半には、山陰山陽八ヶ国を領して一大戦国大名として君臨していた出雲(島根県)の尼子氏も、山中鹿之助の時代には、安芸(広島県)を本拠とする毛利氏に次第に圧迫されて衰亡の危機にありました。ついに永禄八年(1565)、当主の尼子義久は、本拠地の月山富田城を毛利の大軍に包囲され、翌九年(1566)ついに落城、義久は毛利に降伏し尼子家は滅亡します。

しかし、山中鹿之助ら遺臣たちは、尼子氏の再興を諦めず、永禄十一年(1568)、京都で僧籍にあった一族の遺児・勝久を見つけて擁立し、旧領回復に挑んで出雲や因幡で攻撃を再開します。永禄十二年(1569)、尼子勝久と鹿之助らは、出雲に残っていた尼子家遺臣を糾合し、新山城を占領して出雲周辺を奪回していきます。しかし、毛利氏の反撃にあって、元亀二年(1571)に新山城は落城しました。鹿之介も毛利軍に捕らえられますが、監視の目を逃れて脱走し、主君勝久と京都に逃れました。

さて、京へ逃れた尼子勝久と鹿之助らは、織田信長に謁見して、中国攻めの先方に任じられます。元亀三年(1572)、因幡国(鳥取県)の山名氏の軍勢に加わって因幡を転戦、その後、毛利氏に接近した山名氏から離反して因幡の諸城を攻略します。しかし、天正四年(1576)頃になると、毛利の反撃と、石山本願寺や上杉謙信と対立していた信長が毛利との休戦を望んで尼子遺臣への援助を中止したことにより、鹿之介らは敗北して丹波へ逃れました。

その後、天正五年(1577)、尼子勝久と鹿之助らは、羽柴秀吉の中国遠征の先鋒に任じられます。そして、秀吉が、毛利に属する備前国(岡山県)の宇喜多直家の支城、播磨国(兵庫県)の上月城を占拠すると、鹿之介らは上月城を守備を命じられました。しかし、天正六年(1578)に毛利・宇喜多軍の大軍によって上月城が包囲されると、播磨の別所氏が三木城で反旗を翻して東播州が反織田勢力の手に落ちたこともあり、退路を絶たれることを警戒した織田軍は播磨から撤退します。これにより上月城は孤立して、ついに尼子勝久は毛利に降伏して自害、鹿之助は毛利陣中への護送中に殺害されました。

山中鹿之助の生涯は、江戸時代には講談などで「真田十勇士」と同様の「尼子十勇士」の筆頭として喧伝され、悲劇の忠臣として有名になりました。特に、山中鹿之助が三日月を信仰し「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったという有名なエピソードは、戦前は、武士道精神を象徴する物語として教科書にも採り上げられました。山中鹿之助の墓(供養塔)は全国に有るようですが、本満寺の墓も存在感あるお墓です。



さて、本満寺の山門横には、京都「洛陽十二支妙見めぐり」の「丑(北北東)」に位置する「出町の妙見宮」があります。
妙見菩薩とは、北極星、北斗七星を神格化した、宇宙万物の運気を司り支配する菩薩になります。奈良時代にはすでに民間の信仰を集めていたようで、方位の神から、徐々に商売繁盛、厄除け、安産などあらゆる方面にご利益のある神として朝廷から民衆まで広い信仰を集めました。

「十二支妙見めぐり」というのは、江戸時代中期に、御所の紫宸殿を中心に十二支の方角に、各々妙見菩薩を祀ったことに始まります。そして、この十二の妙見を順番に訪問して開運や厄除けを祈願することが流行りました。しかし、明治時代になると衰退してしまったようです。その後、昭和六十一年(1986)京都の日蓮宗寺院を中心に「洛陽十二支妙見会」が発足し、十二支妙見めぐりが復活しました。現在の十二の寺院は、江戸時代とは大半が入れ替わっていますが、当時の歴史と伝統を今に伝えています。


「洛陽十二支妙見めぐり」の寺院です。

●子(北)西陣の妙見宮(善行院)

●丑(北北東)出町の妙見宮(本満寺)

●寅(東北東)修学院の妙見さん(道入寺)

●卯(東)鹿ケ谷の妙見さん(霊鑑寺)

●辰(東南東)岡崎の妙見さん(満願寺)

●巳(南南東)清水の妙見宮(日体寺)

●午(南)伏見大手筋の妙見さん(本教寺)

●未(南南西)未の方の妙見さん(法華寺)

●申(西南西)島原の妙見さん(慈雲寺)

●酉(西)小倉山の妙見宮(常寂光寺)

●戌(西北西)鳴滝の妙見宮(三宝寺)

●亥(北北西)鷹峯の岩戸妙見宮(円成寺)


さて、上記した本満寺第十三世・日乾上人は、大阪にある能勢妙見山(大阪府豊能郡能勢町野間中)を創建した事でも知られます。上人は、慶長七年(1602)、摂津国(現大阪)の豪族・能勢氏の帰依を得て、能勢町地黄に真如寺を創建し、翌年(1603)にその飛び地境内に能勢妙見山を建立します。本満寺の妙見堂には、この能勢と同体の妙見大菩薩像が安置されているということなので、ここで長くなりますが、能勢妙見山の創建について書いてみます。

戦国時代末期の能勢の豪族・能勢頼通は、代々足利氏に仕えていたために、織田信長に臣従することを拒絶します。そのため、信長の命で討伐され、天正八年(1580)に殺害されました。遺臣たちは頼通の弟、頼次を後継者として戦いますが敗れ、為楽山(現妙見山)に逃れて、居城を築きました。天正十年(1582)に本能寺の変が起こると、能勢頼次は、隣接する亀岡城主の明智光秀と普段から親しく、また信長が兄を殺害させたこともあって、光秀に味方しました。しかし、このため、光秀を滅ぼした秀吉軍によって領地を攻められます。

領地を奪われた頼次は、備前国(岡山県)まで落ち延び、妙勝寺という日蓮宗の寺院で変名を名乗って隠れ住みました。秀吉の死後、徳川家康が頼次の弟が住職だった京都の実相寺(現在の南区上鳥羽)でたまたま休憩したことから、頼次は家康に知られ召し抱えられるという幸運にめぐり合います。そして、頼次が関ヶ原の戦いで戦功を立てたことから、能勢氏の旧領を与えられることになります。

頼次は、放浪中の妙勝寺で能勢氏再興を願っていましたが、これが実現したことで、日蓮宗への信仰を深め、身延山久遠寺の日乾上人に帰依してその広い山屋敷を寄進しました。こうして、慶長七年(1602)真如寺が創建されました。また、日乾上人は、翌八年(1603)に能勢氏が古くから祀っていた「鎮宅霊符神」を、「妙見大菩薩」として武具甲冑姿の尊像を自ら彫刻して為楽山の山頂に祀りました。これが能勢妙見山の始まりになります。本満寺の妙見堂にはこの能勢と同体の由緒ある「妙見大菩薩」が祀られているということです。



最後に、本満寺の境内には地域の誇りの木となっているソメイヨシノが植えられていて、春には境内は華やかな雰囲気となります。

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今回は、かなり以前に少しだけ採り上げた史跡ですが、写真を撮り直して書き加えてみます。
上京区寺町通今出川上る西入る幸神町・・京都御苑の東北、梨木通を北へ突き当たったところに小さな神社があります。これが出雲路幸神社(いずもじさいのかみのやしろ)=通称、幸神社(さいのかみのやしろ)です。


主祭神は、道祖神=交通安全の神として信仰される猿田彦神(さるたひこのかみ)です。
また、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)、天照皇太神(あまてらすすめおおかみ)、皇孫瓊瓊杵尊(こうそんににぎのみこと)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)、大国主尊(おおくにぬしのみこと)、少彦名神(すくなひこなのかみ)、事代主命(ことしろぬしのみこと)を配祀しています。

主祭神の猿田彦神は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、葦原中国(あしはらなかつくに=日本国土)を治めるために高天原から日向国・高千穂峰に降った・・いわゆる天孫降臨の時に、その道案内をしたことから、道の神・旅人の神とされます。また、猿田彦神は、村の境界や道の辻などに祀られる、元々中国伝来の「道祖神(どうそしん)」と同一視されるようになり、子孫繁栄や交通安全の神としても信仰されるようになりました。



さて、出雲路という変わった社名についてです・・・
京都の中心を流れる鴨川は、北の雲ヶ畑(北区)を源流とする賀茂川(鴨川)と、北東の大原(左京区)を源流とする高野川が出町柳(えまちやなぎ)付近で合流していますが、この出町柳から北東、賀茂川沿いの細長い地域は京都市北区「出雲路(いづもじ)」という地名で呼ばれています。
かつて、この地域一帯は、「愛宕郡(おたぎぐん)出雲郷」と呼ばれ、平安時代以前の古代に出雲地方から京都に移り住んできた出雲氏が住み着いていた地域と考えられています。

そして、この出雲氏の氏寺として、現在の上御霊神社付近(上京区上御霊前通烏丸東入る上御霊竪町・馬場町・相国寺門前町付近)に「出雲寺(いずもじ 上出雲寺)」という寺院がありました。
出雲寺は、付近から出土した瓦などから、奈良時代前期に創建され、広大な寺域を持っていたと考えられていますが、平安時代後期には荒廃して、その後歴史から消えていったようです。しかし、出雲寺への参道沿いの地域ということから、「出雲路」と呼ばれていた地域名が現在まで残ったと考えられています。現在の出雲路幸神社は、賀茂川(鴨川)沿いの出雲路から少し西南に離れて位置していますが、元々は、賀茂川(鴨川)沿いのこの出雲路付近に祀られ、出雲路の街道を守る道祖神として古来信仰されてきたようです。


さて、出雲路幸神社は、社伝によると、創祀は平安京以前に遡るとし、延暦十三年(794)桓武天皇が平安京に遷都した際、都の東北(鬼門)に鬼門除けの守護神として造営されたと伝えられます。
確かに、神社は京都御所の東北に位置していますが、平安遷都当時の御所の位置が現在地より西にあったことを考えると(現在の京都御所は、鎌倉時代末期の元弘元年(1331)に、北朝の光厳天皇が居住していた里内裏の一つ、「土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)」を原型として発展しました)、実際には、現在地に御所が出来て以降、少なくとも南北朝時代以降に、現在の場所に再建遷座されたものと考えられます。

ともかく社伝によると、平安時代には出雲路道祖神と呼ばれ、方除けの神様、道祖神として崇敬を受けていたようです。元々は一町四方の社域があったようですが、応仁の乱の兵火によって焼失し、その後も、慶長年間の豊臣秀吉の京都市中の改造計画の影響を受けて、社域も縮小して衰退してしまったと伝えられます。ようやく江戸時代に入って次第に復興し、出雲路幸神社と呼ばれるようになりました。その後、天明八年(1788)の天明の大火で焼失して再建され、明治六年(1873)村社に列格しています。



狭い境内には、中央に本社、左は社務所があります。右には三天社、淡嶋社、厳島神社、二つの稲荷社、三宝大荒社、春日社、天満宮等の末社が並び、その奥、境内の東北隅には御神石の猿田彦神石が祀られています。この石は、狂言「石神」に出て来る神石ともいわれています。

狂言「石神」のストーリーです・・・
ある時、妻から愛想をつかされて離縁されそうになった夫がいました。夫は、離縁にならないように何か手立てはないかと仲人に相談します。仲人のアドバイスは、妻がここに相談に来たら、出雲路の夜叉神(石神)のお告げを聞いてから離縁するべきか決めるようにと言うから、夫は石神に化けているようにというものでした。
さて、予想通りに、妻が仲人に相談に来たので、仲人は、夫が先回りしている出雲路の石神にお告げを聞きにいくように勧めます。アドバイスを受けた妻は、さっそく神社にやってきて、願掛けしながら夫が化けている石神を持ち上げようとします。妻が「石が持ち上がれば離縁して里に帰る」と言うと、夫(石神)は動かず、「石が持ち上がれば夫に添う」というと夫(石神)が立ち上がって石が持ち上がりました。占いの結果、妻は離縁を思い止まって神楽を奉納しますが、夫が神楽に浮かれて妻と一緒に舞ってしまって正体がばれてしまったという話です。


また、鬼門を守る神として、本殿の東側には御幣を肩にした日吉山王の神使である猿の木像が安置されていることでも知られます。(前にブログに採り上げました京都御所の猿ヶ辻の猿、赤山禅院の猿と共に、御所の鬼門を守っています。)
この神社は、今では道祖神信仰と結び着いて「縁結び」の神様としても崇敬されているようで、恋愛・結婚成就を記した猿の絵が描かれた多くの絵馬が奉納されています。ひっそりとした隠れ家のような神社ですが、なんとなく味があります。

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京都市上京区の寺町通り沿いは多くの寺院が立ち並んでいます。
これまで、天寧寺、西園寺、阿弥陀寺、十念寺、佛陀寺、本満寺、さらに南に下って、本禅寺、清浄華院、盧山寺を採り上げてきました。もちろん、これ以外にも小さなお寺は幾つか有るのですが、来歴の面白い寺院はあまり残っていないと感じています。今回はこの寺町通り沿いの、知らない人は絶対に通り過ぎてしまう隠れた由緒あるお寺と墓地です。


上京区寺町通上る鶴山町にある小さな寺院が大歓喜寺(だいかんきじ)です。
小さな山門の向こうには、表札が無ければ寺院だとわからない一般住宅のようなお寺があり、小さな墓地と祠が点在しているだけです。しかし、この大歓喜寺は、京都の門跡尼寺の最上位に位置して「御寺(おてら)御所」とも呼ばれる大聖寺門跡(前にブログに採り上げています 上京区烏丸通り今出川上ル御所八幡町)の由緒ある非公開の菩提寺になります。これら歴代の皇女尼僧の命日には、宮内庁によって非公開の追悼式が今も行われているということです。

そして、現在、この大歓喜寺には、「中世日本研究所 女性仏教文化史研究センター」がおかれています。
この研究施設は、平成十五年(2003)、日本の中世史、特に近年は門跡尼寺の研究で知られるコロンビア大学名誉教授のバーバラ・ルーシュ氏が、コロンビア大学の中世日本研究所の姉妹団体として平成十五年(2003)に設立したものです。平成十三年(2001年)、バーバラ・ルーシュ氏が、大聖寺の花山院慈薫門跡を訪問した際に、大聖寺の菩提寺である大歓喜寺の長く空き家となっていた2階建ての庫裏を、事務所及びセンター設立準備室として使ってはどうか、との申し出を受けて設置され、以来、広く東アジアでの女性と仏教の歴史に関する研究拠点として活用されています。
町の路地裏にこのような皇室ゆかりの民家のような寺院があり、日本でも研究が遅れていた尼門跡寺院の調査・修復を中心とした日本文化の探求が行われているというのは、いかにも京都らしい風景ではあります。


また、大歓喜寺の境内奥には、宮内庁が管理する大聖寺宮墓地(9墓1塔)があります。
これらは、安土桃山時代から江戸時代末期に至る大聖寺の歴代の皇女尼僧の墓になります。京都で最上位に位置する門跡ゆかりの宮墓地は、近所のお年寄りの憩いの場でもある鶴山児童公園の隣でひっそりと佇んでいるといった印象です。


大聖寺宮墓地

○正親町天皇皇孫女・永邵(えいしょう)女王墓

○後陽成天皇皇女・文高(ぶんこう)女王墓

○後陽成天皇皇女・永宗(えいそう)女王墓

○後水尾天皇皇女・元昌(げんしょう)女王墓

○後水尾天皇皇女・永亨(えいこう)女王墓

○霊元天皇皇女・八重宮(やえのみや)墓

○霊元天皇皇女・永秀(えいしゅう)女王墓

○霊元天皇皇女・永応(えいおう)女王塔

○中御門天皇皇女・永皎(えいこう)女王墓

○光格天皇皇女・永潤(えいじゅん)女王墓

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上京区寺之内通新町西入る妙顕寺前町にある妙顕寺は、日蓮宗京都十六本山の一つとして知られる大寺院です。妙顕寺については、いずれブログに採り上げたいと思いますが、今回は本山の東にある塔頭の泉妙院(せんみょういん)を採り上げました。
泉妙院は、普段はいつも門が閉まっている地味な小さな寺院ですが、門前に「尾形光琳(尾形一族・乾山)菩提所、興善院旧跡」の石標と掲示版があるように、有名な尾形光琳や乾山の菩提所という点で注目されます。



情報の少ない塔頭のために、本山妙顕寺のHPを引用して書いてみます・・
泉妙院は、室町時代の永和元年(1375)、日縁上人によって創建されたということです。その後、天文五年(1536)に、比叡山延暦寺が大軍を動員して、京都の日蓮宗寺院京都二十一ヶ本山を全て焼き払った「天文法華の乱(天文法難・天文法乱)」に遭って他の寺院と共に堺に逃れ、後に京都へ戻って、京都五辻(上京区)にあった二十一箇本山の一つ、弘経寺(永和元年(1375)に日誉上人によって創建)の境内跡地に身を寄せました。
弘経寺自体は、天文十一年(1542)に京都に帰還した日蓮宗十五ヶ本山に含まれず、後に廃絶したためにその詳細は不明ですが、妙顕寺のHPによると、天明八年(1788)の「天明の大火」の後、「弘経寺の天徳院日法上人が、本行院と合併して興善院跡に泉妙院を再建した」と書かれています。(弘経寺の詳細が不明なために、弘経寺の名跡を継ぐという泉妙院が、どのようにして妙顕寺の塔頭となったのか等わかり難いですが、泉妙院前の掲示石版を参照して後で少し書いてみます。)


さて、尾形光琳は、江戸時代の万治元年(1658)、京都の大呉服商「雁金屋(かりがねや)」の当主・尾形宗謙(おがたそうけん)の次男として生まれ、本名を惟富(これとみ 市之丞とも)といいました。また、五歳下には、前にその釜跡を採り上げた尾形乾山がいます。尾形家は、雁金屋の初代・尾形道柏(どうはく 光琳・乾山の曽祖父)の代に、当時のファッションの最先端でもあった呉服染色業を始めたといわれます。また、道柏の妻は本阿弥光悦の姉法秀(ほうしゅう)で、その後、尾形家から優れた芸術家が生まれたのは本阿弥家の影響があったのかもしれません。事実、道柏の子・雁金屋二代宗柏や、その子三代宗謙も諸芸に優れた多趣味な人物として知られ、光琳や乾山も若くして絵画や書道、茶道等の芸術に触れて育ったようです。

貞享四年(1687)の父の死後、遺産を譲られた光琳は、放蕩三昧の生活を送って財産を使い果たし、ようやく四十歳を過ぎてから本格的な絵師としての活動を始めたようです。元々狩野派に学んでいましたが、やがて本阿弥光悦や俵屋宗達の影響を受けて、独自な斬新で装飾性に富む琳派様式を大成していきます。光琳は多くの公家や大名の支援を受けましたが、特に、京都の銀座(貨幣鋳造所)の担当役人・中村内蔵助との関係が深く、江戸詰に転じた内蔵助を頼って宝永元年(1704)頃に江戸に向います。しかし、相変わらずの借金暮らしで、自宅を手放して宝永六年(1709)に京都へ戻り、新町通り二条下る(中京区)へ移り住んでいます。そして、享保元年(1716)六月二日に五十九歳で亡くなり、尾形家一族の菩提寺・興善院に埋葬されました。



光琳は、絵師を職業と考えていなかったためか、宝永五年(1706)に、嫡子・寿市郎を小西家に養嗣子としています。こうして、尾形家の血筋は小西家に受け継がれることになりました。しかし、このために、尾形一族から代々の住職を出していた興善院はその後無住となって、墓だけを残して建物も取り払われ、妙顕寺塔頭の本行院が管轄することになりました。
しかし、この本行院も、天明八年(1788)の「天明の大火」で消失し、また、小西家も困窮してしまっていたために、改めて墓域を整備することが出来ず、文化ニ年(1805)五月三日、光琳の墓石は、多くの墓の並ぶ妙顕寺総墓所に移されました。
そして、恐らく多くの墓の中に埋もれてしまっていたのでしょう・・・光琳没後百年の後、光琳を常々尊敬していた、江戸末期の江戸琳派の画家・酒井抱一は、光琳百回忌を行おうとしますが、墓地で光琳の墓を見つけ出すことが出来ませんでした。そこで、抱一は、文政ニ年(1819)に、新たに「長江軒青々光琳墓」と刻まれた墓石を本行院跡地に建立したということです。

さて、文政三年(1820)、「天明の大火」で消失した本行院(妙顕寺本堂の東に位置)は、泉妙院(妙顕寺本堂北に位置)と合併して、尾形家一族の菩提寺だった興善院跡(妙顕寺の南東)に再建され、本行院跡地の墓碑は泉妙院が管理することになりました。
小西家は縁戚として代々尾形家の墓を守ってきましたが、明治四十一年(1908)六月、三越呉服本店(現・株式会社三越)が、光琳一族の縁戚、小西得太郎と共に、施主となって光琳忌法要を行いました。その後、昭和二十ニ年(1947)頃、小西家は断絶しますが、現在も三越が毎年光琳忌法要を営んでいるとうことです。
その後、昭和三十四年(1959)、文化財専門審議会の琳派の研究家が、妙顕寺総墓所へ移されていた光琳の墓石を元の場所へ戻すことを提案し、昭和三十七年(1962)、妙顕寺の正門が南側に移転したのを切欠として、光琳の墓を埋葬地の泉妙院に戻して現在に至っています。
また、泉妙院は小西家の寄贈品や光琳とその一族の作、文献等を所蔵し、一族の位牌を祀っているということです。

門は常に閉ざされていますが、外から遠景で写真を撮ってみました。境内中央の比較的新しい白い墓石が、酒井抱一が建てたと伝わる「長江軒青々光琳墓」と刻まれた墓、その横に並ぶのが総墓地から移された尾形光琳や乾山等一族墓、右端が三越が建立した供養塔です。

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