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左京区北白川仕伏町にある乗願院は、浄土宗のお寺です。特になんということも無いお寺ですが、北白川宮の歴史を今に伝えています。
寺伝によれば、元々は比叡山延暦寺の支坊だったようですが、元亀二年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちの際に焼失しました。しかしその後、慶長十三年(1608)に信誉上人により再興され、以降、照高院(後の北白川宮)の御霊所となり、照高院第四代の道寛法親王によって乗願寺山が寄進されるなど数々の保護を受けたようです。乗願寺山には照高院の墓地があり、以降は乗願院がこの墓地を管理する様になりました。(尚、江戸時代には北白川地区は乗願院の辺りが北端だったようです。)
照高院は、前に北白川天神宮の時に出てきましたが再度書きますと・・・桃山時代の文録年間(1592〜96)初め、豊臣秀吉の信任厚い道証という僧が開基した照高院という寺が東山妙法院にあり、方広寺鐘銘事件に関連して廃されてしまいました。
江戸時代の元和五年(1619)、後陽成天皇の弟・輿意法親王が、この照高院を伏見城の二の丸松丸殿を譲り受けて、門跡寺院として白川村外山(現北白川仕伏町)に再建します。寺紋として菊御紋章雪輪を用いたことから「照高院雪輪殿」「北白川御殿」と呼ばれていました。その後、照高院は、第六代忠譽法親王の時代に聖護院に属し、明治三年(1870)、門主の智成法親王は還俗して北白川宮と称します。そして、明治八年(1875)北白川宮家の東京移転に伴い照高院は取り壊され廃寺となりました。しかし、道晃法親王らの位牌は今もこの乗願院に安置されています。
乗願院の本堂は、上賀茂神社境内にあった神宮寺観音堂を譲り受け明治二年(1869)に移築したもので蛙股の彫刻など寛永年間の建築様式の特徴があるようです。また、山門横には「北白川小学校開校地の跡」という石碑があります。明治七年(1874)に、京都府愛宕郡白川村立白川小学校(現・北白川小学校は北白川別当町)が、乗願院南側にあった毘沙門堂を借り受けて開校したことを示す記念碑です。
また、乗願院のすぐ東には、初代北白川宮の智成親王(伏見宮邦家親王王子)の墓や聖護院宮墓地があり、別に採り上げてみたいと思います。
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