京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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乃木神社その2

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さて、ようやく乃木神社の沿革についてです・・


明治天皇の大葬は明治四十五年(1912)九月十三日に行われ、この時京阪電車取締役・村野山人は会社を代表して大葬に参列することになっていましたが、この日の朝に乃木の殉死を知って非常に深い感銘を受けました。その後、村野山人は乃木の一周忌に会社を退職し、残りの人生を私財を投じて乃木神社の建立に捧げようと考えます。そして全国の有志と共に大正五年(1916)に乃木が敬愛した明治天皇の眠る伏見桃山御陵の傍の現在の地に乃木神社を創建しました。


本殿は、楠木正成を祀る湊川神社を模した一門社春日造りで、神社としては珍しく北に正面を向けて建てられています。
これは、乃木が明治天皇を慕って殉死したことから、御所を護る「北面の武士」として死後も帝に侍るという意味をもって、北にある明治天皇伏見桃山御陵に背を向けないように、すなわち御陵に対して正面となるようにして祀られたことによります。(さらに拝殿に対して本殿が垂直という特異な位置になります)こうして、南面する御陵と北面する神社本殿は今も相対して佇んでいるのです。

神門は四脚入母屋造で、門扉は台湾総督だった乃木を記念して樹齢三千年の台湾・阿里山紅檜から幅六尺三寸(約1.9m)の継ぎ目の無い1枚板をとって一幹で建てられています。また、拝殿前には、乃木が水師営での会見の際にロシアの将軍ステッセルから贈られた二頭の愛馬・壽号とその子馬・璞号が御霊を護って対峙しています。

境内には他に、乃木に関する様々な記念の建物や銅像が立ち並んでいます・・
記念館は、元々中国の東北部、旅順柳樹房にあった周玉徳・周金夫妻の住宅で、日露戦争の際に第三軍司令部として使用されていたものです。神社創建時に、村野山人が現地で家主から建物全体の買い付け交渉を行って譲渡許可を得て解体し、資材全てをこの地に輸送し移築して記念館としたものです。外部様式と左手にある部屋(旧乃木の寝室)は当時のままで、他は改装して展示館にしています。(写真)
また、宝物館には、乃木直筆の書や日用品をはじめ、部下や日露戦争で子を失った親や遺族に宛てた手紙、乃木の殉死を伝える新聞号外・雑誌等が展示されています。(写真)

また長府(山口県)にある乃木の生家を復原した建物があります。(写真)
乃木の少年時代に父・希次が藩主から閉門蟄居を命じられた際に、郷里長府で足軽の家を借りて暮らした質素な住いを復元したもので、ここに家族七人が暮らし、少年乃木は右側の米搗場では米を搗きながら本を読んだということです。尚、等身大の塑像は父希次、母寿子と少年時代の乃木の姿で乃木の甥・長谷川栄作の作によるものです。
幼少時代の乃木は幼名を無人といって、気弱温順な性格でした。両親はこのような息子を腑甲斐なく思って、家庭教育として毎朝出仕前に必ず一条の教訓を与えて出かけるようにしていたということで、この像は毎朝父から訓示を受ける少年時代の乃木の姿が再現されています。
他に日露戦争で活躍した巡洋艦・吾妻(昭和十九年引退)を記念してその主錨をモニュメントにした旧海軍将兵慰霊碑、徳富蘇峰の書による「乃木将軍景仰の碑」、小倉祐一作の「学習院長時代の乃木将軍胸像」等があります。(写真)


最後に、乃木神社の一角には「山城えびす神社」があります。(写真)
元々は乃木神社創建から七年後の大正12年(1923)に、乃木静子夫人の御霊と七福神を合祀する形で創建された「静魂七福社(しずたましちふくしゃ)」という神社でしたが、その後「静魂さん」と呼ばれるようになり、七福神が隠れた形になっていたということです。平成十八年(2006)の乃木神社創建90年を機会に、静子夫人の御霊は乃木神社本殿へ遷され、七福神のみを祀る神社として、七福神中唯一日本の神様であるといわれる、えびす神を首座に迎え「山城えびす神社」として再建したということです。


乃木神社の境内には桜や四季折々の花が咲く樹木があり、近所の方や観光客の寛げる休憩場所としても親しまれています。親しみやすい神社なので、明治天皇陵と合わせて訪ねてみるのも良いかと思います。

乃木神社その1

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伏見区桃山町板倉周防にある乃木神社(のぎじんじゃ)は、先祖が宇多天皇の第八皇子敦賀親王の後裔、佐々木四郎高綱と伝えられる陸軍大将・乃木希典(乃木希典大人之命=ノギマレスケウシノミコト)を祀る神社として知られます。
全国(北海道函館・室蘭、栃木県那須塩原、東京都港区、滋賀県蒲生郡・香川県善通寺香川県善通寺、山口県下関)にある乃木神社の中で最初に建てられた乃木神社です。



乃木希典は、幕末の嘉永二年(1849)、長州藩の支藩・長府藩藩士の乃木希次の長男として江戸に生まれました。安政五年(1858)に10歳で、藩政改革について意見したことが反対派に陥れられ江戸所払いとなった父と共に長府へ帰ります。少年希典は吉田松陰の叔父にあたる長州藩の玉木文之進に学び藩校明倫館に入学し、その後、慶応二年(1866)に報国隊に参加して幕府軍と戦いました。
明治維新後は、軍人の道を志し、明治四年(1871)陸軍少佐に任じられます。明治十年(1877)の西南戦争では、第十四連隊長心得として西南の役に出陣しますが、熊本城攻撃の最中に連隊のシンボルである神聖な連隊旗を薩摩軍に奪われるという事件が発生します。名誉ある軍人として最も屈辱的なこの事件の衝撃から乃木は自殺しようとして止められます。しかしこの事件は生涯彼の心に大きな負担を与え、殉死に至る遠因となりました。
その後、明治十八年(1885)に陸軍少将に任じられ、翌年から2年間ドイツに留学し、明治二十七年(1894)の日清戦争では歩兵第一旅団長として参戦しました。翌二十八年(1895)には陸軍中将に昇進し男爵として華族に列し、また台湾総督を勤めます。乃木の輝かしい出世の背景には、戦功というより長州軍閥出身だったからという理由が大きかったためとも言われます。
そして、明治三十七年(1904)に日露戦争がはじまると、乃木は第三軍司令官として陸軍大将に任じられ旅順要塞攻略戦を指揮することとなります。




さて、当時、日本が朝鮮半島から満州でロシアと戦うためには、本国と朝鮮半島の間の制海権を確保する必要があり、そのためには何としてもウラジオストック及び旅順を基地とするロシア太平洋艦隊を壊滅しなければなりませんでした。また、もし黒海及びバルト海からバルチック艦隊が極東に回航して旅順艦隊と合流すれば、日本海軍よりも遥かに大きな戦力となり、日本は制海権を失う危機が考えられました。そこで、日本海軍は、早期に旅順艦隊を誘い出して洋上でこれを殲滅しようと計画しますが、旅順港に撤退したロシア艦隊を誘き出すことは出来ませんでした。そこで旅順港の封鎖作戦を行いますがこれも失敗します。さらにウラジオストックのロシア小艦隊が日本の補給路を脅かす状況となり、海軍は陸軍に旅順要塞の攻撃を要請したのでした。

こうして、乃木率いる第三軍は七月から八月にかけて旅順要塞を包囲し、その後約四ヶ月の攻防戦の間に三度の総攻撃を敢行しますが攻略は困難を極めました。八月十九日から行われた第一回総攻撃では、小口径野砲による猛攻撃を行った後に、歩兵の突撃攻撃を決行しますが、堅固な要塞は砲撃による破壊を殆んど受けず、逆に要塞からの銃弾攻撃をまともに受けた歩兵部隊は多数の戦死者を出します。結局一時占領した保塁もロシア軍に奪回され、死傷者一万五千人という大損害を受けて失敗します。(もちろん、それまでの日本戦史上一回の作戦で受けた最大の損害でした。)

その後、事前に塹壕を掘り進んで要塞正面に近づいた後に、正面攻撃を行うという作戦に切り替えたために、直接前進しての突撃作戦よりも兵力の消耗は免れますが、再び十月末から行われた第二回の攻撃も失敗します。この作戦では二八cm砲等を設置して旅順港への砲撃を行い、ロシアの旅順艦隊に損害を与えますが、肝心の要塞自体の攻略が失敗したために戦果は得られませんでした。
尚、その間に海軍は、黄海海戦で出港した旅順艦隊に勝利しますが、またもや旅順に逃げ込まれることとなります。ただ蔚山沖海戦でウラジオストック艦隊に打撃を与えたことにより制海権を安定確保することが出来ました。

さて、いよいよバルチック艦隊が極東に向かったという報を受けた海軍は、陸軍に対し早期の旅順攻略を催促します。こうして、陸軍司令部は第三軍に内地に残る第七師団を加えて増強し、乃木に第三回の旅順総攻撃を指令します。しかし十一月末からの総攻撃も激戦となり苦戦に陥ります。二十九日、戦況の不振を懸念した満州軍総参謀長・兒玉源太郎大将が旅順に向かい、以後、乃木率いる第三軍は、旅順要塞の正面攻撃から、旅順港を見渡す二百三高地に攻撃目標を変更します。
十二月四日から二百三高地への大砲攻撃を開始して、戦死者約五千五百人という激戦の末に即日占領。ただちに高地から旅順艦隊への砲撃を開始し、十二月八日、旅順艦隊は壊滅し、ついに一月一日に旅順要塞は降伏しました。




日露戦争における乃木の軍人として才能については評価の分かれるところであり、現在は、司馬遼太郎著「坂の上の雲」に代表されるように、無策により多数の死傷者を出した愚将という厳しい意見が一般的になりつつあるように思われます。ただ司馬さんの「竜馬がゆく」が坂本龍馬を過大に評価して、その後の龍馬人気を生み出したように、あくまで小説のイメージは実像とは別ものとして慎重に判断すべきで、乃木は確かに平凡な軍人だったかもしれませんが、苦戦の原因は現地司令官の責任だけでなく戦争政策全体にあったといえるでしょう。つまり、乃木の能力不足というよりも、日本の大本営が大国との本格的な戦争経験が欠如していたために現地司令官に有効な指導援助を行うことが無かったことが大きいようにも思います。(その後の日本の戦争でも同様ですが)総参謀長山縣有朋、満州軍総司令官大山巌、満州軍総参謀長兒玉源太郎以下の参謀本部の戦争指導も試行錯誤して決して褒められたものでは無かったといえるでしょう・・想定外の死傷者の多さに参謀本部は驚愕し対応は後手にまわったのでした。

また、旅順攻略戦で乃木は多数の死傷者を出したことから非難されますが、それは旅順だけに限ったことではありません。日本軍は勝利した遼陽会戦で二万以上、奉天会戦では七万五千以上の戦傷者を出していますが、これは参加兵力の割合でみれば、ロシア軍よりも非常に大きな損失であり、人員はもとより物資補給面でも一年経たない内に戦争継続が不可能な状態に陥ったことが考えられます。
また戦術面では、要塞構築術や火力の殺傷力がそれ以前より格段に進歩して、防御側に有利な状況が生まれていたこと・・例え優れた戦術を行っても死傷者を減らすことが出来ない全体戦争の時代に入りつつあったことが挙げられます。結局は、乃木以外の指揮官でも戦傷者数はそれ程変らなかったのでは無いでしょうか・・また、旅順攻略を兒玉源太郎の天才のみに求めるのも極端と思われます。日本海海戦の勝利を含めてあくまで幸運により最終的な勝利を得ましたが、開戦を決定した政治的判断そのものが危険な賭けであったともいえるでしょう。



さて、乃木希典は、戦前には聖将とまで讃えられましたが、この人気は軍事的才能の有無ではなく、武士道精神を体現した常に禁欲的で紳士的な振舞いにあったことは確かです。
2人の息子を戦死させた悲劇、海外にまで乃木の名を有名にした旅順司令官ロシアのステッセルとの水師営での会見で見せた武士道精神、旅順での功業を誇らず多数の戦死者を出した事のみを詫びる姿、明治四十年(1907)に日露戦争の責任から辞職を考えますが、明治天皇の要請により学習院院長に就任し、後に昭和天皇に「私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学習院長だった」と言わしめた教育者としての姿等々・・そして最後に衝撃的な殉死によって乃木のイメージは決定付けられました。

大正元年(1912)明治天皇大葬の九月十三日の夜、乃木は「うつし世を神去りましし大君の みあとしたひて我はゆくなり」という辞世を残して、妻静子と共に自決しました。遺書には明治天皇に殉ずる旨、また西南戦争の際の連隊旗を奪われた恥じを償うための自殺であると記されていました。
乃木の殉死は、当時の国民に大きな衝撃を与えました。夏目漱石、西田幾多郎、森鴎外、幸田露伴、内村鑑三、徳富盧花、新渡戸稲造、黒岩涙香、志賀直哉等の多くの文人がこの事件について記しているように、明治時代という一つの時代の終わりを象徴する事件と受け取られ、また生前の乃木の印象からも伝統的な武士道精神の終焉、逆に前近代的、時代錯誤的な振舞いという声もあったようです。
現在でも乃木の生涯に関しては賞賛と批判が交錯しているといえるでしょう。


長くなりすぎました・・字数オーバーでその2で神社の沿革を書いてみます。

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