京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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さて、天正10年(1582)年 信長の最後の年です。



1582年2月木曽義昌が武田勝頼に背き信長に臣従。
この動きに武田勝頼は、木曽義昌を討伐するため信濃国諏訪上原まで出陣。
この知らせで、信長はいよいよ武田討伐に乗り出します。
織田信忠・滝川一益の本隊が伊那口から、金森長近が飛騨から、徳川家康が駿河から、北条氏政が相模から進軍する計画でした。



2月6日織田信忠の先鋒軍、河尻秀隆、森長可が武田氏への攻撃を開始。
12日織田信忠・滝川一益の本隊が、岐阜城を出陣、14日木曽峠を越えて信濃国伊那郡に侵入。
18日 徳川家康は遠江の掛川城に着陣し、21日駿河駿府城を占領。
27日織田信忠、鳥居峠から飯田に進軍し大島城を攻略。
28日 武田勝頼、信濃の諏訪上原の陣所を焼き甲斐の新府へ撤退。
3月1日 織田信忠は、仁科盛信が籠もる信濃高遠城への攻撃、翌2日高遠城を攻略、仁科盛信を滅ぼす。さらに甲斐へ進軍。


3月5日 織田信長、近江安土城を出陣、8日尾張犬山に着陣。
信長は柴田勝家に書を送り、「武田勝頼は、居城も捨て山奥へも逃げ去ったので、織田軍の先発を早急に甲斐へ侵入させ、信忠も同様に進軍している。
信長自身は出馬しなくても良いのだが、今まで関東見物を望んでいたので良い機会であるから関東へ足を運ぶことにする。さらに武田家は完全に制圧平定するつもりだ」と通知します。


3月11日 徳川家康、降伏した穴山信君と共に、甲府の織田信忠を訪問。
同日、武田勝頼、天目山の戦い滝川軍に攻められ、一族・郎党と共に自刃。


3月14日 織田信長、信濃国伊那郡波合に着陣し勝頼父子の首実検。
3月17日 徳川家康、信濃国諏訪に織田信長を訪問し対面。
3月19日 織田信長、信濃国上諏訪に滞陣し、穴山信君、信長に謁します。
4月 3日 織田信長、甲斐国甲府の武田館趾に布陣。
4月16日 信長は遠江国浜松から21日安土城に凱旋しました。
年表的に書いてみました。


武田氏は家臣の寝返り相次ぎ、1ヶ月で武田氏は滅亡しました。
信長自身は、悠然と参加諸将に対する労いの論功行賞を行うためだけに向かったようなものでした。浅井・朝倉氏の時と同様、敵の内部亀裂を察知すると一撃で滅ぼしたのです。



さて、その頃、中国地方では、羽柴秀吉が3月15日、備中攻略のために姫路城より出陣します。
4月24日 信長は、細川藤孝へ「中国進発はこの秋に予定していたが、今度、備前の児島にで敗北させた小早川隆景が備中高山城に籠城したので羽柴秀吉が攻囲しているとの注進があったので、また一報が入り次第、信長自身が出勢するので準備に油断しないこと」と通達。
5月7日には羽柴秀吉、清水宗治を備中国高松城に包囲し水攻めを開始。


この日、信長は、子の神戸信孝に四国征伐を指示し「讃岐国一円を織田信孝へ宛行うこと、阿波国一円を三好康長に、残り伊予国・土佐国は信長が淡路国へ出馬してから処分を決定する。
国人について、さらに万事は三好康長に従うこと」と記します。


信長は、いよいよ中国地方への出陣準備をしながら、既に四国制圧後の国割りも自身が乗り込む予定も考えていました。しかし本能寺の変までは1ヶ月も無いのでした・・・・。




織田信長については、今回で終わりにしたいと思います。


信長は、日本だけでなく世界のミリタリーファンにも人気が高い存在です。
これは例の長篠の戦いのイメージが先行していると思いますが、長篠の戦いだけではなく、戦略家・戦術家としても日本史上一流の人物でしょう。
敵対する大名の弱さを見抜き一撃速攻で滅ぼしたり、一向宗一揆に対する容赦の無い包囲殲滅戦、また外交戦で有利な状況を作り出す能力は傑出しています。
また、鉄船の実態はわかり難いですがこれも相手を威嚇する有効な武器となりました。
また、危険と判断した場合は、自身が必ず出陣し指揮系統を徹底した作戦を行っています。



秀吉を信長より政略家として上とする人もいるでしょうが、
中国史でいえば、信長に例えられる魏の曹操や後周の世宗柴栄と、後継者の晋の司馬懿、宋の太祖趙匡胤を比較するのに似ています。信長あっての秀吉としておきましょう。




ここで少し話が変わりますが・・悪い面での信長の影響です。

小瀬甫庵によって創作された長篠の戦いや桶狭間の戦いのように、信長物語は語り継がれていく内に、創作は史実として流布し定着していきました。
義経伝説などもそうでしょう。多くの歴史ものが書かれ、どこまで史実かはっきりしなくなりました。
ただ面白ければ良かったのです。


面白いこれらの物語の中から、特に軍事に関するものは、明治時代になっても批判訂正されることなく史実として歴史家に受け継がれてきました。


特に昭和二十年(一九四五)の敗戦までは、例えば、神武天皇の神武東征、神宮皇后の三韓征伐から日露戦争にいたる日本の戦史は、歴史的事実として、軍事的な研究がされてきました。
例えば「大日本戦史」といったものですが、内容的には、陸軍が過去の戦史を研究して、戦術・戦略に生かそうとしたものです。軍人が主体で研究したため、主に過去の事例をモデルケースとして現在進行中の戦争に生かすために加えて、精神訓話の具体例を得るためでした。


そのため、具体的な戦闘経過や勝因、敗因の明白な事例を必要としていました。
それには作家が創作した合戦物語が最適です。
つまり勝敗に関するなんらかの理由のあるものを探していたのです。
桶狭間の戦いも、敵の油断を突いて、奇襲攻撃を行うという極めて判りやすい例でした。
油断をしてはダメだ。精神を鍛え常に戦いに望む姿勢が大切である。アメリカがいかに大国でも、油断を突いて奇襲攻撃をすれば必ず勝利できるのだ。信長も義経もやったことだ。過去に実行出来たのだから、対アメリカ戦でも実現可能と考えたのです。



しかし創作と史実を誤解していたことには気付きませんでした。
楠木正成は、金剛山に大要塞を張り巡らし、近代的な要塞をあの時代に生み出したと絶賛されていたそうです。まあ、この程度の歴史観でした。
実際の史実的にどう戦ったかより、近代軍事学的観点から、このように戦ったはずだということで正当化していました。


(これは我々が読む歴史読み物でも同じですね。私は歴史が好きなのですが、作者の思い込みが強すぎて、歴史上の人物を時代背景と切り離して、まるで現代人のように論じる本が非常に多いので、とり合えず原典を読める物は原典を確認しています。)



とにかく、太平洋戦争で日本軍は、桶狭間を手本にした迂回と奇襲作戦が大好きで、とにかく多く立案しました。真珠湾、ガダルカナルなどですが、段々、アメリカには、日本は奇襲しかないとまで見切られていました。


織田信長の例で言えば、外交を駆使し、確実に勝利を得られるまで最大の兵力を動員して準備万端で臨みました。桶狭間の伝説ではなく、彼の本当の歴史的な記録を研究するべきだったでしょう。
彼は戦術的な失敗を戦略的に成功に変え、また戦略的な失敗を戦術的に取り戻しています。信長に学ぶなら、この点を学ぶべきでした。



さて世界名将100選に入るのかという点ですが・・・
例えば、源義経は平家を相手にした戦いで戦術家として能力を発揮しましたが、それ以上の能力に欠け、結局は拙劣な行動により滅んでいきます。
南北朝時代では混戦の中で足利尊氏が戦略的に有利な状況を作り出すことに成功しましたが、それは彼のリーダーシップによるものでは有りませんでした。



信長も幾つかの失敗をしていますが、初めて本当の意味での戦略家としてリーダーシップを発揮した人物かもしれません。
豊臣秀吉は信長が1555年尾張を統一してから死ぬまでに27年の戦歴が有るのにたいし、秀吉自身が総司令官として直接指揮をしたのは1590年までの僅か8年間に過ぎません。
やはり統一までの年月の重みが違います。


(因みに、戦国大名の国盗りのスピード的には、生え抜きでは、伊達政宗が僅か4年間で東北最大の勢力になったのが最短で、他には島津義久が23年間でほぼ九州を制圧したのがそれに次ぐかと思います。)



信長は、国内戦争しか経験していませんが、日本から誰か選ぶとなると、100選の下位で入るかもしれません。海外でも日本人では最も評価されている名将なので、外すと代わりが難しい感じです。



またまた字数オーバー、途中になりました。
次回は少しだけ日本の名将、歴史資料に関して続けます。

再び信長

前回、文字数オーバーで、かなり削除しても全文掲載出来ませんでしたので、中途半端な所からです。


さて、コルドバが、イタリア南部に送り込んだ兵士たちは、ここで長期の継続的なプロ訓練を受けました。さらに、本国スペインが、アメリカ新大陸発見により、豊かな財源を獲得したことで安定した兵士や兵器の供給に成功。


これによりスペイン軍は熟練したヨーロッパ最良の軍隊となり、プロスペロ・コロンナ、ペスカーラ候フェランテ・ダヴァロスから、アルバ公フェルナンド・アルヴァレス・デ・トレド、ドン・フォン・デ・オーストリア、パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ、サヴァイア公エマヌエーレ・フィリペルト、アンブロシウス・スピーノラ、ヘルツォーグ・フォン・フェリア大公に至る、15世紀から16世紀の傑出した武将たちの活躍を生み出していくことになります。



以上、「世界名将100選中世・ルネサンス編」で取り上げるべき内容でしたが、これで「大将軍」ゴンザロ・デ・コルドバを終わりにしたいと思います。
コルドバは100選に確実に入る名将です。中世以降の最初の近代的な武将であり、戦術改革により、その後のオランダのマウリッツやスウェーデンのグスタフ・アドルフ等の先駆者といえる人物でした。



さて話は戻りますが、織田信長他日本の武将に関しては、やはり他国との戦争経験が不足しているため、どのような位置づけになるのかは簡単には判断できません。
日本では戦国時代が収束していく頃、ヨーロッパでは本格的な軍事革命が起こります。ヨーロッパでも所謂名将といわれる人物は、これからの数世紀に集中しています。


有り得ない事ですが、日本がその後も幕末まで、ヨーロッパ並みの数百の戦いを外国勢力と戦うことになれば、本当の戦術革命というようなものが起こり、日本の軍事技術の発展が続いたかもしれません。
織田信長などの軍事的な成功も、模倣されより継続性のあるものになっていたかもしれません。(といっても、逆に植民地化していた可能性が極めて高いわけですが・・。



信長のその後の戦いはもう少し・・・



天正3年(1575)8月、信長は10万以上の大軍で越前の一向一揆平定に向います。
先の伊勢長島の一向一揆との戦いの経験から、信長の一向一揆対策は、動員できるだけの大軍を使い、一気に平定し、根絶やしになるまで殲滅戦を行っています。


信長は、越前に向け8月12日出発。
14日信長は越前敦賀に陣を置き、15日に先鋒の明智光秀・羽柴秀吉を初め、織田軍は越前府中へ侵入開始。先鋒軍は、木ノ芽峠付近の一揆側の防衛線を突破し、たちまち一揆軍を撃破します。
16日信長も敦賀から府中を目指し侵攻し府中竜門寺を攻略。
2日間で府中は町中死体で足の踏み場も無い状態となります。


16日信長、越前国敦賀を出立。17日塙直政・滝川一益・織田信雄・織田信孝・織田信包他に越前国内の残敵掃討戦を実行させ、柴田勝家・丹羽長秀・織田信澄は鳥羽城を攻略。金森長近らは郡上方面に進撃し、大野郡に進撃。

22日にはほとんど一揆勢を殲滅したため、23日府中から一乗谷へ陣を移動し更に越前国中を捜索し残敵掃討を実施させ、稲葉一鉄・明智光秀・羽柴秀吉・細川藤孝・簗田広正を加賀国へ進撃させ、越前、加賀から、さらに能登・越中方面に進出していきます。


28日信長は、越前豊原へ移動さらに9月2日豊原より北庄城へ移動。加賀の能美、江沼の2郡も平定し、柴田勝家を北ノ庄に置き、府中には前田利家、不破光治、佐々成政を置き勝家の目付とします。
一揆勢力の殺害は3から4万人とも言われます。
この殲滅戦により越前を完全に制圧。10月石山本願寺の顕如はこの情勢に講和を申し出ます。



天正4年(1576)4月石山本願寺との戦争が再開。
5月3日、本願寺一揆勢が数千挺の鉄炮で織田軍を攻撃敗走させます。
一揆勢の追撃を阻止した塙直政ら討死し、天王寺砦を守備する佐久間信栄・明智光秀・荒木村重・三好康長らを包囲。


この知らせで、5日信長は、未明に僅かな手勢で摂津に向い出陣、諸軍が後を追います。
7日信長自らの陣頭指揮により3千ばかりの軍勢を率い本願寺一揆勢1万5千に攻撃を仕掛け、信長は前線で自ら足軽隊を指揮しました。自身足に鉄砲による傷を負うも、一揆勢を撃破し天王寺砦に入りました。この信長自身の督戦により勝利した戦い以降、本願寺側は野戦から篭城戦に切り替えて言ったともいわれます。


5月毛利氏が織田家に断交し、7月13〜15日毛利水軍が、石山本願寺へ兵粮を運搬し、織田水軍を木津川口で撃破して石山本願寺への兵粮搬入に成功します。



翌天正5年(1577)2月13日から、本願寺側の紀伊の雑賀衆を討つべく、信長自身が、信忠・信雄・信孝ら一族を始め10万以上の軍勢を率いて泉州河内へ方面に出陣します。
2手に分かれ織田軍は、山側から佐久間信盛・羽柴秀吉・荒木村重ら、浜側からは滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・細川藤孝・筒井順慶らが進軍。根来寺衆徒を味方にし一気に攻め込みますが、紀ノ川周辺の防御線で進軍を阻まれ、雑賀城も攻略できず、戦線は膠着状態となります。
結局、何とか3月15日雑賀一揆衆と講和を結び降伏させます。



8月には、上杉謙信が能登に侵攻する動きを見せ、信長は、柴田勝家を大将、羽柴秀吉・丹羽長秀・滝川一益・稲葉一鉄らを加賀国に派遣します。
謙信は、9月15日能登七尾城を攻略し、23日には手取川の戦いで、上杉軍が織田軍に勝利し、
上杉勢が能登を制圧。
結局、1578年3月に謙信死去。謙信は実は関東侵攻を考えていた説があります。



さて、上杉軍の動きを見て、8月17日松永久秀が、石山本願寺攻囲陣から離脱し大和信貴山城に帰還し謀反。9月29日 織田信長、大和国信貴山城へ細川藤孝・明智光秀・筒井順慶ら畿内の軍勢を派遣し、さらに10月に入ると、織田信忠を大将に、羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀・佐久間信盛らが大和国信貴山城を総攻撃し、10日松永久秀を自害させます。



一方、10月から中国地方の毛利・宇喜田氏攻めを開始、羽柴秀吉を総大将として播磨に送り、
11月末、羽柴秀吉、毛利に属する備前の宇喜多直家の七条城(上月城)を攻略し尼子勝久・山中幸盛に守備させます。その後2度の攻防を経ますが占領。



天正6年(1578年)2月、播磨の別所長治が三木城に立て籠もって叛旗を翻し、秀吉は別所側の多くの支城攻めに専念します。
その間、4月18日、毛利の大軍3万が上月城を包囲。
これに対し、5月4日秀吉は1万の軍で上月城救援に向い毛利軍と対峙するも、敵が大軍の為動けず。その間、5月1日信長自身も、播磨国方面への出撃を予定しますが、佐久間信盛らの諫止で中止し、代わりに織田信忠・信雄・信孝・細川藤孝・佐久間信盛らの大軍を播磨国に派遣し別所攻めの戦局打開を図るものの好転しません。


6月16日秀吉は信長の指示を仰ぐため密かに上京し、上月城の尼子氏を見捨て三木城攻略に全力を注ぐよう命令を受けます。6月26日羽柴秀吉は陣を撤収し、三木城攻撃のために平井山に移陣。
29日秀吉軍は織田所軍と共に三木城の完全包囲し、さらび各支城を各個攻略していきます。
その間、7月5日、上月城の尼子勝久は毛利氏に降伏、開城自刃します。



6月、信長が、滝川一益と九鬼嘉隆に建造させていた3門の大砲を装備し、鉄板の装甲を張りめぐらせた大船6艘が完成。(横7間・縦12〜13間の5000人が乗船できる「鉄ノ船」で「テツハウ」が通らない様に工夫がなされていたといいます)
さて、6月26日〜28日、九鬼嘉隆は、新造の鉄船を率いて紀伊国熊野浦に出撃、紀伊国雑賀一揆・淡輪一揆船団を撃破します。


7月18日九鬼嘉隆、新造の鉄船にて大阪湾の海路を封鎖します。
そして、10月12日木津川に於いて毛利水軍を撃破します。
その後も11月にも、大阪湾にで毛利水軍を破り、石山本願寺は毛利氏よりの糧道を断たれ、孤立することとなります。 
10月、荒木村重が、敵対していた毛利氏・石山本願寺と結んで信長に叛き、有岡城に籠城し、11月14日織田軍、荒木村重の籠城する摂津国有岡城に攻撃を開始。




天正7年(1579)8月に柴田勝家が加賀一向一揆を制圧し、本願寺側の勢力がまた一つ平定されます。また9月、毛利氏が三木城に兵糧輸送を試みるも、秀吉軍の迎撃にあって失敗。
これにより三木城への兵糧輸送の望みは完全に断たれました。10月頃より包囲網を次第に狭めます。
9月荒木村重も、単身尼崎城に逐電し、城主を失った有岡城は11月に陥落。


天正8年(1580)1月1月ついに三木城陥落し、別所長治自刃。
4月秀吉の中国侵攻が進み、防衛に回った毛利からの援助も途絶え、さらに荒木、別所などが平定される状況で、ついに石山本願寺は、7月17日勅命を受けて和睦し、本願寺顕如は石山を退去。講和に反対していた子の教如も7月17日に講和を受け入れ、ここに10年余りに渡る石山戦争は終わりました。



石山本願寺は、各地の一向一揆と連合して、信長包囲網を形成して信長にとって最大の敵でした。これは一種の宗教戦争であり、天下布武を目指す権力者にとっては必ず克服しなければならない試練でもあったでしょう。


天正9年(1581)1月 信長は、前年9月から徳川家康が、武田側の高天神城を攻めている事に関して、「武田勝頼程度では、高天神城の反撃は不可能であろう見通しと徳川家康の辛労を犒い、一両年内に織田信長自身が駿河国・甲斐国へ出勢すれば制圧できる」と記しています。
長篠の戦い以降、武田勝頼は外交政策を誤り、関東の北条氏政を敵に回したことから、徳川家康の侵攻に対応出来ず、信長にとってはもはや簡単に制圧できる状態になってきていました。


3月高天神城陥落。この時、最後まで援軍を送れなかった武田勝頼の声望が大きく傷つき、翌年の滅亡につながったと良く言われますが、最近は、信長が、家康に敵の降伏を拒絶するように指示した書状が残っていることから、籠城戦を世間に知らしめて、援軍一つ送れない勝頼の評判を落とすために謀略をしくんだとも言われます。



天正9年(1581)7月12日、羽柴秀吉が吉川経家の籠もる鳥取城に到着し、2万余の軍勢により兵糧を経つ包囲作戦を展開。毛利氏からの援軍・食糧の補給が阻止されて、包囲後3ヶ月で「籠城兵糧つき、牛馬人等喰ひ候」という状況となります。ついに10月25日、吉川経家は自刃し開城。



この頃、信長は秀吉に、「明智光秀・細川藤孝以下、摂州衆も準備させているので、秀吉からの要請が有り次第に進軍させる。その上で軍勢は必要なだけ要請し、さらに信長自身も出馬するので油断無く」と命令します。



9月27日信長の命令による伊賀攻め。総勢4万以上の軍で、織田信雄、丹羽長秀、滝川一益、堀秀政、筒井順慶、福富秀勝らが各街道から攻め入り包囲殲滅戦を行い、10月26日最後の砦陥落し終了。


次回に続きます。

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