京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

以前に、桜並木が綺麗な「半木(なからぎ)の道」を採り上げましたが、その際「半木の道」の名前の元となった府立植物園内(左京区下鴨半木町)に祀られている「半木神社(なからぎじんじゃ)」についても少し書きました。今回はこの半木神社の写真を掲載します。


さて、半木神社は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境外末社で、祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)です。
神社の駒札によると、半木神社の鎮座地を中心とするこの地域は、かつて賀茂氏族(錦部氏)が開墾した土地で、奈良時代頃から錦部の里と呼ばれていました。錦部の里と称したのは、古くからこの地で、養蚕製紙業が営まれ絹織物の生産が盛んだったためと考えられていて、京都の織物発祥の地ともいわれています。

その後、この地は、平安時代の後一条天皇の時代、寛仁二年(1018)十一月二十五日に、朝廷より正式に賀茂別雷神社(上賀茂神社)の社領地として錦部郷の名を以って寄進されたということです。しかし、この地で古くから養蚕業に携わっていた賀茂氏や秦氏の人々は、自身の職業の守護神として四国の阿波国(徳島県)から天太玉命(あめのふとだまのみこと)を勧請して祀ったといわれ、これが半木神社の創建と伝えられます。
また、半木神社は「流木神社(なかれぎじんじゃ)」とも呼ばれていて、賀茂川の上流、西賀茂にあった流木神社の祭神の内の一座が賀茂川(加茂川)の増水で流失して、この地に漂着したために社殿を造って祀ったとも伝えられ、「流木(ながれき)」が転じて「半木(なからぎ)」となったと考えられています。


現在ではかつての姿を留めていませんが、下鴨半木町の鎮守神として、また京都の織物発祥の地にある神社、農事林業らを総括する植物園の守り神として崇敬され、植物園内の神社周辺の森は「半木(なからぎ)の森」と呼ばれ、古代山城盆地の植生を残す貴重な自然林として保存されています。また、毎年四、十一月の二十日に行われる春秋の祭典には、織物関係者等が多数訪れるということです。
さらに、植物園の多くの木や花が実を結ぶというところから、園内にある半木神社は試験の合格や恋愛成就の願いがかなうとの信仰が厚く、本社の賀茂別雷神社(上賀茂神社)では努力が実を結ぶ=「実守(みのりまもり)という御守りを授与しているということです。

下鴨神社の御手洗祭

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

現在(七月二十五日)、世界遺産としても知られる下鴨神社(左京区下鴨泉川町)で「御手洗祭(みたらしまつり)」が行われています。(今年は、七月二十四日〜二十七日までの四日間 午前五時半〜午後十時半 献灯料200円)


御手洗祭(みたらしまつり)は、通称「足つけ神事」とも呼ばれ、下鴨神社の境内末社の井上社(御手洗社=みたらししゃ)の夏越しの例祭で、 毎年、夏の土用の丑の日に行われます。古来、夏は疫病が蔓延しやすい季節だったことから、その始まりとなる夏の土用の祭日には、病気の抵抗力の弱い子供やお年寄りの厄除け、また妊婦の安産祈願などで、多くの参拝者で賑わったということです。

参拝者は、下鴨神社境内を流れる「御手洗川(みたらしかわ)」の流れの中に、曲橋の手前から入って、井上社(御手洗社)に向って、膝下まで足を浸しながら水の中を歩いて行きます。そして、途中でろうそくに火を灯し、井上社(御手洗社)前で、社殿に献灯し無病息災を祈願します。このように、川中を歩いて灯明を奉納することから「足つけ神事」とも呼ばれているわけです。そして、その後、ご神水をいただくと、心身を清められ、延命長寿の霊験あらたかといわれます。
また、御手洗池から採れた黒い小石は、厄除けの神石「かん虫封じの神石」として昔から信仰され、毎年取り替えることで子供のかんの虫を抑える効験があるとされます。



さて、ここで井上社(御手洗社)について書いてみます。

井上社(御手洗社)は、瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)を祭神としています。
瀬織津姫命は、罪や穢を祓い除く女神と考えられたことから、この神事は、平安時代に遡り、季節の変わり目(元々、土用は一年に四回あり、立春、立夏、立秋、立冬の前、十八日を指します。)に当時の貴族が行っていた禊祓いに起源があるとされます。

神社の駒札によると、井上社の前身は、平安時代の歴史書「三代実録」の元慶三年(879)九月二十五日の条をはじめ諸書に見える唐崎社という神社だったようです。唐崎社は、賀茂斎院の禊や解斎(げさい=斎戒を解く、物忌みを終える事)、関白の賀茂詣の解除に参拝した社と伝えられています。
この唐崎社は、元々、高野川(左京区大原から流れ出て、出町柳で賀茂川(鴨川)と合流しています)と鴨川の合流地の東岸に鎮座していましたが、室町時代の応仁・文明の乱で、文明ニ年(1470)六月十四日に焼亡したために、文禄年間(1592〜96)に、現在地に再興され、寛永六年(1629)の式年遷宮によって官営神社となりました。また井戸の井筒の上に祀られたことから「井上社」と呼ばれるようになったということです。

賀茂祭(葵祭)に先立って、五月初旬に行われる斎王代の禊の儀(「斎王」は平安時代に未婚の内親王が選ばれて賀茂社に奉仕しました。現在は代理(斎王代)として京都在住の一般から選ばれた女性が務めます)は、この井上社(御手洗社)の前の御手洗池で行われ、今回の夏の土用の丑の日に行われる「足つけ神事」、立秋の前夜に行われる「矢取神事」もよく知られています。

尚、御手洗池から清水が湧き出ることから、この「御手洗池の水泡」は、「鴨の七不思議(泉川の石、船島、亀島、乳の清水等があるそうです。いずれも御手洗川、瀬見の小川、奈良の小川、泉川など下鴨神社境内の川に関するもので、川(水)の霊力を現しているということです。)」の一つとされていて、池底から浮き上がる水泡をかたどったものが、みたらし団子の発祥とも伝えられています。


御手洗祭は、早朝から夜遅くまで参拝できるので、多くの方が参加し易い神事で、特に夜間はろうそくの灯りが幻想的でいい感じです。参道の糺の森では露店も並んで子供たちや若いカップルも楽しめる京都の夏の風物詩の一つになっています。冷たい水に足をつけると、暑さを忘れるひんやり感が味わえますよ。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

京都市上京区寺町広小路上る北之辺町にある廬山寺は、紫式部の曽祖父にあたる権中納言・藤原兼輔の邸宅跡と伝えられ、紫式部もここで「源氏物語」を執筆したともいわれています。
この廬山寺については以前に少し書きましたが、今回はその境内墓地について書いてみます・・・
さすがに採り上げるには地味過ぎるかとも思いましたが、観光で廬山寺を訪れる人は多くても、墓地に行かれる方も少ないかと思った次第です。また、豊臣秀吉が築いた「御土居(おどい)」の一部がこの墓地にあることも注目されます・・・つまりこの廬山寺の東側は、秀吉の時代には京都郊外(洛外)と考えられていたのでしょう。



さて、廬山寺の墓地には40人程の皇族をはじめ公家等の墓がありますが、その中で最っとも目立つのが慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのうろざんじりょう)で、15人の皇族の墓と共に管理されています。慶光天皇というのは、江戸時代末期の閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう 1733〜94)のことで、明治時代になって「慶光天皇(慶光院)」の諡号と太上天皇の称号が贈られたことから、天皇に準じたこの御陵が造られました。

閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう 慶光天皇)は、幼名は寿宮(ひさのみや)といい、元禄時代の東山天皇が宝永七年(1710)に皇子・直仁親王に創設させた新宮家、閑院宮家の第二代当主になります。閑院宮家は、伏見宮・有栖川宮・桂宮と並んで四宮家と呼ばれ、その屋敷は現在の京都御苑の南西(当時は公家町)にありました。(明治時代に宮家が東京に移った後、近年は閑院宮邸跡として整備され一般公開されています。ブログで採り上げました)
典仁親王(慶光天皇)は、歌道や書道に優れた人物で、短冊等が残されていますが、特にその子が天皇になったことで歴史に名を残すことになりました。閑院宮典仁親王(慶光天皇)自身よりも、その息子の天皇の方が話題性のある人物なので、長くなりますが続けます・・・





さて、第百十八代・後桃園天皇(在位1770〜79)は、病気がちで安永八年(1779)に二十二歳で崩御しました。天皇には男子が無く、宮家の中から閑院宮家の美仁親王(はるひとしんおう 閑院宮第三代)やその弟・師仁親王(もろひとしんのう)、伏見宮貞敬親王(さだゆきしんのう)といった候補者の中から、先帝の皇女・欣子内親王を妃にするという条件で、当時九歳の師仁親王が選ばれ、既に亡くなっていた後桃園天皇の養子という形で皇位を継承しました・・これが第百十九代・光格天皇(在位1779〜1817)です。
九歳で即位した光格天皇は、南北朝時代の後花園天皇が伏見宮から皇位を継承した時以来の宮家(閑院宮)出身の天皇だったこともあって、周囲から軽く扱われる経験をしたこともあったようです。そのためもあってか、長じては朝廷権威の復権に務めました。幕末に尊皇運動が盛んになりますが、光格天皇は自らその先駆者として民衆たちに天皇の存在感を示し、明治時代の王政復古を準備した人物とも評されています。


ここで話は変わりますが、江戸時代初期に幕府が定めた「禁中並公家諸法度」は、日本史上初めて天皇の身分や立場さえも法律で規定されたたもので、朝廷が徳川幕府(直接は京都所司代)の実質的制約下に置かれたことを意味します。
禁中並公家諸法度は、宮家(親王)の宮中での地位を三公(太政大臣・右大臣・左大臣)より低く定め、三公を独占する五摂家(近衛家・一条家・九条家・二条家・鷹司家)が朝廷内の実権を握るように定めていました。そして、この三公の選出権は江戸幕府が握り、幕府の推薦・任命を受けた者のみが選出されていました。また、同じく幕府が任命した上流公家が務める武家伝奏職があり、主に幕府の意を受けて、政治的要求等を朝廷に取り次ぐ役割を持っていました。このように、五摂家や武家伝奏が幕府の威光を背景としていたために、天皇でさえ、五摂家当主達の決定事項に異を唱えることが出来ない場合が多かったのでした。




さて、天明七年(1787)六月、民衆達が天皇に救済を求める運動が起こりました・・御所千度参り(ごしょせんどまいり)です。
御所千度参り(ごしょせんどまいり)というのは、天明の飢饉(1782〜88)のために食糧難で苦しんだ民衆が、彼らの訴えを聞こうとしない京都所司代に見切りを付けて、御所の周囲を廻って、御千度参りをした事件です。京都だけでなく大阪等諸国から多くの人々が集まり、その数は七万人に及びました。人々は御所の築地塀の周囲を廻り、御所を向いて祈りながら、門から訴えや願い事を記した紙で包んだ賽銭を投げ込みました。また、この参拝者を目当てに物売りの出店が数百件も出て、非常に賑わったということです。

御所では後桜町上皇がりんご三万個を民衆に配らせたり、有栖川宮や五摂家らが茶や握り飯を振舞うなどの対応を行いました。光格天皇は、食糧難で苦しむ民衆をなんとか救済したいと考え、「禁中並公家諸法度」に反する行為ではあるものの、朝廷が民衆に直接米を配るか、それがだめなら幕府が米を配って救済することは出来ないかと考え、京都所司代を通じて幕府へ民衆救済の申し入れを行いました。幕府はこの法度への違反行為に対して対応を検討しますが、結局、緊急時の非常措置として、八月、救済米を約千石を放出することが決定しました。こうして、民衆救済に消極的だった幕府に対し、天皇や朝廷が民衆の救済運動を推進したことは、それまで幕府の統治下で忘れられていた天皇・朝廷の存在を民衆に強く印象付けることになり、やがて尊皇運動が高まる原因となりました。

また、天明八年(1788)の「天明の大火」によって御所が焼失した際は、光格天皇は、幕府と交渉して、新御所を平安京大内裏の古様式に則って再建しました。(現在の京都御所は、安政元年(1854)の火災の後に復興されたものですが、光格天皇時代の御所を事実上再現しているといえます。)さらに、伝統ある古来の朝儀の復興を図りました。これらもまた民衆の注目を集め、尊皇思想を高めていきます。




さて、先程書いたように、禁中並公家諸法度は、天皇の身分を法律で規定し、幕府の任命した五摂家当主達や武家伝奏が実質的に朝廷の権力を独占していました。これに対し、天皇や他の中小公家が反抗する事件も幾つか起こっています。そして、光格天皇も幕府とある問題で対立することになります・・・「尊号一件」と呼ばれる事件です。

元々、禁中並公家諸法度では、宮家(親王)の宮中での地位を三公(太政大臣・右大臣・左大臣)より低く定め、事実上、宮家(親王)は、三公を独占する五摂家(近衛家・一条家・九条家・二条家・鷹司家)の下と考えられていました。光格天皇は、何とか父親の閑院宮典仁親王の地位を高められないかと考え、「太上天皇(上皇)」の尊号を贈ろうとしました。
しかし、天明八年(1788)天皇の意を受けた公家・中山愛親らが幕府に通達すると、老中松平定信によって、天皇に即位していない人間に天皇号を贈ることは前例の無いことであるとして却下されます。

歴史的には、鎌倉時代の承久の乱後に即位した後堀河天皇が幼かったために、その父・守貞親王が「後高倉院」として政治を行ったこと、南北朝時代末期の後花園天皇の父・伏見宮貞成親王が、子が天皇に即位したことで「後崇光院」と尊号を贈られたことなどの前例があり、朝廷ではこれら前例を持ち出しましたが、幕府はこれまでの前例は戦乱時等の臨時措置であると主張して認めませんでした。(尚、守貞親王については、以前に「光照院門跡」を採り上げた際に、伏見宮貞成親王については「後崇光太上天皇伏見松林院陵」を紹介した際に詳しく書いています。)

朝廷と幕府の尊号論争は結論を得ず、寛政三年(1791)、光格天皇は上級公卿の多数決を得て尊号宣下を強行しようとします。この幕府との決定的対立になるかもしれない事態を憂慮した前関白・鷹司輔平の斡旋で、結局、幕府は閑院宮典仁親王が光格天皇の父であることを考慮して千石の特別加増等を行うことを認め、光格天皇は周囲の説得で仕方なく父への尊号贈与を諦めることになりました。

尚、光格天皇自身は、文化十四年(1817)に子の仁孝天皇に譲位して太上天皇(上皇)となりました・・歴史的に最後の太上天皇(上皇)になります。そして、天保十一年(1840)に六十九歳で崩御し、京都市東山区今熊野泉山町の後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)に葬られました。一方、光格天皇の父・閑院宮典仁親王は、寛政六年(1794)に亡くなりましたが、明治十七年(1884)に明治天皇(光格天皇の曾孫)の直系の祖先でもあることから、慶光天皇(慶光院とも)の諡号と太上天皇の称号が贈られることになりました。




さて、慶光天皇廬山寺陵には、慶光天皇(閑院宮典仁親王)の他に、
慶光天皇妃 成子内親王、
東山天皇後宮・新崇賢門院藤原賀子、
東山天皇皇子・直仁親王、
東山天皇皇子直仁親王妃・脩子、
東山天皇皇曾孫・美仁親王、
東山天皇皇曾孫美仁親王妃・因子、
東山天皇皇玄孫・孝仁親王、
東山天皇皇玄孫孝仁親王妃・吉子、
東山天皇五世皇孫・致宮、
東山天皇五世皇孫・愛仁親王、
光格天皇皇子・俊宮、
光格天皇皇子・猗宮、
光格天皇皇女・多祉宮、
光格天皇皇女・治宮、
仁孝天皇皇子・胤宮の墓があります・・・

つまり、ここには、「慶光天皇」の諡号を贈られた、二代・典仁親王の陵を中心に、閑院宮歴代当主の墓(初代・直仁親王、三代・美仁親王、四代・孝仁親王、五代・愛仁親王)とその妻子の墓が集められているわけです。敷石の敷き詰められた中心が慶光天皇(典仁親王)の陵です。(ただし、距離があるので手前の墓数基のみ撮影)

他に墓地内には、
土塀で仕切られた仁孝天皇皇子・鎔宮と孝明天皇皇女・壽萬宮の墓があります。(写真)


他に墓地には、後水尾天皇皇女・永光院墓、
後水尾天皇皇子・霊照院墓、
後水尾天皇皇子・若宮墓、
後水尾天皇皇女・宗澄女王墓、
後西天皇皇女・円光院墓、
霊元天皇皇子・嘉智宮墓、
光格天皇皇女・受楽院墓、
霊元天皇皇女・智光院、
霊元天皇皇子・三宮墓、
光格天皇皇女・開示院墓、
東山天皇皇子・寿宮墓、
中御門天皇皇女・三宮墓、
中御門天皇皇子・信宮墓、
中御門天皇皇女・周宮墓、
東山天皇皇孫女・蓮香院墓、
東山天皇皇曾孫女・弥数宮墓、
東山天皇皇孫・梅芳院墓、
東山天皇五世皇孫女・茂宮墓、
東山天皇皇玄孫女・鎮宮墓、
東山天皇五世皇孫女・永宮墓、
東山天皇皇玄孫女・苞宮墓、
東山天皇皇玄孫女・敬宮墓があるということです・・・あまりの数の多さに、その幾つかのみの写真を掲載します。


最後に、豊臣秀吉が洛中を囲むように造った土塁「御土居(おどい)」の一部が、廬山寺の墓地に残っています。(写真)「御土居(おどい)」については、京都市内に10ヶ所程度残っていて、多くは国史跡に指定されています。これまでも一部採り上げていますが、また機会があれば書いてみます。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

イメージ 24

イメージ 25

イメージ 26

イメージ 27

イメージ 28

イメージ 29

イメージ 30

イメージ 31

イメージ 32

イメージ 33

イメージ 34

イメージ 35

イメージ 36

イメージ 37

イメージ 38

イメージ 39

イメージ 40

イメージ 41

イメージ 42

イメージ 43

イメージ 44

イメージ 45

イメージ 46

イメージ 47

イメージ 48

イメージ 49

イメージ 50

楊谷寺の続きです・・・今回は書院の庭園、奥の院に至る参道の写真を掲載します。


さて、楊谷寺の書院には「浄土苑」という庭園があります。
江戸時代中期の作庭とされ、京都府指定の名勝になっています。池を中心として幾つかの大きな石が配置されていますが、この石は菩薩に見立てられており、十三仏を描いています。この浄土苑のある書院から奥の院まで渡り廊下でつながっています。(写真)

一方、境内西側の阿弥陀堂右横、阿弥陀堂の左にある中陽門からも奥の院へ参道があり、参道の周辺には二十七種、約五千株のあじさいが植えられていて「あじさいの道」として整備され、六月下旬には「あじさいまつり」が行わています。(今回はピーク過ぎという感じでした。)
参道には、前回に写真を掲載した眼力稲荷社や弁天堂、また天然記念物モリアオガエルの生息する小池があり、そこから、さらに納骨堂、多宝塔等を経て、奥の院に至ります。



洛西観音霊場第十番札所にもなっている奥の院は、十一面千手千眼観世音菩薩を祀っています。第百十二代・東山天皇(在位1687〜1709)の皇妃・新崇賢門院(四条の局)が皇子の誕生に恵まれず、当山本尊に祈祷したところ、念願の皇子(後の第百十三代中御門天皇)を出産したと伝えられ、中御門天皇(在位1709〜35)が九歳の時に両親が崩御したため、その追善菩提のために当山本尊を摸して勅刻し、享保四年(1719)に奉安堂とともに当山に移されたのが現在の奥の院の本尊十一面千手千眼観世音になります。奥の院の御堂は大正元年(1912)に再興、大正四年(1915)に一度焼失して、昭和五年(1930)に再建されたもので、堂内左には二十八武衆が祀られ、右には楊谷寺ゆかりの天皇の位牌を安置しています。また、奥の院の背後には、男女和合、恋愛成就、夫婦円満に功徳あらたかな愛染明王堂があり、ここにも奥の院本堂の守護神として眼力稲荷社が祀られています。

最後に、「あじさいの道」から見下ろした楊谷寺境内の写真を掲載します。

開く トラックバック(2)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

イメージ 24

イメージ 25

イメージ 26

イメージ 27

イメージ 28

イメージ 29

イメージ 30

イメージ 31

イメージ 32

イメージ 33

イメージ 34

京都市の東山一帯には、清水寺をはじめとする有名社寺が立ち並び、いつも多くの観光客を集めています。一方、京都の西に位置する山々にも魅力的な史跡があることを知ってもらおうと、平成十六年(2004)から「西山三山」として3つの寺院が連携を強めています。
この「西山三山」とは、全国的にも知られている西国三十三ヶ所巡礼の第二十番札所でもある善峯寺(京都市西京区)、紅葉の名所として知られる光明寺(長岡京市 西山浄土宗総本山)、そして今回の楊谷寺(ようこくじ)です。


京都府長岡京市浄土谷堂ノ谷にある楊谷寺(ようこくじ)は、通称「柳谷観音(やなぎだにかんのん)」の名前で知られるお寺です。「眼病の観音さま」、「独鈷水(おこうずい)の観音様」として親しまれ、また「新西国三十三ヶ所巡礼」の第十七番札所でもあります。
信仰のお寺なので、観光ガイドにはあまり登場しないのですが、清水寺を創建した延鎮(えんちん)僧都によって創建されたことから「西の清水(きよみず)」ともいわれるだけあって、参道の両側には数軒の土産物屋等もあり、巡礼札所らしい親しみやすい雰囲気があります。
ただ、アクセス面でやや問題があり、毎月十七日の御縁日のみ阪急京都線大山崎駅より参拝バスが出て、多くの参詣者が集まりますが、それ以外の日は、自動車・タクシーを利用するか、阪急・JRの最寄駅から約五〜六キロ程度の舗装道路を歩くしかありません。(今回、六月二十八・二十九日に行われた「あじさいまつり」に行ってきました。この両日は特別にシャトルバスが運行しているからです。また秋には「もみじまつり」がありますので、紅葉時もお勧めです。)




さて、楊谷寺は、山号を立願山(りょうがんざん)という西山浄土宗(浄土宗西山派)寺院で、同派総本山の光明寺(長岡京市 西山三山の一つ)の末寺になり、本尊は秘仏・十一面千手千眼観音菩薩です。
寺伝によると、平安時代初期の大同元年(806)、京都東山の清水寺を創建したことで知られる延鎮(えんちん)僧都によって創建されたと伝えられます。
延鎮僧都が、日夜、観音菩薩に出会いたいと祈願していたところ、ある夜、夢の中に観音菩薩が現れ、京都の西山へ行けば、生身の観音菩薩に出会えると告げられました。直ぐに、延鎮僧都が西山に向うと、柳の生い茂った谷間から光明が射していて、その巌上を見上げると、そこに生身の十一面千手千眼観音様が立っていたということです。早速、延鎮僧都は観音菩薩に出会ったこの西山の山中に草庵を建て、出合った観音菩薩像を自ら刻んで祀りました。これが楊谷寺の開創と伝えられます。その後、僧都は清水寺の本尊を刻むという大任のために帰洛することになりました。

延鎮僧都が下山した後、弘仁十二年(811)、弘法大師空海が嵯峨天皇によって乙訓寺(長岡京市 ブログを参照)の別当に任命されました。弘法大師は乙訓寺に程近い楊谷寺にも度々参詣して修行していましたが、ある時、お堂の傍らにある岩窟の溜り水で、親猿が眼の潰れた小猿を抱いて一心不乱に眼を洗っている姿を見かけました。その姿に心打たれた弘法大師は小猿のために十七日間にわたって祈祷を行いました。すると、その満願の日に小猿の眼が開き、親子の猿は喜んで山へ帰っていったということです。
この様子を見た弘法大師は、獣に効力が有るならば人間にも効果があるのではないかと考え、この不思議な湧き水を眼病に悩む人々のための霊水にしようと決意して、さらに十七日間の熱心な祈祷を続け、独鈷で清水をかき回して祈り、また深く掘り広げて眼病平癒の霊水としました。これが、現在も湧き出す独鈷水(おこうずい おこうすい)となりました。
そして、このような縁で、楊谷寺は開山第一声延鎮僧都に続いて、弘法大師空海を第二世としています。


その後の楊谷寺は中世の戦乱などで荒廃したようですが、豊臣秀頼や淀君の援助によって再建されました。慶長十九年(1614)四月、当時の住持・志筌(しぜん)禅師は、豊臣氏の援助を受け七間四面の本堂を建立したと伝えられています。
長岡京市市役所のHPを参照して、江戸時代の楊谷寺の歴史を追ってみると・・元和九年(1623)七月、楊谷寺観音講規約が作られ、寛文四年(1664)十月、楊谷寺梵鐘が鋳造されています。元禄年間(1688〜1704)に現在の本堂等が再建されようで、元禄十四年(1701)十二月、浄土谷村が楊谷寺に薪山八ヵ所を寄進、正徳四年(1714)十一月、浄土谷村が楊谷山を楊谷寺観音の薪山としています。享保三年(1718)二〜四月、楊谷寺観音堂修理のため本尊・霊宝等の開帳を行い、享保七年(1722)三月、楊谷寺半鐘が鋳造されました。寛延四年(1751)四月、楊谷寺本堂が神足大工を棟梁として修復され、天明二年(1782)四月、楊谷寺で本尊の開帳を行っています。寛政十二年(1800)楊谷寺住持と浄土谷村役人・講中惣代が楊谷寺永代定式を定め、弘化四年(1847)に、楊谷寺本堂が神足大工を棟梁として再興されているようです。


また、楊谷寺は天皇家との関係も深く、山門の四脚門は、かつては皇族・貴族達専用の門でした。また、境内を囲んでいる塀には、皇室との関係を示す五本線が描かれています。
そして、江戸時代初期の第百十一代・霊元天皇(在位1663〜87)が独鈷水(おこうずい)で眼病を治癒したのを始まりとして、独鈷水を天皇へ献上するようになり、明治時代に御所が東京に移るまで続いたと伝えられています。また、第百十二代・東山天皇(在位1687〜1709)の皇妃・新崇賢門院(四条の局)が皇子の誕生に恵まれず、当山本尊に祈祷したところ、念願の皇子(後の第百十三代中御門天皇)を出産したと伝えられます。
この中御門天皇(在位1709〜35)が九歳の時に両親が崩御したため、その追善菩提のために当山本尊を摸して勅刻し、享保四年(1719)に奉安堂とともに当山に移されたのが現在の奥ノ院の本尊十一面千手千眼観世音菩薩になります。



現在の本堂や庫裏・表門は元禄年間(1688〜1704)頃に再建されたもので、京都府の登録文化財に指定されています。本堂には本尊の秘仏・十一面千手千眼観音が安置され、眼病に霊験あらたかな仏様として知られます。この観音像は平成十年(1998)に大修理を終えましたが、その際、胎内から寄進者の名前等が書かれた文章が発見され、この貴重な資料は、京都府の重要文化財に指定されました。(本尊は、御縁日の毎月十七日、十八日に開帳されます。)
また本尊を納めた厨子は淀君が寄進したと伝えられ、桃山時代の豪華絢爛なものです。観音像の両脇には、右に勝敵毘沙門天王、左に将軍地蔵大菩薩が祀られていて、清水寺の十一面観音の脇侍と同様になっています。(こちらも普段は扉が閉められています)さらに、両脇段には右に弘法大師像(その前に江戸時代から伝わる勤行式とご詠歌をあげる場所が設けられています。)左には阿弥陀如来と歴代上人の位牌が安置されています。その他、中御門天皇の寄進した御鏡等の皇室ゆかりの品々が寺宝庫に保管されています。

本堂の周辺には、書院、阿弥陀堂、鐘楼、経蔵、護摩堂、地蔵堂、寺宝庫、弁天堂等が立ち並んでいます。江戸時代に建立された阿弥陀堂は、かつては念仏堂とも呼ばれ、本尊の阿弥陀如来像を中心に、右に中国の高僧・善導大師像、左に法然上人像が安置されています。また、堂内の厨子は、淀君の寄進と伝えられています。本来この厨子は本尊十一面千手千眼観音のものだったということですが、豊臣家の紋が入っているために、徳川の世となって迫害を受けるのを恐れた当時の住職が阿弥陀堂に移したと伝えられています。この阿弥陀堂では、法事やサークル活動、毎年八月十八日の盆大施餓鬼の法要等が行われていて、今回のあじさい祭りでもイベント会場として用いられていました。(写真)また、阿弥陀堂の横にある小さな寺宝庫には、歴代天皇の数々の寺宝が納められていて、毎月十七日と文化の日等に開館します。
尚、阿弥陀堂の左にある中陽門からは奥の院へ参道があり、途中の本堂の山側には、 当山鎮守神の眼力稲荷社があります。「がんりきさん」として親しまれている眼力稲荷大明神は、学問に霊験あらたかな神で、特に先見の明(心眼・心の目)を授ける神といわれ、信仰者に最善の方法を指し示すということです。また稲荷社の向かい側には弁天堂もあります。


社務所の横から門を潜ると、有名な独鈷水(おこうずい)があります。
境内の岩穴から湧き出る清水で、眼病平癒の霊水として、目を病む人々から信仰され、毎月十七日の御縁日には多くの参詣者で賑わいます。
先程書きましたが、弘法大師空海が楊谷寺に参詣した際、岩窟の溜り水で親猿が小猿の眼を洗っている姿を見かけ、獣に効力が有るならば人間にも効果があるのではないかと考え、十七日間の熱心な祈祷を続け、独鈷で清水をかき回して祈り、また深く掘り広げて眼病平癒の霊水としたと伝えられます。さらに、江戸時代の霊元天皇が眼病を治癒されたことをきっかけに明治に世に至るまで天皇家に独鈷水を献上していたということです。普段、参拝者は自由に水を汲めますが、水は一度観音様にお供えしてから持ち帰るのが慣わしになっていて、家で観音様にお祈りしながら目を洗うと効力があるとされます。



次回に続きます。

開く トラックバック(3)


.
hir**i1600
hir**i1600
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事