京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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左京区の岩倉幡枝には、借景庭園で知られる有名な円通寺があります。
円通寺を採り上げる前に、円通寺までの道の途中にある史跡を少しだけ採り上げました・・栗栖野瓦窯跡(くるすのがようあと)です。



この岩倉盆地周辺は、良質の粘土と燃料の薪に恵まれ,平安京造営以前から瓦製造が盛んだったようです。特に幡枝一帯には、飛鳥時代から平安時代まで大規模な古窯跡群が残っていて、その中でも栗栖野瓦窯跡は平安時代の官営の窯跡群として有名で、この地で生産された瓦は、平安京の中心地・平安宮の大内裏や当寺や西寺等の平安京とその周辺の寺院跡から多数出土しています。

窯の構造は平窯を中心に、トンネル状の窖窯(あなかま)もあり、一部では緑釉陶器や須恵器も焼いていたと考えられています。平安時代の「延喜式」に登場する「栗栖野両瓦屋」と一致するものとして考えられていて、平安時代の窯業を知る上で貴重な遺跡として国の史跡に指定されています(昭和九年)
ただの丘のような印象の栗栖野瓦窯跡ですが、一帯は文化財保護法により守られていて立ち入ったりすることは禁止されているようです。

すずめ寺(更雀寺)

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左京区静市市原町にある更雀寺(きょうしゃくじ)は、通称「雀寺(すずめでら)」と呼ばれている小さなお寺です。本堂と地蔵堂が並び、その前に小さな「雀塚」があります。



更雀寺は、山号を森豊山という、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗・西山禅林寺派のお寺です。
平安初期の延暦十二年(793)、桓武天皇の勅願寺として賢憬上人が三条付近に創建し、その後、藤原氏の学問寺大学寮として勧学院と呼ばれました。創建時は大きな寺院だったようですが、その後度々戦乱に遭い焼失します。元応二年(1320)、後醍醐天皇が「更雀寺」の寺号を与え一時再建しますが、応仁の乱以降は再び衰退し、寛永三年(1626)に四条大宮に移転しました。現在の地には昭和五十二年(1977)に移転しました。


さて、このお寺が雀寺と呼ばれるのは以下の伝説によります。
平安時代、一条天皇の時代の長徳元年(995)、「中古三十六歌仙」の一人で歌人として有名な藤原実方が、書の三蹟の一人でもある藤原行成と宮中で口論しました。この時、実方は怒って杓で行成の冠を叩き落し投げ捨てるという無礼な振舞いをしたのでした。これに対し、行成は抗わず役人に冠を拾わせて事を収めました。しかし、この暴力行為が原因で藤原実方は奥州へ左遷されました。
実方は都に想いを馳せながら、奥州で失意の日々を送っていましたが、落馬が原因で長保元年(999)に死去しました。
それからしばらく後、勧学院(更雀寺)の住職・観智上人の夢に一羽の雀が現われ、「私は実方である。この身は奥州で死んだが、霊魂は雀に化身して都を慕って飛んできたので、自分のために読経して欲しい。」と語ったということです。翌朝、庭には雀の死骸があったので、塚を築いて弔ったと伝わります。これが現在まで残る「雀塚」です。(写真)こうして、実方が都を慕って雀に化身して舞い戻って、力尽きて死んだという話は都中の噂になり、いつしか「雀寺」と呼ばれるようになったということです。

更雀寺は、「雀伝説」のみで知られる小さなお寺ですが、その他、境内の地蔵堂に祀られる地蔵菩薩像は、毎年四月に壬生寺で催される「大念仏狂言」の演目「桶取」に出てくる地蔵菩薩で「桶取地蔵」と呼ばれています。

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