京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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大原には有名観光寺院の他に小さな史跡がたくさんありますが、三千院付近から幾つかの目立った史跡を採り上げてみます・・ほとんどの観光客は残念ながら素通りしてしまう史跡かと思いますが・・。


左京区大原勝林院町、三千院の北にあるのが、第82代後鳥羽天皇大原御陵(おおはらのみささぎ)と第84代順徳天皇大原御陵(おおはらのみささぎ)で、またその北隣には法華堂があります。(写真)

承久三年(1221)、後鳥羽上皇は、子の順徳上皇と共に鎌倉幕府打倒の承久の乱を起こしますが、敗北して、後鳥羽は隠岐に、順徳は佐渡に流刑となりました。(尚、この時乱に関わっていなかった順徳の兄・第83代土御門上皇は、罪が無いにも関わらず、父や弟が配流されるのに自身が許されるのは耐え難いと自身望んで土佐へ配流されました。また天皇に即位したばかりの順徳の皇子も廃されました・・以後九条廃帝と呼ばれ、明治時代に仲恭天皇と増名されています。)さて、後鳥羽は延応元年(1239)、順徳は仁治三年(1242)に夫々の流刑地で死去しましたが、その遺骨は大原の地に運ばれて埋葬されました・・この遺骨を埋葬した御堂が、現在大原陵の隣にある法華堂(大原法華堂)になります。(写真)

当時、梶井宮(三千院)の門主は、後鳥羽上皇の皇子・尊快法親王だったため、その母の修明門院(藤原重子 鳥羽上皇女御。順徳上皇の母でも)と計らって、仁治二年(1241)、上皇の菩提を弔うために、後鳥羽の御所だった水無瀬御所から材を移して御陵として法華堂を建立したと伝えられます。その後、法華堂は享保二十一年(1736)に勝林院と共に焼失し、現在の建物は安永年間(1770頃)から再建がはじまり、安永七年(1778)に落慶法要が行われました。その後、明治時代に現在の地に後鳥羽・順徳の陵墓の大原陵が造られた際に、法華堂にあった遺骨は陵墓に移されたということです。陵墓は、右が後鳥羽、左が順徳陵ですが、宮内庁によると、陵墓の形式は後鳥羽が前に見える十三重塔、順徳は円墳ということです。法華堂については昭和十一年(1936)に内部と屋根を修復しています。堂内には本尊普賢菩薩像を安置しますが非公開です。

その他皇室関係として、勝林院の境内から大原陵に沿って山中に入ると、2つの梶井宮墓地があります。ここは江戸時代の歴代梶井門跡の墓で、一ヶ所は叡仁親王(霊元天皇皇孫)、道仁親王(後伏見天皇十四世皇孫)、慈胤親王(後陽成天皇皇子)、常仁親王(霊元天皇皇孫)が葬られ、さらに別に承快親王(後陽成天皇皇子)、盛胤親王(後水尾天皇皇子)、清宮塔(霊元天皇皇子)、承真親王(霊元天皇皇曾孫)の墓があります。




さて、有名寺院が建ち並ぶ三千院付近を歩くと小さな神社があるのに気付きます。

大原勝林院町にある服部神社は、勝林院町の鎮守社で、祭神は服部大明神。里人により「はっとりさん」と親まれ、毎年一月に修正会と初祈祷、十月には御湯、11月にはお火焚行事が行われているということです。(写真)
また、大原来迎院町、三千院の南に沿って呂川を溯ると小さな神社があります・・勝手神社です。寂れた様子の小さな神社ですが、来迎院を建立した聖応大師良忍上人が天治二年(1125)に声明道場の守護神として大和多武峯より勧請したと伝わります。(写真)

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京都市左京区大原は、元々平安時代に「声明(しょうみょう)」の根本道場・聖地として栄えた地でした。寂光院を除くこの地の観光寺院(三千院、来迎院、勝林院、宝泉院、実光院)は、全てこの声明道場に関係するので少しその当りのことについて書いてみます。


「声明」とは、仏教経典などに節を付けて歌う仏教音楽で、その起源はインドの仏教誕生時代に溯るとも言われ、梵歌とも呼ばれていたようです。その後、奈良時代から平安時代にかけて中国経由で日本に伝えられ、日本でも様々な宗派で伝承されましたが、現在では「天台声明」と「真言声明」が主流となっています。大原で伝承されてきた天台声明は、平安時代に比叡山延暦寺の慈覚大師円仁が中国から伝えたもので、「魚山(ぎょざん)声明」とも呼ばれました。「魚山」とは、中国の山東省にある声明の聖地のことで、比叡山の西麓(現在の大原の東)の山々が中国の「魚山」に似ていることから名付けられたと言われ、今も三千院以下の寺院の山号として伝わっています。

また、大原では三千院を挟んで二つの小さな川が流れていて、北を流れる川は律川(りつせん)、南が呂川(りょせん)と呼ばれていますが、これらは声明の呂(呂旋法)と律(律旋法)に因んだ名前になります。(尚、この呂と律の節回しの使い分けが出来ないことから「呂律(ろれつ)が回らない」という言い回しが生まれたと言われています。)どちらの川も紅葉に映え、特に律川に架かる赤色の萱穂橋の辺りは絵になります。(写真1は来迎院付近の呂川、写真2は律川の萱穂橋辺り)三千院や実光院の庭園は律川の水を引き入れたものでもあり、前回に採り上げた「音無の滝」もあって大原を歩くと水の郷という印象も持ちます。(それと大原と言えば柴漬けですが・・四方を山に囲まれた盆地のために昼夜の寒暖が激しく、さらに水質にも恵まれているために紫蘇が良く育つことは知られています。)


ついでに、寂光院の参道付近にある水に関する小さな史跡も掲載します。
「朧(おぼろ)の清水」は建礼門院ゆかりの泉で、建礼門院が、朧月夜に自身の姿を映したとされる泉です。また、「落合滝」は、建礼門院の「ころころと小石流るる谷川の かじかなくなる落合の滝」の歌で知られている小さな滝です。(写真)

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