京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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京都市上京区堀川通寺之内上る扇町にある水火天満宮(すいかてんまんぐう)は、水難け火難除けの神として知られています。鳥居横の「日本最初 水火天満宮」という石標が目立つ、隠れ家的な雰囲気もある親しみやすい神社です。また、境内の東南一帯に地域の人々の憩いの場になっている扇町児童公園があるので、狭い境内の割には開放感も感じられます。(初春の写真を引っ張り出して使わせてもらいます)


以前に、このブログで「天神信仰発祥の地」といわれる文子天満宮(あやこてんまんぐう)を採り上げましたが、文子天満宮は、天暦元年(947)の北野天満宮創始前から、道真の乳母ともいわれる多治比文子(たじひのあやこ)が、自宅の庭に道真を祀っていた伝説の地として、日本最初の天満宮と称していました。今回の水火天満宮も、北野天満宮以前から道真を祀ったという伝承から、日本最初の天満宮と称しているようです。



さて、水火天満宮は、延長元年(923)六月二十五日、醍醐天皇の勅願によって、洛陽一条上る下り松の地に、雨雷火災を消除する守護神として菅原道真の神霊を祀ったとのが創始と伝えられています。
菅原道真は、延喜三年(903)に配流された大宰府で五十九歳で死去しましたが、死の間際に自身の遺髪を仏教の師だった延暦寺の僧、法正坊尊意に届けました。そして、尊意僧正が一条下り松にあった自身の屋敷に道真の霊を祀り、後に勅命により新たに社殿を建立して神社として発展していったということです。

また、室町時代頃までこの地にあった悲田院の鎮守社が、この天神信仰と結びついて現在の水火天満宮になったとも伝えられます。
天満宮のあるこの一帯には、九世紀初期に、熱心に仏教を信仰したことでも知られる檀林皇后(786〜850 嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子 たちばなのかちこ)が、「悲田院(ひでんいん)」があったと伝わります。悲田院というのは、仏教思想に基づいて、貧病人や孤児等の救済施設として作られた施設のことで、日本では聖徳太子が四天王寺に建てた「悲田院」が最も古く、奈良時代の養老七年(723)に光明皇后によって作られたものが有名です。その後、平安時代になると、京都に東西二ヶ所に設けられたようで、東は当時の鴨川の三条河原付近にありました(現在、河原町御池に碑があります)、その後、鎌倉時代末期から室町時代初期に、現在の水火天満宮や大応寺、興聖寺のある一帯(上京区扇町・天神北町・上天神町・瑞光院前付近)に移り、寺院として整備されていきますが、室町時代の戦乱により荒廃して、江戸時代の正保ニ年(1645)に現在の泉涌寺(東山区)の山内に移されて今日に至っています。しかし、鎮守社はこの地に残り、これが現在の水火天満宮となったということです。

その他神社の記録は少ないようですが、室町時代末期の文明四年(1474)旧暦九月十日には、後土御門帝が水火天満宮に行幸し天神名号の震筆を賜ったという記録もあり、天明八年(1788)の天明の大火で消失した後に再建されています。また、天満宮は、元々、堀川通を挟んだ西側の上天神町にありましたが、昭和二十七年(1952)の堀川通の拡張工事により現在の地へ移されています。




さて、狭い境内には所々に石標や面白い石が置かれています。

道真伝説として知られるのが、「登天石(とうてんせき)」です。古来、性神、道祖神として祀られてきたようですが、この石には以下のような伝説があります。

道真の死後、都では雷火の災いが続いて、道真の祟りであると噂が立ちます。
時の醍醐天皇は、延暦寺から道真の仏教の師・法正坊尊意僧正を呼び寄せて、雷除けの祈祷をさせました。尊意が御所へと向かう途中、鴨川が急に増水して渡れなくなりました。そこで、尊意が川を前に祈願すると、水面が二つに割れて川中の石の上に道真の霊が現れました。道真の霊はそのまま天に昇って行って、たちまち雷雨も止んだということです。
尊意は、道真が現れたこの石を自邸に持ち帰ってその霊を弔いましたが、それが境内にある「登天石」と伝えられます。

その他、鳥居の傍「日本最初 水火天満宮」という石標の左には、「孝学堂跡」の石標があります。
孝学堂は、江戸時代に水火天満宮境内に開設された塾で、民衆に孝道を説いていました。そして、この孝学堂に由来する孝学氏が、代々の天満宮の宮司を務めているということです。
また、「登天石(とうてんせき)」と並んでいるのが「出世石(しゅっせいし)」です。
近年に成功した寄贈者から贈られたものですが、菅原道真のように大出世して活躍する効力ある石として信仰されています。また、眼病に効能があるという「金龍水」という湧き水、また、その上に置かれているのが、妊娠五ヶ月でこの石を拝むと安産するという「玉子石」です。

さらに、末社の六玉稲荷社は、六玉稲荷・玉光稲荷・生島稲荷を合祀しています。元々、東本願寺・枳毅邸の鎮守社だったものが、明治時代にこの地に移されたもので、就職祈願の信仰を集めています。
最後になりますが、境内にある紅枝垂桜が花を咲かせる頃は、天満宮境内は隠れた桜の名所になります。

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どうも、最近、このブログでは左京区の天皇陵が続いていますが、今回は、京都市左京区吉田という地域の小さな二つ天皇家ゆかりの史跡です。
特に天皇陵や皇室ゆかりの史跡に関心があるというわけでは無いのですが、天皇の埋葬地から平安京当時の地勢を想像してみるのも面白いです。そして、天皇以外の皇室関係者の墓の中では、寺院内の墓地にあるお墓よりも、今回のような普通の民家の傍にポツンとある史跡の方に惹かれます。


さて、この左京区の吉田という区域は、大部分が京都大学の中央・吉田・南部キャンパスが占めている地域で、史跡らしいものは吉田山にある吉田神社しか無いように思われます。
しかし細かく地図を見てみると、京都市左京区吉田牛ノ宮町の市街地の中に二つの史跡があることに気付きます・・「醍醐天皇皇孫皇太子・慶頼王墓」と「村上天皇中宮 安子火葬塚」です。



「醍醐天皇皇孫皇太子・慶頼王墓」は、民家の間の狭い参道が、恐らく防犯目的もあって近年柵で封鎖されています(写真)そのために、離れた所から見ることになりますが、鳥居のある神道形式の墓として整備されています。

さて、慶頼王(やすよりおう  よしおりおう 921〜925)は、平安時代の第六十代・醍醐天皇の皇子・保明親王(やすあきらしんのう)の王子です。慶頼王の父、保明親王(903〜923)は、延喜三年に醍醐天皇の第二皇子として誕生し、母は女御・藤原穏子(ふじわらのおんし やすこ 関白・藤原基経の娘 五条后)です。

保明親王は、延喜四年(904)に二歳で立太子されましたが、この保明親王の立太子には、穏子の兄の藤原時平が外戚関係を強化し政権を安定させるために擁立したと考えられます。しかし、時平は延喜九年(909)に三十九歳で死去しました。そして、その後も時平の長男・保忠(やすただ)が承平六年(936)四十六歳で、三男・敦忠(あつただ)が天慶六年(943)三十七歳で亡くなるなど、時平の子孫が相次いで若死にしたことは、時平が大宰府に左遷させた菅原道真の怨霊によるものと考えられました。


そして、延喜二十三年(923)に保明親王も、僅か二十一歳で死去します。
醍醐天皇は同年、保明親王の嫡男・慶頼王を三歳で皇太孫としますが、慶頼王もニ年後の延長三年(925)に僅か五歳で亡くなりました。この皇太子・皇太孫の相次ぐ死去も、慶頼王の母で、保明親王の御息所・藤原仁善子(ふじわらのよしこ)が藤原時平の娘だったために、醍醐天皇や世間も菅原道真の祟りだと恐れたと伝わります。

一方、皇子と皇孫を失った藤原穏子は、道真の怨霊にも負けない強運の持ち主でもあったのでしょう。
延長元年(923)に十九歳で保明親王を生んでから、なんとニ十年の時を経て、三十九歳で二人目の皇子を生み中宮となります。この時誕生したのが寛明親王(ゆたあきらしんおう 後の朱雀天皇)で、前年に亡くなった慶頼王に代わって、直ちに延長四年(926)に立太子されました。
ただ寛明親王は虚弱体質で、道真の怨霊を避ける意味も含めて、格子も閉じられた部屋の几帳の中で育てられたと伝えられます。さらに、穏子は四十二歳という当時としては驚くほど高齢で成明親王(なりあきらしんのう 後の村上天皇)も出産しました。そして、藤原穏子は二代の天皇の母后として七十歳の長命を保つことになります。




さて、今度は「村上天皇中宮・安子火葬塚」です。

前に村上天皇陵、冷泉天皇陵、円融天皇陵を採り上げた時に少し出てきましたが、この火葬塚は、第六十二代・村上天皇の中宮として、冷泉天皇や円融天皇の母親となった藤原安子が火葬された地ということです。

藤原安子(ふじわらのあんし やすいこ)は、延長五年(927)に、右大臣・藤原師輔の長女として誕生し、天慶三年(940)に成明親王(村上天皇)に入内しました。
成明親王(村上天皇)は、天慶七年(944)に兄帝朱雀天皇の皇太子となり、天慶九年(946)に兄帝の譲りを受けて即位し、これにより藤原安子は女御となります。
その後、安子は 天暦四年(950)に憲平親王(後の冷泉天皇)を出産し、親王は生後二ヶ月で立太子されました。また、天暦六年(952)に為平親王、天徳三年(959)に守平親王(後の円融天皇)が生まれています。天徳二年(958)中宮に冊立されますが、応和四年(964)に三十八歳で亡くなりました。


藤原安子のエピソードといえば「大鏡」の逸話がよく知られています。

安子は、村上天皇の皇太子時代からの妃でもあり、皇太子憲平親王や多くの子女を設けたことから、村上天皇に非常に重んじられていたようです。後世、聖君として讃えられた村上天皇ですが、安子に非常に遠慮をしていて、安子が無理な要求をしても拒めなかったといわれます。安子は帝に対して意地の悪い悪戯をしたこともあったようで、天皇は「また、いつもの手か」と言って諦めていたと「大鏡」は記しています。

特に非常に嫉妬深く、天皇の寵愛を受けていた藤原芳子(藤原師尹の娘、安子の従姉妹)の美貌を壁の穴から覗いて嫉妬し、壁の穴から土器(かわらけ)の破片を投げつけたこともあったと伝わります。
これにはその場にいた村上天皇も立腹、これは安子の兄弟らが仕向けたことだろうと、兄弟の藤原伊尹・兼通・兼家を呼んで謹慎を命じると、それを知った安子は、天皇に部屋に来て欲しいと使いを送ります。

天皇はどうせ兄弟の謹慎のことだとわかっていたので、無視していると、安子は何度も何度も使いを走らせて、どうしても来て欲しいと申し入れます。段々、このまま行かなければさらに怒るだろうと怖くなってきた天皇は、ようやく安子の元に行きます。
安子は、「仮に私の兄弟に大きな罪があっても、私に免じて許してくださるのが当然なのに、この件で、このような処分をされるのはもっての外です。本当に情けないことです。直ぐに赦免ください。」といいます。天皇としては、直ぐに赦免するのは外聞が悪いと躊躇しますが、安子は引き下がりません。

さすがに、天皇は疲れてきたのできたのでしょう・・「仕方が無い、そうしよう」と言ってとにかく帰ろうとすると、安子はさらに「今帰ったら、気が変わって直ぐには赦免されないでしょう。今すぐ、ここで赦免状を出してください。」と言って、天皇の袖を摑んで放しません。
根負けした天皇は、その場に使いを呼んで直ぐに兄弟たちを赦免したということです。


一方で、同じ「大鏡」は、安子が、本来は気立ての良い、人に思いやりのある性格だとも記しています。
身分に関係無く下々の者にまで目をかけて、面倒を見るやさしさがあり、安子が亡くなったことを聞いたものは、遠くの地の者まで惜しみ悲しんだということです。村上天皇は全ての政治を安子と相談して行い、安子は悪いことは庇ってやり、褒めるときはより褒めて、人の悪口を決して天皇に言わなかったとも伝えています。

これらの話がどこまで真実かはわかりませんが、安子が存在感のある影響力のある女性だったことが伺えます。
尚、安子の墓は、他の藤原氏一族や藤原氏出身の皇室関係者の陵墓である宇治陵(京都府宇治市木幡)にあります。

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左京区吉田神楽岡町、銀閣寺道交差点付近(白川通今出川)から西南に走る岡崎通に面しているのが、第六十八代・後一条天皇の陵墓、後一条天皇菩提樹院陵(ごいちじょうてんのうぼだいじゅいんのみささぎ)です。

岡崎道はこの御陵付近で道幅が狭くなり、車一台がギリギリ通れる程の狭さの割に、通行車もそこそこあるので要注意です。このやや落ち着かない場所にある御陵ですが、石段上の陵墓は吉田山の森を背景としていて、雰囲気はそれ程悪くはないです。
また、近くに紅葉の名所の真如堂や陽成天皇神楽岡陵、梅の隠れた名所・東北院、萩の隠れた名所・迎称寺もあるので、観光客が訪ねやすい陵墓です。尚、この陵墓は、後冷泉天皇皇后・章子内親王陵を同域としています。この章子内親王は後一条天皇の皇女になります。




さて、後一条天皇(在位1016〜1036)は、藤原道長から頼通の時代、まさに藤原摂関時代全盛期の天皇になります。そのため、後一条天皇についてというより、時代の中心にいる藤原道長の晩年について書くことになりそうです・・・


後一条天皇は、寛弘五年(1008)に第六十六代・一条天皇の第二皇子として誕生し、名を敦成(あつひら)といいました。母は藤原道長の長女・中宮藤原彰子(ふじわらのあきこ しょうし 上東門院)で、まさに道長待望の初めての外孫皇子でした。

一条天皇には、皇后・藤原定子(道長の兄・藤原道隆の娘)との間に、第一皇子・敦康親王(あつやすしんのう)があり、天皇は敦康親王の立太子を望んでいましたが、自身の初孫・敦成親王を立太子したい道長の要請によって、寛弘八年(1011)敦成親王が四歳で皇太子に定められました・・「大鏡」には、病気で退位する一条天皇が、「本来は、第一皇子(敦康親王)を皇太子にするべきだが、後見役となる人がいないのでやむなく第二皇子(敦成親王 後一条天皇)を立てるのだ」と語ったと記しています。道長一門の支持が無い天皇では安定した政治を行えないのがわかっていたのでしょう。


さて、一条天皇は、寛弘八年(1011)に病気のため退位し、間もなく三十一歳で崩御しました。代わって即位したのが第六十七代・三条天皇です。
関白藤原兼家の死後、その子、道隆・道兼・道長三兄弟が外戚としてそれぞれ一条天皇を長期にわたって支えていたために、三条帝は長い皇太子時代をすごしている内に当時としては高齢の三十六歳になっていました。幼少で即位し藤原氏の傀儡として育った天皇とは違って、熟年になって即位した三条帝は自身で親政を行いたいと考えました。

しかし、三条天皇にとって不幸だったのは、時代が藤原道長の全盛期だったことでした。
道長は、長女の中宮藤原彰子(ふじわらのあきこ しょうし 上東門院)が一条天皇との間に、敦成親王(あつひらしんおう 後の後一条天皇)、敦良親王(あつよししんのう 後の後朱雀天皇)を生んでいて、これら若い皇子を擁立することで、次世代にも揺ぎ無い権力を握ることが確実となっていました。

道長は早速、三条帝即位にともなって、その皇太子として敦成親王(後一条天皇)を定めました。もちろん、道長は、これまで疎遠だった甥(三条帝)との繋がりを強めるために、次女の藤原妍子(ふじわらのけんし きよこ)を帝の中宮に立てて皇子の誕生を期待していたのですが、残念ながら三条帝と妍子の間に生まれたのは皇女(禎子)で、道長は大変失望しました・・・こうして、藤原道長にとっては、自分で政治を行おうとする三条天皇は邪魔な存在となっていきます。

道長は、しばしば三条天皇の意向を無視する妨害工作を行いました。結局、三条帝が眼病を患っていたこともあって、長和五年(1016)、帝は在位六年にして道長の退位の勧めを聞き入れざるを得ませんでした。三条天皇には、皇后・藤原娍子(藤原済時の娘)との間に、敦明親王(あつあきらしんのう 小一条院)ら数人の皇子があり、三条帝は退位の条件として、第一皇子・敦明親王を後一条天皇の皇太子とにすることを道長に認めさせました。

しかし、帝が翌寛仁元年(1017)に崩御すると、道長の圧力を感じた敦明親王は自ら皇太子を辞退したいと申し出ました。事がうまく運んだと喜んだ道長は、敦明親王に報いるために小一条院太上天皇の尊号を贈って准上皇として厚遇し、三女の藤原寛子(ふじわらのかんし ひろこ)を嫁がせました。

尚、この時、敦明親王の先妃・藤原延子(ふじわらのえんし のぶこ 左大臣藤原顕光の娘)は、夫を寛子に奪われて絶望のあまり病気となり、寛仁三年(1019)に非業の死を遂げました。この延子とその父・顕光がその死後に怨霊になって、後に寛子や道長一族に祟ったと伝わります。

こうして、道長は計画通り後一条天皇の同母弟・敦良親王(あつよししんのう 後の後朱雀天皇)を立太子させます。これにより、冷泉帝・円融帝の両統迭立時代は終わり、皇統は円融系に統一されることになります。こうして、今回の主人公、後一条天皇が即位しました。
(三条帝については、三条天皇陵を採り上げる際に、もう少し詳しく書きたいと思います)




さて、長和五年(1016)、敦成親王(後一条天皇)は三条天皇の退位によって九歳で即位しました。道長は摂政に就きますが、翌寛仁元年(1017)三月、後継者として嫡男・頼通に摂政と氏長者を継承させています。そして、翌寛仁二年(1018)正月、後一条天皇が十一歳で元服すると、道長は四女の藤原威子(ふじわらのいし たけこ、後一条天皇にとっては叔母)を女御として入内させ、十月に中宮としました。

道長の長女・彰子は太皇太后宮(一条天皇の中宮)、次女・妍子は皇太后宮(三条天皇の中宮)、そして、今回四女・威子が後一条天皇の中宮となったわけで、一家から三后が立つという史上未曾有の栄華が訪れたのでした。
道長が、自身の栄光を讃えて、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだのはこの時のことです。



しかし、この頃から、道長はしばしば胸の病に苦しむことになります。
寛仁三年(1019)三月、道長は、胸に激しい痛みを訴えて床につきます。そして昼過ぎに起き上がって、突然正装を始めました。息子の関白頼通ら一同が驚いて様子を伺っていると、道長は氏神である春日明神のある南方に向って暇乞いの拝礼を行い、僧を呼んで剃髪し出家しました。あまりに急なことで、一族以下周りの者も呆然として止められなかったと「大鏡」は記しています。そして、道長は半年後の九月、東大寺で受戒しました。(法名は行観(後に行覚と改めています))

自身の病もあって、この頃から、道長は来世のことを考え始めたようです。
極楽往生を願って、寛仁四年(1020)三月に、九体の金色の阿弥陀仏を祀る阿弥陀堂(無量寿院)を建立し、その後も、相次いで諸堂造営を行っています。治安二年(1022)七月には自邸土御門殿の東に壮大な法成寺が完成し、後一条天皇以下全ての皇族達も盛大な落慶法要に行啓しています。
この法成寺境内には、最初に建てられた阿弥陀堂(無量寿院)の他に、金堂、五大堂、釈迦堂、十斎堂、三昧堂、講堂、東北院、西北院、東塔、西塔等の多くの堂宇が立ち並んでいたと伝わり、道長もここに移り住みます。
また、寛仁五年(1021)、道長の六女・藤原嬉子(ふじわらのきし よしこ)を嫡男頼通の養子として、皇太弟・敦良親王(後朱雀天皇)に入内させて、次代の政権安定を図っています。



そして、これまで多くの幸運に恵まれた道長一族に不幸が訪れることになります。
万寿ニ年(1025)七月、小一条院(敦明親王)女御の道長の三女・寛子が二十七歳で死去します。翌八月には、将来の皇后を期待された六女・嬉子が、親仁親王(後冷泉天皇)を出産するも、数日後、赤斑瘡(あかもがさ、麻疹)により十九歳で死去しました。歴史物語「栄華物語」は、若い娘の死に大い嘆く道長の様子を描いています。また、この時には、後一条帝や中宮の四女・威子も赤斑瘡に感染しています。
上記したように、当時の人々は、治安元年(1021)に亡くなった藤原顕光が、不幸な死を遂げた娘の延子と共に怨霊となって、敦明親王を奪った寛子や道長一族に祟ったのだと噂しました。

万寿三年(1026)には、道長の長女・彰子(太皇太后宮 一条天皇の中宮)が、相次ぐ身内の不幸に世の無常を感じて出家し上東門院と称しました。ただ、この年の吉事は、十二月に後一条天皇の第一皇女・章子内親王(しょうし あきこ 二条院)が誕生したことで、皇子ではなかったものの、一族に不幸相次ぐ中での無事な出産に、道長は安堵したようです。

さて、翌万寿四年(1027)にも不幸が続きます・・九月、次女の妍子(皇太后宮 三条天皇の中宮)が病気で亡くなり、そして、道長にも死が訪れます・・・・
道長は十月二十八日に法成寺阿弥陀堂(無量寿院)で行われた娘・妍子(皇太后宮 三条天皇の中宮)の四十九日法会にも参加できないほどの重病となり、十一月十日頃には危篤状態となります。息子の頼通や娘の上東門院(太皇太后宮 一条天皇の中宮)が万僧供養等を繰り返し、道長の体から離れた魂を呼び戻す招魂祭も行われました。後一条天皇や皇太子・敦良親王(後の後朱雀天皇)が相次いで祖父(道長)を見舞う中で、かすかに声を出したりし、体を動かすこともあったようですが、危篤状態は続き、ついに十二月四日の明け方に六十三歳で死去しました。


翌万寿五年(1028)は、前年末の道長の死という大事件によって、正月の天皇が群臣に祝いを賜る節会の儀式や位階を賜る叙位の儀も中止や延期されることになりました。
また、その半年後の長元元年(七月万寿から改元 1028)に関東で平忠常の乱が起こって、鎮圧まで三年を要する事態となります。
長元二年(1029)には後一条天皇の第二皇女・馨子内親王(けいし かおるこ)が誕生しました・・もちろん目出度い事なのですが、宮中ではまたもや皇子でなかったことに失望感もあったようです。


少し明るい話題としては、長元六年(1033)十一月、道長の正室・倫子(源倫子 鷹司殿)の七十歳の祝賀が行われました。
倫子は左大臣・源雅信の娘で、永延元年(987)に二十四歳で二歳年下の道長に嫁ぎました。道長と倫子の関係は円満だったようで、道長の長女・彰子、長男・頼通、次女・妍子、次男・教通、四女・威子、六女・嬉子は倫子の子供たちです。道長の栄華は、後継者の男子と皇后となった娘達を産んでくれた倫子のおかげだったのでした。
既にニ人の娘に先立たれてしまった倫子ですが、長女・上東門院(彰子)、長男・関白頼通、次男の内大臣教通、四女・中宮威子が用意を整えて子供たちの舞等が披露されました。


さて、後一条天皇は、長元九年(1036)三月頃から病気となり、四月に二十九歳の若さで崩御しました。中宮・威子との間には上記のように二人の皇女を得ましたが、皇子は生まれませんでした。また、同年九月に威子も帝を追うように疱瘡で亡くなっています。

遺骸は神楽岡の東、浄土寺の西で火葬にされ、一旦遺骨は浄土寺に安置された後、この地に長暦元年(1037)に母・上東門院(彰子)が建立した菩提樹院に長久元年(1040)に移されています。その後の戦乱などで菩提樹院の所在も不明となりますが、明治二十二年(1889)に現在地に定められました。

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京都市左京区北白川追分町、京都大学北部キャンパス内にある後二条天皇北白河陵(ごにじょうてんのうきたしらかわのみささぎ)は、鎌倉時代の第九十四代・後二条天皇の陵墓です。
後二条天皇は在位七年、僅か二十四歳で崩御したために、歴史的に重要な天皇ではありませんが、三歳下の異母弟には有名な後醍醐天皇がいます。また、北白河陵陵墓の脇にあるのは、後二条天皇の第一皇子・邦良親王(くによししんのう くにながしんのう)の墓になります。(写真)邦良親王は一時、叔父に当たる後醍醐天皇の皇太子となりますが、惜しくも二十七歳で病死した人物です。
北白河陵は、京都大学に囲まれた街中の陵墓なので敷地面積は実際より狭く感じられますが、北白川にある数少ない史跡の一つです。


さて、鎌倉時代中期以降の天皇は、大覚寺統と持明院統が交互に皇位継承するという複雑なもので、簡単に書くのは難しいのですが、後二条天皇を採り上げるためには、どうしても遡って書く必要がありそうです。ただ、後二条帝はあくまで脇役で、「治天の君」として実権を握っていた後嵯峨、後深草、亀山、後宇多、伏見といった諸帝が主人公となります。



まず、鎌倉時代初期に遡ってみます・・
鎌倉初期の皇統に大きな変化をもたらしたのが「承久の変」です。承久三年(1121)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げて敗北した結果、後鳥羽、土御門、順徳の三上皇は流罪となり、順徳上皇の皇子・懐成親王(明治に仲恭天皇と追号)は退位させられます。
幕府は、後鳥羽の直系を排除して皇位継承者を探した結果、後鳥羽上皇の甥で、当時十歳だった後堀河天皇を即位させ、その父で出家していた守貞親王(後鳥羽上皇の兄、後高倉院)を上皇として院政を行わせました。

貞応二年(1223)に後高倉上皇(守貞親王)が亡くなり、貞永元年(1232)、後堀川天皇は、僅か二歳の四条天皇に譲位して上皇となりましたが、天福二年(1234)に二十三歳で崩御。四条天皇も仁治三年(1242)に十二歳で事故死したために、後高倉上皇(守貞親王)の血統が途絶え、再び後鳥羽の血統から皇位継承者が選ばれることになります。天皇候補としては、土御門、順徳の両上皇の皇子がありましたが、幕府執権・北条泰時の判断によって、「承久の変」に直接関与しなかった土御門上皇の皇子が選ばれました・・これが後嵯峨天皇です。




歴史物語「増鏡」には、後嵯峨天皇の即位によって「承久の変」後沈滞していた宮中にも、ようやく華やかな活気が戻ってきた様子が描かれています。
仁治三年(1242)、二十三歳で即位した後嵯峨天皇は、在位四年の寛元四年(1246)に僅か四歳の久仁親王(後深草天皇)に譲位して院政を敷いて実権を握りました。若く派手好きな後嵯峨は、上皇という自由な立場でしばしば豪華な遊宴歌合等を行い、衰えていた宮中文化も復興していくことになります。

即位した後深草天皇は、非常に小柄で病弱、足が悪かったという記録もあり、後嵯峨上皇は、正嘉二年(1258)に後深草の同母弟で十歳の恒仁親王(亀山天皇)を立太子し、翌正元元年(1259)に後深草に対し、恒仁親王への譲位を促しました。父の圧力で心ならずも譲位させられた十六歳の後深草天皇の無念な気持ちが、その後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の対立、さらに南北朝時代に至る皇統分裂の原因の一つとなります。

さらに、後嵯峨上皇は文永五年(1268)に、当時三歳の後深草上皇の皇子・熈仁親王(ひろひとしんのう 後の伏見天皇)ではなく、生後間もない亀山天皇の皇子・世仁親王(よひとしんのう 後の後宇多天皇)を立太子しました。
これらのことから、後嵯峨が亀山系の血統に皇位を継承させたいと考えていたことは明らかでしたが、文永九年(1272)に後嵯峨が五十三歳で崩御した際には、遺詔で後深草、亀山両帝への皇室領の配分は示したものの、皇室内の長として実権を握り、また子孫に皇位を継承させることのできる「治天の君」を誰にするかという点については明確な意思を示さず、鎌倉幕府の決定に委ねるとしていました。
派手好きな後嵯峨ですが、幼少期は叔父の順徳系に、「承久の変」以降は後高倉上皇系の天皇の影で忘れられた存在でした。幸運にも幕府によって天皇に選ばれた後嵯峨としては、自分が「治天の君」を決めても幕府の認可を受けられなければ意味が無いと考えていたようです。




「増鏡」によると、父後嵯峨上皇の生前は、常に一緒に遊宴を楽しんで、表面上は仲の良い様子だったという後深草上皇ですが、弟の系統が皇位継承するように定められ、内心は深く傷ついていたようです。
父帝が亡くなると、兄である後深草が治天の君であるべきという宮中の声も多く、後深草は治天の君への意欲を燃やします。一方、現天皇である亀山も、当然、治天の君を強く望んでいました。こうして、宮中は後深草派と亀山派に分かれ対立していきました。
鎌倉幕府は、この問題を解決するために、後嵯峨の中宮で、後深草・亀山両帝の生母である大宮院(おおみやいん・西園寺姞子 さいおんじきつし)に後嵯峨の真意を確認します。そして、大宮院が先帝は亀山を望んでいたと表明したことから亀山天皇が治天の君に選ばれることになりました。

さて、明朗快活で才気にあふれた亀山天皇は、文永十一年(1274)に八歳の世仁親王(後宇多天皇)に譲位して上皇となりました。実権はもちろん自身が握って、さらに自由な立場で宮中の改革にも取り組みました。一方、日陰の身を嘆いていた後深草上皇は、建治元年(1275)に太上天皇の尊号を辞退して出家しようとします。自身の立場の不満を表明した抗議行動だったのですが、これには宮中も大いに驚きました。伝え聞いた鎌倉幕府は、後深草の不満を解消して出家を止めさせようと、亀山上皇に奏上して、後深草天皇の皇子・熈仁親王(後の伏見天皇)を立太子させました。

後宇多天皇よりも、皇太子となった熈仁親王(後の伏見天皇)が年長(三歳)であったことは、近い将来、伏見天皇が即位することが予想され、自分が治天の君となることが保証された後深草は出家を見合わせました。一方の亀山上皇は内心は納得していませんでしたが、幕府の意見に従わざるを得なかったのでした。それはともかく「増鏡」によると、後深草・亀山兄弟の和解ムードも高まったようで、一緒に遊宴を楽しむなど交流も深まったと記しています。




その後、後深草上皇派の巻き返しが加速していきます。
亀山上皇が宮中で熱心に改革を推進してきたことや、弘安八年(1285)に鎌倉で起こった「霜月騒動」で滅んだ有力御家人・安達泰盛との交流があったこと等が鎌倉幕府に疑われ、さらに亀山上皇と不和だった関東申次・西園寺実兼(さいおんじさねかね)が後深草派と結んで、かつて後嵯峨上皇が後継者として望んでいたのは、亀山ではなく後深草だったと主張し、政権を早期に後深草に譲渡させるべきだと幕府に活発に働きかけたのでした。こうして、弘安十年(1287)、幕府の圧力を受けて二十歳の後宇多天皇は、後深草天皇の皇子・熈仁親王(伏見天皇)に譲位しました。

伏見天皇の即位によって、父・後深草上皇はさっそく院政を開始します。
正応二年(1289)には、伏見天皇は皇子・胤仁親王(たねひとしんのう 後の後伏見天皇)を立太子させ、次代も持明院統(後深草天皇の血統)が政権を握ることが確実になりました。また、鎌倉では第七代鎌倉将軍・惟康親王(六代将軍宗尊親王の子、宗尊親王は、後深草・亀山両帝の異母兄)が廃され、後深草上皇の皇子・久明親王(ひさあきしんのう)が第八代将軍に就任しました。これも後深草派が幕府との関係強化に成功した結果でした。




こうして、鎌倉幕府の支持を得た持明院統(後深草天皇の血統)が繁栄し、大覚寺統(亀山天皇の血統)が日陰の身となる時代となりました。
これまで大覚寺統に仕えていた貴族達も、一斉に持明院統に鞍替えすることになり、大覚寺統は衰退します。大覚寺統の亀山上皇は、失意のうちに正応ニ年(1289)に四十一歳で出家しました。一方、権力を奪回した後深草も、正応三年(1290)に、四十八歳で出家して引退し、治天の君は後継者の伏見帝に譲られました。

また、この正応三年三月には、浅原為頼(あさはらためより)という甲斐源氏・小笠原氏に属する武士が一族数名で、夜間に御所に乱入するという騒動が起こり、伏見天皇は危なく難を逃れました。この為頼は、霜月騒動で安達泰盛に加担したために所領を失った武士といわれ、駆けつけた追っ手に包囲され自害しました。事件の真相は不明ですが、一部貴族が事件に関与していたことから、伏見帝殺害計画の裏には亀山上皇がいるのではないかという噂が世間に広がり、伏見帝もそれを信じていたようです。疑いをかけられた亀山上皇は、自分は決して関与していないという起請文を幕府に提出して、ようやく騒動は収まることになります。しかし、これにより大覚寺統はさらに不利な立場となりました。




さて、伏見天皇は、積極的に宮中改革を行って朝廷の権威を高めようとしましたが、これが幕府の警戒を呼びます。また、伏見帝が中級貴族の京極為兼(きょうごくためかね)等を抜擢したことから、貴族中の第一人者で関東申次の西園寺実兼を大覚寺統に接近させていくことになりました。実兼を味方にした大覚寺統の巻き返しが始まり、永仁四年(1296)に、大覚寺統の後宇多上皇の皇子・邦治親王(くにはるしんのう 後の後二条天皇)が立太子されます。この時も、先に立太子されていた胤仁親王(後伏見天皇)よりも、邦治親王親王(後二条天皇)は年長(三歳)でした。

大覚寺統の攻勢に危機感を感じた伏見帝は、永仁六年(1298)に十歳の胤仁親王(後伏見天皇)に譲位して院政を敷きますが、幕府の圧力によって、正安三年(1301)に後伏見天皇は十四歳で邦治親王(後二条天皇)に譲位しました。ただ、持明院統は、後伏見天皇の異母弟・富仁親王(とみひとしんのう 後の花園天皇)を立太子させることには成功します。(伏見帝は、後伏見が幼少で子供がいなかったことから、その弟を立太子したのですが、さらに兄弟で皇統が分裂する危険を回避するために、富仁親王を後伏見の猶子としました)
この時以後、鎌倉幕府は、持明院統と大覚寺統の子孫の間で、約十年ごとに交互に皇位を継承(両統迭立)することを公式に定めました。




ようやく今回の主人公の後二条天皇です。
後二条天皇は、大覚寺統の後宇多天皇の第一皇子として、弘安八年(1285)に誕生し、名は邦治(くにはる)といいました。
上記のように、永仁四年(1296)に持明院統の三歳下の後伏見天皇の皇太子となり、正安二年(1300)には、第一皇子の邦良親王(くによししんのう くにながしんのう)を得ています。
その後、正安三年(1301)の後伏見天皇の退位により十七歳で即位し、父の後宇多上皇が院政を行いました。久しぶりの大覚寺統の天皇の登場は、亀山や後宇多が積極的に幕府に働きかけた結果でした。

在位七年余の後二条帝治世の事件としては、嘉元二年(1304)に後深草が六十二歳で、翌嘉元三年(1305)には亀山が五十七歳で崩御したことで、両統迭立時代の主役は伏見・後宇多の両上皇が担うことになります。
徳治三年(1308)後二条は、病気により二十四歳で崩御しました・・これにより、弟の後醍醐が歴史に登場していくことになります。

さて、現在の陵墓は、明治二十ニ年(1989)にその埋葬地と伝えられる北白河殿跡地に作られたものです。また、その皇子・邦良親王も後醍醐天皇の皇太子となりながら正中三年(1326)に二十七歳で病死した後この地に埋葬されたと伝えられ、同じく墓が整備されました。



字数オーバーのため、その後の展開はまたの機会に譲りたいと思います。

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左京区鹿ヶ谷法然院町・西寺ノ前町にある冷泉天皇櫻本陵(桜本陵 れいぜいてんのうさくらもとのみささぎ 後一条天皇皇后威子火葬塚)は、平安時代の第六十三代・冷泉天皇の御陵です。
大文字山を背景とする大きな森に囲まれた天皇陵で、京都にある天皇陵の中ではかなり広い面積を持っています・・ただし参道や入り口も狭く、明治天皇陵や天智天皇陵のような壮大なスケール感は感じません。


冷泉天皇(れいぜいてんのう)は、精神の異常等もあって在位期間わずか二年余りという歴史的評価の高くない天皇ですが、この陵墓は観光名所として知られる「哲学の道」から五十メートル程東にあって、法然院、安楽寺等のついでに訪問しやすい場所にあります。また、この陵墓は西南部分を後一条天皇皇后威子火葬塚としています。さらに、少し西へ下った鹿ヶ谷通には、門はいつも閉ざされていますが、冷泉天皇火葬塚(鹿ヶ谷西寺ノ前町 写真)もあります。




さて、冷泉天皇(950〜1011 在位967〜969)は、村上天皇の第二皇子として、天暦四年(950)に誕生し、名は憲平(のりひら)といいました。母は藤原師輔の娘、中宮・藤原安子(ふじわらのあんし)で、同母弟として為平親王(ためひらしんのう 村上天皇第四男)、円融天皇(村上天皇第七男)がいました。憲平親王は生後僅か三ヶ月で立太子されます。
この立太子を巡る争いもあって、冷泉天皇は、生まれながらに不幸な運命を背負っていたのだと、後世、まことしやかに語られることになります・・・


村上天皇には憲平親王(冷泉天皇)の誕生の直前に、別に第一皇子が生まれていました・・広平親王(ひろひらしんのう 950〜971)で、母は大納言(民部卿兼任)・藤原元方(ふじわらのもとかた)の娘、更衣・藤原祐姫(ふじわらのゆうひめ)です。
藤原元方(888〜953)は、藤原北家(冬嗣以降、良房、基経、忠平と外戚として宮中に勢力を拡大してきました)のライバルでもある藤原南家の出身でした。宮中での地位は常に大臣職を歴任する北家の後塵を拝してきましたが、もし娘(祐姫)が生んだ第一皇子(広平親王)が皇太子となれば、外祖父として元方も大きな力を持つことが出来るはずでした。
しかし、元方にとって不幸なことに、同年に北家の右大臣・藤原師輔(ふじわらのもろすけ 藤原忠平の次男)の娘、中宮・藤原安子も皇子(憲平親王)を生みました。こうなると憲平親王は中宮の長男でもあり、外戚として北家にはるかに及ばない元家としてはどうすることも出来ませんでした。

こうして、憲平親王が生後三ヶ月で立太子されることになり、一方、藤原元方は天暦七年(953)に無念の思いを抱いて世を恨みながら病死したと伝えられます。また、皇太子になれなかった広平親王は、兵部卿などを歴任しましたが、天禄二年(971)に二十二歳で亡くなりました。
そして、後年、冷泉天皇が精神に異常をきたしたのは、この藤原元方や広平親王の怨霊がたたったのだと噂されることになります。さらに、この怨霊は、冷泉天皇の子・花山天皇と三条天皇をも苦しめることになったと伝えられます。(花山天皇や三条天皇の陵墓を採り上げた際、少し書いてみたいと思います。)



歴史物語「大鏡」は、この頃の印象的な話を記しています・・村上天皇が、ある時「庚申待ち」を行い、藤原師輔や藤原元方他多数の貴族らも参内しました。
(尚、庚申信仰とは、中国の道教から来た信仰です。庚申とは干支の庚(かのえ)申(さる)の日を意味し、この日の夜に、人の体中にいる三尸の虫が寝ている間に抜け出して、寿命を司る神・天帝にその人間の行った悪行を告げ口すると考えられました。天帝は罰としてその人間の寿命を縮めるため、これを防ぐために、庚申日の夜は寝ないで徹夜する「庚申待ち」という風習がありました。)

さて、参内した人々は、徹夜で朝を迎えるために双六で遊びました。この頃ちょうど、藤原師輔の娘、中宮安子が懐妊中で、もし男子が生まれれば立太子はどうなることかと宮中で噂になっていたようです。師輔は双六の際に「もし懐妊中の御子が男子ならば、重六(二つのさいころの目が共に六となること。勝負では最高の目とされました。)よ出てくれ。」と言って、さいころを振ると、見事に六の目が並びました。これには居合わせた人々も驚いて顔を見合わせながら大いに師輔を褒め称えました。
師輔はもちろん大満足でしたが、その様子を見ていた藤原元方は気分を害し、その顔は非常に青ざめたということです。
その後、藤原元方が怨霊となって現れた際、「あの庚申待ちの重六の事件の衝撃が、私をこのような怨霊にしてしまったのだ。」と語ったと伝えています。




ここで、以前に村上天皇と円融天皇の陵墓を採り上げた際の文章を再掲載しながら書いてみます・・・

さて、冷泉天皇は、父村上天皇の死により康保四年(967)に十八歳で即位しました。
皇太子時代から病弱で精神病の症状があったため、悪霊封じの祈祷も繰り返されたようですが、効果は無かったようです。そこで、政務の補佐が必要と考えられ、村上天皇の時代に途絶えていた関白位が復活され、氏の長者として藤原実頼(ふじわらのさねより 朱雀天皇時代の関白・藤原忠平の長男)」が関白太政大臣に任命されました。同時に左大臣に源高明(みなもとのたかあきら)、右大臣に藤原師尹(ふじわらのもろただ 藤原忠平の五男)が就任しました。
この時、左大臣となった源高明は、「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルの一人とも言われている人物です。そして、高明の妻が村上天皇の中宮安子の妹だったことから、安子やその父の藤原師輔の後援を得て栄達してきましたが、天徳四年(960)の師輔、応和四年(964)の安子の死後は後ろ盾を失っていたようです。

さて、冷泉天皇の病状考えると、その後継者の選定は急がれる問題でした。
冷泉天皇には同母弟としてニ歳下の為平親王、九歳下の守平親王(後の円融天皇)がありました。父の村上天皇は為平親王を愛して、親王を将来の皇位継承候補とも考えていたようです。そして、亡くなる前に村上帝は源高明の娘を為平親王に嫁がせ、高明を親王の保護者としました・・が、これが後で裏目になることになります。

本来なら年長の為平親王が皇太子となるはずでしたが、親王が高明の娘を娶っていたために、将来、高明が天皇の外戚として権勢を振るうことを恐れた関白太政大臣・藤原実頼や右大臣・藤原師尹等(または藤原伊尹(ふじわらのこれただ)が弟兼家らと中心になったとも)が、高明の影響を排除するために守平親王を素早く皇太子としてしまったのでした。すでに宮中で勢力を失いつつあった高明にはどうしようもなかったようで、こうして、守平親王は、康保四年(967)に九歳で立太子されました。そして、さらに二年後の「安和の変(あんなのへん)」で左大臣・源高明は失脚させられます。



「安和の変」は、現在の歴史学では、藤原氏による最後の他氏排斥事件として定義されます。
事件は、安和ニ年(969)三月、宮中に仕える左馬助・源満仲と源満仲(みなもとのみつなか 清和源氏の二代目とされます)や前武蔵介・藤原善時(ふじわらのよしとき)が同じく宮中官人の中務少輔・橘繁延(たちばなのしげのぶ)ら数名の謀反(為平親王を奉じて乱を起こそうとしたとも)を右大臣・藤原師尹(ふじわらのもろただ)らに密告したことに端を発します。
直ちに藤原師尹は公卿達を集めて会議を行うと共に、関係者を逮捕させました。そして、謀反人の中に源高明の家来・藤原千晴(ふじわらのちはる「承平・天慶の乱」で活躍した藤原秀郷の子)が含まれていたことから、主人の源高明も謀反に加担していたとして拘束され、大宰府へ流刑となりました。こうして藤原氏による有力他氏の排斥が完了し、今後は藤原氏一族(北家)内での権力争いが起こることになります。(尚、源高明に代わって左大臣に就任した藤原師尹はその後間もなく死去しています。)

そして、安和の変から間もなく、安和ニ年(969)九月、冷泉天皇は弟の円融天皇に譲位して上皇となりました。また、円融天皇の皇太子としては、先帝冷泉帝の生後間もない皇子・師貞親王(後の花山天皇)が選ばれました。師貞親王の立太子は、その母女御:藤原懐子が藤原伊尹(ふじわらのこれただ 藤原師輔の長男)の娘だったことによります。そして、以後後一条天皇の即位までの五代に渡る兄・冷泉系と弟・円融系との皇位迭立が続きます。



さて、冷泉上皇ですが、「冷泉院(中京区竹屋町通堀川西入る、二条城北側付近)」を後院(院御所 上皇の御所)としました。この冷泉院は、平安初期に造営されて、嵯峨天皇(786〜842)以降の歴代上皇の御所となった宮殿です。当初は、「冷然院」と記されていましたが、貞観十七年(875)や天暦三年(949)等度々火災に遭ったことから、「然」は火に通じるとして、冷泉院と改称しています。(つまり、冷泉院は古くから上皇の御所として用いられてきたもので、冷泉上皇の御所ということから名付けられたという訳ではありません。また、もちろん、源氏物語の登場人物・冷泉院も、この「冷泉院」を住まいとしていたと設定された架空の人物になります。)

その後、上皇は火災に遭って御所を転々としますが、その間、天延四年(976)に、藤原兼家の娘・藤原超子(ふじわら のちょうし とおこ)との間に第二皇子・居貞親王(おきさだしいのう 後の三条天皇)、さらに為尊親王、敦道親王を得ています。藤原兼家はこの孫達を特別に愛したと伝えられ、後に、兼家はこの居貞親王(三条天皇)を同じく孫の一条天皇(円融天皇の子)の皇太子に定めました。こうして、数代の天皇の外戚として兼家の系統が藤原北家の本流となっていきます。

さて、「大鏡」には、当時上皇が住んでいた南院が火事になったので、子の花山天皇が心配になって見舞いに行くという話しが出ています。
花山天皇もその奇行ぶりを示す異様な風体で父帝を見舞いますが、冷泉上皇も、避難騒動の最中に牛車の中から神楽歌を朗々と歌うなどの異常ぶりを発揮していて、どうもあまり病状は回復しなかったようです。それでも、歌人としては勅撰集に数種を残していて、状態の良い時には本来の才能を発揮したこともあったのでしょう。そして、寛弘八年(1011)に、六十二歳という長寿で崩御し、遺体は櫻本寺(おうほんじ)の前野で火葬にされ、寺の北方に葬られたと伝えられます。



この櫻本(桜本)というのは、現在の吉田山(神楽岡)から鹿ヶ谷に至る地域で、現在の浄土時地区に当たります。平安時代にはこの地に櫻本寺(おうほんじ)という寺院があったといわれ、冷泉帝の遺骨はこの寺地に埋葬されました。しかし、江戸時代には北山小野の郷(北区小野)にある小堂、櫻本寺(おうほんじ 現在も残存)が、この「櫻本寺」だと考えられ、付近には冷泉天皇の御陵や火葬塚と伝承される石塔が残っています。

その後、明治二十二年(1889)に浄土寺にある現在地(北塚と呼ばれていた古墳)が冷泉天皇の陵墓と地定され、現在の円丘陵墓が整備されました。またその約百メートル西、鹿ヶ谷通沿いには、その火葬塚(鹿ヶ谷西寺ノ前町)も地定されています。(火葬塚が特定されている天皇としては、陵墓との距離が一番近い天皇陵です。一時は火葬塚自体が陵墓候補地となっていたようです。)その後、天皇陵の一部に「後一条天皇皇后威子火葬塚」を組み込んで陵墓の面積は拡充し現在に至ります。









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