京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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最近、ブログパート2ばかり更新しています。
パート1とは重ならないように新たな史跡を登場させるつもりです。
相変わらず、写真が多過ぎるのですが・・
下のリンクからご覧下さい。

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京都市東山区本町(十六丁目)、東福寺の西を南北に抜ける本町通の半ばに、宮内庁管轄の「東山本町陵墓参考地」があります。「陵墓参考地」となると皇室史跡の中でもかなりマニアックな分野で、一般観光客が足を止めることはまず無い史跡ではありますが・・
(尚、このブログは、京都の寺社仏閣を中心とする史跡ガイドで、天皇陵や皇室史跡を専門的に採り上げている訳では無いので、複雑多岐に渡る「陵墓参考地」の成り立ち等は研究書を参照していただきたいと思います。記述に当たっては、この分野では必読の「事典陵墓参考地(外池昇著 吉川弘文館)」を参照します。)

天皇陵やその関連史跡、まして「陵墓参考地」などには興味が無い人のために、「陵墓参考地」をごく簡単に定義してみると・・・
「陵墓参考地」とは、「埋葬者が特定出来ず、祭祀の対象にもならないものの、宮内庁によって陵墓の可能性があるとされている土地を意味し、そのため、開発等による破壊から守る必要があるとして国が土地を買い上げて管理し、陵墓に準ずるものとして立ち入りが禁止されている」といった所でしょうか。

明治以降現在まで、指定の解除や陵墓へ移行した例も有るなど時代によって変動が有りますが、現在、京都市内には、「沓塚陵墓参考地(伏見区深草田谷町)」、「大亀谷陵墓参考地(伏見区深草大亀谷古御香町)前に少しブログに登場」、「浄菩提院塚陵墓参考地(伏見区竹田小屋ノ内町)」、「後宮塚陵墓参考地(伏見区竹田小屋ノ内町)」「中宮塚陵墓参考地(伏見区竹田田中宮町)」、「天王塚陵墓参考地(左京区岡崎入江町)」、「御室陵墓参考地(右京区御室大内)」、「円山陵墓参考地(右京区嵯峨大覚寺門前登り町)」、「入道塚陵墓参考地(右京区嵯峨大沢柳井手町)」、そして今回の「東山本町陵墓参考地(京都市東山区本町)」が指定されています。



さて、現在の東山本町陵墓参考地は、大正十三年(1924)に陵墓参考地に指定されました。指定の理由は、この地が第八十五代・仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)の陵墓の可能性があると考えられたからです。
仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)は、第八十四代・順徳天皇の第一皇子で、承久三年(1221)に僅か二歳で即位しました。幼児の即位の背景として、順徳天皇が父の後鳥羽上皇と共に「承久の乱」の準備に専念する必要があったからとされます。しかし、「承久の乱」は後鳥羽・順徳の敗北という結果となり、仲恭天皇も在位三ヶ月に満たずして廃位されました。このように、仲恭帝は歴代天皇中で在位期間が最短という影の薄い天皇で、明治三年(1870)に天皇として認められ「仲恭天皇」と追号されるまでは、「九条廃帝」と呼ばれていました。退位後の九条廃帝(仲恭天皇)は、母の実家・九條家で過ごし、天福二年(1234)九条殿で十七歳で崩御したとされます。


さて、「九条廃帝」こと仲恭天皇の陵墓については、歴史資料も乏しかったために、明治二十二年(1889)に現在の京都市伏見区伏見区深草本寺山町に「仲恭天皇九條陵「(ちゅうきょうてんのうくじょうのみささぎ 以前にブログに採り上げています)が定められものの、天皇が崩御した九条殿跡地からその埋葬地を推定したに過ぎず、遺骸も無い決定根拠に乏しいものでした。そのため、大正・昭和と陵墓研究が進むと、宮内庁も九條陵の西北に位置する東山本町のこの地が、真陵である可能性がより高いと考えるようになり、一旦決定されてしまった九條陵との整合性はともかく、この地を陵墓参考地と定めてその保存を図ったようです。

この地が天皇ゆかりの地という伝承は古くからあったようで、江戸時代の「陵墓一隅抄」は、この伏見街道(本町通)の東山本町の地には、廃帝社と呼ばれる一祠があり、その名前の通り九条廃帝(仲恭天皇)陵とされ、また同じ「廃帝」の淡路廃帝(淳仁天皇)と混同されることもあったと記しています。
また、「事典陵墓参考地」に引用されている大正末期に著された「山陵(上野竹次郎編)」によると、かつて、この地には民家の中に土塚があって、塚上には二つの小さな祠があり塚本社、廃帝社と呼ばれていたということです。祠の一つは、淳仁天皇と崇道天皇(早良親王)、もう一社には神功皇后、井上内親王、他戸親王が祀られ、明治十年(1877年)に祠は廃されましたが、この土塚を九条廃帝(仲恭天皇)陵に当てはめるという説は根強かったようです。ただ上野は、根拠は廃帝社という名前によるのみで、それ以上の有力な根拠が有る訳では無いと記しています。
(尚、前にブログに採り上げた東山区五条橋東にある若宮八幡宮は、相殿に仲恭天皇を祀りますが、これは明治十年(1877年)塚本社が廃された際に、当時の宮内省によって仲恭天皇の神霊が奉遷されたものということです。)
現在の仲恭天皇九條陵が極めて信憑性に乏しい陵墓である以上、この東山本町陵墓参考地が、仲恭天皇の真陵である可能性は残されていると言えるのかもしれません。

尚、墳形は楕円丘、面積は四畝八歩 (約四百二十三平方メートル)ということです(昭和二十四年十月「陵墓参考地一覧」)

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左京区岩倉花園町にある岩倉妙見神社は、ブログPart2で採り上げた長谷八幡宮の少し南にある小さな山の神社です。(今後は、個人的に好きな史跡や、ややメジャークラスの史跡はブログPart2の方へ書いていきますので、よろしくお願いします。)

この妙見社は、同花園町にある長栄寺が管理しているということですが、写真のように、以前はあった社務所や拝殿も崩壊して廃墟化が進行しつつあるのが残念です。


妙見信仰については、これまで「十二支妙見めぐり」のお寺を採り上げてきた時に何度か書いていますが、元々古代中国の星宿思想に基づいていて、北極星・北斗七星を神格化した、宇宙万物の運気を司り支配する妙見菩薩を祀っています。奈良時代にはすでに民間の信仰を集めていたようで、天台宗、真言宗、日蓮宗等にも取り入れられて広まりました。最初は「方角の神様」でしたが、徐々に商売繁盛、厄除け、安産などあらゆる方面にご利益のある神として朝廷から民衆まで広い信仰を集めたようです。

岩倉妙見神社では、祠の中に一つの石が祀られていて、隕石だともいわれています。そして、この石は節分の星祭や妙見大祭の際も公開されないということです。また境内には、岩倉具視神霊遥拝所の石標もあります。

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上京区寺之内通新町西入る妙顕寺前町、日蓮宗大本山・妙顕寺山内の東側にある塔頭の善行院(ぜんこういん)は、新しい現代的な建物が目立つお寺です。
この鉄筋コンクリートの建物は平成十五年(2003)四月の平成の大修理で完成したものですが、それまでとは寺観を一新して、他の妙顕寺塔頭とはかなり異質な雰囲気となっています。
境内には、改築工事で二階建てとなった妙見堂があり、善行院は、「洛陽十二支妙見」の「子(ね)の寺」、「西陣の妙見さま」として親しまれています。



「洛陽十二支妙見めぐり」についてはこれまでも何度か書いていますが、以下再掲載します。

妙見菩薩とは、北極星・北斗七星を神格化した、宇宙万物の運気を司り支配する菩薩になります。
奈良時代にはすでに民間の信仰を集めていたようで、天台宗、真言宗、日蓮宗等にも取り入れられて広まりました。最初は「方角の神様」でしたが、徐々に商売繁盛、厄除け、安産などあらゆる方面にご利益のある神として朝廷から民衆まで広い信仰を集めたようです。

「十二支妙見めぐり」というのは、江戸時代中期に、京都の御所の紫宸殿を中心に十二支の方角に、各々妙見菩薩を祀ったことに始まり、江戸時代を通してこの十二のお寺を順番に訪問して、開運や厄除けを祈願することが大いに流行りました。明治時代の廃仏毀釈の影響で妙見信仰は一時衰退しますが、その後、昭和になって再び妙見講として信仰は受け継がれることになりました。
そして、昭和六十一年(1986)、京都の日蓮宗のお寺を中心として「洛陽十二支妙見会」が発足し、再び「十二支妙見めぐり(洛陽十二支妙見めぐり)」が復活しました。現在の十二の寺院は、江戸時代とは大半が入れ替わっているようですが、当時の歴史と伝統を今に伝えようとする試みのようです。こうして、善行院でも、「洛陽十二支妙見」の第一番「子」として妙見宮が復興されました。

「洛陽十二支妙見めぐり」の十二ヶ寺・・・いくつかはこれまでに登場しています。

●子(北)西陣の妙見宮(善行院)

●丑(北北東)出町の妙見宮(本満寺)

●寅(東北東)修学院の妙見さん(道入寺)

●卯(東)鹿ケ谷の妙見さん(霊鑑寺)

●辰(東南東)岡崎の妙見さん(満願寺)

●巳(南南東)清水の妙見宮(日体寺)

●午(南)伏見大手筋の妙見さん(本教寺)

●未(南南西)未の方の妙見さん(法華寺)

●申(西南西)島原の妙見さん(慈雲寺)

●酉(西)小倉山の妙見宮(常寂光寺)

●戌(西北西)鳴滝の妙見宮(三宝寺)

●亥(北北西)鷹峯の岩戸妙見宮(円成寺)



さて、善行院は、山号を日洋山といい、室町時代の文正元年(1466)、開山の恵眼院日冨上人によって創建されたと伝えられます。天明八年(1788)の大火で妙顕寺本山と共に類焼する以前からほぼ現在の位置にあったようです。
善行院にある由緒書きによると、妙見堂に祀られる妙見大菩薩は、十二支妙見の中で唯一の「天拝の妙見菩薩」といわれていて、元々御所の清涼殿に安置されていたということです。江戸時代初期の第百十一代・後西天皇(後西院天皇)は、この菩薩像を篤く信仰して、日々清涼殿で国家の安泰を祈念していましたが、法華経を以って祭祀せよとの霊夢によって、妙顕寺山内に妙見堂を建立しました。
その後、この妙見菩薩は、近隣の人々の信仰を集めた後、幾多の盛衰を経て、天保七年(1836)善行院第二十七世・大漸院日謙上人の時代に、現在の妙見堂が復興され、「洛陽十二支妙見めぐり」第十二番として信仰を集めたと記されています。また、幕末の万延元年(1860)に、善行院境内に一堂を建立して妙見堂が奉安されたとも伝えられ、妙顕寺にあったという妙見堂が、現在のように塔頭の善行院に祀られるまでには幾度かの変遷があったのでしょう。

尚、今年、平成二十年(2008)は子歳ということで、「福子」と命名された信楽焼のネズミの置物が新しく妙見堂内に安置されました。この幸福を導くようにと金色に彩色された大きなネズミ(高さ四十八センチ、幅六十二センチ、奥行五十二センチ)像は、信楽焼作家の大熊狸心(おおくまりしん)氏の作になります。

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今回は左京区上高野にある崇導神社(すどうじんじゃ)に関する二つの史跡です。
(尚、崇導神社については、前に少し書きましたが、好きな史跡なので今後書き直して「京都を感じる日々★古今往来Part2」というもうひとつのブログの方に掲載したいと思います。)


左京区上高野小野町には、小さな森があって「おかいらの森」と呼ばれています。
この面白い名前は、「お瓦の森」が転じたもので、水田に囲まれたこの小丘を中心に明治以来多くの瓦が出土したことに由来するものです。
瓦を多数用いた寺院跡ではないかという説もあったそうですが、近年(2004年)この地の調査が行われ、大量の瓦の他に平安時代中期と推定される瓦窯跡が出土しました。また、この地から出土した瓦と同じ型で作られた瓦が平安宮跡からも見つかったことから、この地は「延喜式」に記されている「小野瓦屋」に関する平安京造営瓦窯跡と考えられています。さらに、この小山(おかいらの森)全体が人工的に作られた積土による丘であることも判明し、瓦生産の際に壊れた瓦や焼土、灰や炭などが捨てられ体積したものと考えられます。
また、この地は、崇道神社の御旅所にもなっていて立ち入りは禁止されています。



さて、「おかいらの森」から東南、上高野大明神町にあるのが「伊多太神社址」です。

この伊多太神社というのは、上高野地域の最古の神社といわれ、崇道神社と三宅八幡宮というこの地区の二大神社よりも由緒ある神社だったようです。(また、三宅八幡宮は、伊多太神社の境内末社だったともいわれ、その前身だったという説もあるということです。)応仁の乱で焼失して衰退しますが、明治十六年(1883)に再興され、明治四十一年(1908)に崇導神社に合祀され、その跡地には鳥居と「延喜式内社伊多太大社旧跡」という石標が建てられています。
伊多太神社は、「伊多太(いたた=痛)」という名前から、現在は痛み解消に霊験がある神として信仰されていますが、元々は「湯立て」から転じた「いたて(いだて)」だったとされます。そして、全国にある「いたて(いだて)」と読まれる「伊達」「伊太氏」「躬楯」などの祭神と同系の出雲系農耕神だったと考えられているようです。

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