京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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前回の村上天皇陵の参道入口から南へ約200メートル、右京区宇多野福王子町にあるのが、村上天皇の皇子にあたる第六十四代・円融天皇の陵墓「円融天皇後村上陵(えんゆうてんのう のちのむらかみのみささぎ)です。
後世、「天暦の治」と讃えられた父・村上天皇の時代に比べて、藤原氏による摂関政治の一齣に過ぎない印象の円融天皇の治世ですが、その陵墓も、山上にある村上天皇陵に比べてやや地味な印象がします。


さて、円融天皇(在位969〜984)は、村上天皇の第五皇子として、天徳三年(959)に誕生し、名は守平(もりひら)といいました。
少し、前時代に戻りますが、親王の兄で、康保四年(967)に十八歳で即位した第六十三代・冷泉天皇は、病弱で少し精神的な病気の症状もあったため、政務の補佐が必要と考えられました。そのため、父の村上天皇の時代に途絶えていた関白位が復活され、氏の長者として藤原実頼(ふじわらのさねより 朱雀天皇時代の関白・藤原忠平の長男)」が関白太政大臣に任命され、同時に左大臣に源高明(みなもとのたかあきら)、右大臣に藤原師尹(ふじわらのもろただ 藤原忠平の五男)が就任しました。
この時、左大臣となった源高明は、「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルの一人ともいわれます。そして、高明の妻が村上天皇の中宮・藤原安子(ふじわらのあんし)の妹だったことから、藤原安子やその父で村上帝時代の最大の実力者だった藤原師輔(ふじわらのもろすけ 藤原忠平の次男)の後援を得て栄達してきましたが、天徳四年(960)の師輔、応和四年(964)の安子の死後は後ろ盾を失っていたようです。

即位はしたものの、冷泉天皇は病弱だったために、その後継者の選定は急がれる問題でした。
冷泉天皇には同母弟としてニ歳下の為平(ためひら)親王、九歳下の守平親王(後の円融天皇)がありました。本来なら年長の為平親王が皇太子となるはずでしたが、為平親王が左大臣・源高明の娘を娶っていたために、将来、高明が天皇の外戚として権勢を振るうことを恐れた関白太政大臣・藤原実頼や右大臣・藤原師尹が、高明の影響を排除するために守平親王を擁立したのでした。こうして、守平親王は、康保四年(967)に僅か九歳で立太子されました。そして、二年後の「安和の変(あんなのへん)」で左大臣・源高明は失脚させられます。

「安和の変」は、現在の歴史学では、藤原氏による最後の他氏排斥事件として定義されます。
事件は、安和ニ年(969)三月、宮中に仕える左馬助・源満仲と源満仲(みなもとのみつなか 清和源氏の二代目とされます)や前武蔵介・藤原善時(ふじわらのよしとき)が同じく宮中官人の中務少輔・橘繁延(たちばなのしげのぶ)ら数名の謀反(為平親王を奉じて乱を起こそうとしたとも)を右大臣・藤原師尹(ふじわらのもろただ)らに密告したことに端を発します。
直ちに藤原師尹は公卿達を集めて会議を行うと共に、関係者を逮捕させました。そして、謀反人の中に源高明の家来・藤原千晴(ふじわらのちはる「承平・天慶の乱」で活躍した藤原秀郷の子)が含まれていたことから、主人の源高明も謀反に加担していたとして拘束され、大宰府へ流刑となりました。こうして藤原氏による有力他氏の排斥が完了し、今後は藤原氏一族(北家)内での権力争いが起こることになります。(尚、源高明に代わって左大臣に就任した藤原師尹はその後間もなく死去しています。)




さて、安和の変から間もなく、安和ニ年(969)九月、円融天皇は冷泉天皇の譲位を受けて十歳で即位します。幼少の天皇の補佐として、長老の藤原実頼が摂政に就任しました。また、同年、生後間もない先帝・冷泉天皇の皇子・師貞親王(後の花山天皇)が皇太子とされました・・・師貞親王の立太子は、その母が藤原伊尹(ふじわらのこれまさ・これただ)の娘だったことによります。藤原伊尹は、村上天皇時代に活躍した藤原師輔(ふじわらのもろすけ 藤原忠平の次男)の長男で、摂政・藤原実頼が翌天禄元年(970)に死去した後は、摂政太政大臣を引き継いだ人物です。そして、これ以降、ほとんど藤原師輔の家系が摂関職を独占していくことになります。
天禄三年(972)、伊尹も摂政就任後一年で病により関白を辞して死去し、その同母弟の兼通と兼家の間で関白職を巡って争いが起こりました。この兼通・兼家兄弟の対立は、後の藤原道長と甥の伊周の対立と並んで、藤原氏一族(北家)内の権力争いとして有名です。

兼家は、長兄の伊尹の政権下で次兄・兼通よりも重んじられて出世が早く、自身も次の関白は自分にと望んでいました。これに対し、弟の出世を恨んでいた兼通は、早くから自分に有利となるように策を練っていたようです。「大鏡」によると、弟に関白職を奪われることを恐れていた兼通は、村上天皇の時代にその中宮・藤原安子から「摂関は、必ず兄弟の順序にするように」という書付を賜って大事に保管していましたが、この時とばかり幼い円融天皇にこの遺言を献じました。亡き母の文字を見て心を動かされた円融天皇は、母の言葉に従って、兼通の出世を早めて天延二年(974)に関白に任じました。念願の太政大臣となった兼通は、憎い弟兼家の昇進を一切停止させ、天皇にも讒言して弟に対し様々な妨害行為を行いました。

さて、貞元二年(977)、兼通は重い病気となり伏していると、兼家邸から牛車がこちらに来ると家来が知らせます。さすがに犬猿の仲の弟でも見舞いに来てくれたとのか思った兼通は、弟の来訪を待ちました。しかし、兼家の乗った牛車は兼通の屋敷の前を素通りしてしまいました。実は兼家は、兄の命も後わずかと考えて、円融天皇に自身を後任の関白にと奏請するために御所に向っていたのでした。これを知った兼通は激怒して、重病をおして家来に支えられて参内しました。兼通は居並ぶ公卿の前で最後の除目を行い、親しい左大臣・藤原頼忠(ふじわらのよりただ 実頼の子)を後任の関白にすると共に、兼家の右近衛大将職を解任して降格し、代わりに中納言・藤原済時を右近衛大将に任じました。こうして最後まで弟を憎み続けた兼通は死去しました。

その後、後任の関白・藤原頼忠は、不遇の兼家を憐れんで、天元元年(979)に自身が太政大臣になった際に、兼家を抜擢して右大臣に昇進させます。また、同じく円融天皇の近臣・源雅信(みなもとのまさのぶ)は左大臣に任じられました。
こうして、元々兄に劣らず権力欲の強かった兼家は、徐々に朝廷内に勢力を築いていきます。天皇家と外戚関係に無かった藤原頼忠は、貞元三年(978)に娘の藤原遵子(ふじわらのじゅんし・のぶこ)を円融天皇に入内させますが、これに対抗して、兼家も天元元年(978)に娘・藤原詮子(ふじわらのせんじ・あきこ)を入内させ、同年詮子は懐仁親王(後の一条天皇)を生みました。同五年(982)中宮に冊立されたのは頼忠の娘遵子の方で、兼家は大いに失望しましたが、その後、遵子は皇子を生むことはなく、懐仁親王(後の一条天皇)を生んだ詮子を通じて兼家が最終的な勝利を得ることになります。但し、円融天皇の時代には、兼家と藤原頼忠、源雅信といった政治勢力が拮抗していたようです。

さて、兼家は円融天皇が詮子を中宮としなかったことに失望して、娘詮子や懐仁親王と共に邸宅(東三條殿)に籠もって、天皇の使者に対しても不平な態度を見せた程で、天皇との関係も決して良好ではありませんでしたが、円融天皇は、皇位を皇太子・師貞親王(花山天皇)に譲った後は、懐仁親王(一条天皇)を皇太子にすると兼家を慰めたといわれます。こうして、永観二年(984)に円融天皇は譲位して師貞親王(花山天皇)が即位し、懐仁親王(一条天皇)が立太子されました。
尚、花山天皇もわずか二年で、兼家の策略で退位させられ、寛和ニ年(986)に兼家は念願の当時七歳の一条天皇を即位させ摂政に就任します。そして、同時にもう一人の孫・居貞(おきさだ)親王(後の三条天皇  冷泉天皇の第二皇子で、母は兼家の娘・超子(ちょうし・とおこ))を皇太子にしました。こうして以後、兼家の家系は、歴代天皇家の外戚として子の道隆・道兼・道長と摂関職を独占して栄華を極めることになります。


最後に、譲位後の円融天皇についてです。円融上皇は永観二年(984)に寛和元年(985)に出家して、前年(永観元年 983)に創建した勅願寺・円融寺に住みました。
この円融寺は、石庭で有名な竜安寺(京都市右京区)の前身ともいうべき寺院で、現在の竜安寺のある地に創建され、円融法王の死後に次第に衰退したようです。そして、平安時代末期には、徳大寺実能(藤原実能)がその旧地に山荘を築き、山荘内に徳大寺と名付けた持仏堂を建立しました。その後、室町時代に徳大寺家から山荘を譲り受けた細川勝元によって竜安寺が創建されることになります。

円融法王は、正暦二年(991)に円融寺で死去して、円融寺の北原で火葬されました。(竜安寺の裏山に円融天皇火葬塚があります)その遺骨は村上天皇の村上陵の傍らに葬られたと伝えられ、明治二十二(1889)に村上天皇の村上陵とともに地定されました。村上天皇陵と同じく円丘墳墓の陵墓周辺は住宅が少なく周囲を回ることも可能です。

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右京区鳴滝宇多野谷、前に採り上げた妙光寺の西に接しているのが、第六十二代村上天皇の陵墓「村上天皇村上陵(むらかみてんのう むらかみのみささぎ)」です。
村上天皇の陵墓も、中世までの多くの天皇陵と同じく、その後所在が不明となりました。そして、明治二十二年(1889)に全国の天皇陵を急いで地定した際に、現在の場所に定められましたが、実際の埋葬地である可能性は少ないと考えられています。それはともかく、宇多野谷の山沿いの参道を登った所にある陵墓は、市街地に有る陵墓と違って自然に囲まれて良い雰囲気です。


さて、村上天皇(在位946〜967)は、第六十代醍醐天皇の皇子で、延長四年(926)に誕生し、名は成明(なりあきら)といいました。同母兄にあたる第六十一代朱雀天皇が皇子女に恵まれなかったため、天慶七年(944)に成明親王は皇太弟となり、天慶九年(946)出家して仁和寺に入った朱雀天皇の譲位を受けて即位しました。村上天皇の治世は、当初は朱雀帝時代に引き続いて藤原忠平(ふじわらのただひら)が関白を務めましたが、天暦三年(949)の忠平の死後は摂関を置かず、同じく摂関を定めなかった父醍醐天皇の治世(延喜時代)と並んで、その治世は、後世「延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)」と呼ばれる天皇親政の模範とされました。

「延喜・天暦の治」は、後世、天皇が直接政治を行い、良き臣下がそれを補佐するという古代律令制の理想的な政治形態と考えられ、南北朝時代の後醍醐・後村上天皇が両天皇(醍醐・村上)の治世を理想としていたことでも知られます。しかし、実際には親政は形式上で、政治は藤原北家の左大臣・藤原実頼(ふじわらのさねより)や右大臣・藤原師輔(ふじわらのもろすけ)兄弟が行いました。
20年に渡る村上天皇の治世は、平将門や藤原純友が乱を起こした(承平・天慶の乱)兄の朱雀天皇の治世程の大事件が無かったこともあり、反乱の影響で疲弊した朝廷や地方の財政再建に務めた時代といえるでしょう。そして、現在の歴史学では、「延喜・天暦の治」は藤原道長の時代に全盛期を迎える藤原摂関政治への過渡期と位置づけられています。

また村上天皇は、歌人としても知られ、琵琶などの楽器にも精通していました。特に天暦九年(955)〜天徳二年(958)にかけて藤原伊尹(ふじわらのこれまさ)、清原元輔(きよはらのもとすけ)等に命じて勅撰和歌集「後撰和歌集(ごせんわかしゅう)」の編纂させたことや、天徳四年(960)三月に村上天皇が清涼殿で行い、その優雅さから後世の歌合の手本となったといわれる女房歌合わせ「天徳内裏歌合わせ(てんとくだいりうたあわせ)」は有名です。

村上天皇は、康保四年(967)五月、四十二歳で崩御して、村上と呼ばれていた山城国葛野郡田邑郷に葬られました。現在の村上陵は、信憑性には欠ける天皇陵ですが、その円丘墳墓は住宅に囲まれていないため、山沿いに周囲を巡ることも可能で、陵内裏側には小池もあることが判ります。(写真)

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下京区松原通烏丸東入因幡堂町にある平等寺(びょうどうじ)は、山号を福聚山という真言宗智山派の寺院で、一般に「因幡堂(いなばどう)」、「因幡薬師」の通称名で知られています。
「京都十三仏霊場第七番札所」、「洛陽三十三所観音第二十七番札所」でもあり、本尊の重文・薬師如来像は、信濃善光寺の阿弥陀如来像、京都嵯峨の清涼寺の釈迦如来像と並んで「日本三如来」の一つに数えられています。本堂に比べ境内が狭いのが残念ですが、下京区では良く知られた、また庶民的で親しみやすい寺院の一つでしょう。(お寺で販売されている「京都因幡堂平等寺略縁起」と「狂言における因幡堂の位相」という小冊子を参照し書いてみます。また、雨の降りそうな夕暮れのため写真が良くないです。機会があれば撮り直す予定でしたが、何時になるかわかりませんので掲載します。)



因幡堂(平等寺)は、長保五年(1003)四月八日に、従四位上中納言・橘行平(たちばなのゆきひら)によりその邸宅に創建されたと伝えられます。

寺伝によると、平安時代の天徳三年(959)、橘行平は、時の村上天皇の勅使として因幡国(鳥取)の一ノ宮へ代参しました。行平が神事を終えて帰京しようとしたところ、急に病気になりました。行平が神仏に病気平癒を祈っていたところ、ある夜、夢の中に異形の僧が現れてこう言います・・「この因幡国の賀留津(かるつ)の海中に一つの浮木がある。その浮木は人々を救って悟りを得させる(衆生済度)ために、遠い仏の国から来たものである。そなたは、速やかにその浮木を求めて供養しなさい。そうすれば、病気は治り、さらにあらゆる願いが成就するだろう」と。

行平は不思議な夢に驚き、一日がかりで賀留津に到着してみると、そこには安太夫(やすだゆう)という老人がいて、老人は「この海底には、四十年程前から、四方に不思議な光を放つ物がありまして、人々は恐れて心が安まらないのです。」と言います。そこで、行平は早速、人々を集めて大網で海底を探らせました。すると、確かに一つの浮木が引き上げられました。よく見ると、それは身の丈五尺(165センチ)余りの薬師如来の尊像だったのです。行平は喜んで信心し、尊像を供養する草堂をこの浦に建て、薬師如来像を安置しました。すると行平の病気はたちまち治ったということです。そして、行平の帰郷後も、地元の人々はこの一堂を守り、座光寺と名付けたと言うことです。(現・鳥取県高草郡大字菖蒲浦の座光寺)

さて、京都へ戻った行平は、ある夜再び不思議な夢を見ました。夢に一人の異形の僧が現れて、「私は西の天から来て、東の国の人々を救おうとしてやってきた。そなたとは宿縁があるので、重ねて事を示そう」と言います。行平は夢から覚め、正夢だと思いました。
その時、ちょうど行平の屋敷の西門に、因幡の僧と名乗る人物が訪ねてきたと家来が告げに来ました。驚いた行平は、西門を開けさせたところ、そこには因幡で出会ったあの薬師如来の尊像が立っていたのでした。行平は驚いて尊像を碁盤の上(台座を残して都に飛来したため、代用に碁盤を用いたといいます)に安置しました。時に、長保五年(1003)四月八日の明け方のことと伝えられます。行平はすぐに屋敷を改造してお堂を造り、因幡堂と名付けました。これが、因幡堂平等寺の創建ということです。


この霊験あらたかな話は平安京で話題となり、当時の一条天皇(在位986〜1011)は、因幡堂に八ヶ所の子院を建立し、皇室の勅願所としたと伝えられ、その後も歴代の天皇の崇敬を受け、天皇の即位毎に祈祷し、「薬師もうで」と呼ばれる勅使の月参りもあったということです。また、源平の争乱時の承安元年(1171)、高倉天皇は因幡堂に勅額を賜り「平等寺」と命名しました。高倉天皇は因幡堂のすぐ南「東五条院」に住んでいたため、関係は深かったようで、天皇が寵愛した小督局の琴などが寺に伝来しています。

その後、因幡堂の境内は、京の人々が賑やかに集まる「市のお堂(町堂)」として、上京の六角堂や、下京の革堂(六角堂や革堂については以前にブログに採り上げています)と共に京の町衆に親しまれました。鎌倉時代の弘安七年(1284)頃、時宗の開祖・一遍上人も、因幡堂を京での布教の起点としてその教えを説いています。室町時代には足利将軍家も、度々因幡堂に参詣して、境内で猿楽興行も行われました。また、浄瑠璃発祥の地ともいわれています。
尚、因幡堂は、応永年間(1394〜1428)に天台宗に属しているという記録があり、応永二十五年(1418)七月には、寺門派総本山園城寺(三井寺)の末寺から同派大本山聖護院の末寺へと鞍替えしています。この時、鞍替えに怒った園城寺(三井寺)が因幡堂を攻撃してくるという噂が流れ、付近の町衆が因幡堂を守ろうと昼夜警護したという記録もあり、町衆の篤い信仰を集めていた寺院だったということがわかります。

その後、江戸時代初期には真言宗に属したようですが、天台宗の聖護院との関係は維持され、寺務は天台聖護院門跡 、寺僧は真言宗という両宗相乗りの珍しい寺院だったようです。また、江戸期を通じて、北側芝居・南側芝居に次いで、因幡堂芝居と言われた歌舞伎興行も行われ、出店も並んで大いに賑わったと伝えられます。そして、幕末には、新撰組の隊士が、壬生の屯所から因幡堂に来て見世物小屋の虎を見て、虎に吠えられた芹沢鴨が、「シシ(獅子・勤皇の志士)より怖い」とおどけたという話も伝わっていて、宗派に関係なく、町衆の集まる憩いの場だった当時の因幡堂の姿を想像させます。





さて、京都の多くの寺院と同様に、因幡堂も度々兵火や火事に遭っています。貴族の日記等から、平安時代の永長二年(1097)一月、康和五年(1103)十一月、嘉承三年(1108)二月、康治二年(1143)十月、仁平三年(1153)四月、平治元年(1159)十一月、安元三年(1177)四月、鎌倉時代の建長元年(1249)三月、室町時代の元中八年(1391)十一月、永享六年(1434)二月に類焼したことが判明しています。その後、近世にも火災に遭ったようで、現在の建物は、幕末の禁門の変(1864)で消失した後、明治維新の廃仏毀釈の後(廃仏毀釈の影響で、その後、堂宇も再建されないまま、何とか子院を本堂として本尊を守っていました。)、ようやく明治十九年(1886)に京の有志の援助もあって再建されたものです。

こうして、町堂として復興された因幡堂は、戦前までは毎月の縁日に夜店も並んで賑やかだったようですが、大戦の影響で夜店も消え、戦後は徐々に町衆とのつながりも薄れて衰微し、門も閉じられた時代が続いたということです。しかし、昭和五十四年(1979)に再びお寺は開かれて参拝も可能となり、徐々に復興してきました。平成十三年(2001)からは、毎月8日に境内で「因幡薬師てづくり市」も開催され、かつての京の町衆に愛された町堂を目指しておられるということです。


度々の火災に遭った因幡堂は、寺院の所蔵記録が失われたために歴史的には不明な点も多く、また中世には広大だった寺地も縮小しましたが、創建当時から伝わるという本尊薬師如来立像(藤原時代一木造、国指定重要文化財)は因幡薬師として知られ、現在まで大切に守られてきました。そして、信濃善光寺の阿弥陀如来像、京都嵯峨の清涼寺の釈迦如来像と並んで「日本三如来」の一つに数えられています。(通常は非公開ですが、八月八日、四月八日の午後に特別公開されます。)
その他、釈迦如来立像(重文)、如意輪観音像(重文)、小督局の愛用の品とされる琴、同じく小督の局ゆかりの硯箱、同じく、小督局の髪の毛で作ったと伝えられる光明真言の織物(毛織込み光明真言)といった寺宝が所蔵されています。他に大黒天像(忿怒形三面六臂大黒天)、毘沙門天像、弘法大師像、神変大菩薩(役長者)像、不動明王像、また歓喜天、地蔵菩薩等が境内諸堂に祀られています。

最後に、上記したように、因幡堂では、浄瑠璃の発祥の地ともいわれ、室町時代には猿楽がしばしば奉納上演されてきました。そして、「因幡堂」、「鬼瓦」、「仏師」、「六地蔵」、「金津(金津地蔵)」といった狂言の曲目にも登場しています。
その後、因幡堂が衰退したことにより、因幡堂狂言は消滅してしまっていましたが、平成十五年(2003)五月、長保五年(1003)の薬師如来の到着から千年になる因幡堂の開山千年法要に際に、因幡堂保本堂で狂言「因幡堂」「鬼瓦」が上演されました。これが多くの人々の支持を集め、因幡堂狂言を今後も続けてほしいとの声が全国の狂言ファンから集まったことにより、平成十七年(2007)に再び因幡堂狂言が復活されることになり、因幡堂狂言会が成されました。(詳細な公演情報等は、因幡堂狂言会のHPでご覧ください)

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上京区堀川通下立売上がる東側にある「伊藤仁斎宅(古義堂)跡並びに書庫」は、江戸時代の儒学者・伊藤仁斎(いとうじんさい)が自宅に開いた私塾「古義堂」跡で、仁斎時代の土蔵造の書庫が現在まで保存されていることから、国の史跡に指定されています。(かなり前に少し採り上げましたが、改めて書いてみます。)


さて、京都には数多くの史跡がありますが、今では街角に石標が立っているのみといった場所が多いのが残念です。このブログでは、基本的に記念碑等が建てられ整備されている場所のみを採り上げていますが、今回の「伊藤仁斎宅(古義堂)跡並びに書庫」は、非公開ではありますが、京都では、「荷田春満旧宅」、「頼山陽書斎(山紫水明処)」、「岩倉具視幽棲旧宅」と並ぶ数少ない国の史跡に指定されている古住宅になります。



伊藤仁斎(1627〜1705)は、寛永四年(1627)、上京区堀川通下立売上る、現在の古義堂のある場所に生まれました。父の了室は学門に熱心で、母は連歌師として有名な里村紹巴(さとむらしょうは)の孫という文化的な家系でした。仁斎は若くして朱子学を学びましたが、後にこれに批判的となり、孔子や孟子の本来の思想に戻るべきと考えて、孔・孟の原典に直接学ぶという古義学派(堀川学派)を創始しました。
寛文二年(1662)に自宅に私塾・古義堂を開き、宝永ニ年(1705)に七十九才で亡くなるまで、多くの公家や武家・町人にわたる門弟を教導し、その門下生は長男東涯(とうがい)をはじめ三千人を数えたといいます。古義堂は、仁斎の死後は東涯に継承され、その地に因んで堀川学派と呼ばれる京都を代表する一大学派となっていきました。そして、代々の伊藤家は永く学派を伝え、明治三十九年(1906)に至るまで実に244年に及びました。近世の有名な学塾で、このように一つの家によって運営継承されたことは極めて稀だということです。



さて、古義堂は、天明八年(1788)の天明の大火をはじめ、何度も火災に遭いました。
現在の建物は、明治二十三年(1890)に遺構をもとに再建したものですが、2階建て土蔵造の書庫は、仁斎が使用していたままの建物で、国の史跡に指定されています。尚、仁斎以降の歴代の当主が遺した著作や蔵書古義堂の蔵書、書画など約五千五百点、一万冊は、昭和十六(1941)〜二十年(1945)に天理大学附属天理図書館に移譲され、古義堂文庫として特別文庫の中に所蔵、公開されています。
古義堂では、京都市指定保存樹のクロマツ(高さ7.2m、枝張10m、幹周13.1m)が白い土蔵を彩っていて良い雰囲気です。

阿弥陀寺の「信長忌」

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今回は、以前に「織田信長の墓といえばこのお寺(阿弥陀寺)」としてブログに採り上げた阿弥陀寺の再登場です。6月2日に行われた「信長忌」の様子を掲載します。
「信長忌」は、天正十年(1582)六月二日、本能寺で明智光秀に襲撃され自刃した織田信長の忌日法要になります。

上京区寺町通今出川上る鶴山町にある阿弥陀寺は、織田信長の墓があることで知られるお寺です。(京都市内の信長の墓としては、本能寺、阿弥陀寺、大徳寺総見院、妙心寺玉鳳院、大雲院の5つが知られていて、ブログにはこれらの墓の写真を掲載しています。)寺は普段は非公開(信長の墓のある墓地は普段も見られます)ですが、6月2日の「信長忌」に因んで、本堂が一般公開されました。
(以下沿革については「織田信長の墓といえばこのお寺(阿弥陀寺)」の文章を再掲載します)


阿弥陀寺は、蓮台山と号する浄土宗寺院で、本尊として丈六の大きな阿弥陀如来を祀っています。創建は、天文年間(1532〜54)、清玉(せいぎょく)上人が近江(滋賀県)の坂本に開創しました。その後、永禄年間(1558〜70)織田信長の帰依を得て京の地に移し、当初、西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川大宮東)に大きな境内(八町四方)と塔頭十一ヶ寺(十三ヶ寺とも)を構えていたということです。また正親町天皇は清玉上人に深く帰依し、東大寺大仏殿再建の勧進職を命じるとともに、当寺を勅願所としていました。
さて、清玉上人は織田家と深い親交があったため、天正十年(1582)六月二日の本能寺の変の際、本能寺等に駆けつけて、信長、信忠父子及び家臣百有余名の遺骸を阿弥陀寺に埋葬したと伝わり、本堂には織田信長・信忠父子等の木像が安置されています。その後、天正十五年(1587)に、秀吉の命で、蓮台野から現在の地に移り、その後、延宝三年(1675)、天明八年(1788)の「天明の大火」で類焼し再建されています。また京都四十八願寺巡拝の十六番札所でもあります。


さて、寺伝によれば、明智光秀が謀反を起し本能寺に攻め寄せているという報せを聞いた清玉上人は、塔頭の僧徒二十人余りを引き連れて本能寺に駆けつけました。
既に本能寺は明智軍により四方を囲まれていて表門からは境内に入る事は出来なかったので、裏道よりなんとか境内に入りますが、既に堂宇に火が放たれ、信長公は切腹した後ということでした。
見ると近くの竹林に十人ほどの武士が集まって火を焚いています。彼らは信長公の家臣達だったので、清玉上人が彼らに顛末を聞くと、一同は、信長公は切腹する時に、必ず死骸を敵に渡すなと遺言されたのですが、四方を敵に囲まれ死骸を抱いて逃れる事が出来ないので、やむなく火葬にして隠し、我々は皆自殺しようとしているということでした。
上人は、私は信長公とは格別の由縁ある者なので、火葬はもちろん、将来の御追悼をしましょうといって武士達に乞い、皆さんは自殺するよりも、むしろ信長公の為に敵と戦って戦死する方が公も望まれるでしょうと語りました。主君の火葬や供養を上人に委ねた武士らは大いに安堵して戦いに参加していきました。
そして、彼らが門前の敵と戦っている隙に、上人は火葬した白骨を法衣に包んで、本能寺の僧徒らが逃げるのに紛れてうまく帰寺する事が出来たのでした。そして白骨を深く土中に隠し置いたということです。

また、信長公の嫡男・信忠公も、同時に二条城新殿で明智軍と戦って自害し、死体を敵に渡さないために火中に投じたと聞いた上人は、何とかして信忠公の遺骸も得ようと苦慮します。
同日昼八つ時(午後二時頃)、明智光秀が七条河原で休憩していると聞いた上人は、陣中見舞いと称して、多くの餅や焼飯らを携えて赴いて光秀に献上し、本能寺や二条城における戦死者の中には阿弥陀寺の檀家の者も多いので、彼らの遺骨を阿弥陀寺に葬りたいと願い出ると、光秀もその志に感じて、許可を得ることが出来ました。
そこで、上人は直ちに寺僧を多数引き連れて、本能寺と二条城に戻って信忠公の遺体や討ち死にした者達の死骸を持ち帰って、暫く時を経て、塔頭の僧達と密かに信長公をはじめ戦死者の葬儀を行いました。


その後、光秀を滅ぼして政権を握った秀吉が、信長公の遺骨が阿弥陀寺にあると聞いて、信長公の一周忌を行おうと清玉上人に法事を頼んだ所、上人は、相当の法事は既に行ったとしてこれを受けず、また法事料として三百石の朱印を下附されたのも辞退しました。
秀吉は三度まで使いを派遣して、永代墓所供養のために寺領を受けるように命じますが、上人は断固として受けませんでした。上人は、信長公亡き後の秀吉の振舞いは織田家の乗っ取りを狙うもので、一周忌を自分自身の宣伝効果のために利用しようとしていると嫌って、申し出を断ったのでした。
ついに怒った秀吉は、紫野大徳寺境内に新たに一寺(信長公の法名を採って総見院)を建立して寺領を与え、遺骸が無いので信長の木像を二体作りそのうち一体を火葬にし一体を寺に祀ることにしました。
その後、阿弥陀寺は、天正十五年(1587)に、秀吉の命令で、蓮台野から現在の地に移されますが、秀吉の恨みを買っていたので広大な寺域を削られ現在のような小さな寺となったと伝えられます。




さて、特別公開された本堂には、巨大な本尊阿弥陀如来を中心に、右に運慶作と伝わる地蔵菩薩像や開山・清玉上人の木像が安置されています。また、本尊の左には、厨子に納められた織田信長・信忠父子、信長の庶兄・信広の木像が安置されています。信長像は青木加賀の法邦の作ということです。
また真偽の程は定かではありませんが、本能寺で信長が使ったとされる手槍、後陽成天皇の勅額、鼓、弓掛、鞍掛、本能寺打討死者の位牌等の信長の遺品、また羽柴秀吉、明智光秀、松永久秀らの書状等が展示されています。

境内墓地には、信長・信忠父子の墓の他に、本能寺の変で討ち死にした家臣・森蘭丸、坊丸、力丸の三兄弟の墓があります。他に猪子兵助ら12名の家臣の墓があるということですが各々の確認は難しいです。その奥には本能寺の変の討死衆の合葬墓や織田一族の墓(江戸期の一族の名があります)があり、他に墓地には、儒者皆川淇園、俳人蝶夢の墓等があります。


さて、「信長忌」の2日は、午前十時から檀家信徒を中心とする法要が行われ、十一時から信長に関する約一時間の講演会が行われました。昨年の「信長の棺」の著者・加藤寛氏に続いて、今年は「信長燃ゆ」「天下布武」等の安部龍太郎氏の講演でした。その後、信長に関する寺宝の説明がありました。
(尚、安部龍太郎氏は、本能寺の変の理解には、日本国内の事件という視点だけでは無く、世界史的な視点が必要で、事件の黒幕としてイエズス会があると考えられているようです。
それまで信長の天下統一のために、鉄砲の技術や貿易によって信長政権を支えてきたイエズス会が、信長が晩年に自身を神と崇めさせるような態度を示し始めたことから、信長を危険視しし、信長を見限ったことが事件の遠因ということです。イエズス会は、キリシタン大名の黒田如水(黒田官兵衛孝高 本能寺の変を秀吉の政権取りの絶好の機会として、毛利家との和睦や中国大返しを進言した。)を介して、豊臣秀吉に政権を取らせようと事件を仕組んだ・・というような説です。)


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