京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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前回の三宮神社に隣接する桓武天皇夫人贈皇太后・藤原旅子(ふじわらのたびこ)の宇波多(うわた)陵を採り上げます。(京都市西京区大枝中山町)
この御陵は、村上天皇陵や文徳天皇陵に似て見晴らしの良い丘上にありますが、小さなお寺のような参道が細く続いていて女性的な印象です。



藤原旅子(ふじわらのたびこ 759〜788)は、天平宝字三年(759)、参議従三位(贈従二位右大臣を経て、贈正一位太政大臣)藤原百川(ふじわらのももかわ)の長女として誕生しました。
また、母は従二位内大臣(贈正一位太政大臣)藤原良継の娘、尚縫従三位・藤原諸姉(ふじわらのもろね 後に贈正一位)です。また、異母弟には正二位左大臣藤原緒嗣があり、経費の掛かる蝦夷平定と平安京建設という桓武朝の二大政策を中止するように桓武天皇に諫言した名臣として知られます。

因みに、桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ ブログパート2にその御陵を掲載)は、母方の叔母(乙牟漏は藤原良継の娘で、旅子の母藤原諸姉とは異母姉妹)、父方の従妹(乙牟漏の父藤原良継は、旅子の父藤原百川の兄)で、ほぼ同年齢という関係でした(旅子が1歳程上)
その後、二人は同じ年に皇子を産み(後の嵯峨、淳和天皇)、若くして相次いで亡くなることになります。(また、旅子の同母妹・帯子(後に贈皇后)も、桓武天皇の皇太子・安殿親王(後の平城天皇)に入内しますが平安遷都前に夭折しています。)



長くなりますが、少し旅子の父、藤原百川について補足してみます

藤原百川(雄田麻呂)は、藤原式家の始祖・宇合の六男で、青年期は、兄の広嗣が九州で反乱を起こして鎮圧された影響もあって不遇でしたが、その後、兄の藤原良継と共に式家の復権を図り、良継や北家の藤原永手等と共に、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱以後、政界で後退していた藤原氏勢力を挽回させました。

そして、宇佐八幡宮神託事件で、称徳天皇(孝謙天皇)や弓削道鏡の怒りを買って和気清麻呂が流刑となると、百川は秘かに清麻呂に仕送りを続けて援助しました。戦前忠臣と讃えられた和気清麻呂の行動の背後には、道鏡失脚を狙う永手や百川等の藤原氏の存在があったと考えられています。そして、称徳天皇(孝謙天皇)が崩御すると、百川らは、直ちに弓削道鏡を失脚させ、光仁・桓武朝の成立に深く関わりました

『日本紀略』が引用する『藤原百川伝』によれば、称徳天皇(孝謙天皇)崩御後の皇嗣継承問題では、天智系の白壁王(後の光仁天皇)の擁立を狙う左大臣長手、百川、良継らは、天武系の候補を推す反対派の右大臣吉備真備を出し抜いて偽の遺言の宣命を作って白壁王を擁立することに成功し、これには、さすがの吉備真備もまったく手が出なかったと伝えます。ただ、『続日本紀』は、光仁天皇の擁立は、藤原永手や吉備真備、藤原良継達が協力して策を練ったものであると記し、また百川の名前はこの擁立メンバーに出てこないので、『百川伝』の記載は、次代の桓武天皇擁立の際の活躍を混同させているという説が有力のようです。

さて、宝亀元年(770)光仁天皇が即位すると、百川は、正四位下に叙せられ、翌宝亀二年(771)ニ月に実力者の左大臣藤原永手が亡くなると、三月十三日、百川の兄・藤原良継が内臣に任ぜられ藤原氏一門の中心的存在となり、百川も大宰帥に任ぜられています。
その後、宝亀三年(772)、三月二日、光仁帝の皇后、井上内親王が天皇に対する呪詛罪に連座して皇后を廃され、さらに、五月二十七日には、皇太子の他戸親王(光仁天皇と井上内親王との子)も皇太子を廃されるという大事件が起こりました。そして、翌宝亀四年(773)正月二日、山部親王(後の桓武天皇)が立太子されることになりました・・これらの事件の真相は不明ですが、事件の背後には山部親王(後の桓武天皇)を支持する百川の暗躍があったと考えられています。
その後、百川は宝亀九年(778)二月二十三日、従三位式部卿兼中衛大将に任じられますが、翌十年(779)七月九日に四十八歳で亡くなりました。



『続日本紀』の百川の薨伝によると、「百川は幼少時より度量があって重要な地位を歴任し、勤勉で真面目に職務を務めた。光仁天皇は百川を厚く信任し、腹心として事を委ねられた。内外の重要な政務で百川が預かり知らないものはなかった。桓武天皇が皇太子の頃、特に心を寄せられ・・百川が亡くなった時は、殊の外悲しみ惜しまれた」と記し、桓武帝は、即位後の延暦二年(783)二月五日に、百川の生前の労を追思して右大臣を贈りました。

また、『続日本後紀』の百川の子、左大臣正二位藤原緒嗣の薨伝によると、延暦七年(788)春、桓武天皇は宮中で百川の子、緒嗣の元服の儀を行い、天皇自身の手で、加冠と百川旧蔵の剣の賜与が行われ、その場で正六位上内舎人に任じ、封戸一五〇戸を与える厚遇を与えました。
この時、桓武天皇は「汝の父百川の朕への祝辞の言葉を忘れたことが無い。思い出す度に涙が出る」と語ったということです。そして、桓武は百川の功に報いるため、年少にもかかわらず、緒嗣の階位を上げていきます。

また、延暦二十一年(802)六月には、桓武天皇は神泉苑に行幸して宴を催しましたが、この時、緒嗣は琴を弾き、その美しい音色に天皇は涙しました。そして、「緒嗣の父(百川)がいなければ、朕は帝位に就ける事も無かっただろう。緒嗣はまだ若いので(当時、緒嗣は二十九歳)、臣下達は怪しむかもしれないが、 朕は彼の父の功労を忘れたことがない。緒嗣を参議に任じて、緒嗣の父の恩に報いたい」と詔りました。
以上のように、桓武天皇が百川に対して生涯感謝の気持ちを持っていたことからも、百川が山部親王(桓武天皇)の立太子に至る事件の中心人物だったと考えられています。




さて、ようやく藤原旅子についてです。

『続日本紀』によると、藤原旅子は、父百川の死から三年後、延暦元年(782)に後宮に入りました。年は二十三歳前後だったようです。延暦二年(783)二月五日には、旅子の父、故式部卿藤原百川に右大臣が贈られます(同時に、それまで無位の藤原乙牟漏が正三位、藤原吉子が従三位を与えられています。また、同年四月に乙牟漏は立后されました。)

功臣百川の娘ということもあってか、帝の寵愛を受けたようで、延暦四年(785)十一月二十四日に、無位の身分から従三位へと階位を授けられ、翌延暦五年(786)正月十七日に夫人(ぶにん)に任じられました。また、この年、大伴皇子(後の淳和天皇)を産んでいます。(大伴皇子の誕生月日は不明です)その後、同年六月二十九日には、旅子の母、尚縫従三位・藤原諸姉(ふじわらのもろね)が亡くなっています。

しかし、延暦七年(788)五月四日、藤原旅子は三十歳で亡くなりました。
天皇は勅して、中納言正三位・中務卿兼任の藤原小黒麻呂、参議治部卿正四位下の壱志濃王らを遣わして、葬儀を監督護衛させました。また、中納言従三位で、兵部卿・皇后宮大夫兼任の石川名足、参議左大弁正四位下・春宮大夫と中将兼任の紀古佐美を邸宅に遣わして、天皇の詔を宣べさせ、妃の地位と正一位の位を贈りました。
また、『日本後紀』によると、二歳で母と死別した大伴皇子(後の淳和天皇)を哀れんだ桓武天皇は、従四位下大宰大弐・文室与伎の妻、従四位下・平田孫王を養母として育てさせたということです。



さて、弘仁十四年(823)四月二十七日、異母兄・嵯峨天皇の譲位を受けて淳和天皇が即位すると、五月一日、天皇は、「皇妣(母の藤原旅子)は寿命が短く夭逝した。朕は幼くして母の慈しみ深い世話を受けることが出来なかった。尊号を追贈して皇太后にしようと思う。」と詔りました。
さらに、同月六日には、「朕の外祖父の贈右大臣従二位・藤原百川と、外祖母の尚縫従三位・藤原諸姉に高位を与え、黄泉の国での生活に栄誉を与えたいと思う。外祖父は太政大臣正一位、外祖母は正一位をするように」と命じました。

また、天皇が射宮で兵士たちを観閲する五月五日節は、国の軍備のためにも重要な行事でしたが、母旅子の忌日の翌日に当たるため、淳和天皇は悩んでいました。
天長元年三月八日、天皇は「朕は天助を得ず、幼い時に母を失い、その教導を受けることが出来ず、慈しみを被っていない。年月が経ち、消息を通じたくても不可能である。天皇位に当る北極星を見ては心が挫け、白雲に亡き母を想って悲しみに倒れ伏す思いである。親の弔いに関する礼は定められているが、母を偲ぶ気持ちが胸中から消えることはない。五月四日は贈皇太后(旅子)の忌日である。どうして、忌日の翌日に五月五日節を実施できようか。」と詔りました・・
ただ、軍事は国の大事なので、従来どおり実施したいとし、その実施日について公卿らで審議するようにと命じています(その結果、九月九日の重陽の節に行うことに決まりました)

その後も、旅子の忌日は、国忌(当時、先帝や母后の忌日には天皇は政務を行わず斎会を行いました)として扱われていましたが、『文徳実録』によると、天安二年(858)三月十三日、公卿達が上奏して、五月四日の贈皇太后國忌は、贈皇太后(旅子)と天皇(文徳天皇)の親等とが離れて疎遠である理由で、国忌から除くように進言し、以後、除かれました。



さて、旅子の御陵、宇波多陵についてです。「宇波多」という地域名は現在ありませんが、元々は現在の大枝地域の古名といわれます。(丹波との国境大枝山山麓一帯が大枝郷と呼ばれたように、「大枝」も古名で、より正しくは、現在の大枝地域の東部で、以下に記すように、江戸時代には、樫原と大原野の間の地域と考えられていました)
そして、明治時代以降に各地の皇族の陵墓治定が行われた際、「宇波多」が地域名で無くなっていたことから、一時、この御陵は、高野新笠の大枝陵に対して、後大枝陵とも呼ばれていたということですが、その後、『延喜式』にも記載されている古称に戻されたようです。

『延喜式』の諸陵寮によると、「宇波多陵 贈皇太后藤原氏。在山城国乙訓郡。兆域東西四町。南一町。北三町。守戸五烟」とあり、東西四百メートル、南百メートル、北三百メートルの大きなものだったようです。
正徳元年(1711)の『山州名跡志』は、宇波多陵について記載し、「宇波多(愬搬燭筏す)」という地域は、堅木原(樫原)と大原野の間にあるとし、「愬搬拭廚正しく「宇波多」は誤って伝えられたものと記しています。また、幕末の安政元年(1854)の『聖蹟図志』は、同じく、「愬搬仁諭廚箸靴董堅木原(樫原)と大原野の間、小畠川の東一町にある楢林のある小丘として描いています。
現在の宇波多陵は、標高百十〜百二十メートルの丘陵にあり、竹林に囲まれた御陵の円墳の直ぐ傍には、塚原古墳群と呼ばれる古墳時代後期の円墳二基が点在していて、この御陵も古墳郡の一つなのかもしれません。



(尚、旅子に関しては、あくまで伝説ですが、滋賀県大津市伊香立途中町にある還来神社が旅子ゆかりの神社と伝えられています。社伝によると、現在の神社の鎮座地はかつての藤原百川の領地で、この栗原の地で生まれた旅子が、「生まれ故郷の比良山南麓の椰の木の根元に埋葬して欲しい」と遺言し、その通りに誕生地に埋葬されたところから、旅子を祭神として神社が創建されたとしています。)

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京都には、天智天皇陵と、桓武天皇以降の諸天皇(第五十一代平城天皇、第七十五代崇徳天皇、第八十一代安徳天皇、第九十六代後醍醐天皇、第九十七代後村上天皇、第百二十三代大正天皇、第百二十四代昭和天皇の七陵を除く)の御陵があり、その皇后皇妃、皇子皇女の陵墓も数多くあります。

戦前は歴代天皇陵に参詣するのがブームだったこともありますが、現在では、熱心な天皇陵ファンや研究者は別として、京都を訪れる一般観光客にとって、ごく一部の有名な天皇陵(例えば、桓武、明治等)以外は、ほとんど興味の対象にはなっていないようです。有名な神社仏閣が多い京都では、どうしても観光対象としての皇室史跡の扱いは小さくなるでしょう。


しかし、有名な観光寺社が少ない京都市西京区(京都府向日市も)では、皇室史跡(考古学的に古墳としての興味もありますが)が、地域を代表する史跡として採り上げられる事が多いです。
向日市では、淳和天皇火葬塚や、ブログパート2に掲載している桓武天皇皇后の藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)の高畠陵。
京都市西京区では、桓武天皇の母高野新笠(たかののにいがさ)の大枝陵や、桓武天皇夫人の藤原旅子(ふじわらのたびこ)の宇波多(うわた)陵。それに、現在は皇室史跡という扱いでは無いですが、以前にブログに少し掲載した天皇の杜古墳(古くは文徳天皇陵や、桓武天皇夫人藤原吉子の大岡墓に比定されていました)も西京区では有名な史跡です。




さて、長くなりましたが、今回は、京都市西京区大枝中山町にある藤原旅子(ふじわらのたびこ)の宇波多(うわた)陵に隣接する三ノ宮(三宮)神社を採り上げました。次回に掲載する宇波多陵のプロローグのようなものになります。

宇波多陵は、京都の皇后皇妃の陵墓の中では(大体、ほとんどの陵墓は画一的で没個性ですが)、細く長く続く参道が印象的で、若くして亡くなった薄幸の女性(旅子は生前は夫人。後に贈皇太后)らしい、どこか優しげな雰囲気も感じられる御陵です。
(陵墓ファン以外にもお勧めして良い気がします。)

そして、この御陵をより印象的にしているのが、宇波多陵に隣接している三ノ宮(三宮)神社の存在かもしれません。三ノ宮(三宮)神社の参道が途中で、御陵への参道と分れて続くのですが、藤原旅子の霊を守護しているかのように、神社は深い森の中に鎮座しています。

(尚、神社の来歴については不明ですが、祭神は玉依姫之命(たまよりひめのみこと)で、末社として八幡宮と稲荷社があります。)

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前回の兒子神社(ちごじんじゃ)と同じく、京都市西京区大枝地区から地域名を冠する神社、大枝神社(おおえじんじゃ)を採り上げます。(京都市西京区大枝沓掛町)

大枝神社は、旧山陰道(国道9号線)沿いにある京都市立芸術大学から、北へ約五百メートル程の山沿いに位置し、数十メートル西には、桓武天皇の生母、高野新笠(たかののにいがさ)の御陵「光仁天皇夫人贈皇太后 天高知日之子姫尊(高野新笠)大枝陵」もあります。そして、以下のように、大枝は高野新笠とも関係深い地域だったようです。また、幼少期の桓武天皇もこの大枝の地にあった母の里で育ったと考えられています。


さて、大枝神社の由緒書きによると、大枝神社は、元々、康保四年(967)施行の『延喜式』に記載された、「乙訓郡十九座(大五座 小十四座)」の一つ、「乙訓郡大井神社(おとくにこおりおおいじんじゃ)」ということです。しかし、大井神社については、他に嵐山の大井神社(京都市右京区嵯峨天竜寺造路町)等も比定されていて、実際は不明です。そして、現在の祭神は、高美計(たかみのけ)神で、この地の先住民といわれる大枝氏の祭祀神といわれています。

由緒書きは、続けて・・創建当初は、聖徳太子の幼児像が祀られていた事から、千児明神(ちごみょうじん)と称していたと記し、現在は大枝神社から東に、前回にブログに採り上げた兒子神社(ちごじんじゃ 京都市西京区大枝塚原町)が祀られているとしています。ただ、両社の創建時期等が不明なため詳細は不明です。



さて、この地の先住民だった大枝氏について少し書いてみます・・・
この京都市西京区の「大枝(おおえ)」という地名は、古代氏族・土師(はじ)氏の流れを汲む大枝(大江)氏と関係する地名と考えられています。

土師(はじ)氏は、古代神話の神・天穂日命(あめのほひのみこと)の後裔である野見宿禰(のみのすくね)を始祖とするとも、また、渡来系氏族という説もある古代氏族で、高野新笠(桓武天皇の生母)の母方の家系も土師氏の一派、毛受(もず)の系統に属していたと『続日本紀』は記します。
この一族は、山城国乙訓郡大枝郷を本拠としていたようで、桓武天皇は、自身の親族でもあるこの土師氏の一派に、大枝(大江)という姓(かばね)を与えました・・・

『続日本紀』によると、延暦九年(790)十二月一日、桓武天皇は勅して、自身の母方の祖父、高野朝臣乙継(たかのあそみ(あそん)おとつぐ)と祖母の土師宿禰真妹(はじのすくねまいも)にそれぞれ正一位を追贈し、祖母の氏の土師氏を改めて「大枝朝臣」とするように命じています。そして、同族の菅原真仲(すがわらのまなか)と土師菅麻呂(はじのすがまろ)らに大枝朝臣が授けられています。
さらに、同月二十八日、桓武天皇は勅して、正六位上の土師諸上(はじのもろがみ 諸士とも)に大枝朝臣の氏姓を賜っています。そして、天皇の母の中宮高野新笠(桓武天皇の生母)の母、贈正一位大枝朝臣真妹(土師宿禰真妹)の家系の土師氏には、「大枝朝臣」を賜り、その他の土師氏の系統の者には、「秋篠朝臣」や「菅原朝臣」を名乗らせたと記しています。


尚、その後、貞観八年(866)十月十五日、正四位下大枝音人や従五位下大枝氏雄等が奏請して、「大枝」を「大江」に改めることを願い出ました。
『日本三代実録』によると、改姓希望の理由は、『漢書』が記す「枝が大きいと、本体の木の幹が折れて不吉である」という故事から、「大枝」では本家の衰退を招くという不吉な意味があるからということでした。ただし、「大枝」は、桓武天皇の時代に賜った由緒ある姓であることから、読みはそのままにして、「大きな川のように家が繁栄する」という意味から「大江」と改名しました。

(參議正四位下行右大弁兼播磨權守大枝朝臣音人。散位從五位下大枝朝臣氏雄等上表曰。去延暦九年十二月書云。春秋之義。祖以子貴。此則礼經之埀典。帝王之恒範。宜朕外祖母土師宿祢追贈正一位。其改土師氏爲大枝朝臣者。謹案。春秋曰。國家之立也。本大而末小。漢書曰。枝大於幹。不折必披。是知。枝條已大。根幹由其摧殘。譬猶子孫暫榮。祖統從此窮盡。然則以大枝爲姓。誠非本枝長固子孫無疆之義也。但此姓已生自先皇之恩給。不欲在遺民而變革。望請不敢改稱謂。但將以枝字爲江。然則一門危樹。去鳴柯而永春。千里大江。宗辞海而無盡。至是詔許之。)

また、その後、大江氏は学問の家柄として、平安時代の歌人・儒者として知られる大江匡衡(おおえのまさひら)や、鎌倉幕府草創期の政所初代別当・大江広元(おおえのひろもと)等を輩出し、広元の子孫は武家となって、その子孫として戦国大名毛利氏があります。



さて、大枝神社の境内には、江戸時代の享保八年(1723)と記された石燈篭があり、江戸時代の大枝神社が栄えていたことが判るということです。また、神紋は二葉葵になります。その後、明治六年(1873)に村社に公定され、現在は、(大枝)沓掛町の氏神として人々に親しまれています。
尚、境内地は二反四畝十六歩(七百三十六坪、約二千四百四十三平米)で、末社として稲荷社、不動明王、山の神等を祀り、天照大神(あまてらすおおかみ)の遥拝所もあります。(尚、この遥拝所は、円墳(直径約十一メートル、高さ約二メートル)の上にあり、横穴式石室の天井石が露出しています)
また、大礼祭は五月二十一日(近年は二十一日の直前の日曜日)です。

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京都市西京区の大枝という地域は、中国地方から丹波を経て京都に繋がる旧山陰道(国道9号線)沿いにあり、自動車の往来の多い9号線沿いには飲食店を中心とする数多い商業施設が立ち並んでいます。
有名な神社仏閣を中心とした京都観光ガイドでは、京都市内への通過点的な扱いで、ほとんど登場しない地域ですが、幾つかの興味深い史跡も点在しています。
今回はこの大枝地域から兒子神社(ちごじんじゃ)を採り上げます。


兒子神社は小さな神社ですが、参道は真っ直ぐに伸び、境内は背後のなだらかな山に溶け込んで広がっています。また、周辺には多くの花木や楓が植えられていて、季節ごとの花を楽しめます。この地区の神社の中では開放感がある親しみやすい印象の神社です。


さて、京都市西京区大枝塚原町、旧山陰道(国道9号線)の北側の山沿いにある兒子神社(ちごじんじゃ)は、境内の案内板によると、祭神は兒子大國御魂神で、聖徳太子の幼時の像が祀られているところから、兒子神社と呼ばれているということです。
創建時期等は不明ですが、寛文十一年(1671)の「境内七反五畝十歩、境内に四末社あり」との古記録があることから、少なくとも江戸時代前期に遡ると考えられています。その後、明治六年(1873)に村社となっています。

また、平安時代の延喜式の「乙訓郡十九座(大五座・小十四座)」の一つ、「乙訓郡茨田神社」に比定する説があり、大枝の古名の「宇波多(うわた)」と「茨田(うわた)」が同音であることを根拠としていますが、実際は不明です。また、西にある大枝神社(大枝沓掛町)の由緒書によると、元々は大枝神社も聖徳太子の幼児像を祀っていたとされ、両社が深い関係にあったことが伺えます。

境内には、稲荷神社、猿田彦神社、聖社、水神社・山神社が点在し、区民の誇りの木に選ばれているクスノキ、ツブラジイの大木もあります。また、五月中旬には例祭(子供神輿神幸祭)が行われます。

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阪急電鉄の桂駅西口から直線で約五百メートル、市街地の住宅に囲まれた小さな寺院があります・・これが、洛西観音霊場第二十五番札所の阿弥陀寺です。(京都市西京区桂千代原町)
民家のような建物にびっしりと小さな観音菩薩像が貼り付けられたたいへんユニークなお寺です。


阿弥陀寺は、山号を吉祥山(きっしょうざん)という浄土宗西山深草派の寺院で、本尊として阿弥陀如来像を祀ります。寺伝によると、創建は室町時代で、現在、新京極にある浄土宗西山深草派総本山・誓願寺の第三十九代法・空覚照恵上人が、隠居寺として創建したのが始まりとされます。その後、尼寺となり明治時代に衰退しますが、昭和三十六年(1961)に、先代の赤壁住職が入山して復興しました。

観音巡礼の観音様は、通称、「千代原観音」と呼ばれる、千手千眼観世音菩薩立像です。胎内には化仏の頭部等が納められており、これらは恵心僧都作と伝えられます。また、元々は西山の法華山寺に祀られていたと伝えられます。
(尚、法華山寺は、洛西の歴史を語る上では重要な寺院で、通称「峰ヶ堂」と呼ばれ、室町時代の全盛期には「東の清水寺、西の法華山寺」と言われたほどの大寺院でしたが、丹波方面から京都を伺う勢力が往来する唐櫃越の山上に位置していたため、応仁の乱以降、何度も戦乱に巻き込まれて衰退、廃寺となりました。)

その後、この観音は、観音寺(阿弥陀寺の東、約百五十メートルにある現在の桂小学校付近)に移されましたが、記録によると、観音寺では、正月の十八日に修正会が催され、かつては通過儀礼的な役割もあった西国巡礼の若者達が観音講を行うなど、千代原地域でも観音信仰が盛んだったようです。そして、その後、観音寺が廃寺となったために、この観音菩薩像は、当山に奉られるようになったということです。


さて、この千手観音菩薩立像(千代原観音)は、雷除け、悪病除けのご利益があるとされ、堂内には、右に本尊阿弥陀如来像、左に千手観音菩薩立像(千代原観音)が祀られています。また、御詠歌の額は弘化二年(1845)に奉納されたものということです。
また、先代住職は、千手観音菩薩立像(千代原観音)の脇仏の日光、月光菩薩をはじめ二千体余りの観音像を刻んで、境内のところ狭しと安置しました。中には身丈四メートルの車など現代の道具を手に持つ千手観音像もあり、他にも子授け観世音大菩薩、水子供養地蔵尊等々が祀られています。

尚、前回に採り上げた洛西観音霊場第二十二番札所の常楽寺の納経も受け付けています。


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