京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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阪急電鉄の桂駅西口の直ぐ傍にある、赤い鳥居の目立つ大宮社(おおみやしゃ)は、京都の西部を代表する有名な松尾大社に関係する神社で、松尾七社(大宮社、月読社、櫟谷社、宗像社、三宮社、衣手社、四之社)の一つとされています。
木々に囲まれた静かな境内を進むと本殿があり、その左手に社務所があります。社務所を区切った左側には、「常楽寺」という寺名と御詠歌、札所を示す木札が掲げられています。この知らない人は絶対に気付かないような場所が、洛西三十三ヵ所観音巡礼の第二十二番札所の常楽寺(じょうらくじ)です。(西京区川島北裏町)


千手院常楽寺は、現在は無住で、古資料が失われているため来歴も不明な寺院ですが、堂内には観音霊場の観音である十一面千手観世音像を中心に、右に釈迦像と薬師如来像、左に地蔵菩薩像が安置されています。十一面千手観世音像は安産や厄除けにご利益あるとされ、古くからこの川島の地域で信仰を集めてきたようです。

元々、京都の洛西では阿弥陀や観音信仰が盛んで、各地で観音講が組まれて、多くの人々が西国三十三ヵ所観音巡礼を行ってきましたが、兵庫、和歌山から舞鶴(京都府)、岐阜まで広がる巡礼は費用も掛かることから、より身近な巡礼地として「西の岡(洛西)三十三ヵ所観音巡礼」が生まれたようです。しかし、その後、明治の廃仏毀釈の影響で衰退してしまいました。
ようやく、昭和五十八年(1973)に古記録を基にしてかつての観音霊場を復活させた「洛西三十三ヵ所」が復活すると、今回の川島地区でもこれを機会に観音講が復活し、常楽寺では講の参加者が交代で札所に詰めて巡拝者に対応していたということです。
現在は無住のため、納経は次回に採り上げる阿弥陀寺(洛西観音霊場第二十五番札所)で受け付けています。

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阪急電鉄桂駅の南方約三百メートル、三宮神社や川島春日神社の南に位置する冷聲院(れいしょういん)は、山号を知足山という浄土宗寺院です。(京都市西京区川島玉頭町)
このお寺は、大正時代から戦前まで小学校の修身(道徳)の教科書にも採り上げられ、親孝行の鏡として讃えられた孝子儀兵衛の菩提寺として知られています。


寺の駒札によると、冷聲院は、前回に登場した革島春日神社と同じく革島家ゆかりの寺院です。
この地を代々領主として治めていた革島家の十八代、越前守一宣(かずのぶ)は、秀誉生西(しゅうよしょうさい)上人に帰依していましたが、一宣の意を汲んだ子の秀存(ひでただ)が秀誉上人を開山に請うじて享禄元年(1528)年に創建したということです。
本堂は、昭和二年(1927)二月の失火により焼失しましたが、昭和四十一年(1966)十月に再建して境内を整備し現在に至ります。境内には他に地蔵堂や鐘楼、墓地がありますが、特に、親孝行で有名な儀兵衛や明治維新期にこの辺りに住んだ郷士、山口直(やまぐちなおし)の墓があることで知られます。


さて、儀兵衛(1727〜79)は、江戸時代中期の享保九年(1724)五月、京都の四条堀川の紙屋市兵衛の子として生まれ、生後直ぐに川島村の貧農、半右衞門の養子に出されました。
その後、十才で養父が亡くなると生活はいっそう厳しくなりました。以後、三十九年の間、体の弱い養母を支えて極貧の家庭の家計をよく助けました。

儀兵衛は、農業の他にも僅かの賃金を得るために懸命に仕事を選ばず働きましたが、毎日の食事にも困る状態でした。しかし、体の弱い母には好きなものを食べさせ、母には内緒で自分は我慢して何も口にしないことも度々でした。老いた母の着替え等身の回りのことも儀兵衛が助け孝行を尽くしました。
ある時、極貧生活を哀れんだ人から、養子であることを初めて知らされ、実の親元に行って世話を受ければどうかと言われますが、「これまで、実の子でない私を大切に育ててくれた御恩は本当に有り難く感謝でいっぱいです」といっそう母に尽くしました。

儀兵衛の孝行ぶりは当時から知られていましたが、晩年の明和七年(1770)に、石門心学(江戸中期の石田梅岩を開祖とする倫理学)の布施松翁(ふせしょうおう)が、『西岡孝子儀兵衛行状聞書』を記して広く知られるようになり、時の天皇の耳にも達して鷹司家より褒美を頂戴し、高名な儒学者・中井竹山、中井履軒、三浦梅園、加藤竹里、頼春水等の知遇を得て、その孝名は世に広まりました。
そして、儀兵衛は、八十五歳で大往生を遂げた養母の死から七年後の安永八年(1779)十月五日、五十六歳で亡くなりました。
その後、大正七年(1918)には尋常小学校の修身教科書に取上げられ、以来、戦前まで親孝行の模範として有名な存在でした。

境内には「忠誠貫於金石 孝弟通於神明」と刻まれた東郷平八郎筆の顕彰碑もあり、毎年命日(十月五日)には、儀兵衛の徳を讃える「孝子祭」が営まれています。
また、冷聲院の周囲には、冷聲院への参道を示す孝子儀兵衛翁墓参道碑(川島玉頭町)や儀兵衛の住居跡を示す石標(川島粟田町)、もあります。
戦後は忘れられつつある儀兵衛ですが、その親への愛と慈しみ、感謝の心は、現在でも模範となるものかもしれません。




さて、儀兵衛の墓の右側に、勤皇志士と記された墓があります・・これが、山口直(やまぐちなおし)の墓です。

山口直(1815〜73)は、山口薫次郎ともいい、この川島村の仙洞御所御領の裕福な庄屋に生まれ、西の岡の郷士とも呼ばれていました。
二十二歳で庄屋を継ぎますが、学問好きで幼少より春日潜庵に学び、森田節斎を通じて勤皇派の小浜の梅田雲浜を知り、また、水戸の鵜飼吉左衛門、京都の頼三樹三郎、長州の吉田松陰、高杉晋作ら各地の勤王の志士と深く交わり尊皇攘夷論に熱中し、親族の小泉仁左衛門と共にともに長州藩への物資援助を行いました。
禁門の変後は長州に逃れ、慶応四年(1868)の明治維新で、長州から川島村に帰りましたが、既に妻は無く亡くなっていて、田畑山林も失って一族は離散し、止む無く東京に寄宿し明治六年(1873)十月に五十八才で亡くなりました・・

どこか、幕末に長州藩を援助した商人の、有名な白石正一郎や福田理兵衛等を思い出させる話ですが、彼らは家産を傾け自身は没落してまで、明治維新の実現に貢献しました。ほとんど無名に近い庄屋出身の山口直も、時代に翻弄され没落して寂しい晩年を送りましたが、精一杯生きたといえるのかもしれません。

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阪急電鉄の桂駅の南約三百メートルにある革島春日神社(かわしまかすがじんじゃ)を採り上げます(京都市西京区川島玉頭町)
すぐ北にある三宮神社のまずまずの広さのある境内に比べると、こちらは小さな社域の神社に過ぎません。しかし、源氏の流れを汲む名家・革島家がその邸内に代々守り伝えてきた鎮守社と伝えられます。


神社の由緒書によると、革島春日神社は、古来、山城国葛野郡川島荘に祀られてきた神社で、春日大神(建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命(いわいぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ))を祭神とします。また、末社として稲荷社を祀ります。


さて、京都市の南西部にある西京区川島一帯は、平安時代末期には左大臣藤原頼長の荘園で、保元の乱で頼長が没落した後は、七条院(藤原殖子高倉天皇の典侍、後鳥羽天皇の生母)の所領になりました。その後、鎌倉時代には南北に分割され、南部は近衛家の所領となり、革島南庄と呼ばれました。この近衛家の革島南庄を、下司(げし 荘園の実務官・荘官)として代々管理していたのが革島氏でした。

革島氏は、元々は、清和源氏の流れを汲む佐竹氏の一族でしたが、鎌倉時代に関白近衛基通(1160〜1233)の縁故によって、近衛家の荘園、川島荘(革島南庄)の荘官となって、革島姓を名乗り、後に地頭としてこの地を領有するようになったということです。このため、近衛家の祖、藤原氏の氏神として春日神社を荘園の守護神としたと考えられています。

鎌倉時代以降現代まで同一地域に土着し続けた歴史的に稀な一族、革島家に伝わった古文書類は、千六百三十点を数え、鎌倉時代から明治に至る川島荘の歴史を物語る貴重な資料として、現在は革島家から京都府立総合資料館に寄贈され、平成十五年(2003)度に重要文化財に指定されているということです。

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阪急電鉄の洛西口駅から、直線で約一.五キロ、樫原廃寺跡(かたぎはらはいじあと 以前にブログパート2に採り上げました)の南にあるのが、福成寺(ふくじょうじ 京都市西京区樫原内垣外町)で、洛西観音霊場の第三十一番札所として信仰を集めています。
小さな寺院ですが、山門を潜ると、苔の美しい本堂前庭が印象的で落ち着いた雰囲気があります。

福成寺(ふくじょうじ)は、山号を宝珠山(ほうじゅさん)という臨済宗建仁寺派の寺院です。
寺伝によると、平城京から長岡京へ遷都した延暦三年(784)、桓武天皇が長岡京の鎮護道場として創建したと伝えられます。当時は多くの塔頭を有する大寺院だったようですが、平安遷都後は徐々に衰退し、南北朝時代に、建仁寺第二十六世・高山慈照(広済禅師 1266〜1343)によって禅宗寺院として再興されました。その後、応仁の乱で焼失し、江戸時代になって復興されました。現在は天保年間(1830〜44)に再建されたと伝わる本堂と権現堂(寺の西側の石段を登った山の中腹にあり)が残ります。
権現堂は、元々は、寺の西側の山にある一本松塚古墳(西京区樫原百々ヶ池・勝後谷・大亀谷にまたがる山城地方最古の古墳(前方後円墳)の一つ)の山上にありましたが、黄金の権現像が朝日を受けて光り、麓の街道を通っていた馬上の武士を落馬させたため、中腹の現在地まで引き摺り下ろされたという伝説があり、ひきずり権現さんとも呼ばれます)


さて、洛西観音霊場の観音は、本尊の十一面観音立像で、藤原時代中期の作とされます。また、同じく藤原時代の像、広済禅師坐像を祀ります。また、裏山の中腹に建つ蔵王権現堂は霊験あらたかなことで知られ、毎月、二月十一日には、年中行事のオコナイ講が行われています。

また、建仁寺の塔頭、霊洞院(京都府京都市東山区大和大路通四条下る四丁目小松町)は、今回の福成寺に関する古文書「福成寺規式(建武五年八月六日)」を所蔵しています。「福成寺規式(建武五年八月六日)」は、福成寺を再興した高山慈照(広済禅師)が、福成寺の寺内で守るべき規則を定めた規式です。規式の内容は、寺内での勤行や坐禅から什物の扱いや問題が起きた時の評議等までの八ヶ条からなり、禅寺の運営を具体的に示す史料として宗教史上、古文書学上において貴重なものとされ、平成十九年(2007)六月に重要文化財に指定されました。

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京都市西京区樫原(かたぎはら)は、江戸時代に旧山陰道沿いの宿場町として栄えた地域で、現在も古い家並みがよく保存されていることから、京都市の「界わい景観整備地区」に指定されています。

今回は、樫原で最も有名な旧家、玉村家住宅(京都市西京区樫原下ノ町)を採り上げます。
玉村家住宅は、宿場町・樫原宿の本陣として、参勤交代の大名等の宿所にあてられていたため、「樫原本陣跡」の名前で知られる史跡です。(京都市と樫原町並み整備協議会の掲示案内板から引用)


さて、山陰道の樫原は、早くから宿場町として設備も整い、丹波や山陰からの物資の集積地としてたいへん賑わっていました。そして、徳川三代将軍家光が参勤交代を制度化すると、この陣屋(本陣)は、山陰道を参勤交代で往来した諸大名の宿舎として知られるようになりました。 陣屋(本陣)に関して史料的に確認できるのは十八世紀末以降のことで、寛政九年(1797)十二月晦日に本陣が類焼したことが当家に所蔵する文書から判明しているということです。再建は、丹波・丹後・但馬の十二藩等からの合力銀・拝借金を得て進められ、同十二年(1800)四月にはすでに完成していたようで、現在の主屋はこの時に再建されたものです。また主屋の後方には土蔵が配されており、これは棟札より明和三年(1766)に建てられたことが判明しています。

主屋は、内部が一部大きく手が加えられていますが、復原すると、東から正面にかけて土間が鍵型に配され、その西に九室が三列に並ぶ平面となります。この内、西及び正面寄りの各室は、改造が少なく、中でも西列最奥の六畳は、床を一段上げて上段の間に造り、柱はすべて面皮柱として西面には床と違棚、欄間を構える立派な建物になっています。上段の間の横には隠れ間も存在し、上段の間の南には二の間・三の間が続き、これら三室は、書院造の構成となって本陣座敷としての体裁を整えています。

また、諸大名が出入りした玄関門は乳門と呼ばれていて、玄関の天井板には、筆太に書かれた「高松少将御宿」「松井伯耆守御宿」等の宿札がびっしり貼られています。また、大名の宿帳や関札等の多くの古文書を蔵しています。この本陣は、「頼まれ本陣」とも口伝されていて、享保四年に、当地の豪族・廣田庄兵衛永張が京都所司代板倉氏の依頼を受けて経営に従事したと伝わります。その後、安政二年(1855)、松尾下山田の豪族で、足利直系の玉村新太郎正継が継承して、今日まで五代、大切に維持されています。伏見宿の本陣が現存しない今日、市内で唯一残る本陣遺構であり、また樫原宿の近世町家として評価され、平成四年四月一日に京都市指定有形文化財に指定されました。(二棟、主屋、土蔵附棟札)


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