京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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前回の続きです。


この本堂工事中の伝説としては、有名は「阿亀塚(おかめ塚)」に関する物語があります。

本堂工事の棟梁だった長井飛騨守高次は、寄進された貴重な柱四本のうちの一本を誤って寸法を短く切ってしまいました。高次が、代わりの材木も見つからず、どうすれば良いか途方にくれていたところ、その様子を見た妻の「阿亀(おかめ)」が、「いっそ全ての柱を短く切って枡栱(ますぐみ)を付けてみては・・」と進言しました。高次はこの方法で、柱の上部に軒を支える木材を組み合わせ無事工事は完成し、安貞元年十二月に上棟式が行われました。しかし、阿亀は、妻の提言で夫が大任を果たしたという事実が世間に知られたら夫の名声に傷がつくとして、上棟式の前日に自刃してしまいました。
高次は、妻の優しい心情にうたれ、上棟式の当日、亡き阿亀の名前に因んだ福面を刻んで、御幣の先につけて飾り、妻の冥福と大堂の完成を祈ったと伝えられます。

その後、この話は大工達に受け継がれ、江戸時代の半ばには三条の大工、池永勘兵衛が本堂の脇に「おかめ塚(おかめ供養塔)」を建立、昭和五十四年(1979)に隣におかめのブロンズ像も造られています。また本堂の裏手にも、数多いおかめに関する人形等が展示されています。
今でも関西を中心に家の棟上げの際に、おかめ御幣をかざる習慣があり、二月にはおかめ節分が行われ、夫婦や家庭の円満、建築の安全を願う人たちの信仰を集めています。



霊宝殿には、快慶の晩年の作と伝わる木造十大弟子立像をはじめ、木造六観音像、千手観音立像、銅造釈迦誕生仏立像など数多くの文化財を所蔵展示していて、この寺院の歴史的な奥深さを感じさせます。

木造十大弟子立像(重文)は、鎌倉時代の建保六年(1218)の年号があり、仏師快慶の晩年の作と伝わります。寄木像で玉眼入り、胎内経九巻も伝わり、切金の彩色も残る優れた肖像彫刻です。
また、木造六観音像(重文)は、鎌倉時代の貞応三年(1224)の年号があり、仏師定慶の作です。聖観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音、馬頭観音、准胝(じゅんてい)観音の六体が完全に揃っているという貴重なもので、滝口入道を伯父とする藤原以久女が願主となって奉納したものと伝わります。中国の宋風様式、素木造玉眼入りで、胎内経八巻も伝わります。

千手観音立像(重文)は、藤原時代初期の作で、菅原道真が梅の古木に刻んだという伝承があり、また、銅造釈迦誕生仏立像(重文)は、鎌倉時代の作です。
他に室町時代のだ太鼓縁一対(重文)、木造十大弟子立像胎内から九巻、木造六観音像から八巻の胎内納経巻(重文)、開山義空上人の墨書銘のある本堂棟木と棟札(国宝)、北野経王堂一切経(後述)等数多くの文化財を所蔵しています。



境内には、足利義満が明徳二年(1391)の「明徳の乱」で敗死した山名氏清(やまなうじきよ)の菩提を弔うために建てた北野経王堂願成就寺の遺構である観音堂があります。

足利三代将軍義満は、有力守護大名の牽制策をとり、山名氏もその標的となりました。明徳二年(1391)、当時十一ヶ国を領していた(全国六十六ヶ国中、十一ヶ国の守護を兼任していたため「六分の一殿」と称されました)山名氏清に対し、家中を分裂させる策謀を仕掛け、これに怒った氏清は一族と共に挙兵しました(明徳の乱)。戦いは京都内野で行われ幕府軍との決戦で、氏清は戦死しました。

将軍義満は、その翌三年(1392)、叛いたとはいえ、かつての山名氏清の功労武勲を思って、氏清とその一族、また戦いに倒れた敵味方兵士の追福のため、千百人の僧侶を集めて供養しました。また、応永八年(1401)に北野社(北野天満宮)の社頭西に、東山の三十三間堂の倍半という大堂を建立し「北野経王堂願成就寺」と名付け、毎年十月、十日間にわたって万部経会及び経典書写などの仏事を行い供養しました。
この行事は「北野経会」と呼ばれる京洛の最大行事となり、代々の足利幕府によって継承されました。また、応永十八年(1411)には北野経王堂願成就寺の僧・覚蔵坊増範が本願主となり大部の経典「北野社一切経五千五百余巻(重要文化財)」を書写奉納しています。
尚、観世謡曲の「輪蔵」は、筑前太宰府の僧が北野天満宮で輪蔵を拝んでいると、経巻の守護神・火天や輪蔵を考案した中国の仏教徒・傅大士(ふだいし)の霊が現れ、僧の願いを聞き入れて一夜で五千巻の全ての経巻を読ませるというストーリーですが、この北野社一切経の輪蔵を元にした物語です。

巨大な北野経王堂は、慶長七年(1602)に豊臣秀頼によって再建されますが江戸時代には荒廃し、寛文十一年(1671)に解体縮小されて小堂となり、仏像や一切経五千余巻、義満筆「経王額」等の宝遺物は千本釈迦堂(大報恩寺)に移され、現在霊宝殿に保管されています。また解体された遺構の木材は、千本釈迦堂(大報恩寺)に運ばれて復元、縮小されたのが、現在の観音堂です。
また堂の前には、山名氏清の供養碑が建てられています。


その他境内には、山名氏清や山名宗全の念持仏だった不動明王像を祀る不動明王堂、慶長二年(1250)に千本釈迦堂(大報恩寺)第二世の如輪上人が賀茂・春日・石清水・日吉・今宮の五社と共に勧請したという稲荷社、弘法大師堂、七福神の布袋尊、ぼけ封じ観音像等が点在しています。
また、千本釈迦堂(大報恩寺)では、二月にはおかめ節分会、五月には花供養、七月には陶器供養、八月には六道まいり(精霊迎え)、十二月月には大根炊きなどの行事が営まれ、多くの人々で賑わいます。
そして、四月には地面に届かんばかりに枝を伸ばしている枝垂桜「阿亀桜(おかめ桜)」を目当てに観光客が集まります

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千本釈迦堂(大報恩寺)については、かなり前にお盆の風景として少しだけ採り上げましたが、まだ一度もきちんと書いていませんでした。千本釈迦堂(大報恩寺)が一番華やいで見える季節、春の「阿亀桜(おかめ桜)」の様子を中心に掲載してみます。


上京区七本松通今出川上る溝前町にある大報恩寺(だいほうおんじ)は、正式には、瑞応山千本釈迦堂大報恩寺という真言宗智山派の寺院で、かつては千本通に境内東面を接していたことから、通称の千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)の名前で広く親しまれています。
新西国三十三箇所十六番札所、京都十三仏霊場第八番札所、ぼけ封じ及び近畿十楽観音霊場第二番札所ということもあって、境内には庶民的な親しみやすい雰囲気が漂っていますが、京都市内最古という国宝の本堂をはじめとする文化財的にも第一級の寺院といえます。



千本釈迦堂(大報恩寺)は、鎌倉時代の承久3年(1221)、義空上人(ぎくう 号は求法(ぐほう)上人)によって創建されました。開山の義空上人は、奥州藤原氏の三代目・藤原秀衡の孫と伝えられる人物で、承安二年(1172)に出羽国千福里で誕生しました。この時、上人の母が薬師如来に祈って、日輪を飲む夢を見て懐妊したと伝わります。文治二年(1186)、十五歳で鎌倉の月輪坊阿闍梨(げつりんぼうあじゃり)の童子役となり、十九歳で剃髪、鶴岡八幡宮のお告げによって比叡山比叡山で澄憲(ちょうけん)上人に師事して倶舎、天台、真言の三学を会得しました。
そして、十数年の後の承久元年(1219)に、現在の千本の地をこれら三学の道場と定め、中納言猫間光隆(藤原光隆)の家臣、岸高という人物から自邸の土地の寄進を受け、承久三年(1221)に仮本堂を建立し仏像(釈迦如来像と十大弟子像を)を安置しました。これが千本釈迦堂(大報恩寺)のはじまりです。その後、貞応二年(1223)、大堂建立に着手し、安貞元年(1227)十二月に上棟されました。(上棟の事は、義空上人自筆の国宝棟木願文に記載されています。)


この伽藍造営は、たいへんな大工事だったようで、造営に関して寺の縁起に以下のような物語が伝えられます・・・大本堂造営の際、大光柱(大黒柱)にする木材が見つからず工事は停頓していました。
その頃、摂津尼崎の富裕な材木商「成金」の夢に、金色白眉の老僧が現れ、「洛中に一大精舎が建立されようとしている。お前の持つ巨木中に大光柱(大黒柱)とすべき木がある。是非とも提供して欲しい」と語ります。夢の中で成金が申し出に応じたところ、老僧は直ちに巨木の頭に「大報恩寺」という刻印を打って去りました。夢が覚めた成金が不思議なことだと思って材木を調べてみると、正に大報恩寺の刻印が打たれた木材を発見。翌日、寺院を訪れたところ、夢の老僧は、仮本堂に安置された釈迦十大弟子の迦葉(かしょう)尊者であったことから、成金はたいへん感動してその材木を寄進したということです。

こうして完成した寺院は、嘉禎元年(1235)に、倶舎・天台・真言三宗兼学の道場として勅許を受けました。尚、義空上人は仁治二年(1241)四月に七十歳で亡くなっています。
その後、堂場として隆盛を極め、徒然草にも登場する千本釈迦堂(大報恩寺)は、応仁の乱の兵火等で堂宇を焼失しましたが、本堂(釈迦堂)だけは奇跡的に焼失を逃れました。
そして、この本堂は、京洛(旧京都市内)に現存する最古の仏堂建築、鎌倉時代の貴重な遺構として国宝に指定されています。

国宝らしい風格あるこの巨大な堂々とした建物は、梁行五間・梁間六間(正面24.30m、側面28m)の入母屋造檜皮葺の寝殿造りで、内部は外陣・内陣に分かれ、さらに内陣に四天柱に囲まれた内々陣が設けられています。(内々陣の本尊厨子、天蓋、本堂来迎板壁画も国宝指定です。)
また内陣の柱には刀・槍の傷跡が見られます。これは応仁の乱時代の傷跡と伝えられ、この辺りは西軍側の陣地のあった場所でしたが、東西両軍の手厚き庇護のもと、特に西軍の将、山名宗全の特別のはからいで、この本堂が残されたとも伝わります。
堂内には、快慶の高弟・行快唯一の作と伝わる秘仏の本尊釈迦如来像(重文)を安置しています。




次回は本堂に飾られたおかめグッズから、「阿亀塚(おかめ塚)」その他境内の様子を掲載します。

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前回の続きです。


前回に、おりょうの回想録が印象的なので引用してみました。
また、龍馬の手紙からも、父を失ったおりょうが、七条新地にあった旅館・扇岩で働きながら、母親のお貞を手伝って、大仏付近の土佐藩志士の隠れ家で飯炊きをしていたことがわかり、これが二人の出会いの場となったというのが通説です。

ただ、龍馬とおりょうの出合いに関しては諸説あるようで、武信稲荷神社の伝承のように、おりょうの父・将作が勤皇の志士を厚く支援していたことから、柳馬場三条にあった屋敷には勤皇の志士が絶えず出入りしていたともいわれ、龍馬が将作と親交ができていて、この時に長女のおりょうと出会っていた可能性も無かったとはいえないということです・・もちろん真偽は不明です。



武信稲荷神社の龍馬とおりょうの物語は続きがあります。
こちらの方が前半より感動的でしょう・・・。
その後、幕府に命を狙われる龍馬は身を隠し、おりょうと離れ離れとなります。おりょうは龍馬の身を案じ行方を捜していましたが、二人で何度も訪れた武信稲荷神社の榎を思い出して訪れました。
するとそこには龍馬の見慣れた独特の字で「龍」の一字が彫ってあったということです。龍馬は、自分がまだ京都にいて今も生きているということを、二人だけにわかる一文字に込めたのでした・・・龍馬とお龍(おりょう)二人の名前に共通する一文字「龍」に・・・。
龍馬が京都にいることを知ったおりょうは、その後二人の共通の知人を訪ね、それにより二人は再開出来たということです。

真偽はともかく、榎に刻んだ龍馬とおりょうの愛のメッセージが、二人を強く結び付けたという伝承は、非常にうまいストーリーです。現在は、もちろん御神木に文字を刻むことは出来ませんが、二人にあやかって、絵馬に恋愛成就の願い、愛の伝言などを記して奉納すると、榎の木(「えん(縁)の木」)の生命力で恋愛成就するということです。

また、武信稲荷神社は必勝祈願でも知られ、古くから「勝駒」という駒形の絵馬が伝わります。
豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に持参したという話も伝わっていることから、それ以前から授与されてきた歴史ある絵馬のようで、所願成就、成功発展、開運発達、試験合格、健康長寿等の御利益が得られるということです。


少し古風な雰囲気のあるこの神社、龍馬やおりょうが関係していても不思議でないような独特の雰囲気が残っていて、何度も訪ねてしまう場所です。

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中京区の、いや中京区と下京区を合わせて数十社はある小さな神社の中で、私が一番好きな神社が、中京区三条通神泉苑町西入下る今新在家西町にある武信稲荷神社(たけのぶいなりじんじゃ)です。
それ程広くない境内には数多い末社が立ち並んでいて、少し隠れ家的なこの空間がなぜか落ち着きます。また、この神社には、坂本龍馬とおりょうが、神社の榎の木を愛の伝言板として用いたというロマンティックな逸話があることでも知られます。(神社のHPを転用させていただきます。)




武信稲荷神社の祭神は、稲荷大神即ち、神宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)、佐田彦大神(さだひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)です。
稲荷大神は農作物の神から転じて、現在は産業守護神、商売繁昌、学術技芸の神としても信仰され、家内安全、健康長寿、病気平癒、交通安全、火難、盗難等に大きな御加護と御利益があるとされます。


さて、武信稲荷神社は、平安時代初期の貞観元年(859)二月、西三条大臣といわれた右大臣左近衛大将・藤原良相(ふじわらのよしすけ)によって創建されました。
当時、この付近一帯には、藤原良相が一族の療養院として建てた「延命院」という医療施設があり、この延命院と観学院(現・千本三条東、西ノ京観学院町にあった学問所)の守護神として祀ったのがこの神社ということです。その後、一族の藤原武信という人物が、この御社を厚く信仰したことから、「武信稲荷」と称されるようになったと伝えられます。
また開基の藤原良相が一族の長として一族の名付けをしていたことから、古くから名付け・命名に関わる神社としても知られ、現在も希望者に赤ちゃんの命名・名付けを行っています。



境内には数多い末社があります。
本物の釘抜きを祀った釘抜大明神(釘抜地蔵)は、昔、神社近くに住んでいた鍛冶屋が、病気や災難で苦しんでいましたが、稲荷大神に祈りながら鉄を打ったところ、鉄が自然に釘抜きの形になったので、ここに祀ったものとされます。体の病苦のある箇所をさすり、釘抜を撫でると病気が治るとされます。
また、白蛇弁財天は、古くからこの土地にいた白蛇姿の弁天様が、信仰の厚かったある行者にお告げがあったことから、有志の人々によって祀られた神社です。その他、白清大明神&七石大明神&太郎松大明神、常吉大明神、金毘羅社&天満宮、起上大明神、法華経御塚、御山遥拝所があります。


中でも一番有名なのは、宮姫社(弁財天)で、御神木の榎(エノキ)の大木に宿る弁財天を祀っています。この榎の木は、樹齢約850年で、平安時代末期に平重盛が安芸の宮島厳島神社から苗木を移したと伝えられています。この付近は壬生(水生)という地名からも窺えるように、かつては地下水位が高く、このような地質がこの古木を育成したと考えられています。
旧京都最大最古の霊樹ということで、高さは23メートル、胸高幹周り4メートル。幹は九つに分かれ四方に大きく枝を伸ばしていて、樹冠は東西22メートル、南北26メートルあり、市街地にこのような古木があることは貴重として京都市天然記念物に指定されています。
弁財天が宿るといわれるこの榎の御神木に触れると、大木の生命力とエネルギーを受けられるとされ、触れた手で体をさすると病気が治るともいわれています。また、榎は「えん(縁)の木」とも呼ばれ、御神木に宿る弁財天を祀る宮姫社(弁財天)は、縁結び、恋愛の神としても知られていて、恋愛成就のために木の幹に手をあてる参拝者も多いということです。(写真は次回に掲載します)



また、前に六角牢獄跡について書きましたが、神社の南には江戸時代に幕府直轄の六角牢獄があり、蛤御門の変の際に六角牢獄で処刑された平野國臣ら三十数人の志士の最期を、この榎の大木に登って町の子供たちが見ていたとも伝えられています。

さらに、この榎の木を舞台にした坂本竜馬と恋人おりょう(お龍)の伝承があります・・・
当時、六角牢獄には幕府に捕らえられた勤王の志士が多数収容されていましたが、おりょうの父・楢崎将作(ならさきしょうさく)も勤王家の医師であったため捕らえられていました。おりょうは父の身を案じて、龍馬と共に何度も牢獄を訪れるも面会できず、龍馬自身も狙われる身のために面会は難しく、二人はこの神社の木の上から様子を探ったということです・・。
楢崎将作は結局、文久二年(1862)に獄死しているので、この伝承によると、二人の出会いはそれ以前ということになりますが、通説では龍馬とおりょうが出合ったのは、元治元年五月(1864)とされています。


この元治元年五月の龍馬との出会いは、おりょう(お龍)の回想録「反魂香」によれば、(少し長いですが)、以下のようだったようです・・・

「大仏騒動(大仏殿付近で起こった以下の事件)は、元治元年六月五日の朝に起こりました。
その頃、大和の天誅組の乱に敗れた志士が、京都大仏南門今熊の道にある河原屋五兵衛の隠居所を借りて、表札には「水口加藤の家人住所」と記してしばらく隠れ住んでいました。
(この龍馬とおりょうが初めて出合った場所は、東山区の三十三間堂の傍、方広寺の「大仏」付近だったようです。当時、方広寺には天保十四年(1841)に再建された大仏殿が建っていました。この大仏殿は、昭和四十八年(1973)三月に焼失してしまいました。)


この隠れ家に出入りしていたのは、才谷梅太郎(坂本龍馬)、中岡慎太郎、元山七郎、松尾甲之進、大里長次郎、管野覚兵衛、池倉太、平安佐輔、山本甚馬、吉井玄蕃、早瀬某等で、この頃はまだ海援隊を組織する前でした。幕府の浪人探索が厳しいので、彼らはいつも居所を変えて潜伏していました。

隠れ家では、山本甚馬が年寄りなので飯炊き担当でしたが、男所帯ではやはり大変で、山本も時々家を留守にしなければならないので、誰か年寄りで一人気の利いた女を、留守番に頼みたいと浪士一同は思っていました。
当時、おりょうの母・お貞は、夫に死別していたので、わずかな家財をまとめて四条の裏通りに借家してわびしく暮していました。このお貞の知人に、以前世話をした米一のお菊という後家がいて、彼女は夫の死後も大勢の奉公人を使って米屋を営んでいました。お菊はこの家に出入していたので、浪人達から留守番の女を一人世話してくれないかと相談されていました。
お菊からこの事を聞いたお貞は、元々勤皇派の奈良崎将作の妻だったため早速承知し、長女のおりょうは、お菊の世話で七条新地の扇岩という旅宿の手伝として預け、次男の大一郎は親戚でもある粟田の金蔵寺へ預け、末っ子の君江は自分が連れて大仏へ引き移りました。


お貞が、浪士達のいるこの家に引越して坂本龍馬に面会をした時に、一家の不幸や身の上話しをしたために、龍馬も気の毒に思いました。
また龍馬はこの家で、おりょうに一、二度会っていて、少しは心も動いたものですから、龍馬は「お前の娘を私にくれないか、そうすれば、及ばずながら力にもなってやろう」とお貞に言いました。
お貞も、娘にはその内、所帯を持たすつもりだったので、同じ所帯を持たすのなら坂本様のような人をと、喜んでおりょうにこのことを話し、ついにおりょうは龍馬の妻となることが決りました。しかし、この家におりょうを置く訳にはいかないので、やはり扇岩へ預けることにしました。

元治元年六月一日の夕方、龍馬が扇岩へ来て、おりょうに「今度江戸の勝先生のもとへ、急ぎの用で行かなければならない。明朝出発するので、留守中は気をつけるのだぞ」と言います。
そして、その夜は別れの盃を交え、翌朝、望月(亀弥太)・大里(近藤長次郎)の二人に送られて、伏見で東西に別れました、これが望月との最後の別れで、僅か三日後には亡くなるとは・・。



龍馬が二日の朝出発し、その他の浪人達は毎日居所を変えて行き来していました。
五日に起こった騒動(いわゆる池田屋事件)の際は、元山七郎(北添佶摩の変名)、望月亀弥太の二人が三条の長門屋(=池田屋)という長州の定宿にいて、他の者らは皆、近国や遠国へ行っていました。すると早朝、会津方がどのように探り出したのか、長門屋(=池田屋)へ押し寄せて来たのです。(また一手は大仏の隠れ家へ、一手は大高某の家へ向かいました。)

元山(北添佶摩)はその場で討死し、望月は血路を開いて土佐藩邸へ逃れましたが、門が固く閉ざされていて叩いても開けてくれず、追ってきた会津方がすぐそばまで迫っています。望月は藩邸に入れず敵が迫る中で、必死に走って長州藩邸へ来てみると、ここでは門が開いています、喜んで門から飛び込もうとした瞬間、敵が突き出した槍に腰を貫かれ、さすがの望月も思わずその場へ倒れました。望月は、もはやこれまでと、手にした刀を自身の腹に突き立て、哀れ二十三歳の生涯を終えたのでした。

五日の朝、おりょうがふと目を覚ますと表が騒しいので、何事が起こったのかと、衣服を着替えて外へ出ると、出会い頭に、お妙が妹の君江を連れて来たのに逢いました。
どうしたのかと尋ねると、「今朝、大仏の所(志士達の隠れ家)へ会津の奴らが押し寄せてきて、家財道具を全部取り上げ、お母さんを縛って千本屋敷へ連行したので、君江さんを貴方の所へ届けにきました。」ということでした。
驚いたおりょうは、お妙と君江を連れて大仏の家へ来て見ると、家中踏み荒らされて槍で突き荒らした跡ばかりでした。さすがのおりょうも、ただ呆然としているところに、何も知らない大里が帰ってきたので、おりょうは今日の事件のことを手短に話し、「お妙さん、大里さんがここにいては危ない。あなたが道案内して、伏見まで逃してください。」と言うと、お妙は大喜びして、好きな大里の側にしばらくいられるという乙女心で、先に立って大里を案内し、大里はそのまま伏見へ落ち行きました。

おりょうは、君江を河原屋の本家へ預け、自分は河原町の大高某の家へ急いで行きました。この大高という男も勤王の志士の一人で、職業は具足師と称しながら、家に秘密の部屋があって三藩の浪人を匿っていたのです。来て見ると、この家にも敵が押し寄せたようで、主の大高は斬り殺され、三人の子供達が途方にくれて泣いていて、妻は気が動転して笑ったり泣いたりの有様で、お良は思わず涙を流しましたが、ようやく気持ちを取り直して、再び大仏の家へ引き返してくると、嬉しいことに母が帰っていました。訳を聞くと、何も知ら無い者ということで釈放されたということでした。二人は無事を喜びましたが、いつまでもここにいられないので、一先ず、金蔵寺へ移りました。

さて、八月一日の夕方、龍馬が帰って来たので、金蔵寺の住職智息院が仲人となって本堂で内祝言をしましたが、ここにうかうかしていて敵に覚られてはお互いの身のために良くないというので、色々相談した結果、お貞は杉坂の尼寺へ、大一郎は金蔵寺へ、君江は神戸に滞在中の勝(海舟)の元へ、おりょうは伏見の寺田屋へ預けることになりました。それから寺田屋の騒動となって、おりょうは龍馬、西郷(隆盛)、小松(帯刀)等と共に薩摩へ下ってかの有名な霧島山へ上るのです・・・。」


文字数オーバーのため、次回に少しだけ続きます。

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下京区高辻通西洞院西入る北側永養寺町の一角には、「道元禅師示寂の地(どうげんぜんじじじゃくのち)」という石碑が建てられています。
この石碑は、この地で曹洞宗開祖・道元禅師(1200〜53)が亡くなったことを示しています。


道元禅師は、正治二年(1200)に京都で生まれました。
通説では、父は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、政界を牛耳った辣腕政治家、内大臣・土御門通親(源通親 久我通親)といわれます。三歳で父を、八歳で母を失い、十三歳で比叡山に登って翌年に出家。その後、建保五年(1217)、京都建仁寺で栄西禅師の高弟・明全禅師に師事します。貞応二年(1223)に明全と共に入宋し、天童如浄禅師から曹洞宗を学び法嗣の認可を受けて、安貞二年(1228)に帰国。天福元年(1233)、京都深草に日本初の曹洞宗寺院として興聖寺(こうしょうじ 後、宇治に移転)を開きました。寛元二年(1244)、越前(福井県)に大仏寺を建立し、同四年(1246)に永平寺と改めました。尚、道元禅師が生涯をかけて著した大著「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」は、最も難解で深遠な日本最大の哲学書ともいわれます。


さて、建長四年(1252)から病気の身となった道元禅師は、翌五年(1253)、に、病気療養のために、弟子の孤雲懐奘(こうんえじょう 道光普照国師 1198〜1280 永平寺第二世)禅師に永平寺住職を譲って上洛し、高辻西洞院の俗弟子覚念の屋敷に滞在しました。
そして、建長五年(1253)八月二十八日夜半、五十四歳で亡くなりました。遺体は、弟子等によって、東山赤築地(東山区鷲尾町)に運ばれて荼毘に付されました。(東山区鷲尾町には「道元禅師荼毘御遺跡塔」が建立されています。尚、墓は永平寺にあります。)

さて、道元禅師の終焉の地には、昭和十三年(1938)に、京都史蹟会によって「道元禅師遺蹟之地(どうげんぜんじいせきのち)」という石標が建てられ、その後、昭和五十五年(1980)に、永平寺二祖・孤雲懐奘(道光普照国師)禅師の七百回忌を記念して、「道元禅師示寂聖地」という石碑が建立されました。




(尚、最後の写真2枚は、道元禅師示寂の地のすぐ横の露地の奥に祀られている由緒不明の小さな稲荷神社です・・こんな神社の写真を撮るのは私だけでしょうね。)


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