京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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この夏に「沙羅の花を愛でる会」で訪れた妙心寺の塔頭の東林院ですが、今回は秋の恒例行事となった「梵燈のあかりに親しむ会」で再び訪ねてみました。
(10月5日〜14日、拝観料500円・抹茶600円、拝観時間18:00〜20:30受付終了)

(お寺の沿革は、前に書いた「沙羅の花を愛でる会」の記事を参照ください。)


「梵燈のあかりに親しむ会」は、毎年秋に行われる東林院の夜間特別拝観で、御住職の手作りのあかり瓦「梵燈(意匠登録)」によるライトアップが行われます。
山門を入った前庭、お馴染みの沙羅双樹の本堂前庭、千両の植えられた中庭、そして方丈前の大きな蓬莱の庭に、58灯の梵燈と約200個の小さな瓦、約100本の竹筒に入れられたロウソクが幻想的な(どうも、何でも「幻想的」の一言で片付けてしまいますが)雰囲気を生み出します。まさに癒しの空間です。多くの観光客が訪れていましたが、皆さん、感動されていたようです。夜の写真撮影は難しく、写真は今一雰囲気が伝わりませんが少し掲載してみます。

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左京区の「哲学の道」を歩いていると、若王寺付近で眼下に大きなお寺の屋根が見えてきます・・このお寺が南禅寺の境外塔頭寺院の光雲寺(こううんじ)です。
観光寺院ではありませんが、座禅や法話、写経などの体験のできる南禅寺の禅センターとして用いられています。そして、現在は虫干し(曝涼)を機会にした恒例の秋の特別公開(「曝涼寺宝公開 境内特別公開10月6〜8日)が行われています・・光雲寺が東福門院(将軍徳川秀忠娘・後水尾天皇の中宮)の菩提寺であることから女院の330回忌にあたる今年は、天皇家と徳川家を結びつけた人物として、「菊と葵 東福門院と光雲寺」というタイトルのようです。


左京区南禅寺北ノ坊町にある光雲寺は、山号を霊芝山(れいしざん)といい、臨済宗南禅寺派に属する南禅寺の境外塔頭です。南禅寺の北域にあることから「南禅寺北ノ坊」とも呼ばれます。開山は南禅寺の開山として、また東福寺の第三世としても有名な無関普門(大明国師)禅師で、南禅寺の建立に先立つこと十一年前に禅師がはじめて創建した寺院ということです。

無関普門(大明国師)禅師は、建暦二年(1212)に、信州(長野市若穂)に生まれました。
幼少より正円寺(新潟県管名庄)に預けられ13歳で得度します。その後、長楽寺(群馬県世良田)の釈円栄朝禅師に禅を学び、さらに宋から帰国して東福寺の開山にとなった円爾弁円(聖一国師)禅師の門下に入ります。そして、建長三年(1251)に宋に渡って10年余の間修行した後、弘長二年(1262)に帰国しました。帰国後は正円寺(新潟県)に戻って住持となりますが、弘安三年(1280)に、師の東福寺円爾禅師(聖一国師)が病に倒れたことから見舞いに上洛します。円爾禅師(聖一国師)の死により後継者として東福寺第二世の座を推す声もある中で、東山湛照(東福寺第二世)禅師に譲歩し、同年(弘安三年 1280)に、摂津国(大阪府)難波の四天王寺の近辺に退いて、出世道場として光雲寺を創建したというということです。
しかし、東福寺第二世となった東山湛照禅師がわずか三ヶ月後に退任したために、東福寺第三世に迎えられ、以後亡くなるまで第三世として住持を務めます。そして、正応四年(1291)に禅師に深く帰依した亀山法皇からその離宮を禅寺として譲り受けて南禅寺を開創します。しかし、無関普門(大明国師)禅師自身は、南禅寺伽藍の完成を見ることなく、その年に亡くなり、後事を第二世の規菴祖円(南院国師)禅師に託すことになりました。


さて、その後の摂津の光雲寺は衰退して、寺の跡地もわからないほどだったようですが、江戸初期の明暦三年(1657)に南禅寺の第百代住持・英中玄賢禅師(1627〜95)によって再興されました。
英中玄賢禅師は、無関普門(大明国師)禅師ゆかりの光雲寺の再興を計り、江戸の寺社奉行や老中などへ支援を求め、特に英中禅師に帰依していた後水尾天皇とその中宮・東福門院(将軍徳川秀忠娘)の大きな助力によって、寛文四年(1664)に難波から現在地に移転されました。
東福門院は京都の多くの寺院を復興したことで知られますが、その菩提寺となった光雲寺は江戸時代を通じて幕府の庇護を受け栄えました。また歴代皇室の尊崇もあつく、久邇(くにの)宮家の菩提所となっています。このように、再興後は多くの堂宇が立ち並ぶ広大な敷地を持つ大寺院として、常時五十人以上の雲水が修行に励んでいたということですが、その後火災に遭い、また明治の廃仏毀釈の影響で寺域は縮小したということです。


現在の堂々とした仏殿は創建当時のもので、本堂と禅堂とを兼ねています。堂内の須弥壇上には本尊で東福門院の念持仏という釈迦如来尊像、左右に阿難(あなん)、迦葉(かしょう)の二尊者像を安置しています。特に、東福門院の死後間もなく造られた木造東福門院坐像(京都市指定文化財)は生前の姿を思い浮かべさせる印象的な像だと感じます。その他、東福門院より賜った念寺仏の観音菩薩像、東福門院念持の金銅舎利塔(京都市指定文化財)等も祀られています。また鐘楼と鐘は、明正天皇の寄進によるものです。

さらに、今回の特別展では、京都市指定文化財の彩色の美しい絹本著色東福門院像や女院直筆の和歌色紙等の東福門院ゆかりの遺品や歴代住職の頂相(ちんそう)等が方丈で公開されています。後水尾天皇宸筆の釈迦牟尼仏名号、十六羅漢図や伝・狩野元信の扇面図屏風(かなり損傷があります)等も印象的です。光雲寺は、東福門院や英中玄賢禅司ゆかりの遺品や再興時以降の光雲寺の寺歴に関する資料等330点余りを所蔵していて、これらは京都市の指定文化財に選定されています。まだまだ多くの寺宝や資料を所蔵しているのでしょう。
また、方丈の東には、加藤清正が朝鮮より招来した瑪瑙(めのう)の手水鉢が二基あります。この珍しい手水鉢はその後徳川家に納められ、東福門院が光雲寺に寄進したものです。(写真)

書院南の庭園は、昭和の初めに造園家として知られる七代目・小川治兵衛(植治)が作庭した池泉廻遊式の名庭です。元々あった庭園は江戸時代の名所図絵にも登場する名園でしたが荒廃したため、昭和二年(1927)に小川治兵衛が大幅に手を加えたものということで、京都市指定名勝に指定されています。それ程の広さは無いのですが、疏水の水を引き入れて池とし、背景の東山を借景にしていて実際以上に大きく感じます。光雲寺と背後の東山の間には哲学の道があるのですが、借景の効果により、寺のすぐ後に山があるように感じます。
光雲寺は、見所が多いというわけではありませんが、大寺院とは違った親しみやすい雰囲気があり好感が持てます。

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再び、深草周辺から小さな史跡を採り上げます。

まずは「ぬりこべ地蔵」です。
伏見区深草大門町、伏見稲荷大社から石峰寺へと続く長閑な散策路の途中に小さなお堂があり、高さ1m程の石仏が祀られています。これが「ぬりこべ地蔵」で、歯痛にご利益がある石仏として知られます。
全国からも歯痛平癒を祈ってはがきが寄せられていて、これらのはがきは堂内に山積みにされていいます。また、治癒のお礼には塗り箸を奉納するという習慣があるということです。
「ぬりこべ地蔵」という名は、歯の痛みを封じ込めるという意味、または土壁で塗り込まれたお堂に祀られていたので、そのように呼ばれるようになったともいわれています。少なくとも江戸時代から、現在地の西の警察学校敷地(深草塚本町・龍谷大学の北)に祀られていたようですが、明治末から大正にかけて旧地が軍用地になったため現在地へ移設されたということです。



続いて、東福寺の塔頭・南明院の南側(東山区と伏見区の境付近)にある墓地を採り上げます・・伏見区深草願成町にある「俊成、明兆墓地(五条三位俊成卿・兆殿司墓)」です。
平安時代の歌人として知られる藤原俊成(ふじわらのとしなり、 しゅんぜい)と、室町時代の画僧として知られる明兆(みんちょう 通称は兆殿司=ちょうでんす)の墓と伝えられています。

さて、東福寺の南の山裾、知らないと気付かないような民家に囲まれた墓地の一画に、土塀に囲まれて幾つかのお墓が祀られています。
中央が南明院の開山となった室町時代初期の僧・業仲明紹(東福寺第百十一世)上人の墓、右側の自然石は、南明院の二世であり画僧として知られる吉山明兆(1352〜1431)の墓と伝えられています。
明兆は室町時代初期に活躍した絵師で、東福寺に入って同寺の画僧となりました。東福寺では殿司の役にあったので兆殿司(ちょうでんす)とも呼ばれています。東福寺やその末寺の公用絵画を力強い筆致で描き、現在も東福寺に伝わる大涅槃図をはじめ多くの仏画が残っています。

墓地の左側には、大小二個の五輪石塔があり、大きいものが平安末期から鎌倉初期の代表的歌人・藤原俊成(1114〜1204)の墓と伝えられています。
俊成は藤原定家の父でもり、「千載和歌集」の撰者として知られます。俊成は90歳でこの地にあった法性寺内で死去したと伝えられます。墓は元々は現在地の西にありましたが、室町時代の応安三年(1370)頃、冷泉家ゆかりの浄如尼という尼僧が、冷泉家の先祖でもある俊成の菩提の為に、より山裾の現在地の丘を寄進して改葬したといわれ、小さい方の五輪塔は浄如尼の墓と伝えられているそうです。

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