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左京区の修学院地区を流れる音羽川を遡ると「砂防学習ゾーン」があり、「雲母(きらら)坂」に因んだ「きらら橋」を北に渡ると「雲母(きらら)坂」の標示板があります・・この「雲母坂」というのは、一つの坂というより、修学院の鷺森神社の北辺りから、音羽川に沿って登り、比叡山の四明ヶ嶽(しめいがたけ)に至る約5キロの山道のことを言います。
道は険しいですが比叡山山頂への最短路のため、平安時代から比叡山と京の都を結ぶ主要路として賑わい、都からの勅使が通ったことから、「勅使坂」とも呼ばれました。
最澄、法然、親鸞などの名僧をはじめ、多くの人が行き交い、比叡山の僧兵たちが日吉神社の神輿を担ぎ、都に強訴に押しかけたのもこの道と言われています。さらに、南北朝時代にはこの坂が戦場となり多くの将兵が死んだ場所でもあります。尚、この雲母坂の名前は、付近の花崗岩に含まれる雲母のきらきらした輝きからこう呼ばれたとも伝えらています。
「雲母坂」の途中には「親鸞聖人御旧跡きらら坂」や「雲母寺跡」の碑があります(写真)
「親鸞聖人御旧跡きらら坂」は、前に採り上げた本願寺北山別院の時にも出てきましたが、親鸞上人が比叡山から六角道へ百日の間参籠した時に、この雲母坂を通ったことを示す石標です。
また、「雲母寺跡」石標は、かつてこの比叡山への登り口に、雲母寺というお寺があったことを示していますが、雲母寺は、平安時代の元慶年間(877〜84)に、相応上人が開いた天台宗寺院でした。
本尊に伝教大師最澄作と伝わる約2.4mの不動明王を祀っていたことから、江戸時代の名所案内に拠れば、一般に不動堂と呼ばれていたようです。本堂の東に不動滝があり、本堂、方丈、鐘楼を構える一流の寺院だったようですが、明治十八年(1885)に廃絶しました。廃絶後、不動堂と本尊不動明王は赤山禅院に、境内にあった阿弥陀如来と弥勒菩薩の2つの石仏は禅華院に、地蔵菩薩は帰命院へ移されたようです。
雲母坂の坂道は、途中までは体全体が隠れるほど深く抉られた谷道で、さらに登ると、南北朝時代の南朝方の公家で武将でもあった千種忠顕が戦死した場所に立つ「千種忠顕碑」や「水呑み対陣跡」石標があります。
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