京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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右京区山ノ内荒木町、京福電鉄嵐山線に最近出来た新駅・嵐電天神川駅の傍、三条通が天神川と交差する付近にあるのが、猿田彦神社です。
古図によれば、昔は三条通側に鳥居があったということですが、現在は三条通にほぼ平行して鳥居があり、境内は、区民の誇りの木に選ばれているクスノキの大木等の木々に囲まれています。普通の小さな神社ですが、観光地嵐山に至る京福電鉄の沿線にあることもあって、京福電鉄では、嵐電天神川駅周辺の小さな観光スポットの一つとして採り上げているようです。


猿田彦神社は、社伝によると、古くから「山ノ内庚申(やまのうちこうしん)」と呼ばれ、「八坂の庚申堂」、「粟田口庚申堂」と並んで「京洛三庚申」の一つに数えられた洛西の古社ということです。
祭神の猿田彦大神(さるたひこおおかみ)は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、葦原中国(あしはらなかつくに=日本国土)を治めるために高天原から日向国・高千穂峰に降った・・いわゆる天孫降臨の時に、その道案内をしたという故事から、また、中国伝来の「道祖神(どうそしん)」と同一視されるようになり、道ひらきの神、人生の道案内の神として信仰され、開運除災や除病招福のご利益があるとされています。社伝によると、平安時代初期に伝教大師最澄が、座禅をするための霊窟を探していたところ、猿田彦神が現れてこの地を示したので、座禅石の横に猿田彦神を祀ったことが創祀とされます。


猿田彦神社は、「山ノ内庚申(やまのうちこうしん)」と呼ばれように、京都の神道系庚申信仰の本拠地の一つだったようです。
庚申信仰は、元々中国の道教の教えから来た信仰で、仏教、神道、修験道等の様々な信仰と結びついて全国に広まりました。元々特定の本尊の無い庚申信仰は、神仏混交の影響から、日吉山王信仰(日吉大社の祭神「大山咋神(おおやまくいのかみ)」は、神社が天台宗延暦寺の鎮守社となったことで、山王信仰へと発展しました)と結びついて山王権現、また仏教系では青面金剛、神道系では猿田彦神を祀ることが多かったようです。

この「庚申」とは、干支の「庚(かのえ)申(さる)」の日を意味し、十干十二支のこの日の夜に、人の体中にいる三尸の虫が、寝ている間に抜け出して、寿命を司る神である天帝にその人間の行った悪行を告げ口に行くといわれ、天帝は罰としてその人間の寿命を縮めると考えられていました。そして、これを防ぐために、庚申日の夜は寝ないで徹夜するという「庚申祭」という風習があり、時代により「守庚申(しゅこうしん)」、「庚申待(こうしんまち)」等とも呼ばれています。
この風習は、平安時代初期頃より中国より伝来して貴族の間に、さらに仏教と結び付いてからは広く諸国に広まり、鎌倉から室町時代には武家に、さらに江戸時代には広く庶民の間でも信仰されました。特に、江戸時代には、村落全体で酒盛りをして一夜を明かすという寄り合い組織「庚申講(こうしんこう)」が全国で作られていました。猿田彦神社の由緒書にも、庚申講の際は、村人が集まって猿田彦大神や青面金剛の軸を掛け、七種の供物を捧げ夜を明かして萬福招来を祈願したと記していて、現在も六十日に一回の庚申日に祭事を行い、新年初めの庚申日の付近の人々の参詣は後が絶えないということです。

また、仏教系神道系に関係なく庚申信仰のシンボルと知られるのが猿です。
その由来は「庚申」の「申(さる)」=「猿」から来ているとも、山王信仰の神使である猿が採り入れられたとも、また三尸の虫に告げられないために「見ざる(猿)、言わざる(猿)、聞かざる(猿)」が阻止するという意味である等と諸説ありますが、この三神猿は、世の諸悪を排除して開運招福をもたらすとして庚申信仰の地では必ずどこかに描かれているようで、猿田彦神社でも本殿前に目立たない小さな像があります。


社殿は、元々安井村松本領にあって、境内には山伏修験者の行場があり、愛宕山に参詣する人々は、境内の滝に打たれ身を清めてから参詣したということです。明治十八年(1885)、現在の三条通の南側に遷座しましたが、今も境内には行場の名残をとどめる大小無数の石が境内北側に存在し、南側には不動明王、観音菩薩、大日如来、役行者等の石仏が祀られています。(昭和五十五年(1980)、この年が六十年毎の庚申の年に当るため、神殿を修復したところ、礎石に用いられていた道標に「あたごへ二里半」の文字が刻まれていることが確認されました。)また、明治大正時代には庚申灯篭が数多く奉献されていたということで、現在では御縁日の庚申日に祭礼が行われていて、特に初庚申のお祭りには火焚神事が斎行され、参詣客で賑わうということです。
また、境内末社として、大国主命を祭神とする大国主社、火伏の神・秋葉明神を祭神とする秋葉社、稲荷大神を祭神とする稲荷社があります。


社宝として、この地の庚申講に用いられてきた御軸「御幣猿立像(伊勢市猿田彦神社に伝来。宇治土公定津神主筆・天保十二十二年六月吉日 利兵衛箱書)」と「庚申清(青)面金剛御姿絵図(当村永代講中 箱書)」、また山口玲熈画の神猿図(大正二年二月八日 初庚申の節に奉納)があり、また鳥居に掲げられた社額は、宇治土公定津神主の筆によるものです。
また、授与品としては、中風・神経痛・腰痛などの病気封じの「こんにゃく(氏名・年齢を書いて祈祷後に神棚に祀って願をかけます。また、昔は就寝の枕上に吊るしたということです。)」、盗難除けの左縒りの連縄「左なわ(持山)(玄関・勝手口・戸窓・金庫などに吊るします)」、手芸の上達を招くという「招福布猿(くくり猿)財布や腰に付けて除難招福を祈る)」、家内安全・商売繁昌・交通安全・開運厄除けの「祈願絵馬」や「御守り」、清め砂などがあります。(尚、庚申以外の日は、御守授与は、嵐電「山之内」北側の山王神社で行っているようです。)

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前回に続いて、衣笠の皇室史跡として、北区衣笠西馬場町にある「白河天皇火葬塚」です。
この火葬塚は、観光客が途絶えない金閣寺から僅か百五十メートル程、南にあるのですが、もちろん天皇史跡に興味のある人しか訪れません。また、この塚の南側は金閣小学校に接していて、学校校舎の影で少し居心地の悪そうな空き地という印象です。

(以前に、白河天皇の陵墓「白河天皇成菩提院陵 (伏見区竹田浄菩提院町)」については、少し書いていますが、やや物足りない内容で、白河天皇についても簡単に触れただけでした。
白河帝といえば、二十歳で即位して在位十五年で子の堀河帝に譲位、その後も堀河、鳥羽、崇徳天皇の三代にわたって四十三年間の院政を行ったことで知られる重要な天皇です。機会があれば、もう少し詳しく書きたいと思いますが、今回はやはり、「一条天皇・三条天皇火葬塚」と同じく、火葬塚に関係することのみにしたいと思います。)


さて、平安時代末期の大治四年(1129)、七月六日、白河法皇は、侍臣に愛馬を賜わったり、二条東洞院殿に御幸して、尾張守藤原顕盛らが造らせて献上した丈六(約五メートル)の愛染王像三体、等身大の愛染王像二十体、さらに小塔を供養したりしていました。仏教を深く信仰する白河法皇らしい普段と変わらない一日のはずでした。
しかし、院御所の三条烏丸西殿に還御したその夜、法皇は急に苦しみ始めました。夜から翌日まで激しい吐き気や下痢が続き、霍乱(かくらん 急性腸カタル)と思われました。直ぐに仁和寺第四世門跡で、法皇の第四皇子・覚法法親王が呼ばれ病気平癒の祈祷が行われましたが、効果はありませんでした。そして、翌日八日の朝(午前十時頃)、白河法皇は、七十七歳で崩御しました。
即日遺骸を入棺し、葬儀の段取りが決定され、十五日に現在の火葬塚のある衣笠付近で火葬にされ、十六日に遺骨は香隆寺に安置されました。


元々、白河法皇は、天永二年(1111)、鳥羽離宮に自らの墓所として三重塔(鳥羽塔)を建立していて、遺言でその地への埋葬を指示しました。しかし、崩御の時点では、塔に付属する遺骨を納める御堂である成菩提院(じょうぼだいいん)はまだ完成していなかったので、香隆寺に一旦遺骨が納められたのでした。

この香隆寺という寺院は、平安時代中期に創建された真言宗の寺院でした。
この時代は、有名寺院の境内やその付近に陵墓が多く造られましたが、香隆寺も由緒ある寺院だったようで、白河・堀河・二条の各天皇の遺骨が納められたという記録があります・・・嘉承二年(1107)七月十九日、白河法皇の第二皇子・堀河天皇が崩御した際も、七月二十四日に香隆寺の付近で火葬され、遺骨は香隆寺に一旦納められ、永久元年(1113)三月二十二日、堀河天皇の遺骨は仁和寺円融院に改葬されています。また、永万元年(1165)七月二十八日に、後白河法皇の第一皇子・二条天皇が崩御した際も、翌日に入棺、八月七日に、香隆寺の野で火葬され香隆寺本堂に遺骨が納められています。さらに、嘉応二年五月十七日に二条天皇の遺骨は、香隆寺本堂から境内に造営された三昧堂に改葬されました。

このように、皇室ゆかりの由緒ある香隆寺ですが、中世(鎌倉)以降に廃絶して、その正確な位置は不明となりました。現在の京都市北区の衣笠山から船岡山一帯と諸説ありましたが、明治二十二年(1889)に、その跡地を推定して、二条天皇の陵墓「二条天皇香隆寺陵(にじょうてんのうこうりゅうじのみささぎ)」が造られています(上京区平野八丁柳町)

さて、天承元年(1131)七月八日に鳥羽離宮に成菩提院が完成すると、直ちに翌九日、三重塔内に白河法皇の遺骨は改葬されています。現在の白河天皇の陵墓「白河天皇成菩提院陵(しらかわてんのうじょうぼだいいんのみささぎ 伏見区竹田浄菩提院町)」はこの三重塔(鳥羽塔)跡地と推定される場所に造られています。

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今回は、京都市北区衣笠地域にある「一条天皇・三条天皇火葬塚」です。
衣笠地域には二つの火葬塚(一条天皇・三条天皇火葬塚&白河天皇火葬塚)がありますが、地理的にはかなり離れているので、個別に書いてみます。


さて、前回の「三条天皇北山陵(さんじょうてんのうきたやまのみささぎ)」から、鏡石通を北上すること約五百メートル、北区衣笠鏡石町にあるのが、「一条天皇・三条天皇火葬塚」です。
この地は、平安時代の第六十六代一条天皇と、従兄に当る第六十七代三条天皇が火葬されたとされる場所で、京都の天皇火葬塚の中では最も大きな火葬塚の一つになります。この火葬塚の南側は、鏡石公園という小さな公園に接していて、そこから塚内の森を見上げると、火葬塚というより陵墓のような印象もあります。


前回、北山陵を採り上げた際に、三条天皇の生涯について書きました。また、一条天皇の生涯についても、今後、その陵墓を取り上げる際に書くこととして、今回は簡単に火葬塚に関係する点のみを書いてみます。

平安時代の寛弘八年(1011)、一条天皇は重病となって、同年六月十三日に一条院で居貞親王(おきさだしんのう 三条天皇)に譲位して出家しますが、間もなく二十二日に、三十二歳で崩御しました。遺体は、山城葛野郡北山長坂野(岩陰)の地で火葬にされ、七月九日、遺骨は東山の椿ヶ峰の麓にあった円成寺に安置され、正式に二十日に埋葬されました。この円成寺という寺院は、その後廃寺となってしまいますが、、現在、哲学の道(左京区)の傍にある大豊神社(駒ネズミで知られます)はその鎮守社だったと伝えられます。

藤原実資(前回の三条天皇陵の時にも出てきましたが)の日記「小右記」によると、当時大納言だった実資は、この頃、宮中で権中納言・藤原頼通から、「亡き天皇(一条天皇)は、生前に、自分が死んだら土葬にして、父の円融法皇(円融天皇)の御陵付近に埋めて欲しいと、左大臣(頼道の父の藤原道長)や周りの人々にお話されていましたが、皆そのことを忘れてしまっていて、今になって左大臣は思い出されて、歎息されておられました。」と告げられます。
そこで実資は、一条帝の御遺骨は、方忌を避けるため、とりあえず円成寺に奉安して、三年を過ぎて、方位神の金星(太白)の精の大将軍が西方に位置したら、円融法皇の陵の付近に移すべきだと提案しました。そして、結局、九年後の寛仁四年(1020)六月、一条天皇の御骨は、道長によって円融天皇ゆかりの円融寺の北(竜安寺の北にある円融寺北陵)移されました。

尚、この円融寺という寺院は、石庭で有名な竜安寺(京都市右京区)の前身ともいうべき寺院で、永観元年(983)に創建された円融天皇の勅願寺でした。円融天皇は、翌永観二年(984)に退位した後、寛和元年(985)に出家してこの円融寺を住居としました。そして、正暦二年(991)に円融寺で死去し、円融寺の北原で火葬されました。(竜安寺の裏山に円融天皇火葬塚があります)その遺骨は、父の村上天皇の村上陵の傍らに葬られたと伝えられます。(円融天皇後村上陵はブログに掲載しています)

その後、前回に登場した三条天皇も、一条帝と同じ地で火葬されたと伝えられます・・三条帝は、寛仁元年(1017)四月二十九日に出家し、五月九日に四十二歳で崩御しました。そして、五月十二日に山城葛野郡北山岩陰で火葬され同地の北山陵に埋葬されました。一条天皇と違って、そのまま北山の地に陵墓が造られたようです。

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北区衣笠西尊上院町、五山の送り火で知られる「左大文字」の山裾の閑静な住宅街の中にあるのが、第六十七代・三条天皇の陵墓、「三条天皇北山陵(さんじょうてんのうきたやまのみささぎ)」です。
この衣笠地域の山沿いの一角は、京都の高級住宅地の一つに数えられていて、大きな住宅に囲まれた三条天皇陵は、周囲の静かな雰囲気にマッチして、街中の天皇陵の中ではかなり良い環境にあるように感じます。(ただ、区画された住宅地のため、道路に直面し参道が無いに等しいという欠点はありますが)



さて、第六十七代・三条天皇(在位1011〜1016)は、天延四年(976)、第六十三代・冷泉天皇の第二皇子として生まれ、名を居貞(おきさだ)といいました。母は、太政大臣・藤原兼家の長女・藤原超子(ふじわらのちょうし とおこ)で、また異母兄として花山天皇がいます。

永観二年(984)に即位した第六十五代・花山天皇は、摂政だった外祖父・藤原伊尹(ふじわらのこれただ、これまさ)が、天禄三年(972)に亡くなった後は、有力な後ろ楯を失っていたために、寛和ニ年(986)、在位二年で伊尹の弟、藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の陰謀によって出家させられ退位させられました。兼家は、早速、自身の外孫・懐仁親王(やすひとしんのう 母は藤原兼家の娘・:藤原詮子)を即位させます。これが第六十六代一条天皇です。

一方、居貞親王(後の三条天皇)は、異母兄・花山天皇とは対照的に、母超子が兼家の娘ということもあって、天元五年(982)、七歳で母を失った後も、外祖父・兼家の寵愛を受けて育ちました。
そして、寛和ニ年(986)、従兄弟の一条天皇が即位した際に、兼家の後押しで元服して、一条帝より四歳年上の十一歳で皇太子となりました。歴史物語「大鏡」は、地震や雷など異変が起こった際、兼家は、「お前たち(子の道隆・道兼・道長ら)は、帝(一条天皇)の元へ参上せよ。私は皇太子(居貞親王)の元にお伺いするから」と、居貞親王を気遣っていた様子を記しています。しかし、永祚二年(990)に、兼家が亡くなった後は、その一門とは疎遠な関係になっていったようです。

その後、居貞親王は、正暦ニ年(991)に、藤原娍子(ふじわらのせいし すけこ 藤原済時の娘)を妃に迎え、二人の間には、敦明親王(あつあきらしんのう 小一条院)をはじめ四男ニ女が生まれています。また、藤原道長も、これまで疎遠だった居貞親王との繋がりを強めるために、寛弘七年(1010)に次女の藤原妍子(ふじわらのけんし きよこ)を入内させています。(同九年(1012)に中宮に冊立)



さて、関白藤原兼家の死後、その子、道隆・道兼・道長三兄弟が外戚としてそれぞれ一条天皇を二十五年という長期にわたって支えていたために、寛弘八年(1011)一条帝が病気のため退位し、ようやく居貞親王(三条天皇)に即位の順番が回って来た時には、親王は当時としては高齢の三十六歳になっていました。幼少で即位し藤原氏の傀儡として育った多くの天皇とは違って、熟年になって即位した三条帝は親政を望んでいたようです。

しかし、三条天皇にとって不幸だったのは、時代が藤原道長の全盛期だったことでした。道長は、長女の中宮藤原彰子(ふじわらのあきこ しょうし 上東門院)が一条天皇との間に、敦成親王(あつひらしんおう 後の後一条天皇)、敦良親王(あつよししんのう 後の後朱雀天皇)を生んでいて、これら若い皇子を擁立することで、次世代にも揺ぎ無い権力を握ることが確実となっていました。道長は早速、三条帝即位にともなって、皇太子として敦成親王(後一条天皇)を定めました。

翌長和元年(1012)、三条天皇は、皇太子時代から寵愛してきた娍子を皇后に立てたいと願います。道長はこれに賛同する態度をとって天皇を安心させながら、立后の儀式当日になって中宮妍子の元へ参内するとして儀式に出席せず、宮中の公卿達も皆、道長に従って中宮殿の東三条第へ行ってしまいました。天皇は儀式への出席を求めて東三条第へ使いを送りますが、集まっていた公卿達は勅命を無視する態度をとる始末でした。

わずかに道長の威光に逆らって立后の儀式に参加したのは、反道長派と思われていた公卿たち・・娍子の弟・藤原通任(ふじわらのみちとう)、道長と権力争いをしたことで知られる藤原伊周(これちか)の弟・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)、そして、藤原懐平(ふじわらのかねひら)・藤原実資(ふじわらのさねすけ)兄弟に過ぎませんでした。また、上記したように、道長は娘の妍子を三条帝の中宮に立て皇子の誕生を期待していましたが、残念ながら長和二年(1013)に生まれたのは皇女(禎子内親王)で、道長は大変失望しました。こうして、道長にとって三条天皇は無用な存在となっていきます。

三条帝の意向を無視する道長の妨害工作が続き、孤立感を深めた三条天皇が、頼りにしたのは、前記の立后騒動など宮中の出来事を現在に伝える貴重な同時代資料、日記「小右記」の著者として知られる藤原実資(ふじわらのさねすけ 小野宮実資  藤原北家の藤原斉敏の子で、祖父実頼の養子)でした。藤原実資は、道長の批判者として、その傲慢ぶりを日記に記したことで知られますが、学問に秀でた正義感の強い剛直な人物でした。実資は病身にもかかわらず、娍子立后の儀式に駆けつけて、三条帝から感謝されます。実資は、飛ぶ鳥を落とす勢いの道長に対して直接対抗する愚を犯さず、是々非々の正論を唱えることで、その野望を牽制しました。



しかし、道長の圧力に加え、三条天皇には生来眼病があり、長和三年(1014)頃より病状が悪化します。病気平癒の祈祷を繰り返しますが効果は無く、さらに、長和四年(1015)十一月には、新造されたばかりの内裏が炎上する事件が起こり、三条帝は道長の枇杷殿を里御所とします。道長は、事あるごとに帝に退位を勧めて圧力をかけ、ついに、長和五年(1016)正月、三条帝は、在位六年にして、道長の勧めを聞き入れて退位を決意せざるを得ませんでした。そして、退位の条件として、娍子との間に生まれた第一皇子・敦明親王を、敦成親王(後一条天皇)の皇太子にすることを道長に認めさせた後、退位しました・・・「小右記」によると、道長は三条天皇の御前で、後一条天皇即位の時には、敦良親王(あつながしんのう 後の後朱雀天皇)を皇太子にする意志のあることを明言したということですが、当然ながら、三条天皇は自身の子・敦明親王(あつあきらしんのう)を皇太子にするとして譲りませんでした。結局、道長は妥協して、三条帝の退位を条件に敦明親王を立太子せざるを得なかったのでした。

「大鏡」は、退位後に三条天皇が完全に失明したと記していて、三条上皇は、外見は普通の人と変わらない綺麗な澄んだ目をしていて、眼が見えないというのが嘘のような様子だったということです。また、時々は見えることもあって、御座所の簾の編み糸がはっきりと見えると語ったり、寵愛する娘の禎子内親王が参内した時には、その乳母の櫛の刺し方を注意したりしています。さらに、幼い禎子の美しい髪を撫でながら、この美しい髪を見られないとはと何とも悔しいと、声をあげて泣いたと記しています。

また、同じく「大鏡」は、上皇の目が見えなくなった理由について、以前から病気のために服用していた万病に効くという秘薬・金液丹の副作用のためだとか、桓算供奉(かんざんくぶ)の祟りのためとも噂されたことを記しています。桓算というのは、醍醐天皇の時代の比叡山の僧で、宮中内の道場に奉仕していましたが、僧位のことで恨みをもって憤死し、以来代々の天皇に祟っていると考えられた怨霊で、そのモデルは、村上天皇の時代の天台僧の賀静(がしょう、887〜967)ともいわれています。賀静は、康保四年(967)期待していた天台座主になれなかった衝撃から病没したと伝えられる人物で、死後には怨霊になったと考えられていました。

また、前に冷泉天皇陵の時に書きましたが、当時の人々は、藤原元方(888〜953)も怨霊として三条帝を苦しめたと考えました。元方は、大臣職を歴任する藤原北家の後塵を拝してきた南家の出身でしたが、村上天皇に嫁いだ娘(祐姫)が生んだ第一皇子(広平親王)が皇太子となれば、外祖父として権勢を握ることが出来るはずでした。しかし、北家の右大臣・藤原師輔(ふじわらのもろすけ)の娘、中宮・藤原安子が生んだ皇子(憲平親王)が立太子され、元方は天暦七年(953)に無念の思いを抱いて世を恨みながら病死したと伝えられ、また、皇太子になれなかった広平親王も、天禄二年(971)に二十二歳で亡くなりました。その後、冷泉天皇が精神に異常をきたし、その子・花山天皇と三条天皇が病気に苦しんだのも、元方や広平親王の怨霊が祟ったのだと噂されました。三条帝の信頼厚かった藤原実資も日記「小右記」の中で、三条帝の眼病の原因は、賀静と藤原元方の怨霊によるものであると記しています。

三条上皇は、比叡山延暦寺の根本中堂や太秦の広隆寺などで病気平癒の祈願を行いますが、やはり効果はありませんでした。また、十二歳で伊勢の斎宮に選ばれていた娘の当子内親王(とうし 皇后娍子との子)が父帝の譲位で帰京するや、藤原伊周の子・道雅と密通事件を起こして、上皇に勘当され出家するなどの騒動もあり、晩年まで不幸が続いたといえます。そして、寛仁元年(1017)四月末に出家し、五月初めに四十二歳で崩御しました。遺骸は船岡山の西野(岩陰 衣笠鏡石町)で火葬され、同地の北山陵に埋葬されました。

その後、道長は、三条帝との約束を反故にし、皇太子の敦明親王に対して、代々の皇太子(東宮)に伝領されてきた宝剣・壷切の太刀を授けないなど無言の圧力をかけます。道長を憚って敦明親王を訪ねる者も絶え、ついに敦明親王は母娍子の反対を押し切って、自ら皇太子を辞退したいと道長に申し出ました。
事がうまく運んだと喜んだ道長は、敦明親王に報いるために小一条院太上天皇の尊号を贈って准上皇として厚遇し、三女の藤原寛子(ふじわらのかんし ひろこ)を嫁がせました。
尚、この時、敦明親王の先妃・藤原延子(ふじわらのえんし のぶこ 左大臣藤原顕光の娘)は、夫を寛子に奪われて絶望のあまり病気となり、寛仁三年(1019)に非業の死を遂げたとされ、この延子とその父・右大臣藤原顕光も死後に怨霊となって、後に寛子や道長一族に祟り、道長一族の相次ぐ死の原因となったと噂されることになります。

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豊臣秀吉が、主に軍事的防衛と洪水対策を目的として洛中(京都)の周囲に築いた「御土居(おどい)」については、これまでも少し書いてきましたが、今回は、北区鷹峯旧土居町、仏教大学の北に位置し、京都朝鮮第三初級学校の東隣にある「御土居史跡公園」を採り上げます。

一見、木々に覆われた普通の公園のように見えますが、遊具があるわけでもなく、ただ丘上と思われる場所にベンチがずらっと並んでいます。実は、この御土居史跡公園は、国史跡に指定されている「御土居」上に作られた珍しい公園です。柵で囲まれて立ち入り出来ない「御土居」もある中で、「御土居」の上で(ベンチで)横になることもできます。「御土居」の大きさを体感できる場所として「御土居」入門といえるでしょう。


「御土居史跡公園」の表示板を少し引用して書いてみますと・・・
戦国時代、戦乱の続く京都では、住民たちが、「町の溝(かまえ)」や「ちゃう(町)のかこい」と呼ばれた防御壁を築いて町を自衛する態勢がとられていました。また、堺や山科、石山など各地の寺内町や村落でも集落全体を環濠城塞化する動きがありました。「御土居」も、この延長上で築かれましたが、それまでとは違う大規模なもので、秀吉は戦乱で荒れた京都市内を復興し、その近世城下町化を図る意図があったようです。秀吉は聚楽第を設けてその周辺の街区を改め、各地の寺院を寺町と寺の内(共に上京区)に集めました。そしてその周囲に土塁を廻らし、洛中と洛外を明確に分けました。民衆の自治意識の高い京都を支配するために、民衆から自衛権を取り上げ、権力を誇示する目的もあったのでした。

さて、天正十九年(1591)、秀吉が多数の人員を動員して築いた御土居は、東西は寺町東の鴨川付近から紙屋川(かみやがわ)、南北は鷹峯と上賀茂から九条に至る総延長約二十三キロメートルに及ぶ土塁群になります。土塁は底部が約九メートル、高さ約三メートル、また、土塁に付属して堀が設けられ、堀幅は約四〜十八メートルあり、洛中への敵の侵入を遮断し、市内を守る効果が期待されました。また、一般的に「京都の七口」といわれる、洛外への出入口があり、「鞍馬口(くらまぐち)」、「大原口(おおはらぐち)」、「荒神口(こうじんぐち)」、「粟田口(あわたぐち)」、「伏見口(ふしみぐち)」、「東寺口(とうじぐち)」、「丹波口(たんばぐち)」、「長坂口(ながさかぐち)」等十箇所程の出入り口が設けられていて、ここから全国各地に街道が通じていました。

「御土居」は、平安京以来はじめて京都に誕生した羅城でしたが、その後、外敵の脅威は無く、近世には次第に無用のもととなっていきます。江戸中期ごろには、市街地は「御土居」を越えて東に広がり、京都各地で都市化が進みました。しかし、「御土居」は洪水を防ぐ堤防としての役割も果たしていたため、近辺の農民は、土地崩れの防止や竹林の育成など、その保全に努めたようです。
その後、近代になって、明治には周辺の開発によって「御土居」の南から西側にかけて大きく壊され、現在では、北と西側の一部が当時の姿を留めているに過ぎません。



そして、京都の現存する御土居の遺構の内、以下の九箇所が国指定史跡に指定されています。

○北区鷹峯旧土居町三番地(御土居史跡公園)

○北区大宮土居町

○北区紫竹上長目町・上堀川町(加茂川中学校内他)

○北区平野鳥居前町

○北区紫野西土居町

○北区鷹峯旧土居町ニ番地

○上京区寺町広小路上ル北之辺町(廬山寺内)

○上京区馬喰町(北野天満宮境内)

○中京区西ノ京原町(市五郎大明神社境内他)

尚、史跡指定以外では、中京区西ノ京中保町(北野中学校校内)、北区大宮西脇台(大宮交通公園内)等にも御土居が残っています。



さて、御土居史跡公園の辺りは、「御土居」西辺の北端に近く、その底部は幅約10間(十八メートル)、南側が「御土居」に設けられた切通しの中野道になり、西の小道に面して茅葺の入母屋造りの鷹ヶ峯番小屋が設けられ、西へなだらかな斜面となり紙屋川の谷へつながっていました。番小屋は洛外への見張り小屋の役目があったようです。昭和五十六年(1981)に史跡公園として整備された際は、この番小屋の位置に亭が置かれました。近世都市の成立を考える上でも貴重な史跡でもある「御土居」を身近に感じられる憩いの場として、御土居史跡公園は、(何も無い普通の公園とはいえ)歴史ファンにはお勧めの場所です。

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