京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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来迎院

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大原の三千院の山門の南、魚山橋を渡って呂川を東に約300m溯ると、三千院前の観光客の喧噪を忘れさせてくれる静かな佇まいのお寺があります・・これが来迎院で、平安時代以降、魚山大原寺(ぎょざんだいげんじ)の上院として、下院と呼ばれた勝林院と共に天台声明の根本道場として栄えた由緒あるお寺です。これまでに採り上げた大原の他の寺院と内容的に重複する点もありますが少し書いてみます。



左京区大原来迎院町にある来迎院は、正式には魚山大原寺(ぎょざんだいげんじ)来迎院という、比叡山延暦寺の別院になる天台宗寺院です。平安時代初期、天台宗第三代座主の慈覚大師円仁は、入唐して十余年間中国仏教を学び、当時、山西省五台山の太原(タイユワン)を中心に流行していた五台山念仏(声明)を習得しました。そして帰朝後、仁寿年間(851〜854)に比叡山を五台山と見なして、太原(タイユワン)に似た地形の比叡山麓の現在の大原の地に声明の根本道場を定めました。尚「魚山大原寺(ぎょざんだいげんじ)」の「魚山」という山号は、中国五台山の声明の中心地の一峰の名に由来し、また「大原(だいげん)」もいう寺名も中国の都市「太原(タイユワン)」の名を採ったもので、これが現在の「大原(おおはら)」という地名の起こりになりました。

こうして、慈覚大師円仁は、奈良時代から日本に伝来していた奈良仏教の顕教系と自身が入唐して学んだ密教系浄土系の声明を合わせて天台声明を完成し、その後、この天台声明は比叡山の弟子達に受継がれていきます。その後、藤原時代(10〜12世紀)には、大原一帯は、比叡山を離れた念仏聖が修行する隠棲の里となりました。当時の比叡山では、「山門派(延暦寺)」と「寺門派(三井寺=園城寺)」との対立抗争を繰り返し、僧兵を擁する武装化も始まっていました。こうした政争を嫌って仏道実践の修行の地を求めて比叡山を下り、この大原に移り住んだのが大原入道寂源上人や聖応大師良忍上人でした。
長和二年(1013)に慈覚大師円仁の九代目の弟子・大原入道寂源上人がこの前にブログで採り上げた勝林院を、その後、天仁二年(1109)に聖応大師良忍上人が三尊院(後の来迎院)を声明道場として建立しました。




さて、現在、来迎院の参道近くには、聖応大師良忍上人を紹介する案内板が立ち並んでいます。良忍上人は、大原で声明を研究して当時七つの派に分かれていた天台声明を統一させ、その後天台声明の主流となった「魚山流声明」を確立し、来迎院を中心に大原の里を声明の根本道場とした功労者です。

良忍上人は、尾張富田(愛知県東海市)の人で、13歳で叡山へ登って兄の檀那院良質に就いて出家し、仏道修行に励み才能を発揮しますが、当時(平安時代末期)の比叡山では、自他救済の仏道の実践が難しいと考え、22歳の頃、修行の地を求めて大原へ隠棲し、嘉保二年(1095)に声明の大原魚山派を興し、天仁二年(1109)38歳の時、鳥羽天皇の勅を得て三尊院(後の来迎院。また塔頭の浄蓮華院も同時に建立)を建立します。
日々、法華経の読誦や大乗経典の書写、念仏六万編を唱え、また「音無の滝」で滝に向って声明を唱えるなど三昧業に精進しますが、永久五年(1117)46歳の時、念仏三昧中に阿弥陀仏から融通念仏の教えを授けられました。融通念仏とは、一人の念仏と衆人の念仏とが互いに融通しあって往生の機縁となることで、良忍上人は天治一年(1124)、この教えを弟子達によって京都市中に布教させ、やがて河内(大阪府)平野に修楽寺(日本最初の念仏道場といわれる大念仏寺の前身)を開き、融通念仏宗を開宗するようになります。そして天承二年(1132)に60歳で、この来迎院で入滅しました。

さて、こうして、大原は上院来迎院と下院勝林院を中心として坊(子院・塔頭)が集落化して魚山大原寺と総称し、平安末から鎌倉時代の最盛時には、一里四方(約654m四方)の境内に上下両院で49もの坊が建ち並びました。当時は、声明を修練する僧侶や貴族が数多く集まって、妙音のこだまする里であったということです。そこで比叡山は、保元元年(1156)、梶井政所(現三千院)を設置し魚山大原寺の統括を図っています。
尚、多数の堂宇があった三尊院(来迎院)は室町時代の応永三十三年(1426)に火災で焼失しますが、本堂は天文二年(1533)に再建、さらに同二十一年(1552)に改修されています・・これが現在の建物です。明治初年まで魚山大原寺として広い境内を維持してきましたが、その後宗教法人法の制定により一山解散して、夫々の塔頭が独立した寺院となりました。(来迎院の周辺には、塔頭の浄蓮華院(融通念仏旧跡)、蓮成院、遮那院が点在しています。)




来迎院の見所としては、まず本堂内陣の本尊の薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三尊像は必見です。
全て藤原時代の木造漆箔寄木造で、国の重要文化財に指定されています。(写真)また脇侍の不動明王、毘沙門天像は藤原時代後期の作、三尊前の村牡丹唐草透彫の前卓は鎌倉時代初期の作になります。さらに外陣左脇檀には慈覚大師坐像、元三大師画像、聖応大師坐像が祀られ、右脇檀には徳川歴代将軍の尊霊を祀ります。(江戸時代に幕府の御朱印寺として寺領を授かっていた縁によります。)寺宝としては伝教大師度縁案並僧綱牒(どえんあんならびにそうこうちょう 国宝)、日本霊異記(中・下 国宝)をはじめ、良忍上人自筆の写本や声明に関する記録や典籍、文章など貴重な資料を所蔵しています。

境内の鐘楼にある梵鐘は、永亨七年(1435)に大工藤原国次が作ったという銘があり、京都市指定重要文化財です。また本堂から東に登ると、鎮守堂・獅子飛石(良忍上人の修行中に石が獅子となって飛び回ったという伝説によります)・地蔵堂(鎌倉時代)があります。
そして、律川の対岸に渡ると、聖応大師良忍上人の御廟である三重石塔(鎌倉時代 国の重文)があります。(写真)その他境内には、良忍上人の創建と伝わる如来蔵、昭和六十年(1985)に完成した収蔵庫が点在しています。
また、年中行事としては一月二日に声明法要の修正会や春秋(5月1〜10日・11月1日〜30日)の如来蔵所蔵の絵画の特別公開等があり、また毎日曜日には勤行法話会で声明を聞くこともできます。




今回、久しぶりの来迎院でしたが、本堂の三尊は相変らず厳かで、三千院の往生極楽院の三尊と共に仏教聖地としての大原を感じさせてくれる数少ない貴重な宝物です。平安時代に溯って魚山大原寺の歴史を現在まで伝えているのは、この来迎院と勝林院、それと各塔頭二院のみで、三千院境内でも往生極楽院しかありません(それ以外は江戸時代以降の創建)そういう点でも大切にしたい寺院です。





尚、追加として、塔頭の浄蓮華院と蓮成院に関してです。
この二寺は一般拝観をしていませんが、(浄蓮華院は宿坊としては公開しています。)毎土日・祝日に行われている大原の観光イベント「香雲ミニ・コンサート」の会場となっているので、チケットを買って参加すると内部を見ることが出来ます。(私も未だ見たことは無いのですが)

浄蓮華院は天仁二年(1109)聖応大師良忍上人が来迎院と同時期に建立した融通念仏の本堂で、元は良忍上人の住坊でした。明治初期に堂宇を焼失しますが、昭和四十四年(1969)に庫裏と鐘楼堂を再建しています。現在は宿坊として公開されています。
また、蓮成院は非公開寺院で、客殿は江戸末期の梶井宮最後の門主・昌仁法親王の仮御殿として建立されたということです。かっては「北ノ坊」と称して三千院の境内にあったものを昭和元年(1926)に三千院の辰殿が再建される際に現在地に移されたということです。

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