京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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京都府長岡京市天神にある長岡天満宮は、長岡京市のほぼ中央に位置している市のシンボル的な神社です。長岡天満宮の北東に接して、噴水のある「八条ヶ池」があり、その周囲は「八条ヶ池ふれあい回遊のみち」と名づけられた散策路になっています。また天満宮の西南には市民公園「長岡公園」が整備されていて、天満宮を中心とする周辺は、長岡京市内で最も人気のある市民の憩いのスポットとなっています。

長岡京市民で普段から賑わっている長岡天満宮ですが、特に四月下旬から五月にかけては、参道の南北に広がる八条ヶ池の中堤に真紅のキリシマツツジが咲いて、「新緑に映える真紅のキリシマツツジの見事さは、まさに我が国随一のものと称され・・(長岡天満宮のHPより)」という美しさで、阪急電鉄の長岡天神駅下車徒歩5分というアクセスの良さもあって、京都市内や大阪方面からも多くの観光客が訪れます。


今回は四月下旬のキリシマツツジのピーク時の写真を掲載してみました。(次回に天満宮の境内の写真を掲載します。)

妙光寺(特別公開)

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五月八日〜十四日まで、臨済宗建仁寺派大本山・建仁寺では、「妙光寺特別展」と称して、普段は京都国立博物館に寄託されている俵屋宗達の国宝「風神雷神図屏風」が特別公開され、妙光寺に関する寺宝も合わせて公開されました。
有名な「風神雷神図屏風」は、元々京都の豪商・打陀公軌(うだきんのり、うつだきんのり 糸屋十右衛門)が、建仁寺の末寺の妙光寺再興の記念に俵屋宗達に製作を依頼し、その後、妙光寺から建仁寺に寄贈されたものです。
また、この期間に右京区宇多野上ノ谷町にある妙光寺も特別公開されたので、今回再訪問してみました・・・尚、妙光寺に関しては、以前に、「野々村仁清の墓のあるお寺」として採り上げましたが、文章を一部再掲載させていただきます。



右京区宇多野上ノ谷町にある妙光寺は、近年まで無住の状態が続いたため、現在再興中のお寺です。
境内はまだ造成中といった雰囲気で、観光的に魅力のあるお寺ではありません。しかし、歴史的には由緒ある寺院になります。

さて、妙光寺は、正覚山と称する臨済宗建仁寺派に属する寺院です。
鎌倉時代の弘安八年(1285)、内大臣・花山院師継が長男忠季の早世を悼んで、その山荘を寺院として、心地覚心(しんちかくしん 無本覚心とも 法燈国師)禅師を開山に迎えて創建した寺院で、寺号は亡長男忠季の幼名・妙光に由来します。

開山の心地覚心(無本覚心)禅師は、東大寺や高野山で修業し、四十三歳の時、宋に渡って霊洞山護国寺の無門彗開(むもんえかい)禅師に師事しました。帰国後は、多くの学僧を育成して92歳で亡くなるまで日本の禅宗に多くの影響を与え、亀山天皇から「法燈国師」、後醍醐天皇から「法燈円明国師」の称号を賜っています。
また、心地覚心(無本覚心)禅師は、日本の食文化の恩人でもありました。
禅師は宋からの帰国後、紀伊国(和歌山県)由良の西方寺(後の興国寺)の開山となり、入宋中に習得した穀物を材料とした末醤(未醤)の製法を教え、日本人の食生活に欠かせない調味料である味噌・醤油を普及させた始祖とも呼ばれています。また、また尺八を吹きながら旅をする虚無僧(こむそう)で有名な虚無僧宗門(普化宗)の祖でもあります。


妙光寺は、広大な寺域を持った花山院家の菩提寺として栄え、また師継、子の師信、孫の師賢と続く花山院家は、持明院派・大覚寺派の天皇家の継承争いでは、大覚寺派として後の南朝と結び付きます。
こうして妙光寺は、大覚寺派の亀山天皇、後醍醐天皇、後村上天皇の勅願寺となり、その縁で、南北朝の動乱の建武年間には、後醍醐天皇が三種の神器と共に妙光寺に逃れ、また室町時代の足利義教暗殺後の嘉吉年間にも三種の神器が妙光寺に奉安されたため、本堂には「神器の間」があります。(写真)
そして至徳三年(1386)には五山十刹の制度の十刹(等持寺・臨川寺・妙光寺・安国寺・真如寺・宝幢寺・普門寺・広覚寺・大徳寺・龍翔寺)の一つにも選ばれます。しかし、南朝との関係が深く足利政権下で庇護を受けられなかったこともあり、応仁の乱以降の度々の戦乱で荒廃しました。

その後、臨済宗建仁寺派寺院となり、寛永十六年(1639)、中興開山となった三江紹益(さんこうしょうえき)和尚が、敦賀出身の豪商・打陀公軌(うだきんのり 糸屋十右衛門)の援助で再興しました。この時、打陀公軌が再建祝いに俵屋宗達に依頼したのが、国宝「風神雷神図屏風」です。その後「風神雷神図屏風」は妙光寺に伝えられますが、文政期(1818〜29)に本山の建仁寺へ上納されました。
その他、万冶三年(1660)には、妙光寺への後水尾天皇の御幸もあったと伝わります。さらに幕末には、建仁寺の天章慈英(てんしょうじえい)和尚が、妙光寺を勤皇の志士達の密議の場として提供し、天章和尚の工作は明治政府成立の原動力にもなりました。


かつての妙光寺は、内壁に中国渡来の印金裂を総貼りした開山堂があり、別名「印金堂」と呼ばれて広く知られ、与謝蕪村も「春月や 印金堂の木の間より」の句を残しています。しかしこの名所も昭和初期に老朽化によって崩壊し、現在は方丈裏に開山堂を設け開山・心地覚心(無本覚心)禅師像を祀っています。そして、境内の北東のかつての印金堂の跡地には、今も瓦等が散らばっています(写真)また、方丈では当時のものでは無いですが印金裂が展示されていました。

妙光寺は、山沿いのかなり広い境内を有していますが、方丈や開山堂、庫裏等のわずかな建物以外は、本堂跡、印金堂跡、池、応供石(かつての妙光寺八景のようです)が点在している程度です。他には、南北朝時代に三光国師が勧請し、幕末の文久年間に天章和尚が造営した鎮守堂や、南北朝時代に三種の神器が奉安された際に、この井戸水を供えたという甘露水があるだけで、方丈の庭園でさえまだ整備されていない状態です。(特別公開は料金300円で抹茶お菓子付きというのも、見所のないお寺だからでしょう。)




現在の妙光寺で、少しは有名なのは、境内の東端にある小さな墓地にある野々村仁清の墓でしょう。

野々村仁清は、江戸時代初期の慶長頃に丹波の国野々村(現京都府南丹市美山町大野)に誕生したと伝えられ、名を清右衛門といいました。若くして丹波焼きの陶工として、京都に出て東山粟田口で修行を積み、また尾張瀬戸でも数年間技法を学びました。そして、正保四年(1647)頃、京都御室の仁和寺門跡や金森宗和の知遇を得て仁和寺前に窯を築きました。そして、仁和寺の「仁」と、清右衛門の「清」から「仁清」と名乗るようになったといわれます。繊細で優美な仁清の作品は、主に茶道具や懐石道具で、貴族や大名、豪商等に愛用されました。また、弟子のひとりだった尾形乾山にも大きな影響を与えています。ただ、仁清は情報が乏しい人物で、没年も埋葬地も不明です。

妙光寺の墓地には、前にも書きましたが、「仁清之墓」の立て札がある緑系の花崗岩の非常に小さい墓石があります。この墓石はいわばレプリカで、方丈に昭和初期に妙光寺境内から発見された本物の墓石が安置されています。(写真)それまで、仁清が妙光寺に埋葬されたという伝承はあったそうですが、妙光寺の過去帳には仁清に関する記述がない等のため、学会ではこの墓は正式には認められていないとういうことですが。(尚、墓石には没年として「天和二壬戌年(1682)」と刻まれているようです。)

最後に、妙光寺に接する村上天皇陵の参道沿いには、印金堂跡、開山の心地覚心(無本覚心 法燈国師)禅師の墓、また木々の陰には、妙光寺の再建に尽力した豪商・打陀公軌一族の堂々とした墓があります。(写真)

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観光名所として知られる仁和寺の西にある京都市右京区「鳴滝(なるたき)」と呼ばれる地域は、古くは「小松の里」、「長尾の里」とも呼ばれた村里で、この地で滝となった鳴滝川(御室川)の水音が周囲に響いていた事から「鳴滝」と呼ばれるようになったと伝えられます。法蔵寺(法蔵禅寺)のある泉谷町は、鳴滝の周山街道と北の宇多野谷に囲まれた小さな渓谷地の一部で、仁和寺宮覚性法親王(鳥羽天皇皇子)の「泉殿」旧跡から名付けられた町です。


鳴滝泉谷町にある法蔵寺(法蔵禅寺)は、山号を海雲山という黄檗宗寺院です。
山門前に「尾形乾山宅跡」、「尾形乾山陶窯跡地」という石標があるように、この地は、江戸時代中期の陶工・絵師だった尾形乾山の邸宅跡にあたり、乾山がはじめて自身の窯を開いた場所になります。
近年、法蔵寺境内のこの乾山窯跡が発掘調査され、各地の美術館でも乾山展が企画されるなど現代でも斬新な乾山の作品への関心も高まっているようです。また、法蔵寺の門前の「春日潜庵先生墓」といった石標が示すように、境内墓地には幕末の思想家・春日潜庵の墓もあります。



さて、尾形乾山は、寛文三年(1663)に、京の大呉服商「雁金屋(かりがねや)」の当主・尾形宗謙(おがたそうけん)の三男として生まれ、本名を権平(ごんべい)といい、父の死後に深省(しんせい)と改名しています。また、すぐ上の兄が琳派の大画家となった尾形光琳になります。
尾形家は、雁金屋の初代・尾形道柏(どうはく 光琳・乾山の曽祖父)の代に、当時のファッションの最先端でもあった呉服染色業を始めたといわれます。また、道柏の妻は本阿弥光悦の姉法秀(ほうしゅう)で、その後、尾形家から優れた芸術家が生まれたのは本阿弥家の影響があったのかもしれません。事実、道柏の子・雁金屋二代宗柏や、その子三代宗謙も諸芸に優れた多趣味な人物として知られ、その子、光琳や乾山に至って尾形家は後世に残る偉大な芸術を生み出すことになりました。

貞享四年(1687)の父の死後、権平は深省(しんせい)と称し、遺産を譲られて京都の御室(おむろ)で隠棲生活を始めました。深省(乾山)は、幼少時から書物を好んだ内省的な性格だったといわれ、家業を離れた自由な生活に憧れていたようです。こうして、黄檗宗の独照性円(どくしょうしょうえん)禅師に師事し、また御室焼の陶工・野々村仁清と出会って弟子入りし、その色絵陶技を学びました。

当時、この鳴滝の地には、江戸時代に二条家の山屋敷があり、当主の関白・二条綱平(にじょうつなひら1672〜1732)は、尾形光琳や深省(乾山)の後援者となった人物です。元禄十二年(1699)、この二条綱平から山屋敷を譲り受けた深省(乾山)は、ここにはじめて自身の窯を開きました。また、この場所が都の西北「乾(いぬい)」の方角にあたることから、窯名を「乾山」と名付け、また自らの号としても用いました。

この地では、既に有名画家となっていた兄の光琳の協力のもとに兄弟合作となった数多くの作品を生み出し、制作は十三年に及びましたが、正徳二年(1712)に深省(乾山)が住居を二条丁子屋町(にじょうちょうじやちょう 中京区二条寺町)に移したことで鳴滝乾山窯は終わりを遂げます。
この転居の理由は、鳴滝が市内から遠くて不便だったことや、研究や実験に莫大な費用を投じた放漫経営で財政が逼迫したためといわれています。二条に移ってからの深省(乾山)は、東山の清水等の諸窯に依頼して一般受けする色絵の美しい食器類を多く作って生計を立てました。商売は繁昌しましたが、享保十六年(1731)六十九歳の時、深省(乾山)は江戸へ下って入谷に住居を移し、以来京都に戻ることはなく、寛保三年(1743)に八十一歳の生涯を閉じました。晩年の深省(乾山)が、なぜ江戸に移り住んだのかは今もわかっていません。




さて、法蔵寺です。
深省(乾山)が二条に移った後、鳴滝乾山窯旧地は、書家・桑原空洞(1673〜1744)の山荘となったと伝わります。(最近の研究によると、乾山の後、幾人かの町人がこの土地を転売していた記録が判明したということですが)、その後、書や茶道等に通じた文化人としても知られる関白・近衛家煕(予楽院)と親交のあった百拙元養(ひゃくせつげんよう)禅師が、享保十六年(1731)に近衛家煕(予楽院)の資金援助を受けて桑原空洞の旧宅を譲り受け、黄檗宗の寺院に改め創建したと伝えられます。

法蔵寺の方丈は、近衛家煕(予楽院)永代祈願所として寄進したものを改めたものと伝えられ、幾度かの修理を経て現在の建物となっています。近年まで無住の時代が続いたため、今では小さなお寺に過ぎませんが、趣のある門前は楓が映える隠れた紅葉の小さな穴場です。寺宝としては、近衛基煕の念持仏観音菩薩像、百拙元養禅師が描いた自画自賛像や黄檗高泉像、釈迦・文殊・普賢・十六羅漢図十九幅や七条仏師作の十六羅漢像、鳴滝乾山窯時代の陶片等があります。

乾山ゆかりの鳴滝窯跡は、境内背後の墓地の一角にあります。
昭和五年(1930)に発見されて以来、正式な発掘調査が行われて来ませんでしたが、平成十二年(2000)から「法蔵寺鳴滝乾山窯址発掘調査団」が結成され、約五年間に及んだ発掘調査が行われました。1980年代以降に法蔵寺の北側は宇多野霊園という墓地造成が進められて地形が大きく改変されてしまったために、窯跡の正確な位置は不明のままですが、それでも多くの乾山焼陶辺が出土しています。

また、法蔵寺の墓地には、幕末の儒学者・春日潜庵(1811〜78)の墓が、春日家一族の墓に囲まれてあります。
春日潜庵は、文化八年(1811)、公家久我家に仕える諸大夫の家に生まれました。潜庵は久我通明・建通に仕え、また陽明学を学んで私塾を開いて弟子の教育を行いました。幕末期には尊皇譲位論者として横井小楠や梁川星巌、西郷隆盛らと交流し、安政の大獄(1858)で捕えられますが、後に赦免されています。明治元年(1868)五月、奈良県初代知事となりますが、僅か二ヵ月後に旧幕府との通謀罪で逮捕され辞官。疑惑が晴れて出獄した後は教育に専念し明治十一年(1878)に死去しました。

乙訓寺その2

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乙訓寺の続きです・・・


さて、平安遷都以降、一時荒廃していた乙訓寺は、弘法大師空海によって再興されました。
弘仁二年(811)十一月九日、嵯峨天皇は、弘法大師空海を乙訓寺の別当に任命して、乙訓寺を鎮護国家の道場として整備させ、この時以来、真言宗寺院となりました。
空海の別当就任は、嵯峨天皇の即位間もなく「平城太上天皇の変(藤原薬子の変)」が起きて世が乱れたために、これも早良親王(祟道天皇)の祟りと恐れた朝廷が、新王の祟り発祥の地(乙訓寺)での空海の祈祷の効力に期待したためという説もあるようです。また、弘仁三年(812)九月二十七日、伝教大師最澄が乙訓寺に空海を訪ね、ここで空海と最澄は初めて出会ったと伝えられます。


延暦ニ十三年(804)、最澄と空海は同時に入唐しましたが、最澄は越州(浙江州)龍興寺の順暁和尚から密教を学んで翌年帰国。一方、空海は長安の青龍寺の恵果和尚から同じく密教の灌頂を受けて、大同元年(806)に大量の密教経典や法具他を携えて帰国しました。
空海が最新の密教大系を日本にもたらした事を知った最澄は、自身が順暁和尚から授けられた密教の灌頂は傍系であることに気づきました。そこで、乙訓寺に空海を訪れ、礼を尽して弟子入りして灌頂を受けました。当時、既に仏教界の一大指導者となっていた最澄が無名の空海に教えを請うたことは、世間に大きな影響を与え、空海に弟子入りするものが続出し真言教団が生まれていきます。

空海と最澄の交流はその後も約10年間続きますが、やがて、最澄が「理趣釈経」の借用を空海に申し出て、密教の奥義を知るためには理論重視では無く実践が大切とする空海に拒絶され、また最澄の愛弟子泰範が、空海の弟子となって比叡山への帰還を拒否したことによって、決定的な終わりを遂げます。元々、空海が、密教こそ真言宗(真言密教)そのもので、他の諸宗(顕教)とは別個の仏教とするのに対し、最澄の天台宗では、顕教と密教を同列とし(顕密一致)、密教は法華経の一要素であり、円教、密教、禅法、戒律等を総合的に融合する「四宗融合」を目指すというものでした。この「密教」に対する考え方の相違が表面化して決別につながったと言えます。



さて、空海は弘仁三年(812)十月、高雄山寺(神護寺)に移ったために、乙訓寺との関わりは短いものとなりましたが、乙訓寺には、現在も空海ゆかりの寺宝等が伝わります。
本堂に祀られている秘仏・本尊弘法大師像(三十三年に一度開帳)は、空海と八幡大神との合作と伝えられる等身大の像です・・・・夜間、空海が八幡大神の姿を彫っていると、境内にある八満社から翁の姿をした八幡大神が現れて、共に協力して一体の像を造ろうと告げました。そこで、八幡大神は空海をモデルに肩から下を彫り、空海は八幡大神をモデルに首から上を彫って、明け方に出来上がったものを組み合わせると、寸分の狂いもなく上下の像は合体したと伝えられ、以来、「合体大師」、「合体御影」と呼ばれるようになったということです。
また、毘沙門堂に祀られる毘沙門天像(平安時代後期)も空海の自作と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。他に、境内客殿前には、空海が唐から持ち帰ったみかんの木を栽培して嵯峨天皇に献上したという(性霊集)史実に基づいてみかんの大樹が植えられています。


その後の乙訓寺ですが、寛平九年(897)、宇多天皇が法皇となって、乙訓寺を行宮(あんぐう 仮宮)として堂塔を整備し、この時以来、寺は法皇寺と呼ばれました。
その後、法皇寺(乙訓寺)は、今熊野日吉町(京都市東山区)付近に移り、室町時代には、寺内の内紛が起こったため、将軍足利義満は僧徒を追放して、南禅寺の僧伯英(白英)徳俊禅師に(?〜1403)に命じて、法皇寺(乙訓寺)を禅宗寺院に改めて南禅寺の所属としました。応仁の乱や永禄年間(1558〜69)の織田信長の兵火等により一時衰微しますが、江戸の元禄時代になって、徳川五代将軍綱吉とその生母桂昌院の信任の篤かった将軍の祈祷寺・江戸護持院の隆光僧正が、再び真言寺院として乙訓寺を再興しました。

当時、乙訓寺は南禅寺金地院の兼帯となっていたため、隆光僧正は東山の旧豊国神社周辺にあった文殊院屋敷を拝領して、これを金地院と交換して乙訓寺の地を入手しました。工事は元禄七年(1694)十二月八日に起工し、翌八年(1695)五月二十一日竣工、六月十五日に落慶法要が行われました。この復興の際に、綱吉・桂昌院・側用人の牧野成貞が五百〜百両を寄進、また、綱吉は寺領百石を乙訓寺に寄進しています。(当時の寺域は八千二百余坪ということです。)
徳川家の祈祷寺、真言宗寺院として再興された乙訓寺は、宝永二年(1705)八月までは、中興となった隆光僧正が直接管理していましたが、同年に長谷寺の芳運房元貞が入山して乙訓寺第一世となり翌三年(1706)十一月に護摩堂が建立されています。その後、明治の廃仏毀釈や戦後の農地改革の影響で寺域を失いましたが、「今里の弘法さん」、「牡丹の寺」として現在も広く親しまれています。



さて、空海作と伝わる本堂に祀られている秘仏・本尊弘法大師像(「合体大師」、「合体御影」)と毘沙門堂に祀られる毘沙門天像(平安時代後期 国重要文化財)については上記しましたが、本堂の脇侍で、長谷寺の本尊を模したといわれる十一面観音菩薩立像も長岡京市の指定文化財で、乙訓寺は「洛西観音霊場」の第6番札所でもあります。

また、境内にある建物の内、本堂・八幡社・鐘楼・表門(南門=四脚門)裏門(東門=高麗門)は、長岡京市指定文化財に指定されています。
本堂(附宮殿=つけたりくうでん)は、元禄八年(1695)五、六月に建造された建物で、正面三間・側面五間、宝形造で本瓦葺の建物で、当初は大師堂と呼ばれていました。宮殿には本尊の合体大師像を安置しています。
鐘楼は、方一間の入母屋造本瓦葺の建物で、年代は不明ですが江戸中期の建物です。徳川綱吉の側用人だった牧野成貞の寄進による建立と伝えられますが、記録が無いために年代は不明です。鐘は戦時中に供出され、昭和四十一年に改めて鋳造されました。(以前の鐘銘を再刻していて、当初の鐘が元禄九年(1696)十月に精海の発注で、三条釜座の信州大掾藤原国次の作と判明しています。)

表門(南門)は、一間一戸の四脚門で、切妻造本瓦葺です。様式及び大棟端の鬼瓦の銘からも元禄八年(1695)の建立と考えられています。また、裏門は、一間一戸の高麗門で、切妻造本瓦葺、両脇練塀付きの建物で、同じく元禄八年の建立です。(棟札では裏門・高麗門とし、間九尺と記しています。また仕様覚には裏門「黒門」作と記します)
鎮守八満社は、一間社、流造銅板葺の建物で、元禄八年(1695)の建立です。(享保八年(1723)の修理の際に、桧皮葺から杮葺に、また明治以降に桟瓦葺(方形で横断面が波形をした瓦)に替えています。平成元年(1989)の修理の際に、軒の一部を柿葺とし、その上に銅板を葺いています。)
他に境内には十三重塔や早良(さわら)親王の慰霊塔、また多くの祠等が点在しています。

また境内にあるクロガネモチは、樹高9m、幹周2.93m、根元周囲3.55m、推定樹齢400〜500年という大木で、京都府下でも有数の巨大な名木で長岡京市指定文化財、有形文化財(天然記念物)に指定されています。この古くから地域の人々に親しまれ、乙訓寺のシンボルとなってきた大木は、昭和九年(1934)の室戸台風で幹が折れ、近年は枯れ枝が目立って腐食と空洞化が進んできましたが、今は関係者の協力で保全対策がなされ再生してきています。


最後に、乙訓寺といえば牡丹ですが、この牡丹が最初に植えられたのは昭和十五年(1940)頃のことということです。
元々、乙訓寺は表門から本堂まで松の並木が続いていましたが、昭和九年(1934)の室戸台風で多くが倒木しました。関西で牡丹といえば、すぐに思い浮かぶのは奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の長谷寺ですが、乙訓寺は長谷寺の末寺という関係から、乙訓寺第十九世海延住職の伯父にあたる長谷寺第六十八世能化(住職)海雲全教和上が、台風の被害を受けた乙訓寺の境内を見て、本尊への供花として、長谷寺で育てた牡丹のうち2株を寄進したものが始まりになります。
そして、その後歴代住職らの尽力によって株数も増加し、現在では約30種、約2000株の花が美しく咲くようになりました。こうして、今では乙訓寺といえば牡丹と言われるようになり、毎年四月末から牡丹まつりが行われています。

乙訓寺その1

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京都府長岡京市今里にある乙訓寺(おとくにでら)は、山号を大慈山(だいじさん)という真言宗豊山派の寺院で、地元では「今里の弘法さん」として親しまれています。また、京都の寺院としては珍しい「牡丹の寺」として知られ、4月下旬〜5月初旬頃に美しい花を楽しむ事が出来ます。京都市内からJRや阪急電車で15分程度といったアクセスの良さもあり、桜の後に楽しめる花の名所として貴重な存在かもしれません。一年を通して魅力のある観光名所もありますが、乙訓寺の場合は牡丹の花が無いと地味なお寺といった印象なので、やはり4月下旬〜5月上旬が絶対のお勧めです。


さて、乙訓寺のある長岡京市を含む京都府南西部(現在の向日市、長岡京市、大山崎町、また京都市西京区・南区・伏見区の一部)は、「乙訓郡(おとくにぐん)」と呼ばれる地域に属していました。(尚、戦後、乙訓郡に属していた久我・羽束師の両村が京都市伏見区へ、大枝・大原野両村が京都市西京区へ、久世村が京都市南区へ編入され、その後、向日町と長岡町も市になったため、現在は乙訓郡に属するのは大山崎町のみです。)
この「乙訓(おとくに)」という地名の語源は、諸説あるようですが、古代にこの地方が、「兄国(えくに)」と呼ばれた「葛野郡(かどのぐん 現在の京都市西部一帯)」に対して、「弟国(おとくに)」と呼ばれていたことに由来するという説が有力です。これは、奈良時代の大宝律令(701)が全国の地方行政組織を定めた際に、葛野郡から分離して新しく郡を作って、これまであった葛野郡を「兄国」とし、新しく誕生した郡を「弟国(乙訓)」と名付けたと考えられています。

奈良時代に編纂された「日本書紀」によると、越前(福井県 近江とも)出身の第二十六代・継体天皇(事実上の初代天皇として現在の皇室に繋がる新王朝を開いたという説もある注目すべき天皇として知られます。)が河内で即位した後、在位十二年(518)三月に、都を「弟国宮」に移したことが記されています。(現在の乙訓寺は、この宮殿跡ではないかとも考えられているそうです。)このように「弟国(乙訓)」は古代から開けた地域だったようで、その後「乙訓」と呼ばれるようになり、現在に至ったと考えられています。



さて、乙訓寺についてです。
乙訓寺の創建時期は不明ですが、少なくとも奈良時代にはこの地にあったとされ、乙訓最古の寺院ということです。寺伝によると、太秦の広隆寺とほぼ同じ頃、推古天皇の十一年(603)頃に、天皇の勅願により聖徳太子が十一面観音菩薩を本尊とする寺院として創建したと伝えられます。

天応一年(781)に即位した桓武天皇は、南都(奈良)の仏教勢力の圧力を嫌って、乙訓郡長岡村(現長岡京市)への遷都を計画し、延暦三年(784)から長岡京を造営します。その際、乙訓寺は王城鎮守の寺院として京内七大寺の筆頭として大増築されたといわれています。当時の寺域は、南北百間(約180m)以上、建てられた講堂は九間(約16.2m)・四間(約7.2m)四方の建築だったと伝えられ、実際、発掘調査によって当時の姿がわかってきました・・・昭和四十一年(1966)、乙訓寺の北側に長岡第三小学校が新設されることになり、北側一帯の発掘調査が行われました。その際、見つかった講堂跡は東西27m、南北12mあり、さらに北側には僧坊跡等も発見されました。これらは、奈良時代末期と平安時代の遺構と考えられ、長岡京時代〜平安時代(空海の別当時代)にかけての全盛期の乙訓寺が東西三町(約327m)、南北二町(218m)あり、現在の敷地一町四方(110m)の6倍の大きさがあったことが判明しました。


さて、延暦四年(785)、長岡京の建設工事が開始されて間もなく、乙訓寺の名が歴史に残ることになったある事件が起こりました・・・長岡京遷都の建言者で、造営責任者だった藤原種継(たねつぐ)が暗殺されたのです。

藤原種継は、藤原宇合(ふじわらのうまかい 藤原四兄弟の一人)の孫に当たり、桓武の父・光仁天皇を擁立した百川(ももかわ)の甥でもあり、当時、桓武天皇が最も信頼していた側近でした。種継は九月二十三日の深夜、造営工事を検分していましたが、暗闇から何者かが放った弓矢により殺害されたのでした。
捜査の結果、犯人一味として大伴継人ら十数名が捕らえられて処刑され、また死後間もなかった春宮大夫・大伴家持も事件に首謀者として関与していたとして除名、その子の永主らも隠岐へ流罪となりました。また、家持ら事件関係者の幾人かが春宮坊(皇太子の住居で政務機関)の官人だったことから、桓武の実弟で皇太子だった早良(さわら)親王も、事件への関与を疑われました。そして、捕らえられた早良親王が幽閉されたのが、乙訓寺でした。

早良新王は、事件に関係が無いことを強く訴えて絶食しました。しかし、十余日後に流罪処分が決定され、淡路島への配流の途中に河内国の高瀬橋(淀川に架かる橋)付近で憤死し、遺骸はそのまま淡路に送られて埋葬されました。
現在の歴史解釈によると、藤原種継暗殺事件は、光仁・桓武両帝の擁立を推進した藤原式家(藤原良継・百川兄弟ら)が台頭してきたことに対して、危機感を持った大伴氏等が企てた陰謀だった考えられています。大伴氏は関係の深い早良親王を天皇に擁立しようとしたともいわれますが、親王が実際に陰謀に関わっていたかは不明です。また、桓武天皇や藤原氏側が事件を利用して早良親王の失脚を画策したのかもしれません・・・桓武が子の安殿親王を皇太子にしたかったことや、幼少時に出家して僧として東大寺等に住んでいた早良新王が、皇太子に決って還俗した後も南都(奈良)旧仏教勢力と依然深い関係を持っていたために、南都仏教との決別を考えていた桓武が弟に疑いを抱いていたのではないかとも考えられているようです。


早良親王の死は、その後の桓武天皇の心に大きな影響を与えることになりました。
やがて、桓武の周囲では延暦七年(788)五月、夫人・藤原旅子(ふじわらのたびこ りょし)、同八年(789)十二月、母・高野新笠(たかののにいがさ)、同九年(790)閏三月、皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)、同七月、宮人・坂上又子(坂上田村麻呂の兄弟)らが相次いで死去します。

また、延暦七年(788)に畿内が旱魃に襲われ、同年、大隈国(現大隈半島)の霧島山が噴火。延暦八年(789)には東北へ遠征していた朝廷軍が蝦夷のアテルイ(阿弖流為)に敗北。延暦九年(790年)の秋から冬にかけては疫病が大流行し、延暦十年(791)八月には、伊勢神宮に侵入した盗賊によって神宮の正殿・財殿などが放火されるという事件が起こります。これら様々な凶事の中でも、特に桓武天皇を心配させたのは、同十一年(792)、皇太子・安殿親王(あてしんのう 後の平城天皇)が原因不明の病気にかかったことのようです。

これだけ異変が続けば、現代人でも、もしかしたら何かに祟られているのでは?と不安に襲われることでしょう・・・・延暦十一年(792)六月、天皇が皇太子・安殿親王の病の原因を探るべく陰陽師に占わせたところ、これらの凶事はすべて早良親王の怨霊によるものと判明します。
驚いた桓武天皇は、直ぐに勅使を早良親王の墓のある淡路国に派遣し、親王の祟りを鎮めるために、親王への陳謝を行って陵墓を整備し、墓守を置きました。しかし、その後も、同年六月末と八月に桂川の氾濫により長岡京で水害が起こりました。
ここにいたって、桓武天皇は和気清麻呂の進言をいれて、翌延暦十二年(793)早々、早良親王の祟りを受けて呪われた都となってしまった長岡京から、都を移す計画を進めました。(遷都の理由としては、遷都推進の中心人物・藤原種継を失ったこと、災害の影響で長岡京造営がその後進展しなかった点もあると考えられています。)



延暦十三年(794)十月の平安遷都後も、何か異変がある度に早良親王への鎮魂が繰り返されました。
「日本後記」によると、延暦十六年五月、宮中に異変があったとして宮中と東宮で金剛般若経を転読させると共に、僧侶二人を淡路に派遣して、親王の陵墓でも同教を読ませています。また、延暦十八年二月、行兵部大輔兼中衛少将・春宮亮大伴是成(とうぐうのすけおおともこれなり)と、僧傳燈法師を淡路島へ派遣して親王の霊を供養しています。延暦十九年(800)三月〜二十一年(802)には富士山が大噴火するなど異変がある中、同年七月に、早良親王に「祟道(すどう)天皇」の尊号を追贈し、再び春宮亮大伴是成に大勢の陰陽師や僧達を率いさせて淡路に派遣。山陵で祟道天皇の霊を供養しています。

延暦二十四年(805)、桓武天皇は体調不良に悩み、いよいよ自身の死期を覚ったのかもしれません。ますます、崇道天皇への鎮魂が繰り返されます。同年一月、崇道天皇のために淡路国に寺を建立。同四月、崇道天皇の為に小倉を建立、同七月、遣唐使がもたらした唐の物品を崇道天皇陵(他に天智天皇の山科陵、光仁天皇の田原陵へ)に献上。十月には崇道天皇の為に一切経を書写奉納しています。そして、延暦二十五年(806)三月、いよいよ死が迫った桓武天皇は、藤原種継暗殺事件に関係した者に恩赦を与えて大伴家持らを復位させました。そして、崇道天皇のために諸国にある国分寺で春秋七日間の金剛般若経の読経を命じた後、七十歳で崩御しました。

桓武天皇の生涯は、まさに弟早良親王(祟道天皇)の怨霊に悩まされ続けた生涯といえるでしょう。そして、日本史上の最大の出来事の一つ・・・千年の間、日本の首都となった京の都(平安京)が誕生した理由を、歴史家は色々納得の行く理屈を考えて論じますが、当時の記録からわかることは、ただ早良親王の怨霊から逃れるためだったという理由のみです。そして、その後も、早良親王(祟道天皇)は全国の「御霊神社」で祀られていくことになります。(早良親王(祟道天皇)を祀る京都の祟道神社、上御霊神社、下御霊神社については、以前に少し書いていますが、機会があればもう少し追加したいと思います)

次回に続きます。


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