京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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京都府八幡市には3つの石田神社があるようです。
全て市の東部に集中していて、八幡市上津屋里垣内、八幡市岩田茶屋の前、岩田里にあります。
今回はこの内、上津屋里垣内と岩田茶屋の2社です。(岩田里の一社も、もし機会があれば追加したいです。)
尚、3社の内、詳しい情報のあるのは上津屋里垣内の石田神社のみで、「八幡市教育委員会案内板」と八幡市観光協会のHPを参照して書いてみます。



上津屋里垣内にある石田当社は、素盞嗚尊(スサノオノミコト 素戔嗚尊、建速須佐之男命など)を祭神とする八幡市東部の里・浜・東(木津川対岸城陽市)の三集落の氏神で、かつては、「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」と呼ばれてきましたが、明治維新の神仏分離令によって石田神社と改称しました。

牛頭天王は、インド伝来の神で、素盞嗚尊(スサノオノミコト 素戔嗚尊、建速須佐之男命など)と同一視され、古来、京都の八坂神社をはじめ多くの神社で信仰されてきました。しかし、明治の神仏分離令によって「天王」は「天皇」と同音でもあることから特に危険視され、牛頭天王を祀る全ての神社は、祭神名を素盞嗚尊(スサノオノミコト)に代えさせられました。(または祭神から外させられました。)
尚、話は外れますが、現在、日本の神社の多くは、神仏分離令以降に定まった日本神話の神名を、創建以来変わらず用いていたように称していますが、実際の歴史はもちろん違っていて、神仏混交時代は様々な神名が用いられていました。石田神社の例でいえば、かつて牛頭天王社と称してきたように、江戸時代までは「天王(牛頭天王)さん」は、素盞嗚尊よりもずっと人々に親しまれていた神様でした。

さて、木津川に接する上津屋里垣内の石田神社は、祭神の素蟄鳥神(建速須佐之男命)=牛頭天王が、疫病に対する守護神として有名なことから、度々水害に見舞われたこの地で信仰を集めるようになったようです。社伝「天王神社記」によると、創建は大宝二年(702)、隣村の内里の山中に現れた素義鳥神を上津屋の地に祀ったことに始まり、その後、平安末期の治承四年(1180)の源三位頼政の兵乱で社殿は焼失し、優興のために文治四年(1188)、源頼朝によって神事料として土地が寄進されたと伝えられます。また、元弘の乱で笠置山への参陣の際に、楠正成が当社に立ち寄って願文を奉納したとも記されています。その他、神社には1200点以上の古文書類が保存され、神社や上津屋地区の歴史を語る貴重な資料になっています。

現在の一間社流造の本殿は、嘉永四年(1851)の造営です。拝殿も同時期のものですが、享保二十年(1735)の再建時に葺いた刻銘入り鬼瓦を屋根に載せています。また、近年社殿から発見された棟札によって、永禄元年(1558)の社殿造営の後、定期的に檜皮の葺替え修理が行われていたということが判明しているようです。その他、現在、神輿蔵となってる建物は、もと宮寺の福泉寺で薬師如来を祀っていたる薬師堂で、明治の神仏分離令で、本尊は同里垣内の浄土宗西雲寺に移されました。また、神興蔵の横にある十三重の石塔は、南北朝時代の作と考えられています。また、末社として太神宮、香取神社、若宮神社を祀ります。木津川の流れ橋にも近く、明るい印象のある神社だと感じます。



次は、岩田茶屋の前の石田神社です。

岩田の住宅街にあり、静かな境内が印象的な神社です。訪れた時は、参堂に落ちた椿の花が絵になっていました。
岩田茶屋の前と岩田里にある二つの石田神社は、平安時代の「延喜式神名帳」に記された式内社・石田神社の論社(式内社の後裔と思われる神社が複数の場合、各々を論社といいます)と考えられていますが、その由緒等は不明です。末社として水神社を祀ります。

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京都府八幡市内里内にある内神社(うちじんじゃ)は、八幡市東部ではますまずの敷地を持つ神社です。八幡市のこの地域は高い建物が少ないために、遠くからでも田畑の中にこんもりした鎮守の森が見え、この地区では比較的目立つ神社だと感じます。(八幡市観光協会のHP等を参照させていただきます。)



内神社は、平安時代の「延喜式神名帳」に、「内神社二坐」と記されている式内社で、創建年代は不明ですが平安時代初期には既に知られていた古社になります。祭神は、古代の伝説上の大政治家として知られる武内宿禰(たけうちのすくね)の異母弟(讒言により兄の失脚を謀ったという伝承もあります。)と伝わる味師内宿禰(うましうちのすくね)と、その後裔にあたる山代内臣(やましろうちのおおかみ)です。
「日本書紀」によれば、応神天皇の時代、味師内宿禰は兄の武内宿禰が謀反を企てていると讒言し、潔白を主張した武内宿禰と共に礒城川で「盟神探湯(くがたち)」を行ったという記述があります。(盟神探湯の始まりとされます。)「盟神探湯」は、神に誓った後に熱湯の中に手を入れ、事の正否を探る古代の裁判方法で、火傷すれば罪があり、火傷しなければ無罪と判定されたといわれ、この時は武内宿禰の.無罪が証明されたと記述されています。

武内宿禰は紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏等の多くの諸豪族の祖となったという伝承があり、味師内宿禰(うましうちのすくね)も紀氏の祖となったという説もあるようですが、実在の人物というより神話の世界に属し、幾つかの部族集団の事跡を一人の人物に仮託して伝承されている可能性も高く、当然ながら諸説あって実態は不明です。また、内神社のもう一人の祭神、味師内宿禰の子孫とされる山城内臣(やましろうちのおみ)についてもまったく不明ですが、山城南部のこの内里周辺には、奈良時代前期に南九州の隼人たちが征服され移住させられた地域でもあることから、彼らが神社を創建したとも考えられているようです。このように、内神社は、紀氏・内氏など畿内豪族の誕生を探るという古代史的な点で注目される神社のようです。


それはともかく、社伝によると、内里の地には、山代内臣の住居があったとされ、死後に山代内臣を祀る一社が創建され、その後、山代内臣の祖神・味師内宿禰(うましうちのすくね)が合祀されたと伝えられています。中世には内里村の鎮守社として春日宗像神社と称し、現在地の東南700メートル隔てた地にありましたが、室町時代の大永(1521〜27)の兵乱で社殿が荒廃したため(尚、内神社の境内にある由緒書では、平安時代の天永(111〜1112)の乱(西暦1100年)と恐らく誤記されているようです。)、天正年間(天正四年(1576)頃という)に現在地に遷座したと伝えられ、旧社地は現在も「古宮」といわれています。

現在の本殿と境内は、平成十三年(2001)十月から二年かけて内里区造営事業によって整備されたもので、そのためか整った印象のある境内で、日陰の少ないこの地域では、憩いのスポット・・ベンチ等もあり少し休憩したくなる雰囲気です。

現本殿の傍には旧本殿が保存されていて、この旧本殿は、京都府登録有形文化財に指定されてます。旧本殿は、今回の造営事業の際の調査で、外陣右側腰板から寛保三年(1743)の墨書銘が発見されたことによって江戸中期の建物と年代特定されました。一間社流造・銅板葺の建物で、屋根は幅四・七メートル、奥行六・三メートルということです。他に境内には、末社として、厳島神社、奇神社、稲荷神社、他に皇太神宮遥拝所、石清水八幡宮遥拝所が点在しています。

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観光都市京都ですが、遠方から来られた観光客は、さすがに市外(京都府下)の史跡まで訪れるのは大変なようです。このブログでは、市外の小さな史跡も出来るだけピックアップしたいと思っています。今回から数回、少し前に採り上げた木津川流れ橋(上津屋橋)の続きとして、八幡市東部の神社を中心に採り上げてみます。

京都府八幡市の史跡といえば、まず、平安時代の延喜式以来、伊勢神宮に次いで格式が高かった石清水八幡宮が必見で、松花堂美術館&庭園と、流れ橋(上津屋梯)と合わせて三大観光名所といったところでしょう。それ以外の小さな史跡となると、京都市内の史跡以上に情報も少ないため、八幡市観光協会等の情報から転載させていただきます。



さて、八幡市上津屋浜垣内、木津川流れ橋(上津屋橋)の西堤近くにある伊佐家住宅(いさけじゅうたく)は、蔵や堀跡などが残った風情ある古屋敷です。(内部見学については、近くにある「やわた流れ橋交流プラザ四季彩館」に事前予約が必要です。)

江戸時代の上津屋村は、里、浜、東向三つの集落で構成され、地域には浄土真宗の善照寺(伊佐家の西隣)や専琳寺、光瀬寺といった三つの寺院がありました。伊佐家は浜地域にあって幕府領の庄屋を代々務めた大家でした。現在の主屋は棟札によって、享保十九年(1734)に建造されたことがわかる江戸中期の建物で、江戸中期以来現存する南山城地方における代表的な庄屋屋敷として、主屋、長蔵、内蔵、東蔵、乾蔵、宅地が、国の重要文化財に指定されています。
入母屋造の主屋は、軒端の厚み1m以上の茅葺屋根とべんがら色の壁、柱や梁も太い堂々とした建物です。この主屋の土間には、大きな竃が据えられていて、主屋の北側に内蔵があり、さらに東蔵・木小屋・二階蔵・乾蔵が続いて、庭をはさんだ南側に長蔵があります。また、屋敷の周りは濠で囲まれていて、かつては木津川から舟で直接屋敷内に出入りができたということです。



つづいて、御園神社です。

八幡市上奈良御園にある御園神社(みそのじんじゃ)は、上奈良地域の氏神として祀られている小さな神社です。「奈良御園神社」の石碑から石橋のある参道を進むと、小さな森に囲まれて静かに本殿がたたずんでいます。神社の祭神は、春日大神中の三神・・武甕槌命(たけみかづちのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)です。

御園神社の創建は、社伝によると、延暦六年(787)、桓武天皇が河内国交野への行幸途中、この地で鷹狩りを行った際に神託を受け、同年十一月に、大納言藤原継縄に命じて一社を建立させ、奈良の春日社から三神を遷座したのが始まりということです。
その後、南北朝時代の正平七年(1352)二月の八幡合戦、応仁の乱による応仁二年(1468)三月の兵火に遭って炎上しましたが、明応三年(1494)九月に再建されたということです。

尚、この奈良御園の地は、天皇に供する野菜(瓜、茄子、大根等)を栽培した場所と伝えられます。この野菜を朝廷へ献上する風習はその後、途絶えましたが、この伝統は、現在も毎年十月の御園神社の例祭「御園の青物祭」に受け継がれています・・この青物祭では、野菜で飾った「ずいき(サトイモ)神輿」を奉納して、五穀豊穣を祈願します。
尚、他に境内には末社として八坂社、貴船社、太新宮があります。

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下京区油小路通木津屋橋上る油小路町にある本光寺(ほんこうじ)は、どこにでもあるような小さな尼寺ですが、幕末の「七条油小路の変」で、元新選組参謀・伊東甲子太郎が殺害された地になります。新選組ゆかりの史跡については、熱心な幕末ファン、新選組ファンが色々書いていますので、ここでは簡単に書いてみます。


伊東甲子太郎(いとうかしたろう、1835〜1867)は、天保六年(1835)、常陸国志筑藩の郷目付・鈴木忠明の長男として生まれ、本名は鈴木大蔵といいました。水戸の金子健四郎の道場で神道無念流剣術と水戸学を学んだ後、江戸の深川佐賀町にあった北辰一刀流伊東精一道場に入門し、伊東精一から才能を認められて、後に道場を継いで伊東姓に改めます。元治元年(1864)十月、同門の藤堂平助の紹介で、江戸での新撰組隊士募集に応じて入隊。同年十一月、弟の鈴木三樹三郎や篠原泰之進、加納鷲雄、服部武雄、内海二郎、中西昇、佐野七五三之助らと上洛しました。この時に、元治元年甲子に因んで伊東甲子太郎と改名しました。


新撰組入隊後の伊東は、北辰一刀流の達人である上に、国学や和歌にも精通することから、参謀兼文学師範に抜擢されますが、水戸学の勤皇思想に傾倒していたため、佐幕派の近藤や土方とは意見が相容れず、また、かねてから新撰組の内部分裂や勤皇派への方向転換を計画していたともいわれます。
慶応二年(1866)九月二十六日、伊東は近藤の妾宅で激論して物別れとなり、慶応三年(1867)三月十日、ついに新選組を離脱して、泉湧寺塔中の戒光寺の長老、湛然上人の仲介によって孝明天皇の御陵守護の任(御陵衛士)を拝命し、直ちに長命寺(五条通り大和路東入る南側 現存せず)に移りました。同年六月、高台寺の塔頭・月真院を新たに屯所としたため、高台寺党とも呼ばれます。この時、伊東に同行した者は、弟の鈴木三樹三郎(三木三郎)、篠原泰之進、藤堂平助、新井忠雄、服部武雄、毛内有之助、加納鷲雄、富山弥兵衛、阿部十郎、内海次郎、中西昇、橋本皆助、清原清、斎藤一(斎藤は新選組の密偵とも)の十五名でした。


その後、伊東は、大納言柳原光愛を通して、開国による富国強兵策や国民皆兵論等の新政府基本政策の建白書を提唱するなど勤皇の志士として活発な活動を行い、同志たちも各地に遊説、例えば藤堂平助は美濃(岐阜)で農民兵を組織する等も行ったとも伝えられます。そして、伊東らが、実際にどこまで計画していたのかは不明のようですが、薩摩と通謀して近藤勇を暗殺しようと計画しているという情報が、新撰組の密偵として御陵衛士に参加していた斎藤一によって近藤に知らされました。そこで、近藤と土方は、先手を打って伊東殺害を計画します。

慶応三年十一月十八日、近藤は、かねて伊東が金子借用を申し入れていたことから、その用立が出来たと伊東を単身で呼び出し、七条醒ヶ井の近藤妾宅に招いて酒宴を催しました。和やかに歓待されて油断したのか、伊東は盃を重ね大いに酔って亥の告(午後十時)過ぎに帰途に着きました。
伊東が油小路木津屋橋の東、禁門の変で消失したために板囲いで町並みが囲まれている辺りにさしかかった時、突然、板囲いの中から突き出された槍に肩から喉を突き通されました。近藤が待ち伏せさせていた大石鍬次郎ら数名による襲撃でした。伊東は瀕死の重傷を負うも、抜刀して立ち向かいますが、本光寺門前に建てられている石塔(門派石 題目石塔)に倒れ掛かって「おのれ、奸賊ばら」と叫んで絶命したといわれます。現在、本光寺の門内右側にある供養塔がその石塔で、明治維新当時は、現在とは逆にこの石塔が表通りの油小路にありました。


新撰組は、伊東の遺骸を油小路七条の辻に運んで放置する一方で、伊東が襲撃されたことを月真院の高台寺党に知らせ、遺体を引き取りにきた同志を殺害するために十数名で待ち伏せました。そして、駆けつけてきた高台寺党七名と乱闘になり、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助が討死し、鈴木三樹三郎、加納道之助、富山弥兵衛、篠原泰之進の四名が逃走して薩摩藩邸に逃れました・・世にいう「油小路の変」です。尚、伊東ら四人の遺体はしばらく放置された後、一旦光縁寺に埋葬されましたが、後に高台寺党残党によって泉湧寺の塔頭・戒光寺に改葬されました。
(伊東らの戒光寺の御陵衛士墓所は、以前にブログに採り上げました。残念なことに、現在は、心無い人の墓所での仕業のために、伊東らの命日十一月十八日以外は墓所への立ち入りは禁止となったようです。)


現在、本光寺の門前にある石碑と駒札(伊東甲子太郎他数名殉難の地)は、昭和四十六年(1971)十一月に設けられました。明治維新から百年となる昭和四十三年(1968)以降、各地で様々な明治維新を記念する行事が行われ、京都各地の明治維新史跡の調査が進みました。こうして、新撰組と油小路の深い因縁が判明したことにより、これらの事績を広く一般に人にも知って欲しいと設置されたものです。

長岡天満宮その2

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長岡天満宮の続きです(尚、写真は、キリシマツツジのピーク過ぎの五月初旬のものです。)


さて、京都府長岡京市は、かつて山城国乙訓郡長岡と呼ばれ、古代から開けた地域だったようです。
歴史的には天応一年(781)に即位した桓武天皇が、南都(奈良)の仏教勢力の圧力を嫌って、平城京からこの地への遷都を計画し、延暦三年(784)に長岡京を造営したことで知られます。長岡京に都が置かれたのは平安遷都までの十年に過ぎませんでしたが、乙訓寺をはじめとする当時の幾つかの史跡が現在まで残っています。


長岡天満宮の沿革です・・長岡天満宮の創建年代は不明ですが、かつては乙訓郡開田村の鎮守社として開田天神、開田天満宮と呼ばれていたようです。(また、社地も江戸時代初期に現在地(天神山)に遷座した記録があるために、創建時は現在の開田一帯の別の場所に有ったようです。)

社伝によると、長岡天満宮の鎮座地は、平安時代に菅原家の所領だったとされ、菅原道真が在原業平らと共にしばしば詩歌管弦を楽しんだ所とも伝えられます。昌泰四年(901)、道真が太宰府に左遷された時には、この地に立ち寄って「吾が魂、長くこの地に留まるべし」と名残を惜しんだといわれています。(この道真が名残を惜しんだという言い伝えから、別名「見返り天神」とも呼ばれています。)また、天満宮の鎮座地は、少し遡った平安時代初期の弘仁二〜三年(811〜13)、弘法大師空海が乙訓寺の別当となった時に、乙訓寺に属する塔頭として長岡精舎を建てた場所だったともいわれます。

神社を創建した人物にも諸説があるようですが、延喜三年(903)の道真の死後、菅原一族が道真の所領だったこの地に道真を祀ったのが天満宮の始まりとも、或いは、長岡精舎の坊官だった中小路宗則、西小路祐仲、東小路祐房の三人が創建したとも伝えられています。
この三人は、大宰府に向う道真を慕って近臣として大宰府まで随行しましたが、道真に諭されて、道真が自身の姿を彫った6センチ余の木像(画像とも)を贈られて帰洛しました。そして、道真が大宰府で亡くなった後、この道真自作の木像(画像)をこの地に祠を建てて祀ったということです。
この随行者の一人とされる中小路氏は、菅原氏の一族の出身と称し、天満宮の神官職を継承する一方で、中世には乙訓郡の国人領主として勢力を拡大した氏族で、応仁の乱後の明応七年(1498)には、荒廃した開田天満宮(長岡天満宮)を再建したという記録もあり、現在まで長岡天満宮の神官を世襲しています。この中小路氏によって神社の創建伝説が生み出されていったのかもしれません。


ともかく、開田天満宮(長岡天満宮)は、その後も皇室の厚い崇敬を受け、江戸時代初期の元和九年(1623)には桂離宮で知られる八條宮家の領地となり、またこの頃に、天神山の現在地に遷座したようです。宮家の度々の寄進を受けて社地の整備が行われ、寛永十五年(1638)には、八条宮智仁親王によって灌漑用の池(現・八条ヶ池)が築造されました。その後、延宝四年(1676)に天満宮の本殿、末社が宮家によって造営された記録があり、元禄四年(1691)には境内に春日社、八幡社の小祠が建てられました。

境内は、かつては10万余坪に及んでいましたが、明治維新後の上地礼のために縮小しました・・それでも現在2万余坪を所有しています。 現在の本殿(三間社流れ造り、素木)、祝詞舎、透塀は昭和十六年(1941)に、京都の平安神宮の社殿を移築したもので、拝殿は平成十年(1998)に以前の素木の拝殿を朱塗りにして増改築したものです。また、入口正面の御影石製の大鳥居(総高9.75m、笠木12m)は、平成十四年(2002)の「菅公御神忌1100年大萬燈祭」を奉賛して、平成10年(1998)10月に奉納されたものです。


境内の東側には、南北に細長く伸びる「八条ヶ池」があります。
先程書きましたが、八条ヶ池は、寛永十五年(1638)に、当時のこの地の領主・八条宮智仁親王が造営させた灌漑用の溜め池で、池の名前は八条宮に因んで後に名付けられました。寛永十五年(1638)に境内の東側に池を開き、翌十六年(1639)に境内周囲の堀を掘って造成し、以来、農業用の溜め池として利用されてきました。池の外周は約1km、貯水量は約35000トンあり、池を二分する約60mの中堤は、天満宮の参道として使われていて、中堤の中程にある石の太鼓橋は加賀前田家からの寄進といわれています。

池の周囲はツツジやフジその他多くの花が植えられていますが、特に中堤周辺約70mに渡って植えられているキリシマツツジ(霧島つつじ)は、野生種に近い約80株で、樹高は約2.5mを超え、推定樹齢100年〜150年という古木で、長岡京市の天然記念物に指定されています。長岡京市は、この貴重なキリシマツツジ(長岡京市の市花でもあります)を保全するため、平成三年〜五年にかけて中堤の拡幅整備工事を行い、また新株の植栽を行いました。

また、中堤と北池の中ノ島の六角舎を結ぶ水上橋(総檜造り 全長273.8m)を含む一帯は、「八条ケ池ふれあい回遊のみち」と名付けられた散策路として整備され、地元の多くの人々に親しまれています。この水上橋の六角舎からは、四月にはキリシマツツジや桜、そして天満宮境内の森や竹林が遠望できます。また、池の西側には、ハスやアヤメ・カキツバタ群落があり、五月から七月にかけて花を楽しむことが出来ます。また、南池の西側には、竹の子料理店「錦水亭」があり、赤を基調とした店のたたずまいも池に映えています。


他に、天満宮の境内には、六つの末社(八幡社、春日社、長岡稲荷大明神(明治三十三年創建)、山神社、和泉殿社、白太夫社)と笠松地蔵が祀られています。また本殿への参道の途中にある弁天池の周辺は、「紅葉庭園 錦景園」として近年整備されています。この錦景園には、幾つかの歌碑、記念碑が建立されています。(「霜林30周年記念事業記念歌碑(昭和52年4月建立)」、「長岡保勝會の事業竣工記念碑(大正11年建立)」、「森岡峻山先生歌碑」、「蟻塔歌碑」、「浅井素堂先生書碑」、「菅公頌徳詩碑」等が点在しています。)
また、天満宮に隣接する長岡公園は、多目的グランドやテニスコート、ゲートボールコート、子供広場等のある市民公園で、竹林や梅林、あじさい園もあって四季折々の散策を楽しむことができます。


(八条池の西側、ハスやアヤメ群落付近の写真を追加します。)


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