京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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智積院

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東山区東瓦町にある智積院(ちしゃくいん)は、真言宗智山派の総本山です。
長谷川等伯等の国宝障壁画と名勝庭園という二つの見所を押さえ、東山七条周辺の観光名所としては三十三間堂(蓮華王院)に次いで人気のある寺院のように思います。(尚、今回は、立派な山門の写真が掲載できませんでした。)



智積院は、正式には五百仏頂山根来寺智積院(いほぶっちょうさんねごろじちしゃくいん・いおぶさんとも)といい、元は紀州の根来寺の塔頭でした。
紀州の根来寺は、弘法大師空海から約260年後の興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)が創建した寺院です。興教大師は高野山に真言宗の学堂として大伝法院を建てて教学に努め、真言宗の「中興の祖」と呼ばれます。しかし晩年の保延六年(1140)、高野山内の衆徒との教義上の対立等により高野山を下りて根来山に移り、真言宗の根本道場として根来寺を創建しました。
その後、鎌倉時代中期に、頼瑜(らいゆ)僧正が、大伝法院を高野山から根来山へ移し、これにより、根来山は真言教学の拠点として大いに栄え、、室町時代末期の最盛期には堂塔二千七百余、六千余の学僧を抱え、寺領七十万石の日本屈指の大寺院となりました。こうして根来山には多くの塔頭が建ち並び、智積院もその一つでした。
しかし根来寺は、天下統一を目指す織田信長、豊臣秀吉に対して僧兵による武力で抵抗した結果、天正十三年(1585)秀吉の軍勢によって一山ことごとく焼き払われてしまいました。
この時、塔頭智積院の玄宥(げんゆう)僧正は多くの学僧と共に高野山に難を逃れ、さらに京都に赴き寺院再興を目指し、ようやく豊臣秀吉が亡くなった慶長三年(1598)に、洛北に再興の第一歩を築きました。慶長六年(1601)に、智積院に帰依していた徳川家康は、玄宥僧正に東山の豊国社境内の坊舎と土地一部を与え、ここに智積院は再興します。
そして、玄宥を継いだ祐宜(ゆうぎ)、日誉(にちよ)僧正の代になり、元和元年(1615)に、徳川家康が豊臣家を滅したことにより、豊臣家ゆかりの豊国社と祥雲禅寺(秀吉が、夭折した我が子・捨君(鶴松)の供養のために建立した寺院)の土地を智積院に寄進しました。この際に、五百仏頂山根来寺智積院と改名しました。
その後、さらに境内伽藍を拡充しますが、一方火災による焼失も繰り返し、幕末から明治維新になると廃仏毀釈の影響で衰退します。明治二年(1869)には、土佐藩の陣所となっていた教学根本道場の勧学院が爆発炎上し、明治15年(1882)には最も重要な金堂を焼失しする不幸に遭います。しかし、明治33年(1900)に全国約3000の寺院が結集して智積院を総本山と定め、また戦後の復興期を乗り越えて徐々に境内を拡充整備して今日に至ります。





多くの堂宇が建ち並ぶ智積院ですが、境内の中心となる金堂は本尊大日如来像(故西村公朝氏の指導により藤原様式で作成)を祀ります。元の建物は元禄十四年(1701)に桂昌院(徳川5代将軍綱吉生母)の援助を得て宝永ニ年(1705)に建立されましたが、明治十五年(1882)に火災により焼失し、宗祖弘法大師生誕千二百年記念事業として昭和五十年(1975)に建立されました。
また、講堂はかっては方丈と呼ばれ、玄宥僧正が東山に智積院を再興した際に、徳川家康より寄贈された祥雲寺の法堂が基になっています。この建物自体は天和二年(1682)に焼失し、その後幕府から与えられた東福門院の旧殿・対屋を基に、貞亨元年(1684)に再建しますが、これも昭和二十二年にも焼失してしまい、現在の建物は、平成七年(1995)に完成したものです。
紀州の根来寺伝来と伝わる本尊不動明王様を祀っているのが、護摩道場・祈祷所の明王殿(不動堂)です。京都十三仏霊場第一番、近畿三十六不動尊霊場第二十番札所になっています。
昭和二十二(1947)の火災により本堂が焼失した際に、本堂再建のため、京都四条寺町にある浄土宗寺院・大雲院の本堂を譲られて、現在の講堂のある場所に移築した建物で、平成二年(1990)の講堂再建にともなって現在の場所に移築されました。
その他、真言宗開祖・弘法大師空海の尊像を安置する大師堂は寛政元年(1789)の建立。また真言宗中興の祖・興教大師覚鑁の尊像を安置する密厳堂は、寛文七年(1667)の建立ということです。






智積院の見所としては、まず日本最高の障壁画の一つと呼ばれる長谷川等伯一派の名品が公開されています。桃山時代に長谷川等伯らによって描かれ、元々秀吉創建の祥雲禅寺の客殿を飾っていた金碧障壁画「楓図」、「桜図」、「松に立葵の図」、「松に秋草図」、「松に黄蜀葵図」、「雪松図」等が残されていて、これらは国宝に指定されています。特に長谷川等伯と弟子による「楓図」や等伯の長男・久蔵の作とされる「桜図」は必見でしょう。
智積院の数度の火災の際、わずかに救出された貴重な障壁画の一部で、現存するものも原型の4分の1以下に切断されてしまっているということですが、それでも素晴らしい迫力です・・原型は想像を超える素晴らしいものだったかもしれません。これらはかっては大書院に飾られていましたが、現在は保存管理の為に収蔵庫に納められています。

大書院東側の名勝庭園は、中国の廬山を形どって作られた利休好みの庭として知られます。庭園の正面右側、石橋より奥の部分は豊臣秀吉が建立した祥雲禅寺時代に原形が造られたもので、自然石のみを用いて刈り込みを配し、庭の外の木々も借景的に取り込んで深山の中にあるかのような奥行きを出しています。桃山時代らしい勇壮な庭園様式を残している部分ということになります。
一方、築山に滝組を設けた正面部分は、石組と刈り込みが巧みに組み合わされて江戸時代らしい洗練された庭園様式になっています。この部分は、智積院の第七世運敞(うんしょう)僧正が修復したものということです。
また平安時代の寝殿造りの釣殿のように、池が書院の縁の下に入り込んでいて、実際以上に庭園を大きく感じさせる効果を上げています。全体は雄大で、細部が繊細な他に例の少ない特徴ある庭園として国の名勝庭園に指定されています。四季折々の草花が彩りますが、特にツツジの季節の5月下旬〜6月下旬にかけてが一番華やかな庭園です。また廊下づたいの宸殿には、堂本印象のモダンな障壁画等が飾っています。





智積院の障壁画はやはり必見です。また庭園は学生時代から好きな庭の一つでした。東山七条付近では、養源院をはじめゆっくり座って寛げない寺院も多い気がします。疲れた時は、智積院の庭園を前に足を伸ばしてみるのが一番ではないでしょうか。この日は途中からあいにくの雨模様でしたが、多くの観光客が来られていました。(雨の前と後の写真がありますが、ランダムに掲載します)

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