京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

海宝寺

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

伏見区桃山町正宗にある海宝寺(海寶寺)は、観光寺院では無いのですが、中国風精進料理の普茶料理を楽しめるお寺として広く知られています。

海宝寺(かいほうじ)は、山号を福聚山(ふくじゅざん)という黄檗宗寺院で、江戸時代中期の享保年間(1716-36)に建てられた京都では比較的新しいお寺です。
桃山時代、現在の海宝寺境内を含む「桃山町正宗」という地域には、仙台藩の藩祖・伊達政宗の伏見上屋敷(かみやしき)がありました。伊達政宗は文禄四年(1595)に豊臣秀吉からこの伏見に屋敷地を与えられ、千人以上の重臣やその妻子などを住まわせました。伊達家家臣が闊歩する屋敷一帯は人々から「伊達町(だてまち)」と呼ばれたそうです。政宗自身も慶長四年(1599)頃までこの地に住み、慶長六年(1601)に上洛した際にも、約1年間ここで過ごしています。
(尚、政宗の伏見屋敷は、この上屋敷の他に、上屋敷の南西と深草の2ヶ所に下屋敷(しもやしき)があったようです。深草の下屋敷付近には、現在も「深草東伊達町(ふかくさひがしだてちょう)」「深草西伊達町(ふかくさにしだてちょう)」の地名が当時の名残を留めています。また、海宝寺門前の道路は「伊達街道」と呼ばれます。)


さて、海宝寺は、享保年間(1716〜36)初期、萬福寺第十二世・杲堂元昶(こうどうげんちょう)禅師が創建した開宝寺という寺院がはじまりと伝えられ、その後、享保十三年(1728)に萬福寺第十三世・竺庵浄印(じくあんじょういん)禅師が、伊達政宗屋敷跡に移転して寺名を「海宝寺」と改め、萬福寺の別院・歴代管長の隠居場所としたということです。また一説には、江戸時代前期にこの地にあった天台宗寺院の開法寺という寺院が、竺庵浄印禅師を迎える際に黄檗宗に改められ「海宝寺」と改名したとも伝えられます。


海宝寺の山門には「普茶大本山開祖道場」の札が掛けられ、落ち着いた境内が心地良いです。
本堂は宝暦五年(1755)に、京都伏見の呉服商・大文字屋(現・百貨店大丸の前身)の創始者・下村彦右衛門正啓が、竺庵浄印和尚に帰依して寄進したもので、堂内に本尊・聖観音菩薩を祀っています。また本堂前には、樹齢約400年という見事な木斛(モッコク ツバキ科の常緑樹)の木があります。この木はかつてこの地に屋敷を構えていた伊達正宗のお手植えと伝えられます。(写真)また方丈前に豊臣秀吉遺愛の手水鉢があり、方丈の襖絵「群鶏図」(現在は京都博物館所蔵)は伊藤若冲晩年の作と伝えられます。また若冲は、この絵を書いた後は、筆を取らなかったといわれ、襖絵の部屋は「若沖筆投げの間」と呼ばれるということです。

海宝寺は普茶料理のお寺として知られます。
普茶料理は、万福寺の開祖・隠元禅師が中国から伝えた中国風の精進料理です。「普茶」とは、普く多数の人にお茶を差し上げると言う意味で、日本の食材を使って、中国からの渡来僧たちにも食べやすいように考案されました。「雲片」と呼ばれる野菜の葛よせ、筍の煮物、ごま豆腐等があり、油で揚げたり葛かけにして、日本の精進料理よりもこくのある旨みを引き出しています。海宝寺では昭和二十五年(1950)から、普茶料理が営業されていて、庭園を眺めながら楽しむことが出来ます。(4人以上で予約 5000〜6000円)

開く トラックバック(1)

同聚院(東福寺塔頭)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

東福寺の塔頭・同聚院(どうじゅいん どうしゅういん)は個人的に好きな寺院です。
禅寺東福寺の数多くの塔頭の中でも、密教系の雰囲気を持つ異色の小寺ですが、圧倒される巨大な不動明王像が祀られていています。この像は外からも僅かに覗けますが、拝観料200円を払うと堂内に上がって間近で拝見できるので、是非拝観をお勧めします。


同聚院は、臨済宗東福寺派に属する東福寺の塔頭です。本尊に不動明王を祀ることから、近畿三十六不動尊霊場の二十一番霊場でもあります。
東福寺が創建される以前、この地域一帯は平安時代中期の延長三年(924)に関白藤原忠平が法性寺を建立した場所でした。法性寺は藤原氏の氏寺として栄え、寛弘三年(1006)には、藤原道長が40歳の祝賀に当って丈六の五大明王を安置する壮大な五大堂を境内に造営しました。その後も代々の藤原氏は法性寺の造営に力を入れ、平安末期の藤原忠通の時代には全盛期を迎え広大な寺域に大伽藍を構えていましたが、鎌倉時代初期には衰退してしまいます。その後、嘉禎二年(1236)、摂政九条道家は、法性寺跡地に大寺院を建立しようと考え、建長七年(1255)に至る19年の大工事の末に東福寺が完成しました。

さて、同聚院は文安元年(1444)に、東福寺第百六十世・文渓元作禅師が、その師の東福寺第百二十九世・琴江令薫禅師を開山に勧請して創建した寺院です。
同聚院の建つ地は、かつて藤原道長が建立した五大堂の遺跡付近だったといわれています。道長の時代には五大堂には2m以上の迫力ある五大明王が祀られていました。(中央に不動明王、東に降三世明王、南に軍荼利明王、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王)しかし、その後火事等の災害により中尊不動明王を除く四体は失われ、不動明王像のみが法性寺が衰退した後も、幾多の災難を乗り越えて東福寺・同聚院の本尊として受け継がれ今日に伝えられました。


この不動明王像は、藤原時代前期の代表的な彫像で、仏師定朝の父・康尚(こうしょう)の数少ない確実な作品として重要文化財に指定されています。木造彩色、像高265cmの日本最大の木像不動明王像で、膝前や光背は後世のものですが、憤怒の相の巨大な姿の中にも優美さをたたえた名作です。
この像は、古来「十万不動(じゅうまんは、正しくは「十」の下に「万」を組み合わせた一字)」と称されて崇敬を集めてきました。この「じゅうまん」という文字は、「土力(どりき)」または「十万」という二字を一字にした文字といわれています。
「土力(どりき)」とは即ち、土の力=産土を表し、土地を守護する仏という意味、「十万」とは、この不動明王は他と違って常に十万の一族・従者を従えているという意味ということで、古来、霊験あらたかな仏様として信仰を集めたために現在まで大切に守られてきたのでしょう。
また、毎年二月二日に、方寸の紙に「じゅう(「十」の下に「万」の一字)」の字を書いた屋守護(やさご)の符が加持して参拝者に配布されています。この神符を門戸に貼れば、その家は火災や諸難を逃れ、福徳円満で子孫繁栄に恵まれると信仰されています。
最後についですが、同聚院の墓地には、祇園の芸妓出身でアメリカの富豪ジョージ・モルガンと結婚した元祖国際派ともいうべきモルガンお雪の墓があるそうです。


私は、同聚院の迫力と優しさを兼ね備えた巨大な不動明王像に接していると、平安時代以来の信仰の力を感じ、重森三玲の庭園を見所とする東福寺の他の塔頭などつまらなく感じてしまう時があります。

開く トラックバック(2)

全1ページ

[1]


.
hir**i1600
hir**i1600
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事