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今月は幾つか桜の名所に行ってみましたが、その中で一番好きなお寺といえば、やはり常照皇寺(じょうしょうこうじ)かもしれません。常照皇寺は桜だけでなく紅葉も綺麗で、夏場も山寺らしい趣の有るお寺ですが、一番はやはり桜の季節でしょう。
さて、右京区京北井戸字丸山(以前は京都府北桑田郡京北町と呼ばれましたが、平成十七年(2005)に京都市右京区に編入されました)にある常照皇寺は、正式には大雄名山万寿常照皇寺(だいおうめいざんまんじゅ)常照皇寺と称する臨済宗の京都嵯峨天龍寺派のお寺です。以前は常照寺と略称していたそうです。
常照皇寺は、南北朝時代の北朝初代・光厳(こうごん)上皇が、貞治元年(北朝 1362)=正平十七年(南朝)に、この地に庵を設けたことに始まります。一説にはこの地にあった天台宗梶井門跡系の成就寺(じょうじゅじ)という廃寺を改めたとも伝えられます。
光厳上皇は、足利尊氏に擁立され18歳から21歳まで僅か3年間天皇位にあり、その後、南北朝の騒乱の中で上皇として30年余りの激動の生涯を送りました。特に晩年、京都を奪回した南朝軍により、弟の光明、子の崇光両上皇と共に捕らえられ、南朝の本拠地・大和賀名生(奈良県五條市)にまで連行され数年間軟禁状態に置かれました。そしてようやく釈放されると出家して、諸国を行脚しこの山奥に落ち着いたとも伝えられます。そして2年後貞治三年(北朝)、51歳で死去しました。
その後、上皇の菩提を弔うために禅宗寺院として整備され、特に南北朝統一後の第102代・後花園天皇が、境内裏山の万樹林や小塩田260石等を五代溯る先祖の光厳上皇への香華料(こうげりょう)として献納し広大な寺領を得ました。その後は皇家と地元檀家が力を合わせて護寺に努めてきたと言うことです。
戦国時代末期、織田信長の命を受けた明智光秀が丹波攻略戦を展開し、天正七年(1579)、東丹波の波多野氏に続いて、この京北の宇津氏を滅ぼしました。そしてこの地に周山城を築いて支配を固めます。これに対し山国周辺の豪族が最後の抵抗を試みますが光秀軍に制圧されました・・この戦乱の際に、常照皇寺も全山焼失破壊されたと伝わります。
その後、江戸時代に後水尾天皇の援助で漸次回復し、明治時代には皇室ゆかりの寺院として下賜金を得たことにより堂宇庭園を拡大しました。しかし昭和の敗戦後は皇室からの援助も跡絶え、多くの寺田や資産を失って衰えますが、その後現在のような姿に復元してきたと言うことです。
さて、山国御陵前のバス亭からなだらかな舗装道を登ると、先ず迎えてくれるのが門前の八重桜です。(写真)、遅咲きの新しい桜ですが、これだけでもここまで来る価値があるかもしれません。常照皇寺の境内の「九重桜」、「左近桜」、「御車返し」の3つの名桜が老木なのに対し、こちらは元気があるようです。(写真)その向こうに小さな山門があります(写真)
尚、山門の右手からも参道が山際まで続いていますが、こちらは常照皇寺ゆかりの光厳天皇の山国御陵、後花園天皇の後山国御陵へと続きます。また後土御門天皇の分骨所でもあります。
山門からなだらかな石段が続き、中門の勅額門を抜けると、左右に山寺らしい斜面を利用した石組の庭が広がります。右には碧潭池と呼ばれる池があり、正面に皇室ゆかりのお寺らしい堂々とした勅使門が見えます。
このお寺は志納制です。美しいお寺なので庫裡で志納金を多目に払うことにしました。書院を抜けて広い方丈から庭を拝観しました。ここには釈迦如来像が高い位置に祀られています。(写真)
次回に続きます。
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