京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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続続・信長

さて、続きです。

天正2年(1574)1月国人領主間の対立から、越前で一向一揆が発生。
結局一揆勢が越前を支配し、信長は、羽柴、武藤、丹羽、不破、丸毛らを越前国敦賀へ出陣させます。
2月武田勝頼が美濃明智城等を包囲攻略。信長は救援軍を派遣し、さらに信長自身、長男信忠と共に出陣するも城が攻略されていたため帰還します。

4月六角残党を攻撃、さらに石山本願寺との戦いが再燃。
5月武田勝頼が遠江高天神城を攻囲し6月陥落。援軍を率いた信長、信忠は三河まで進軍するも陥落を知り岐阜に帰還

天正2年(1574)7月信長は3度目の伊勢長島一揆攻略を行います。
この年、信長自身が最大目標と考え全力で仕掛けたのはこの戦いでした。


前年、反織田同盟勢力を各個滅ぼしたため軍の配置展開に余裕が出てきたのでしょう。
動員数は総勢7万、これまで信長が動員した最大数でした。
今回は、不屈の一揆勢力を壊滅させるつもりだったのでしょう。
柴田、佐久間、丹羽、蜂屋、稲葉、安藤、長男信忠らに加え、滝川、九鬼、2男信雄らの水軍も動員しました。

信長は尾張、近畿方面から長島への陸路を閉鎖、さらに水軍で水路を封鎖し、長島を完全に孤立させました。織田軍は7月、全軍を3つに分けて総攻撃を開始。
北方から攻め込んだ諸軍と呼応し、滝川、九鬼、次男信雄の水軍600艘が水路を封鎖し、一揆勢を追い込みます。一揆勢は陸・海の両面から包囲網を狭められて築城していた5つの城砦に立て籠もります。
信長は長島一帯の包囲を完成させたうえで、これらの城砦を攻めさせました。


この間信長は、捕虜、投降者を全員殺害するように指示し、8月には2砦が陥落。
砦から脱出した者たちは他の3砦へと逃げ込みました。その後約1ヶ月半、信長は、3つの砦を兵糧攻めにします。9月末餓死者が続出した状況で、本城の長島城が、住民の助命を条件に開城を求めてきます。


信長はこれを認め返答を与えますが、謀略でした。織田軍は投降しようと砦から出てきた一揆勢を、鉄砲隊の一斉掃射で殺害。怒った一揆勢は決死の覚悟で突撃を敢行し、このため信長の叔父信次、庶兄信広他織田一族他多くの将兵を失います。
怒った信長は、砦の周囲に逃亡防止のための柵を設け、敵が逃げられないようにして放火を命じます。この殲滅戦によって2万人もの農民が焼き殺されたといわれます。

こうして伊勢長島一向一揆の鎮定は終わりました。戦闘より放火による死傷者が多く、まさに包囲殲滅戦となりました。比叡山焼き討ちや後の越前一向一揆の平定などと共に、もうひとつの信長らしい戦いとなりました。



翌天正3年(1575)年の最大の戦いは、長篠の戦いです。

武田勝頼がここ1年の間に美濃の諸城や遠江の高天神城を攻略している間に、信長は武田氏との戦いを避けてきたように感じられます。

その理由は、ひとつには信長が上杉謙信に送った書状に記されているように「武田四郎(勝頼)は若輩ではあるが「信玄掟」を遵守しており表裏もあるので油断は出来ない」と決して甘い敵ではないと判断していたこと。また失敗が続いていた伊勢長島の一向一揆攻略を急がないと、再び北伊勢から尾張の本拠地が危険になると考えていたことが原因のように思われます。ようやく大軍により伊勢長島一揆を平定し、武田氏との決戦に臨む余裕が出てきたのでしょう。


この有名な戦いに関しては、織田・徳川側、武田側双方の立場から分析した様々な研究がありますので、詳細な解説は避けたいと思います。少し概略を紹介し、問題点を考えてみたいと思います。


さて、翌天正3年(1575)4月勝頼は約1万5千の軍で一旦長篠城を攻め、さらに5月11日、城の北西医王寺に陣を置き、本格的な城攻めに入ります。
これに対し13日に信長は岐阜を出陣し、15日に徳川軍と合流。18日には織田・徳川連合軍3万5千は、長篠城の東方、設楽原に到着。ここに陣を構え、柵を長さ24町(約2、4キロ)築きます。


長篠城を攻略できていない段階で、その約500m程の地点に敵の大軍が到着し陣を置いた時点で、勝頼としては長篠城包囲を解き一旦退却するという方法も有効な選択肢だったと思われます。
もちろん追撃を受ける可能性もありましたが、多くの老臣らの意見もそうだったようです。しかし、結局、敵軍の陣形を把握しないまま設楽原に本陣を移して戦闘に入ります。



さてこの戦いの記録ですが、
「信長公記」によれば、信長は、柵の近くに陣する家康陣のもとに来て、佐々成政ら5人の奉行に千挺ばかりの鉄砲隊を編成させます。
21日朝日が昇る頃から、足軽を出していよいよ戦闘を開始。
武田方では一番に山県昌景の軍が推太鼓を打って突撃しますが、鉄砲で散々に撃たれて引き退くと、二番に武田信廉隊、三番に小幡一党というように次々と繰り出します。
しかし、信長軍は鉄砲でこれを迎え撃ったので、昌景のほか真田信綱ら有力部将が次々と討たれ、馬場信房らも奮戦の末討ち死に。午後2時頃、武田方は無勢となり、退却を余儀なくされ、その後も追撃を受けてさらに多くの戦死者を出しました。

以上が長篠の戦いの第1次資料から信用できる事実全てです。




さて、長篠の戦いは、一般に、武田の騎馬隊を防ぐために、馬防備の柵を用い、総数3千の鉄砲を3段に置き、連続した射撃で勝利したという伝説に彩られていました。
しかし最近の研究はこれらを否定しています。


最近の研究によると、鉄砲の3段打ちと呼ばれる戦術は、桶狭間の戦いと同様、小瀬甫庵が書いた『甫庵信長記』に初登場した創作であると判明しています。
また、武田の騎馬隊というのも存在しませんでした。
「信長公記」でも騎馬隊などとは言っていませんが、現在資料分析が進み、武田、上杉、北条氏らの戦国大名の騎馬数は軍全体の約10%だったことがわかっています。
長篠の戦いも騎馬を先頭に、大部分は足軽歩兵隊の突撃だったのです。



鉄砲の数に関しては、第1次資料「信長公記」の太田牛一の自筆本とされる「建勲神社本」所謂、元版では1千挺になっています。
その後の「池田家文庫本」では「千挺ばかり」の千の字の右肩に三の字が小さく加筆されて「三千挺ばかり」に変更されて、その後はっきりと文章中に三千と変更された版が流布していきます。
これには、小瀬甫庵の『甫庵信長記』では最初から創作して3千挺としていたのを見た誰かが、「池田家文庫本」の方を勝手に訂正してしまったとの説があります。

小瀬甫庵の『甫庵信長記』では、「敵馬が押し寄せてきたなら、際1町になるまで撃たすな、間近になってから撃て・・・千挺づつ放ち懸けて、一段づつ立ち替り立ち替り打つのである」と劇的な展開になっています。これが、3千挺の鉄砲を千挺ずつ代わるがわる発射する鉄砲3段重戦術の伝説を流布する原因ということになります。



大体、第1次資料からわかる事は、
「信長軍が5人の奉行に千挺ばかりの鉄砲隊を編成させたこと。武田方では山県昌景隊から順じ突撃するも、鉄砲で撃たれて引き退き、多くの死傷者が出たこと」のみです。


そのため論議が生まれました。
この戦いでは、信長は長く続く柵を用いましたが、これは存在しない武田騎馬隊対策ではないとしたら、別の意味があったと考えられます。
「信長公記」によれば「馬防」柵ではありません。柵の名前自体が勝手な想像から変更されてきたのです。実際、戦場で対陣した場合、柵を作ることは、信長以前から見られたごく常識的な戦法でした。


では信長の勝利の原因はなんだったのでしょうか。
様々な研究者は、より実戦面から火縄銃の発射速度、発射間隔、命中度を研究し、地形の分析を行い、また資料を精査して戦いの実像を研究しています。


私自身は、やはり信長は野戦陣地を構築して敵を破ったのだと思っています。

様々な研究で分析されていることですが、資料の「身の隠す場所から鉄砲で撃った」「「小川を隔てれ、二十四町の間に、二重三重の乾堀を掘り、土居(牆壁)を築いて、また五十間、三十間を置いて、虎口を設けて、目通り一尺廻りの木を以て柵を付けた」という記述から、柵に加え、空掘りと土山を張り巡らしていたというのが一番正解に近いように思います。


武田軍は、敵の陣地の詳しい情報も無いままに、攻撃を開始しますが、信長が周到に準備した土居と掘、柵という高低と障害物のある複雑地形に驚き、騎馬、歩兵部隊の進撃が停滞、混乱する隙に、土居や柵の影に身を隠していた足軽部隊の鉄砲射撃を受け、また槍等で止めを刺され総崩れにされ敗北したのだと思います。

信長は危険な野戦でなく、確実に勝利できる防衛陣地を構築するという優れた戦術を選んだのだのではと思います。もしそうであるならば、信長はやはり傑出した戦術家といえます。
(ある意味、架空の三段撃ちより、現実的でより有効な優れた戦術ではないかと思います。)


さて、もう一つの問題点です。

従来、長篠の戦いの大勝利が、その後の鉄砲戦術の有効性を認識させ、戦術革命が起こったように考えられてきました。しかしこの定説の背景にあるのは、やはり例の伝説の影響のようです。


実際は、石山本願寺の雑賀の鉄砲隊が織田軍を苦しめたように、信長以前から鉄砲の有効性は認識されてきていました。実際、長篠の戦いには関係無く、諸大名は以前から鉄砲を用いてきていました。
織田信長が、他の大名に比べて特に鉄砲導入に熱心であったということを示す確たる証拠があるわけでもありません。やはり信長が3千もの鉄砲で勝利したという創作が影響しているようです。


またその後、信長や他の大名が特に鉄砲隊を中心として部隊組織を編成したり、信長の戦術が信長自身や他の武将らにより模倣されその後大きく広まった証拠は何もありません。
実際、その後の戦いにおいて、特に鉄砲部隊が活躍して勝敗が決定したという事例は無いのです。(朝鮮出兵時に、鉄砲が有効に働いたとはいえ)そして、江戸期に入り日本の軍事技術は衰退していくことになります。


結論としては、長篠の戦いはその後の戦争形態に大きな影響力を持たなかった。だから戦術革命というようなものは無かったということになります。



世界の名将100選に選ばれるのに最も近い存在と思われた信長ですが、
一番の切り札の長篠の戦いの鉄砲戦術がそれほど劇的なものではないことがわかりました。
しかし、陣地構築と鉄砲をうまく使った勝利は優れた戦術でした。


次回は話が飛びますが、信長戦術の先駆者名将ゴンザロ・デ・コルドバにも登場してもらいましょう。

続・信長

続きです。さすがに長いですね。どこかで短くします。

さて、翌元亀2年(1571)2月浅井方の佐和山城を奪取。
浅井・朝倉氏と石山本願寺の連携遮断のため木下秀吉に近江を進駐させます。
秀吉はしばしば浅井軍と小競り合いをしながら、調略により浅井家諸将を織田方に寝返らせていきます。

 
5月、伊勢長島一揆を攻略するため、信長自身5万余の軍勢を率いて出陣しますが、要塞化された長島陣地を攻略できず撤兵。撤退の際、一揆軍追撃で殿軍の氏家卜全らが戦死。同じく5月松永久秀が三好三人衆、三好義継らと結び反織田同盟に参加。


9月、浅井・朝倉と結ぶ比叡山延暦寺を焼き討ちし、根本中堂、山王二十一社を焼き払い僧侶男女数千を殺害。比叡山延暦寺を焼き討ちは、信長にとっては京都支配の安定と、浅井・朝倉氏と石山本願寺の連絡線を断つ意味で必要不可欠だったのかもしれませんが、この所業が当時、彼の評判を非常に落としたことは想像できます。


翌元亀3年(1572)信長、近江に出陣し周辺を荒らし、また4月河内に佐久間、柴田、明智軍ら2万余で松永久秀軍を包囲、5月降伏させます。
9月義昭に再び十七ケ条からなる意見書を突きつけ、対立は表面化。


10月反織田同盟の中核、武田信玄が、約3万の軍で徳川家康の領地であった遠江に侵攻を開始。
11月浅井・朝倉軍が秀吉の守る虎御前山・宮部砦を攻撃するが反撃にあい退却。信長は、家康の援軍要請では佐久間、平手軍3千の援軍を派遣。  


12月三方が原の戦で徳川軍1万1千が、武田軍2万5千軍に大敗。
武田軍は余勢を駆って翌天正元年(1573)1〜2月にかけ徳川方の三河の属城、野田城を包囲攻略しますが、信玄が発病したために撤退を開始。信玄が本当に上洛まで考えていたかは諸説あります。


天正元年(1573)3月将軍足利義昭は、松永久秀らと同盟し、信長に対し挙兵。
信長は武田信玄の動向が不明のため、4月正親町天皇を利用し和睦勧告を伝え、義昭の拠る二条城を囲んで講和を強要し成立。その数日後、武田信玄が甲斐への撤退中に病没。


6月再び義昭が反信長の動きを見せますが、翌7月信長は義昭を槇島城に攻め降伏させます。こうして、反織田包囲網の中心人物、将軍義昭を失脚させ、一つの時代に幕を下ろしました。
信長はいよいよ宿敵浅井・朝倉氏に取り掛かります。


8月織田方の内部工作の成果により、浅井氏の武将阿閉貞征が織田方に内応。
小谷城が孤立したため、信長は3万の軍で近江に侵攻します。


これに対し、浅井長政は小谷城に籠城し、朝倉義景も自ら2万の大軍を率いて浅井救援のため北近江に本陣を敷きますが、これに対し信長軍は、小谷城と朝倉軍の包囲を進めます。
ここで信長は直属部隊を率いて朝倉軍陣地を奇襲し、敵前線基地を攻略。これにより朝倉義景は形勢不利と見て撤退を開始しますが、信長はこれを好機と捉え、自ら先頭に立って追撃を開始します。この電撃的な猛追を受けて、朝倉軍は多くの将兵を失います。


織田軍はさらに徹底的に追撃し、朝倉軍の近江遠征軍はほぼ壊滅状態となり、義景はわずかな手勢を率いて一乗谷へ帰還します。信長は2日間休息を取らせた後、大軍を整えて越前に攻め入ります。朝倉義景は国内の武将らから離反されてさらに逃れて、信長軍はたちまち一乗谷を制圧。ついに朝倉義景は自刃します。
浅井氏に対する包囲も強められ、小谷城も8月末落城、浅井久政・長政が自刃して、ここに宿敵浅井・朝倉氏が滅亡します。


追撃からわずか8日間で朝倉氏を、さらにその10日余で浅井氏を滅亡させることに成功したのでした。これは織田信長の最も成功した戦いのひとつでしょう。


9月岐阜に凱旋して、休む間もなく、伊勢長島一揆勢力の伸張により、北伊勢の国人領主達が信長に背きはじめている情勢に北伊勢へ出陣。

信長は途中、近江方面から進軍してきた柴田、佐久間、羽柴、丹羽、蜂屋軍と合流し北伊勢侵攻作戦を開始。長島に呼応していた諸城を陥落させ、10月には北伊勢一帯を平定、残すは長島一帯のみとなりました。この間、海からの長島攻撃のため伊勢大湊の船を桑名に集めますが調達できなかったために長島攻めは断念し、滝川一益を守備に残し10月末撤兵。
今回も撤兵の際に一揆勢から攻撃を受け、殿軍に犠牲を出しながら本隊は大垣城に戻ります。

さらに11月佐久間軍が三好義継を滅ぼし、松永久秀を再び帰順させます。


こうして元亀2年(1571)〜天正元年(1573)は、信長にとって反織田同盟勢力を切り従え天下統一に大きく前進した年になりました。

この目まぐるしい3年間の攻防で、信長は、比叡山延暦寺、朝倉義景、浅井長政、足利義昭、三好義継、三好三人衆らを平定しました。さらに武田信玄の死により、織田包囲網は崩壊したといえます。
今や最も手ごわい敵は、石山本願寺を中心とする一向宗門徒勢力、特に頑強に抵抗する伊勢長島の一揆の平定が直近の課題でした。




信長の成功の理由としては、反織田同盟諸国が一致した行動を取れなかったことが大きいと思います。
反織田同盟が期待したように、武田信玄が本当に上洛するつもりだったのかという問題は未解決ですが、元亀元年に信長が朝倉・浅井氏に和議を申し出たように、信長の勢力はいずれ衰えると油断していたのかもしれません。

 
同盟諸国も軍事的、経済的諸事情で差がありました。
強大な信長軍には遥かに及ばない三好、六角、松永氏などは和議をちらつかせることによって押さえることが出来ました。また浅井や朝倉氏にしても、連戦による国力の疲弊により、浅井氏や朝倉氏内部に、謀反や嫌戦気分が起こっていったことでもわかるように、長期の持久戦に耐えられる国力は残されていませんでした。畿内の経済圏を押さえた織田家との国力的な差がじわじわと広がっていったためでしょう。


また、以前、将軍義昭や正親町天皇を利用して、浅井・朝倉氏と和睦を結んだように、武田信玄の上洛の動きに際し、反織田包囲網の中心将軍義昭自身を、正親町天皇を通すことで牽制し、和睦を強要するなど、将軍義昭や正親町天皇の権威を最大限に巧みに利用して外交的に有利な地位を獲得しました。これも成功の大きな要因でした。


そして最後に、反信長勢力は、信長が、最も強硬に敵対する比叡山延暦寺を焼き討ちするなど予想だにしなかったことは確実です。
不利な敵には和睦を求めながら、利を誘った反間工作を繰り返して敵軍内を切り崩し、相手が弱さを見せると一気に力攻めで滅ぼしていきました。反信長勢力は、天下統一のためには手段を選ばないという信長の強い意志力の前に敗れ去ったともいえます。



元亀年間〜天正初年にかけての攻防は、最大の危機の中で、信長の政略家や戦術家としての才能が発揮されてきた時期のように思います。
長々と書いてきたのはそのためですが、次回はようやく長篠の戦いその他です。

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