京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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京都市左京区北白川にある三ヶ所の皇室史跡を採り上げます。(以前に少し採り上げましたが、今回は写真数を増やしてみます。)


左京区北白川丸山町、銀閣寺方面から白川の流れに沿って北東に進むと、川の東岸に初代・北白川宮の智成親王(さとなりしんのう)の墓があります。(写真)

智成親王は、幕末の安政三年(1856)に伏見宮邦家親王(くにいえしんのう)の王子として誕生し、幼名は泰宮(やすのみや)といいました。孝明天皇の養子となって慶応二年(1866)に親王宣下を受け、この時、「智成(さとなり)」と命名されました。その後間もなく、聖護院に入って信仁入道親王を称します。明治維新後は、一時、照高院宮(しょうこういんのみや 以下で少し補足します)を称した後に還俗し聖護院宮を継承しますが、明治三年(1870)に北白川宮と改称、ここに初代の北白川宮が誕生しました。しかし、二年後の明治五年(1872)に僅か十七歳で病死してしまいました。

遺言で兄の能久親王(よしひさしんのう)が北白川宮を相続しますが、後世に「悲劇の宮家」と呼ばれた北白川宮の不幸はまだ続きます・・能久親王(1847〜95)は軍人として活躍しますが、台湾遠征中に戦病死し、台湾神宮に祭神として祀られます。三男の成久王(なるひさおう 1887〜1923)が宮家を継承しますが、大正十二年(1923)、フランスのパリで自動車事故により三十七歳で死去。さらに、その子の永久王(ながひさおう 1910〜40)も、昭和十五年(1940)に軍事演習中に三十一歳で事故死します。子の道久王(みちひさおう)が宮家を継承しますが、昭和二十二年(1947)の十一宮家の皇籍離脱により北白川宮家は消滅しました。
初代北白川宮智成親王の墓は、丸山町の住宅街に囲まれひっそりと佇んでいます。墓域の面積はかなり広いようですが、周囲に建てられている石柱前はゴミ置き場になっているようで、墓域内へのゴミ捨て禁止(宮内庁)の表示があります。



さて、この北白川には、江戸時代に照高院というお寺がありました。
照高院は、元々は、桃山時代の文録年間(1592〜96)初め、豊臣秀吉の信任厚い天台宗の道証上人が、東山妙法院に創建した寺院でしたが、方広寺鐘銘事件に関連して東福寺・天得院が廃されたのに連座して廃寺となりました。その後、江戸時代の元和五年(1619)、後陽成天皇の弟・輿意法親王が、伏見城の二の丸松丸殿を譲り受けて、照高院を門跡寺院として白川村外山(現北白川仕伏町)に再建しました。寺紋として菊御紋章雪輪を用いたことから「照高院雪輪殿」、「北白川御殿」と呼ばれました。

前に採り上げた北白川天神宮も、寛文十三年(1673)に、照高院宮第五代・道晃法親王の崇敬を受け、寛文年間(1666〜73)に「天使大明神」を「天神宮」と改号して、宮家の祈願所となっています。その後、照高院は、第六代・忠譽法親王の時代に聖護院に属し、以後は歴代聖護院門主の退隠所となりますが、最後の門主となった智成法親王が還俗して北白川宮と称し、宮家が東京移転したことによって照高院は取り崩されました。(現在、北白川山之元町に照高院宮を記念する石標があります。)


智成親王墓から百メートル程、アスファルトの坂道を登ると、この歴代の聖護院(照高院)の門主となった皇族の墓があります・・北白川丸山町の聖護院宮墓地です。(写真)

○後伏見天皇十五世皇孫・道承(どうしょう)親王墓
 
○霊元天皇皇孫・増賞(ぞうしょう)親王墓

○中御門天皇皇子・中誉(ちゅうよ)親王墓

○東山天皇皇曾孫・盈仁(えいにん)親王墓

○後伏見天皇十八世皇孫・万寿宮(ますのみや)墓

○後伏見天皇十九世皇孫・嘉言(よしこと)親王墓


また、丸山町の墓地から北西にある北白川地蔵谷町にも聖護院宮墓地があります。
こちらの方がより古い時代の皇族墓地になります。
(尚、この地蔵谷の墓地は少しわかりにくいかもしれません。地蔵谷の山沿い南側にあるのですが、登り口が表示されていないからです。北白川仕伏町のバス停から百メートル程、志賀街道を北上すると、左手の三筋目に住宅に挟まれた細い道があります。この道を十数メートル進むと、さらに左にカーブして山道が続いていて、この山沿いの道を百メートル程歩くと、墓地があります。)


この墓地には、以下の四墓二塔があります。

○正親町天皇皇孫・興意(こうい)親王塔

○後陽成天皇皇子・道周(どうしゅう)親王墓

○後陽成天皇皇子・道晃(どうこう)親王墓

○後水尾天皇皇子・道寛(どうかん)親王塔

○後西天皇皇子・道祐(どうゆう)親王墓

○後西天皇皇子・道尊(どうそん)親王墓

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東山区松原通大和大路東入る轆轤町、有名な六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)の北にある浄土宗寺院、西福寺(さいふくじ)を採り上げます。小さな寺院ですが、門前には、「六道の辻」を示す石標が建てられていて、六波羅蜜寺や六道珍皇寺等と共に六波羅を代表するお寺の一つです。


西福寺のある付近一帯は「六波羅(西は鴨川東岸から、北は五条大路(現松原通)〜南は七条大路一帯)」と呼ばれる地域になります。
「六波羅」は、「六原」とも記されていて、その語源は、この地に建立された六波羅蜜寺に由来するとか、また、この地がかつて「轆轤原(ろくろがはら)」と呼ばれていたことに拠るという説等があります。尚、「轆轤原(ろくろがはら)」という地名については、東山の山麓の原野「麓原(ろくはら)」に由来するとか、平安時代にはこの地域には人骨が散乱していたことから、この髑髏(どくろ)の散乱した原野=「髑髏原(どくろがはら)」を、江戸時代に「轆轤原(ろくろがはら)」に改称したともいわれています。ともかく、この六波羅の地は、嵯峨野の「化野(あだしの)」、船岡山西一帯の「蓮台野(れんだいの)」と並んで平安京の三大葬送地といわれる「鳥辺野(とりべの)」の入口に当たり、あの世とこの世の境界の地と考えられたことから、空也上人が創建した六波羅蜜寺、小野篁(おののたかむら)が冥府と現世を行き来したという六道珍皇寺などの寺院が建てられて、信仰の場となっていきました。


この鳥辺野の入口付近は、また「六道の辻」とも言われてきました。
「六道」とは、仏教で衆生が生前の行いによって生死を繰り返す六つの迷いの世界で、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上の六つを指します。「六道の辻」は、この六道へ通じる道の分岐点という意味で、冥界へ入り口と考えられてきました。
前に採り上げた六道珍皇寺には、小野篁が冥府と現世を行き来したという井戸が残されていて、珍皇寺門前の松原通に面する轆轤町と新シ町の間を南に抜ける丁字路が「六道の辻」として知られます。今回の西福寺の地蔵尊も、同じく冥府と現世の境界付近に祀られたことから、「六道の辻地蔵尊」、「六道の地蔵尊」と呼ばれて信仰を集めてきたようです。



さて、西福寺は、山号を桂光山という浄土宗寺院です。(一部西福寺の由来記を引用してみます)
寺院としての西福寺は江戸時代に創建されましたが、元々は、平安時代初期の第五十二代・嵯峨天皇の時代、弘法大師空海が鳥辺野の無常所(墓地)入口にあたるこの地に地蔵堂を建立して、自作の土仏地蔵尊像を祀ったのが始まりと伝えられています。

この地蔵堂建立の頃、嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子(檀林皇后)がこの地を訪れ、弘法大師に深く帰依したと伝えられています。また、皇子正良親王が病気となった際には、皇后は病気回復をこの「六道の辻」地蔵尊に祈願しました。霊験によって皇子は無事回復して成長し第五十四代・仁明天皇となったので、当時の人々は、この地蔵尊を「子育て地蔵」「六はら地蔵」と呼ぶようになったとも伝わります。
(尚、六道の辻地蔵尊の御詠歌として、壇林皇后の御歌が一首残されているということです。「はかなしや 朝夕なでし黒髪も よもぎが本のちりとこそなれ」)
また、室町時代の謡曲「熊野(ゆや)」では、「河原おもてを過行ば、急ぐ心の程もなく、車大路や六波羅の地蔵堂よとふしをがむ観音も同座あり闇堤救世の方便あらたにたらちねをまもり給へや、実にや守りの末すぐに頼む命は志ら玉の愛宕の寺も打過ぎぬ六道の辻とかや、実におそろしや此の道は冥途に通ふものなるを心ぼそ鳥辺山」と謡われていて、六波羅の地蔵堂が当時良く知られていたことがわかります。

その後、江戸時代の慶長八年(1603)、蓮性上人がこの地蔵堂のある地に寺院を創建し、西福寺と称しました。そして、江戸中期の享保十二年(1727)に、関白・二条綱平が亡父のために再建したのが現在の建物と伝えられます。かつては六つの仏堂があったようですが、現在は三つの仏堂が残り、境内には末廣不動明王を祀る不動堂を中心に石仏や人形等が多数安置されています。また、洛陽四十八願巡りの第三十一番札所でもあります。

普段は静かな西福寺ですが、毎年八月のお盆にはお精霊迎えの「六道詣り」で多くの人々で賑わいます。また、この時には、寺宝の「六道十戒図」「六道絵」「檀林皇后九相図」「十王図」などが公開されます。

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前回、松尾大社の「松尾祭」で、月読神社・四之社・宗像社・櫟谷社・大宮社の五つの神輿(月読社は唐櫃)が安置される西七条御旅所(下京区西七条南中野町)と、その東にある「朱雀御旅所」こと松尾総神社(下京区朱雀裏畑町)を採り上げましたが、今回は右京区にある二つの御旅所・・・衣手社御旅所の衣手神社と、三宮社御旅所の三宮神社です。
この二つの神社は、西京極球場として知られる西京極総合運動公園の近くにあり、史跡の少ない右京区西京極では数少ない、地域の憩いのスポット的な神社のように感じます。



さて、右京区西京極東衣手町、西京極総合運動公園の北西に位置する衣手神社(三宮衣手神社)は、松尾大社の末社で、祭神として玉依姫命(たまよりひめのみこと)と羽山戸神(はやまとのかみ)を祀っています。

元々、衣手神社は、「三宮社」と称して、古くから郡(こおり 西京極郡町)地域の鎮守社として玉依姫命を祀っていましたが、明治八年(1875)に松尾大社の境内末社・衣手社の祭神、羽山戸神を合祀したことから、明治十一年(1878)、「衣手社(衣手神社)」と改称して現在に至ります。祭神の玉依姫命は、古くから山城地方の開拓の恩神と仰がれ、羽山戸神は農業をはじめ諸産業の守護神として人々に尊崇されてきたということです。
現在のご本殿は、延宝七年(1679)十二月に、拝殿は嘉永五年(1852)二月にそれぞれ再建されたもので、その後、昭和五年の大修理の折、御輿庫、社務所等が改築整備されています。

衣手神社は、松尾大社の毎年四月・五月の神幸祭の御旅所として知られますが、当日は、郡(こおり)地区、葛野(かどの)地区の氏子等よる衣手社神輿の御渡で賑わいます。また、毎年三月初旬には、歩射祭が行われます。歩射祭は、奉射祭、オマトウ(的)とも呼ばれ、神前で一年の豊作を祈った後、的を設けて矢を射て、矢の当り具合によってその年の豊凶を占う神事です。秋季例祭は毎年十月中旬に行われます。尚、境内には末社として、野宮社(天照大御神)、八王子社(素戔嗚尊の御子神)、諏訪社(建御名方神)、幸神社(道祖神)、山王社(日吉神)を祀ります。




さて、今度は、三宮神社(松尾三宮神社)です。
右京区西京極北裏町、西京極総合運動公園の南東に位置する三宮神社は、松尾大社の末社で、祭神として玉依姫命(たまよりひめのみこと)、大山祇神(おおやまつみのかみ)、酒解神(さかとけのかみ)を祀っています。

情報の少ない神社ですが、飛鳥時代の大宝年代(701〜04)の創建といわれ、元々、玉依姫命を祀っていましたが、その後、大山祇神(おおやまつみのかみ)と酒解神(さかとけのかみ)を合祀したことから「三宮社」と称したと伝えられています。かつての川勝寺(せんしょうじ)地区(現・葛野七条付近一帯)の鎮守社として、松尾祭では、三宮社の神輿の御旅所となっています。

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前回の下京区西七条南中野町にある松尾大社の西七条御旅所の追加になりますが、境内の一角には、小さな神社が祀られています。これが武御前社(たけのごぜんしゃ)です。
御旅所の大鳥居と並んで石鳥居があり、元々は御旅所とは別個にこの地に祀られていた神社だったのでしょう。


情報の少ない神社ですが、境内にある掲示板によると、武御前社(たけのごぜんしゃ)の祭神は、武甕槌神(たけみかづちのかみ)です。
武甕槌神という神様は、神話では天照大神(あまてらすおおみかみ)の命令を受けて、出雲の国に行き、大国主命(おおくにぬしのみこと)の国譲りを見届けて高天原に還り、その様子を報告したという武神ということです。


武御前社は、この旧西七条村(西七条)の産土の神(出生地の守り神)として古くから村人から信仰されてきたと伝えられ、また、神社に関する面白い風習があったようです。

子供が生まれるとお参りに来て神主の祈願を受け(宮参り)、男子の額には「大」、女子には「小」という字を朱色で書いてもらい、鼻を摘んでもらう風習があったということです。
また、その昔、松尾大社の還幸祭の夜には、この地の子供たちが、武御前の神輿と称して白木で新たに造られた神輿を桂川まで担いで川に捨てるふりをした後、再び西七条の御旅所まで持ち帰ったということです。
さらに、古くは、神輿を夜間に桂川に捨てた翌日、神輿を壊してその木片を厠(トイレ)に挿して、疫病封じの呪いとする風習もあったと伝えられているということです。


その後、松尾武御前神輿が、明治十九年(1886)五月に新たに造立されました。昭和四十五年(1970)までは還幸祭の翌日、子供たちが眠っている間に親神輿が本社に還り、その後で巡行していたことから「居眠り神輿」と呼ばれ、子供たちは威勢良く神輿を担いで西七条近郷を巡行し、大いに歓迎されて賑わったということです。その後、一旦巡行は中断するものの、昭和五十三年(1978)に復活して、現在では、奉納された金柑を神主が撒いて延命息災を祈り、親神輿が御旅所に鎮座している日曜日に西七条一帯を巡行するということです。

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松尾大社(西京区嵐山宮町)といえば、お酒の神様として知られる京都市西部最大の神社です。
京都の神社としては、北の賀茂(上賀茂、下鴨)社、南の伏見稲荷大社、東の八坂神社等と並んで広く親しまれています。また、古代京都を開墾した秦氏の氏神としても知られ、平安遷都以前の京都の歴史はこの神社を抜きにしては語れないでしょう。また、その後の平安京でも王城鎮護の大社として、「賀茂の厳神、松尾の猛霊」と並び称されてきました。今回はこの松尾大社の御旅所について書いてみます。



さて、松尾大社の「松尾祭」は、京都の西の地域では最も有名な祭で、毎年四月二十日以後の第一日曜日に神幸祭、そのニ十一日目の日曜日に還幸祭が行われます。
今回の松尾大社西七条御旅所にある由緒書きによると、平安時代の学者として知られる大江匡房(おおえのまさふさ)は、「江家次第」の中で、松尾祭は、清和天皇の貞観年中(859〜876)に始まったと記しています。当初は、四月上中旬に行われていた祭祀に、その後、御旅所が生まれ、神輿による神幸祭と還幸祭が行われることになっていったようです。


神幸祭では、分霊された祭神が、松尾七社と呼ばれる月読神社・櫟谷社・宗像社・四之社・大宮社・衣手社・三宮社・の七つの神輿(月読社は唐櫃)に遷られて出発し、途中、桂川を駕輿丁船(かよちょうふね)に乗って渡御します。そして、対岸の河原斎場に七基の神輿(月読神社は唐櫃)が揃うと神事が行われ、その後、各神輿は、それぞれの御旅所に向かいます・・・月読神社・四之社・宗像社・櫟谷社・大宮社の五つの神輿は西七条御旅所へ、また、衣手社は末社の衣手社の御旅所、三宮社は末社・三宮神社の御旅所へと向います。
こうして、神輿は三つの御旅所に安置され、二十一日後に還幸祭が行われます。還幸祭では、各御旅所を出発した神輿は、一旦、西寺跡の旭の杜に集まって祭典を行った後、今度は末社 松尾総神社の朱雀御旅所に立ち寄って神事を行い、その後、松尾大橋を渡って松尾大社に帰還します。



さて、下京区西七条南中野町にある松尾大社の西七条御旅所についてです・・・
神社と違って、その御旅所となると情報が少ないのですが、幸い西七条御旅所には来歴が書かれた掲示板があり引用させていただきます。

御旅所の創建時期は不明ですが、平安時代の宮中年中行事について記した「年中行事秘抄」によると、平安時代の天仁二年(1109)、当時最も重んじられ大事件の際に朝廷から特別に奉幣されていた伊勢(伊勢神宮)、岩清水(岩清水八幡宮)、賀茂(上賀茂、下鴨神社)、松尾(松尾大社)、平野(平野神社)、稲荷(伏見稲荷大社)、春日(奈良の春日大社)の七社に行幸・奉幣した記述があり、松尾社や稲荷社に御旅所があったと記されています。
また、平安末〜鎌倉時代の公卿・中山忠親(なかやまただちか)の日記「山槐記(さんかいき)」にも、仁平二年(1152)四月五日の記載に「櫟谷社旅所」とあることから、十二世紀には、既に松尾大社の御旅所が西七条に存在していたようです。

江戸時代の「松尾略注全冊」によると、西七条村には、大宮・月読相殿御旅所、櫟谷社御旅所、宗像社御旅所の三ヶ所の御旅所があり、また、四太神(四之社)御旅所は大宮御旅所の、衣手社御旅所は宗像社御旅所の同域内にあり、他に川勝寺村に三宮社御旅所、朱雀村に惣神社の神供場(松尾総神社)があったようです。当時は各々の神輿が別々の御旅所を持っていて、神輿は祭の時以外は本社で管理していました。

また、御旅所でありながら、朱印地が認められていて、天正十三年(1585)十一月二十一日、豊臣秀吉により百四十五石が与えられ、徳川幕府の下でも同じ石高の朱印地が認められていました。
その後、明治時代に、東四社の御旅所が大宮社の御旅所に統合され、官幣大社松尾神社御旅所として現在の地に定められました。尚、昭和五十九年(1984)五月、松尾大社西七条御旅所の造営整備計画が始まり、松尾大神を祭神とする本殿、神輿庫、社務所の改築が行われ、翌六十年(1985)四月に竣工しています。



ついでという感じですが、西七条御旅所の東、下京区朱雀裏畑町にあるのが、松尾大社の末社・松尾総神社です。
祭神は月読尊で、上記したように、古来、松尾祭の還幸祭の際に各神輿が集結する御旅所とされ、現在も「朱雀御旅所」という名前で知られています。


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