京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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京都市北区衣笠街道町にある法音寺(ほうおんじ)は、京都の夏の一大行事「大文字五山の送り火」の「左大文字」と深い係わりのあるお寺です。
「五山の送り火」では、東山の「大文字送り火」、松ケ崎の「妙・法送り火」、西賀茂の「船形万燈籠送り火」、衣笠の「左大文字送り火」、嵯峨の「鳥居形松明」の五ヶ所六つの送り火行事が行われますが、「鳥居形」を除けば、各山の麓にある寺院の宗教行事が大きく関わっています。


「大文字」は、銀閣寺の隣にある浄土宗寺院の浄土院(大文字寺)が関係しています。
「大文字」送り火の起源が弘法大師空海によるという伝承もあることから、元々天台宗寺院だった浄土院(大文字寺)は、弘法大師像を送り火の本尊として祀っています。門前で護摩木の受け付けを行い、大文字の点火の際は、大の字の中心部の火床「金尾(かなわ)」の傍にある「弘法大師堂」の中で、住職が灯明を灯し読経が行われます。

「妙法」は、日蓮宗寺院、涌泉寺(ゆうせんじ)が深く関係しています。
「妙法」は、「南無妙法蓮華経」という日蓮宗の題目に由来しているように、日蓮宗との関わりの深い送り火で、「妙」のある西山で、点火の際に涌泉寺の住職が読経を行い、さらに送り火の後に涌泉寺境内で京都市の無形民俗文化財に指定されている「題目踊り」と「さし踊り」が行われます。
特に「題目踊」は、日本最古の盆踊りとも呼ばれ、その起源には以下の伝承があります。鎌倉時代末期に日蓮上人の孫弟子・日像上人が松ヶ崎村で布教を行い、この地にあった天台宗寺院・歓喜寺住職の実眼和尚も法華宗に改宗します。そして、徳治二年(1307)、全村民が日蓮宗に帰依したことを喜んだ実眼が、歓喜のあまり太鼓を打ちながら法華題目を唱え、村人も次々と「南無妙法蓮華経」と唱えながら踊ったというのが「題目踊」の始まりと伝えられます。

「船形」は、麓にある浄土宗寺院、西方寺(さいほうじ)が行事を行います。
「船形」は、西方寺開山の慈覚大師円仁が、承和六年(839)、唐からの帰路に暴風雨に遭い、南無阿弥陀仏と名号を唱えたところ無事帰還できたという逸話に由来すると伝えられています。西方寺では護摩木の受け付けを行い、送り火の後は、境内のかがり火を囲んで西方寺六斎念仏保存会による六斎念仏(国の重要無形民俗文化財)が行われます。

尚、愛宕神社との関わりを起源とするという説もある「鳥居形」は、特定寺院との関わりは無いですが、化野念仏寺の駐車場で護摩木の受け付けを行い、当日夜には、地元住民でつくる嵯峨仏徒連盟が「嵐山灯ろう流し」を行います。地元の女性がご詠歌を唱え、僧侶の読経と拍子木を合図に、先祖の戒名などを記した灯篭を桂川に流します。




さて、法音寺ですが、山号を菩提樹山といい、元々は天台宗寺院でしたが、現在は浄土宗西山派に属しています。平安時代に慈覚大師円仁が創建したと伝えられ、当時の史書にはその名がしばしば表されているということです。応仁の乱の兵火で焼失しますが、その後復興し、花山院(花山上皇)の勅願所、西国三十三所霊場の復興所の本山となったと伝えられ、山門横には勅願所を示す石標が立てられています。

法音寺と「左大文字送り火」の関わりですが、「左大文字送り火」の起源は、他の送り火同様に諸説ありますが、江戸時代初期頃、他の送り火よりは遅れて開始されたと考えられています。法音寺は、左大文字の発祥地、旧大北山村の菩提寺でもあったため、寺院を中心とした旧大北山村の人々が代々行事を受け継いできたのでしょう。

護摩木の受け付けは、金閣寺境内で行われていますが、送り火の当日の朝、法音寺本堂で、施餓鬼会(せがきえ)が行われ、灯明の火によって親火台への点火が行われます。そして、夕方には法音寺住職の読経があり、親火から長さ三メートル、直径二十センチもの大松明に火が移されます。大松明の火は、さらに左大文字保存会の会員五十人の手松明に移されます。他の送り火と違う「左大文字送り火」の特徴は、法音寺から約五百メートル離れた大北山(大文字山)まで松明行列が行われることです。

午後七時、大松明を中心にした松明行列が法音寺を出発して火床を目指します。そして、午後八時十五分の点火の際は、「大文字」の一斉点火に対し、「大」の文字の筆順通りに火を付けるというのも特徴です。「大文字」に比べてやや地味と思われている「左大文字」ですが、松明行列もあって、近くで見物しても中々面白い送り火行事といえます。

その後、送り火がほぼ消える午後九時二十分頃からは、法音寺本堂で「大文字御詠歌」奉納と名づけられた行事が行われます。左大文字保存会の手によって大文字の残り火が法音寺へ持ち帰られると、その残り火を本尊に供え、「北山金閣寺不動明王」、「愛宕権現地蔵菩薩」、「鞍馬山魔王」、「千本えんま堂えんま大王」の四仏に、先祖の霊を無事に送り出せるようにと祈り、「北山尼講」と呼ばれる法音寺の檀家女性が炎が消えるまで御詠歌を唱えます。

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今回は、左京区南禅寺下河原町にある「後醍醐天皇皇子・尊良親王墓」です。
尊良親王の墓は、紅葉の名所として知られる永観堂の正面に通じる道路に面して静かに佇んでいます。
後醍醐天皇の皇子たちは、各地に派遣されて北朝軍と交戦したために、北朝支配下にあった京都に墓があるのは珍しいともいえます。(後醍醐の皇子の中では、他に臨川寺(右京区嵯峨天龍寺造路町 非公開)に世良親王(よよししんのう?〜1330)の墓があります。)



尊良親王(たかよししんのう ?〜1337 生年1306〜11の諸説あり)は、「太平記」「梅松論」等が「一宮」と記していることから、後醍醐天皇の数多い皇子の中では最も早く生まれたと考えられています。(延慶元年(1308)生まれとされる護良親王(もりよししんのう 尊雲法親王 1308〜1335)の方が年上とする説もありますが)
母は権大納言二条為世の女の為子で、同母弟として宗良親王(むねよししんのう 尊澄法親王 1311〜85)がいます。そして、為子が正和三年(1314)に亡くなったことから、幼少時より後醍醐の側近・吉田定房に養育され、嘉暦元年(1326)に元服しました。


さて、正中元年から元弘三年(1324〜1333)の鎌倉幕府の滅亡までの戦いで、後醍醐天皇を支えたのは、当時元服を終え、ほぼ青年に達していた尊良、世良、尊雲(護良)、尊澄(宗良)の四人の皇子でした。
後醍醐は、鎌倉幕府打倒のために、多くの僧兵を擁する近畿の有力寺社勢力を味方に付けようと画策し、自ら延暦寺や興福寺・東大寺・春日社等に行幸して関係強化に努めました。さらに、尊雲法親王(護良親王)と尊澄法親王(宗良親王)の二人は天台宗(延暦寺)勢力を勧誘する任務を与えられて、天台トップの天台座主に据えられて同宗勢力を管轄しました。一方、尊良と世良は父帝を傍から補佐することが期待されていました。
また、この頃、後醍醐の寵愛を受けた阿野廉子(あのれんし)が、恒良(つねよし 1325〜38)、成良(なりよし 1326〜44)、義良(のりよし 後村上天皇 1328〜68)の三人の皇子を相次いで生み、これら幼い皇子たちは、後に九州で征西大将軍として活躍した懐良(かねよし 1329?〜83)と共に後醍醐天皇の晩年を支えた第二世代の皇子といえます。


さて、尊良親王ですが、「増鏡」は、異母弟の世良親王(?〜1330)の方が、尊良より学才豊かで後醍醐から期待されていたことを記していますが、世良は、元徳二年(1330)に早世してしまいました。そのため、倒幕計画は、後醍醐と尊良、尊澄(宗良)、そして尊雲(護良)が中心となって進められました。しかし、元弘元年(1331)四月、計画は未然に発覚し「元弘の変」が起こります。後醍醐らは、九月に京都を逃れて笠置城(京都府相楽郡)に篭城しますが城は陥落、後醍醐と尊澄(宗良)は笠置で、尊良は河内で捕らえられ、元弘ニ年(1332)三月、後醍醐は隠岐、尊良は土佐、尊澄(宗良)は讃岐に流されました。
こうして、その後の討幕運動は、逃亡に成功した尊雲法親王(護良親王)を中心に行われることになりました。護良親王(還俗して改名)は、父帝の代理、事実上の討幕活動のリーダーとして、諸国に令旨を発して反乱勢力を結集しました。しかし、その功績があまりにも大きく、父帝から独立した軍事力を擁したことは、親王の勇猛果敢な性格も災いして、その後、足利尊氏との対立と父後醍醐との摩擦を生み、結局、悲劇的な死を招くことになります。



さて、今回の主人公の尊良親王ですが、土佐に流された後、元弘二年冬に四国から九州に渡って、三年(1333)三月、肥前の江串三郎入道等に擁せられ挙兵します。その後、大宰府を経て、元弘三年八月、鎌倉幕府滅亡後の京都に帰還しました。
建武二年(1335)十一月に足利尊氏が鎌倉で反旗を翻すと、親王は上将軍として新田義貞・脇屋義助兄弟と共に討伐軍を率いますが、同年冬の箱根・竹ノ下の戦いで敗北し京都へ撤退しました。
翌建武三年(延元元年 1336)、一旦九州に敗走した足利尊氏が勢力を挽回して京都に迫ると、同年十月、尊良親王は、異母弟で後醍醐天皇の皇太子となった幼い恒良親王や新田義貞・脇屋義助兄弟と共に義貞の勢力下にあった北陸越前に逃れて再起を図ろうとします。

尊良親王たちは、敦賀で気比社の大宮司・気比斉晴(けひのなりはる)に迎えられ、金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)に入城し拠点としますが、たちまち足利方の越前国守護・斯波高経の軍勢に包囲されてしまいます。さらに、翌建武四年(延元二年 1337)正月には、足利方は各地から大軍を動員して、城は完全に封鎖され糧道を断たれました。
義貞・義助兄弟等は、闇夜に密かに城を脱出して、杣山城(福井県南条郡南越前町)で体勢を立て直しますが、二月の金ヶ崎救援行動は敵軍に阻まれて失敗し、ついに、三月六日、足利軍は金ヶ崎城に総攻撃を行いました。食糧不足で餓死寸前まで弱っていた籠城兵は戦うことができず、ついに城は陥落しました。
この時、尊良親王は、義貞の嫡男・新田義顕と共に自害し、皇太子・恒良親王は捕縛され京都へ連行されました。(「太平記」は、恒良は牢に押し込められ、翌暦応元年(延元三年 1338)四月に毒殺されたと記しています。当年十五歳と伝えられ、墓所も不明です。)


さて、「太平記」によると、新田義顕は自害する前に、「私は武士の家に生まれた者として家名を汚さないために自害しますが、敵も殿下の命を奪うことはないでしょう。どうぞこのままここにお留りください。」と尊良親王に投降を勧めますが、親王は晴れ晴れとした様子で笑みを浮かべ、「後醍醐帝が私を将帥とされ、お前を補佐役に任じたのに、補佐役がいないのに自分だけが生き延びることができようか。私も自害してあの世で恨みを晴らすことにしよう。」と言って、「そもそも自害の方法とはどのようなものか。」と義顕に問います。
義顕は涙を抑えながら「自害とはこの様にするものでございます。」と、親王の目の前で腹を切って倒れました。これを見た親王も、直ちに刀を手にして自刃して義顕の上に折り重なるように倒れました。そして、周囲の者たち三百人も同じく親王に殉じたと記しています。この時、尊良親王は二十七歳、新田義顕は十八歳だったと伝えられます。
その後、尊良親王の首は京都禅林寺(永観堂)の住職・夢窓国師のもとへ送られ、ここで葬礼が行われました。南北朝時代は、太平の世なら歴史の表舞台に登場することもなかっただろう皇子達を戦いに参加させましたが、こうして、尊良親王も戦場に散った史上数少ない皇子の一人となったのでした。



また、「太平記」は尊良親王の死を知ったその中宮・御匣殿(みくしげどの)の深い悲しみを描いています。物語の信憑性については資料の裏づけが無いために疑問視されますが、「太平記」は二人の運命的な出会いから描いていきます・・・

尊良親王は、才能豊かで早くから次期皇太子にと期待されながらも、鎌倉幕府が後醍醐の兄・後二条の皇子・邦良親王(くによししんのう)を皇太子に付けたために、周囲の人々は失望し、親王自身も日々詩歌に明け暮れるしかありませんでした。そんな尊良親王が、ある時、絵に描かれた美女に恋してしまいます。そして、恋焦がれる苦しい気持ちを抑えようと、気分転換に参詣した下鴨神社からの帰り道で、あの絵の女性にそっくりの美女に出合ったのでした。

その女性は、今出川公顕(いまでがわきんあき)の姫、御匣殿といい、徳大寺公清(とくだいじきんきよ)と既に婚約していましたが、親王は御匣殿に思いのたけを打ち明け、諦めずに次の日から御匣殿に手紙を送り続けて、その数は一千通にも達するほどでした。御匣殿も、親王の深い愛情に心を動かされて親王を愛するようになっていきます。しかし、親王は、相手は婚約者のある身、御匣殿の気持ちを苦しめているのではと後悔して手紙を送ることを止め、恋する苦しい気持ちを心の中に封じ込めようとします。しかし、運命は好転します。親王の深い愛情を知った徳大寺公清が、御匣殿との婚約を取りやめたのでした。こうして二人は目出度く結ばれました。

しかし、尊良親王と御匣殿の幸福な日々は、間もなく終わることになります・・親王が「元弘の変」で土佐国へと流されてしまったのです。御匣殿は、悲しみのあまり毎日泣いて過ごし、親王も父帝後醍醐や愛する御匣殿を心配して食事も喉を通らず衰弱してしまいます。苦悩する親王を見るに見かねた警護役の有井庄司(ありいのしょうじ)は、「私は見て見ぬふりをしますので、奥方をこっそりお呼びになってください」と進言します。喜んだ親王は、一人土佐まで随行してきた部下の秦武文(はたのたけふん)を呼んで、御匣殿を迎えるために京都へ派遣しました。武文は、荒れ果てた家に住んでいた御匣殿を探し出し、親王からの手紙を渡しました。手紙には「お前と別れて暮らすことには到底耐えられえない、何としても土佐に来ておくれ」と記されています。御匣殿も「私もすぐに宮様の元へ参ります。たとえ辺鄙な土地だとしても、宮様とご一緒ならば、どんなことにでも耐えられます」と土佐国へ出発したのでした。

さて、御匣殿一行は、尼崎湊(兵庫県尼崎市)で順風が来るのを待ちますが、湊には、同じく順風を待っていた松浦五郎という筑紫国の武士がいました。松浦は、御匣殿の美しさに心奪われ、誘拐して筑紫へ連れて帰ろうと考えます。松浦は夜間に部下達と一行を襲撃しますが、秦武文が奮戦して撃退します。しかし、松浦らが家屋に火を放ったため、武文が御匣殿を船に避難させ炎の中から荷物を救っている間に、松浦らは御匣殿を乗せた船で出港してしまいました。武文は小舟で追いかけましたが追いつけず、怒りと無念な気持ちから「死んで海底の龍神となって、その船を必ず停めてやるぞ」と腹を十文字にかき切って海に身を投げました。

その日の夕方、御匣殿を乗せた船は鳴門海峡近くにさしかりましたが、俄かに潮流が逆行して大渦が発生しました。一同がこれは龍神の怒りだと恐れおののいていると、死んだ秦武文の霊が現れます。その姿に驚いた松浦は、怨霊を避けようと、御匣殿を小舟に乗せて波間に浮かべました。すると、急に風が起こって松浦らの船は流されて消え去り、御匣殿の小舟は淡路国の武島という小島に流れ着いて、村人たちに助けられました。その頃、尊良親王は、御匣殿の船が大嵐で行方不明となったという噂を聞いて嘆きますが、それを確かめる方法はありませんでした。
その後、鎌倉幕府が滅んで後醍醐天皇が親政を行うこととなり、尊良親王も京都に帰還しますが、日夜御匣殿のことを思い出していたところ、淡路の小島で無事だという知らせが届き、喜んだ親王は、使いを派遣して御匣殿を迎えさせました。こうして親王と御匣殿は感動的な再会をはたしたのでした。

しかし、その後、親王は各地を転戦して、ついに金ヶ崎城で最後を遂げます。
親王の死の知らせは、すぐに京都の御匣殿も元にも届きました。御匣殿は、嘆き苦しんだ末に病気となって、親王の四十九日も済まない間に、その後を追うように亡くなってしまったと「太平記」は記しています。
「増鏡」は、尊良親王には、大納言ニ条為世の娘・大納言典侍との間に皇女が、中宮の御匣殿との間には皇子がいたと記しています。また、「元弘の変」当時には御匣殿は既に亡くなっていたために、親王は、一人大納言典侍を深く愛していて、土佐に流される際に別離を嘆いたとも記しています。このような所から「太平記」は大納言典侍と御匣殿を合わせて、感動的な哀話を創造したのかもしれません。


尚、今回の「後醍醐天皇皇子・尊良親王墓」は、太平記が記しているように親王の首塚ですが、福井県敦賀市金ケ崎町にある親王を祀る金沢宮の近く、金ヶ崎城跡には自刃の地として「尊良親王御陵墓見込地の碑」があります。

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今回は、左京区南禅寺地区にある皇室関連の史跡の一つです。
左京区南禅寺福地町、観光名所として知られる南禅寺境内にある「水路閣」の横にある石段を登ると、庭園で有名な塔頭・南禅院があります。そこからさらに鐘楼まで登ると、山道の向こうに鳥居のある御陵が見えてきます・・・これが「後嵯峨天皇皇后姞子・粟田山陵」です。
一年を通して観光客の多い南禅寺境内にある史跡なので、あれは何かな?といった感じでこの陵墓をご覧になった方も多いと思います。


さて、粟田山陵と呼ばれるこの陵墓は、鎌倉時代の後嵯峨天皇の中宮・西園寺姞子(さいおんじきつし 1225〜1292)の墓になります。
後嵯峨天皇については、前に「後二条天皇北白河陵」の時に詳しく書いていますので、少し引用して書いてみます・・・「承久の乱」で後鳥羽、土御門、順徳の三上皇が流刑となった後、鎌倉幕府は、後鳥羽の血統を皇位から除外して、後鳥羽の兄・後高倉上皇(守貞親王)系の後堀川天皇、四条天皇を即位させます。しかし、仁治三年(1242)に四条帝が十二歳で事故死したために後高倉上皇(守貞親王)の血統が途絶え、再び後鳥羽の血統から皇位継承者が選ばれることになりました。そして、「承久の乱」に直接関与しなかった土御門上皇の皇子が選ばれました・・これが後嵯峨天皇です。それまで日陰の身だった皇子は、予期せずに天皇に選ばれて、慌てて元服して親王となっています。


仁治三年(1242)、二十三歳で即位した後嵯峨天皇は、半年後に右大臣・西園寺実氏の娘、十八歳の西園寺姞子を女御にし、さらに中宮に冊立しました。寛元元年(1243)、姞子は久仁親王(後深草天皇)を産み、皇子は直ちに立太子されます。そして、寛元四年(1246)、後嵯峨が在位四年で、四歳の久仁親王(後深草天皇)に譲位して上皇となると、姞子も后位を退いて、宝治ニ年(1248)に女院号宣下を受けて「大宮院(おおみやいん 大宮女院)」の称号を与えられました。翌建長元年(1249)には大宮院(姞子)は、さらに恒仁親王(亀山天皇)を産んでいます。

後嵯峨上皇は、正嘉二年(1258)に後深草天皇の弟で十歳の恒仁親王(亀山天皇)を立太子し、翌正元元年(1259)に後深草に対し、恒仁親王への譲位を促しました。父の圧力で心ならずも譲位させられた十六歳の後深草天皇の無念な気持ちが、その後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の対立、さらに南北朝時代に至る皇統分裂の原因の一つとなります。
さらに、後嵯峨上皇は文永五年(1268)に、当時三歳の後深草上皇の皇子・熈仁親王(ひろひとしんのう 後の伏見天皇)ではなく、生後間もない亀山天皇の皇子・世仁親王(よひとしんのう 後の後宇多天皇)を立太子しました。

これらのことから、後嵯峨が亀山系の血統に皇位を継承させたいと考えていたことは明らかでしたが、文永九年(1272)に後嵯峨が五十三歳で崩御した際には、遺詔で後深草、亀山両帝への皇室領の配分は示したものの、皇室内の長として実権を握り、また子孫に皇位を継承させることのできる「治天の君」を誰にするかという点については明確な意思を示さず、鎌倉幕府の決定に委ねるとしていました。
このため、宮中では次期政権をめぐって後深草派と亀山派に分かれて対立していきました。鎌倉幕府は、この問題を解決するために、後嵯峨の中宮で、後深草・亀山両帝の生母である大宮院(姞子)に後嵯峨の真意を確認します。そして、大宮院が先帝は内心亀山を望んでいたと表明したことから、亀山天皇が治天の君に選ばれることになりました。後深草は内心、弟を推した母を恨んだのですが、それはともかく亀山天皇が実権を握ることになりました。



文永十一年(1274)に亀山天皇は、八歳の世仁親王(後宇多天皇)に譲位して上皇となり、宮中の改革にも取り組みました。一方、不遇の立場の後深草上皇は、建治元年(1275)に太上天皇の尊号を辞退して出家しようとします。この抗議行動は宮中を大いに驚かせ、伝え聞いた鎌倉幕府も、後深草の不満を解消するために、亀山上皇に奏上して、後深草天皇の皇子・熈仁親王(後の伏見天皇)を立太子させました。自身の子が皇太子となったことから、自分が治天の君となることが保証された後深草は出家を見合わせます。

その後、後深草上皇派の巻き返しが加速していきます。
亀山上皇が宮中改革を推進してきたことや、「霜月騒動」で滅んだ有力御家人・安達泰盛との交流があったこと等が鎌倉幕府に疑われ、弘安十年(1287)、幕府の圧力を受けて二十歳の後宇多天皇は、後深草天皇の皇子・熈仁親王(伏見天皇)に譲位しました。伏見天皇の即位によって、父・後深草上皇はさっそく院政を開始します。正応二年(1289)には、伏見天皇は皇子・胤仁親王(たねひとしんのう 後の後伏見天皇)を立太子させ、次代も持明院統(後深草天皇の血統)が政権を握ることが確実になりました。これまで大覚寺統に仕えていた貴族達も、一斉に持明院統に鞍替えすることになり、大覚寺統の亀山上皇は、失意のうちに正応ニ年(1289)に四十一歳で出家しました。一方、権力を奪回した後深草も、正応三年(1290)に、四十八歳で出家して引退し、治天の君は後継者の伏見帝に譲られました。


さて、持明院統と大覚寺統が相争う中、後深草・亀山両上皇の母、大宮院(姞子)は、ニ代の天皇の国母(天皇の皇后)として尊敬され、孫達の即位も見届けるなど幸福な生涯を送りました。後嵯峨は多くの女官との間に二十人以上の皇子皇女を得ましたが、大宮院(姞子)程の寵愛を受けたものはいなかったのでした。歴史物語「増鏡」では、平安時代の国母と比較して、これほど子孫に恵まれた果報な方はいないと絶賛しています。また、「増鏡」や女流文学「とはずがたり」では弘安八年(1285)に大宮院が開いた、母・四条貞子(北山准后)の九十賀(九十歳の祝賀)の盛大な様子を延々と描いていて、この雅会は鎌倉時代最大規模の華やかなものだったようです。(因みに、この四条貞子(北山准后)は乾元元年(1302)に、当時としては驚異的な百七歳という長命で亡くなっています。)

さて、大宮院(姞子)は、正応五年(1292)に六十八歳で亡くなり、火葬の後、後嵯峨上皇が文永元年(1264)に離宮(禅林寺殿)として造営し、正応四年(1291)に亀山上皇が寺院に改めた禅林寺(ぜんりんじでん 後の南禅寺)に近い粟田山に埋葬されました。
粟田山陵の参道入口は閉じられているため、遠景でしか陵墓を見ることが出来ませんが、山側の道から眼下に見下ろすことが可能です。

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下京区七条御所ノ内本町、JR京都駅からニキロ程西にある若一神社(にゃくいちじんじゃ)は、特徴の無い小さな神社が多い下京区では、観光スポットといえる割と良く知られた神社です。
西大路八条の交差点横という車の行き交う街中にありながら、道路にはみ出すばかりのこんもりとしたクスノキの大樹が植えられていて、都会の雑踏を忘れさせてくれる憩いの空間となっています。
広く厳かな雰囲気の神社空間が好きな方にはお勧めしませんが、個人的には武信稲荷神社(中京区 以前に採り上げています)と共に、中京・下京区内の神社の中では親しみやすい最も好きな神社になっています。



さて、若一神社のあるこの地は平清盛が六波羅に居住していた頃、西八条殿(西八条第 八条亭 西八条御所)という別邸を建てた地と言われています。当時、この地は、水源が豊かで大木が立ち並ぶ浅水の森と呼ばれた風光明媚な場所で、清盛もしばしば来遊していたということです。そして、承安年中(1171〜75)にこの地に別邸を造って住在し、西八条殿(西八条第)と称しました。
西八条第は、平安京の左京一坊の八条大路(現八条通)の北、東は大宮大路(現大宮通)から西はメインストリート朱雀大路(千本通)付近に至る六町という広大なもので、敷地には五十余の邸があり、現在の梅小路公園とJR東海道線と山陰線の線路敷地付近に位置していました。後に、清盛が出家して福原(神戸市兵庫区)に移った後は、主に清盛の妻・時子(二位尼 にいのあま)が居住していましたが、寿永二年(1183)七月の平家都落ちの際、西国へ逃亡する平家一門の手によって火を放たれて焼失してしまいました。


さて、若一神社は、この西八条殿(西八条第)の鎮守社として建てられたと伝えられ、境内の入り口には「平清盛公西八条殿跡」の石碑があります。(ただ、神社の位置は西八条殿(西八条第)跡から少し外れているので、西八条殿(西八条第)との関係は後世の伝承とも考えられるようですが)
祭神は、熊野大権現の第一王子「若一王子」ですが、御神体は神社の建つ以前からこの地に祀られていたといいます・・
社伝によると、この若一王子の御神体は、元々光仁天皇の時代の宝亀三年(772)、唐から渡来して天王寺に居住していた威光上人が、人々の救済のために熊野権現の分霊・若一王子の御神体をこの地に勧請したものと伝えられます。威光上人は、紀州熊野から分霊・若一王子の御神体を背負ってこの地まで来ましたが、森の中の古堂で一夜を明かした際、神意を受けてこの堂中に安置したということです。その後、時代の推移により御神体は、土中に埋まってしまったのですが、平安時代に平清盛によって掘り出されることになります。

さて、仁安元年(1166)八月、平清盛が紀州熊野に詣でた際に、熊野権現が現れ「汝が住んでいる西八条殿には、吾が中宮若一王子の神体が土中に埋まっているので、これを掘り出して鎮守として祀れば、汝の出世を守護しよう。」というお告げを受けます。清盛は帰京の後、早速邸内を探していると、庭の東方築山より夜光が放たれました。喜んだ清盛は、自ら約一メートル堀って若一王子の御神体を探し出し、社殿を造って西八条殿(西八条第)の鎮守社としました。時に仁安元年(1166)十一月十日と伝えられています。早速、神社に開運出世を祈ったところ、早くも翌仁安二年(1167)二月には、清盛は太政大臣に任ぜられることになりました。喜んだ清盛が昇進を感謝して自ら植えたのが、若一神社のシンボルになっている巨大な御神木のクスノキと伝わります。その後も、清盛の勢威は益々伸びたことから、現在も開運出世のご利益のある神様として崇められています。



若一神社といえば、クスノキの御神木ですが、樹齢八百年を超えるというこのクスノキは、神社の境内と歩道で分断されて、一段高い位置に石垣で囲まれています。根元には小さな祠「楠社(くすやしろ)」が建てられ御神木を祀っています。幹周はそれ程大きくありませんが、若一神社というより、西大路八条の町のシンボルといってもいいでしょう。商店や会社が建ち並ぶ西大路通ですが、この御神木の存在によって、この一角だけは夏場も涼しい癒しの空間になっています。
かつては広い敷地のあった若一神社ですが、昭和八年(1933)に西大路通が開通整備された時に、敷地を大きく削られて、周囲に広がっていたクスノキの太い根も一部切断されてしまいました。しかし、この御神木自体の撤去作業は清盛の祟りがあるとして作業が中止され、結局、西大路通は、この大樹を避けて少し西斜めに曲げて開通したのでした。こうして、現在も車道と歩道の間に一角が設けられて御神木が守られています。

また、境内には、多くの末社が祀られています。
天正年間(1573〜93)に播州の高砂神社より勧請したという寿命社は、能「高砂」で知られる高砂尉と姥を祭神として、夫婦円満・子孫繁栄・延命長寿にご利益があるということです。また、正徳五年(1715)に竹生島より勧請したと伝えられる弁財天社は、祭神を市杵島姫命として芸能・音楽・福運にご利益があります。他に松尾大神を祀る松尾社、伏見稲荷大社より勧請した稲荷社、昭和五十八年(1983)に建立して当神社の神職及び総代等を祀る祖霊社があります。

また、「神供水(じんぐすい)」と呼ばれる銘水があります。平清盛が、西八条殿(西八条第)の鎮守社として神社を建立奉斎して以来、日供祭(にっくさい=毎朝行われる崇敬者の安寧を祈る祭り)で御神前に供えられてきたという御神水です。古くから銘水として知られる地下水で、開運出世の水として、また新生児誕生に際しての産湯としても有名ということです。そして、現在も開運出世のご利益があるとして、持ち帰り自由のこの水を汲みに来る人々も多いようです。他に、小さな池庭や平清盛像、「萌出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはで果つべき」という平家物語ゆかりの「祇王歌碑」等が点在し、小さな隠れ家的な雰囲気もあります。

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下京区七条七本松東入る朱雀裏畑町、七条千本商店街の裏にある権現寺(ごんげんじ)を採り上げます。
権現寺は七条通りから少し奥にあるために、表通からは気づきにくい小さなお寺ですが、山門の手前右には六条判官と称した源為義の墓があるので、源平時代に関心のある方にはお勧めです。(為義の墓は、山門の外にあるので自由に見学できます。観光寺院では無いので、境内に入るのはお寺の方に声をかけてからの方が良いでしょう。)


さて、権現寺は、山号を清光山という浄土宗寺院で、本堂に阿弥陀如来蔵を祀ります。
また、地蔵堂には愛宕権現の本地仏の勝軍地蔵を祀ることから、「朱雀の権現堂」、「朱雀の地蔵堂」と呼ばれて親しまれてきました。権現寺は「太平記」の巻八にも登場し、鎌倉幕府の六波羅探題軍と後醍醐天皇に呼応して挙兵した赤松円心軍が「朱雀の地蔵堂」付近で交戦しています。

寺伝によると、この将軍地蔵は、元々大和国(奈良県)の元興寺に祀られていましたが、平安遷都後の天安二年(858)に七条朱雀(現・中央市場のある七条千本付近)の歓喜寺に移されたのが起源といわれます。その後、戦乱で歓喜寺は荒廃しますが、権現堂のみは今日まで残ったということです。そして、明治四十五年(1912)、京都駅停車場(現JR京都駅)拡張による国鉄山陰線の敷設の影響で、旧地の西にある現在地に移されました。



さて、権現寺の将軍地蔵堂には、将軍地蔵の他に、厨子王丸(ずしおうまる 厨子王 他に津子王、対王丸とも)の危難を助けたという身代わり地蔵が祀られています。
厨子王といえば、姉の安寿と共に森鴎外の小説「山椒大夫」など小説や演劇の題材となった中世の説話「さんせう太夫」の主人公として知られる伝説上の人物です。「さんせう太夫」の粗筋はよく知られていますが、少しだけ書いてみます・・・

厨子王は、物語では陸奥国(青森県)の太守・岩城判官政氏の子とされています。
厨子王は、母と姉の安寿と共に、讒言によって筑紫(福岡県)に流された父を訪ねて旅に出ますが、越後国(新潟県)直江津で人買いに騙され、母は佐渡に、姉弟は丹後由良港の長者・山椒大夫に売り渡されてしまいます。その後、姉弟は山椒大夫のもとで日夜過酷な目にあいました。
ついにたまりかねた厨子王は、我が身を犠牲にした姉の計らいで密かに脱出して、丹波を経て都の七条朱雀野まで辿り着いて、傍にあった地蔵堂に助けを求めて逃げ込みました。可哀想に思った寺僧は厨子王をつづらに入れて天井に吊るし匿います。やがて、追手が寺を訪ねてつづらを怪しんで開けてみましたが、厨子王の姿はなく、中には一体の地蔵尊が入っていました。こうして、追手は仕方なく立ち去りました・・厨子王が日々念持仏として地蔵尊を崇敬していたため、この地蔵尊が身代わりとなって危難を救ってくれたのでした。
(厨子王のその後についてもよく知られていますが・・・厨子王は朝廷より父の旧国を与えられて岩城家を再興、また領主として丹後に赴いて山椒大夫一族を処刑して、犠牲となって死んだ姉の復讐を果たします。そして、佐渡で懐かしい母に再会することになります。)

この地蔵堂が権現寺で、今も将軍地蔵堂には、この厨子王丸の身代り地蔵が祀られていて、以上のような伝説から、この地蔵尊には「災難除け」のご利益があるとして信仰されています。この地蔵尊は、高さ七センチの金銅製の小像で、胴の辺りに傷があるのは、厨子王の代わりにうけた傷跡といわれています。また、厨子王を匿ったというつづらの断片も寺宝として保存されています。
権現堂内部は普段非公開ですが、毎年八月二十日頃の土日には、堂が開帳され、将軍地蔵と身代わり地蔵を拝観することができるということです。
その他、本堂と阿弥陀堂の間には、小石仏二十体程に混じって、高さ一メートル程の花崗岩製の聖観音石仏坐像と地蔵石仏坐像が置かれています。二体の石仏は蓮華座を設けて像高七十五センチの像を厚肉彫りしていて鎌倉時代後期の作と考えられています。中々良い雰囲気の石仏群だと感じます。(写真)




さて、権現寺の門前には、世に「六条判官」と呼ばれた河内源氏の棟梁・源為義の石塔残欠を集めた供養塔があります。源為義は源氏の衰退期の棟梁として、「保元の乱(1156)」で処刑されたことで知られる人物です。

為義は、対馬守源義親の子として永長元年(1096)に生まれました。「前九年の役」や「後三年の役」で活躍して武勇の士として知られた「八幡太郎」義家は祖父に当ります。父義親は、「平家物語」の冒頭で「承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼・・」と「奢れるもの久しからず」という反乱者の例として語られているように、康和三年(1101に)九州で、その後出雲(島根県)で再び反乱を起こしたと伝えられています。このため、幼少の為義は祖父・義家の養子として育てられました。
嘉承ニ年(1107)、朝廷は義親の追討使として平正盛を派遣し、反乱は一月余りで平定され義親も殺害されたとされますが、その後も、義親を名乗る者が相次いで現れるという大きな騒動となりました。また、この間、嘉承元年(1106)に、一族の要だった義家が死去したこともあり、源氏一族には内紛が発生し衰退していきます。

為義は、祖父義家の死後は、義家から河内源氏の家督を相続した叔父の義忠(義家の子)に養育されますが、義忠は天仁二年(1109)、夜の闇の中で暗殺されてしまいます。
当初、暗殺の黒幕は大叔父の「賀茂次郎」義綱(義家の同母弟。義家と一時対立関係にありました)とされたために、養父の死で家督を相続した為義は、白河法皇の命によって逃亡した義綱一族を近江で捕らえました(後に流刑先の佐渡で義綱を殺害)しかし、その後、義忠暗殺の主犯は、大叔父の「新羅三郎」義光(源義家の同母弟)だったことが判明します。
義光といえば、「後三年の役」の際に、兄義家を助けるため官位を捨てて奥州へ向い、義家をして「まるで亡き父上(頼義)と再会したようだ」と感激させたという美談で知られますが、義家の死後は、自身が河内源氏の棟梁となる野心を抱いて、家督を相続した甥の義忠を暗殺させ、さらに若い為義を操って兄の義綱を討伐殺害させたのでした。真相が発覚して義光は常陸国に逃亡したため、まだ若い為義は都に一人残されることとなりました。
こうして、数年の間に、河内源氏は義家、義親、義忠、義綱といった実力者を失い、また義光も関東に逃亡したために勢力を失います。一方、平氏では、義親を追討した平正盛、その子忠盛が白河・鳥羽院政下で勢力を拡大し、特に為義と同年生まれの忠盛は、武士として初めて内昇殿を許され全盛期を迎えていきます。

平氏の後塵を拝することになったとはいえ、為義は、永久元年(1113)、延暦寺と興福寺の勢力争いを背景とした「永久の強訴(えいきゅうのごうそ)」の際には、都に押し寄せた興福寺宗徒から正盛や忠盛と共に内裏と院御所を警護しています。また、保安四年(1123)、越前国で日吉神人(延暦寺傘下の日吉社の社人)が殺人を起こし捕らえられる事件が起こり、天台僧兵らが護送中の犯人を奪還したため朝廷が彼らに禁固を命じると、この措置に対し宗徒が怒って蜂起しました。この時も、忠盛と為義が宗徒を撃退しています。このような功績から、為義は検非遣使となり六条堀川の館に居住したために六条判官と呼ばれました。しかし、久寿元年(1154)、子の八男・為朝が九州で乱行を繰り返した責任から、翌二年(1155)に解官され、家督を長男義朝に譲りました。

翌保元元年(1156)鳥羽法皇死後の皇位継承争いから、後白河天皇と崇徳上皇が対立し、さらに藤原氏内部の権力争いから関白忠通が天皇と、左大臣頼長が上皇と結びついて配下の武士を召集したことから「保元の乱」が起こります。
為義は、臣下として仕えていた頼長の召集に応じて子供達と共に上皇方に加担し、天皇側の長男義朝や平清盛らと戦いますが、戦いは数時間で終わり天皇側が勝利しました。為義は一旦東国へ逃れようとしますが、結局出家して義朝のもとに降伏します。しかし、義朝の助命嘆願は叶わず斬首されました。六十一歳でした。


さて、朱雀裏畑町にある「源為義墳墓」は、元々は千本七条にあり、上記したように、明治四十五年(1912)、京都駅停車場(現JR京都駅)拡張によって旧地の西にある現在地に移されました。
千本七条は、当時の七条朱雀付近に当たり、「保元物語」によると、為義はこの七条朱雀野で斬首され(子供たちは、後日捕らえられ船岡山で処刑)、処刑後は北白河円覚寺(現廃寺)に葬られたということです。

ただ、処刑場については、平信範の日記「兵範記」では船岡、慈円の「愚管抄」では「四塚(東寺付近)」だとされていて、史実的には、信憑性ある同時代資料とされている「兵範記」の記述通り、船岡山で子の頼賢、頼仲、為宗、為成、為仲と共に処刑されたと考えられています。
現在の「源為義墳墓」は、「保元物語」の伝承から後世、為義の最期の地とされた千本七条にその供養のために建てられたもののようです。墓の入口は鍵かがけられているため、墓域内には入れませんが、塀の外側から見ることができます。

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