京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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六角堂(頂法寺)

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これまで何度も訪ねているのに、未だにブログに登場していなかった六角堂です。
多くの寺社を訪れていると、記事を書くのに手間取って結局ボツになったお寺もあります・・六角堂も何時でも行けると、つい後回しになってしまっていたお寺でした。
ただ、個人的には、有名寺院の少ない上京・中京辺りの市街地域にあるお寺としては、「釘抜地蔵(石像寺)」等と共に時々覗いてみたくなる最も好きなお寺の一つです。


さて、京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町にある紫雲山頂法寺は、本堂が六角宝形造の堂々とした建物のために、一般に「六角堂」の名前で知られています。
寺伝によれば、用明天皇二年(587)に聖徳太子を開基として創建されたと伝えられます。当時、太子は大阪の四天王寺を建立するために用材を探していて、まだ森林だったこの地を訪れました。旅の疲れをとるためにこの地の泉で沐浴していると、傍の多良の木に掛けておいた護持仏の観音菩薩像が枝から離れなくなっていました。そしてその夜、観音菩薩が夢に現れ「これまでお前の守り本尊となってきたが、これからは、私はここに留まって衆生を救うのでこの地に御堂を建立するように」と告げられたということです。この霊告を受けた太子は、杉の大樹によって六稜の御堂を建立し、自らの護持仏の観音像を安置しました・・これが六角堂の始まりと伝えられています。こうして日本最初の伽藍が建立され、頂法寺と名付けられたということです。

その後も六角堂は人々の崇敬を受け、弘仁十三年(822)には嵯峨天皇の勅願所となり、長徳二年(996)には花山法皇の御幸があり、西国三十三ヶ所観音霊場(現十八番の札所)となったと伝えられます。その後、西国巡礼が盛んになると多くの庶民の信仰を集めるようになりました。また平安末期の後冷泉天皇は、諸国の大寺院に仏舎利一粒ずつを納めましが、六角堂にも納められたと伝えられ、仏舎利塔が現存しています。
特に、六角堂は浄土真宗の開祖・親鸞上人ゆかりの史跡としても有名です。親鸞上人は、比叡山延暦寺で修行に励んでいましたが、建仁元年(1201)、29歳の時、法華経の教えでは世を救えないと絶望しついに下山を決意し、六角堂に百日間参籠しました。そして、夢に現れた聖徳太子の導きによって、吉水(東山)の法然上人の許へ向かい、後に浄土真宗を開宗する根源となったのでした。

六角堂は、京都市の中心部にあることから、天治二年(1125)に最初の炎上をして以来、相次ぐ戦乱等で度々類焼しました。寛永十八年(1641)の再建の際には、朝廷から御所の陣座(詰め所)御殿の建物を寄付され本堂、山門、築地などを復興しています。現在の御堂は、明治九年(1876)から翌年(1877)にかけて再建したものです。
本堂内の本尊は聖徳太子の護持仏といわれる御丈1寸8分(約5.5cm)の秘仏・如意輪観世音菩薩像です。また本尊の脇仏は木造地蔵菩薩像、毘沙門天立像(藤原時代 重文指定)が祀られています。六角堂には他に親鸞上人が夢想の内に聖徳太のお告げを受けた「見真大師(親鸞)無想の像」、比叡山から六角堂に参詣する親鸞上人の姿を表した「見真大師(親鸞)草鞋の御影像」等が祀られています。



さて、六角堂といえば、華道家元「池坊」との関わりです・・聖徳太子は六角堂建立後の如意輪観音像の守護を小野妹子に任せたと伝えられ、妹子は入道して(僧となって)、太子が沐浴したという境内北にある池の傍に坊を営んだので、その坊の名を「池坊」といったということです。
以来、子孫が六角堂の住職として観音像を守護して花を供えてきました。天文年間(1532〜55)の池坊第十三世専応は、「池坊専応口伝」を著してはじめて華道の理論を確立したいわれ、元和から寛永(1615〜43)の頃に活躍した第三十二世・専好は、特に華道の大家として知られます。以来現在まで華道の家元として継承され、六角堂は「華道発祥の地」となりました。
現在、六角堂北側には池坊家元の拠点・池坊会館、西には研修施設などのある「WEST18(名前は、六角堂が西国三十三所の第十八番札所であることにちなんでいます)」があります。(「WEST18」の吹き抜けのエレベーターからはガラス越しに六角堂の六角形の屋根を上から眺められることで知られています。)


また、六角堂には色々な面白い伝説のある史跡がありますが、一番有名なのは「臍石(へそいし)」でしょう。
本堂前の六角形の礎石は、「臍石(へそいし)」、別名「要石(かなめいし)」とも呼ばれ、古来、京都のほぼ中心部にあたるといわれてきました。元々門前の六角通にあったのを明治初期に現在の場所に移したものですが、面白い伝説が残っています。桓武天皇の延暦十二年(793)、京都遷都の際に六角堂の位置が道路の中央に当たったので、天皇が使者を派遣して、何とか少し動いていただきたいと遷座を祈願したところ、お堂がにわかに動き出して5丈ばかり北へ退いたといわれ、この石はその際に取り残された礎石であると伝えられます。(写真)

本堂を隠すほどに茂った見事な柳は六角柳と呼ばれ、また地面すれすれまで伸びることから「地ずり柳」とも呼ばれるそうです。
この柳の木にも面白い伝説があります。平安時代の初期、嵯峨天皇が妃となる女性を探している時のことです。天皇の夢枕に、六角堂の柳の下に行くようにとのお告げがありました。驚いた天皇が六角堂に行ってみると、そこには絶世の美女がいて、天皇は妃に迎えることが出来たということです。以来、この柳は「縁結びの柳」として有名になり、良縁を求める人々がおみくじを結んでいます。

境内の東北隅には聖徳太子を祀った太子堂(開山堂)があり、聖徳太子作と伝えられる太子二歳の像(南無仏像)が安置されています。(写真)
また太子堂の下には白鳥の泳ぐ池があり、この池の中にある石の井筒は、「聖徳太子沐浴池の古跡」と伝えられる場所で、池の側に守護僧の住坊を立てたことから「池坊」の名称の由来ともなった場所です。
境内の東には、六角堂の鎮守社の唐崎明神社があります。
聖徳太子が霊夢を受け、この地に六角堂を建立しようとしていた時、一人の老人に出会います。老人はこの地の地主神で、「この近くにある杉の巨木が毎朝紫の雲がたなびく霊木なのでその木で御堂を建立するように語って」消え去りました。太子はその教えに従って六角堂を建立した後、一社を建て、六角堂の鎮守神・唐崎大明神として祀ったと伝えられます。

山門の左奥には石不動が御堂に祀られ、その横には不動明王像が祀られています。(写真)さらに、境内の中央には多くの石仏が祀られていて、北側にあるのが「北向地蔵尊」で、京都御所を守るため北を向いているということです。(写真)その横にも子供の姿をした「わらべ地蔵尊」等多くの地蔵さんが並んでいます。(写真)その他、「一言地蔵」という願い事をひとつだけ叶えてくれるという可愛いお地蔵さんも知られます。
最後に、六角通りを隔てた南側には鐘楼があります。
梵鐘は慶長十年(1606)に、秀吉の家臣・堀尾吉晴の嫡男忠氏が寄進したもので、その昔、都に水害や火災が発生した際は、この鐘をついて急を知らせたということです。その後、第二次世界大戦の金属供出によって鐘は失われましたが、地元の寄金で昭和二十九年(1954)に再鋳されたものです。



商業地域の中京区には、観光的名所としては二条城、壬生寺、本能寺、後は神泉苑程度しかすぐには思い浮かびません。そんな中京区にあって、六角堂は最も広く親しまれている寺院だと思います。
新京極にも京都らしい幾つかの面白い小さな寺社もありますが、やはり堂々とした六角堂には敵わないでしょう。オフィス街の真ん中にありながら、境内に入ると西国三十三ヶ所観音巡礼の霊場(十八番札所)らしい親しみやすい雰囲気が漂っていて、都会の中のちょっとした憩いの場的な存在でもあります。

三栖の炬火祭

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10月7日、京都市伏見区の三栖神社の祭礼行事「炬火祭(きょかさい)」が行われました。この日は桃山町の御香宮では「神幸祭」の最終日にあたり、こちらも神輿や武者行列が行われ、伏見桃山・中書島周辺が大いに盛り上がった一日だったようです。
(尚、三栖神社と御旅所の金井戸神社については、前回の金井戸神社の記事をご覧ください。)


三栖神社は天武天皇を祀る神社で、秋の神幸祭「炬火祭」は、巨大なたいまつ(炬火)を担いで練り歩くという勇壮なものです。
「炬火祭」は壬申の乱の際、天武天皇が三栖の地を通過するときに、村人達が炬火(たいまつ)を灯して暗夜を照らして歓迎したという伝説に由来しています。何時から行われるようになったのかは不明ですが、少なくとも江戸時代の元禄十三年(1700)の祭の記録が残り、戦後の昭和三十四年(1959)から一時途絶えていましたが、平成元年(1989)に地元住民により復活し、京都市の無形文化財に指定されています。

「炬火祭」は三栖町地域の若者(若中)により行われ、彼らは若中頭や世話役を勤めた後に退いて代替わりします。炬火(たいまつ)作りは、祭の1年前に宇治川の河川敷で葦(ヨシ)を6、7000本刈り取って保存することから始まります。これらは点火部分に使うもので、一年の間、寝かして置くことで穂先が開いていくということです。祭の1ヶ月前には、芯の部分となる葦(ヨシ)を刈って炬火(たいまつ)の芯作りが行われます。さらに化粧葦を編み込む等の数回の行程を経て、直径1.2m、長さ5m、重さ1トンにもなる巨大な大炬火(おおたいまつ)と手炬火(てだいまつ)が完成します。



火祭といえば、山間(鞍馬の火祭、松上げ等)や寺社境内(嵯峨のお松明、岩倉の火祭等)で行われるのが一般的ですが、「炬火祭」は、市街地の一般道路で行われ、火祭形態として非常に珍しいものといわれています。もちろん、昔は人家も少なかったのでしょうが、今は京阪中書島駅があり大阪・京都への通勤に便利な伏見の繁華街近くになっています。そのため交通規制により竹田街道は一時通行止めとなります。

さて、祭当日に大炬火(おおたいまつ)は三栖神社まで巡行して神社に奉納された後、三栖会館前(京阪中書島駅前)まで巡行します。いよいよ午後8時、三栖会館前の大炬火(おおたいまつ)が約30人の若者によって担ぎあげられ点火されます。大炬火は直前に水を満遍なく掛けられて芯まで水を染み込ませています。この水掛けが無いと、炎は一気に燃え広がって担ぎ手が焼死する危険があるからですが、人家が建ち並んでいる市街地の幹線道路上での祭ということを考えれば、万全な危険防止策が必要で、後の鎮火や清掃時間からも当然ということでしょう。

担い棒で担がれた大炬火は、竹田街道を北上して濠川に架かる京橋まで約300m弱程の距離を約30分で巡行することになります。いざ動き出すとけっこう早いスピードで、歩道は見物人で一杯のために、なかなか大炬火に追い付けず撮影は難しかったです。京橋付近では大炬火は何度か回転して祭りを盛り上げ、ここで松明の火は消火されることになります。尚、消化後の燃え残りを持ち帰ると火除けになるといわれているということです。その後、今度は神輿行列が行われ祭は終了します。
若中頭の「三栖の祭は、日本一や!」という叫び声に、沿道の多くの見物人から暖かい拍手が上がっていたのが印象的でした。京都市南部のローカルな祭という感じで、まだまだ知名度の低い火祭かもしれませんが、大炬火が市街地を練り歩くというのも他の火祭には無い特徴で、何と言っても京阪中書島駅前というアクセスの良さからも(四条河原町まで電車10分程度の距離で見られる火祭なんて珍しいでしょう。)一見をお勧めします。


京都では、「大文字五山の送り火」「鞍馬の火祭」「嵯峨清涼寺のお松明」を「京都三大火祭」と呼んでいるようですが、巨大な大松明を用いた祭として「嵯峨のお松明」「岩倉(石座神社)の火祭」そしてこの「三栖の炬火祭」を「京都三大大松明祭」と呼んでも良いのかもしれません。鞍馬の火祭と合わせて、この4つの火祭は迫力ある祭りの好きな方にお勧めです。
その他、全国的に同様の行事のある「松上げ」は、京都では花背、広河原、雲ヶ畑、久田宮の町の4ヶ所で行われ、こちらはしみじみとした寂しさも感じられる叙情的な火祭といった感じでしょうか・・・私はどちらかと言えば近年叙情派ですが。

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10月7日(日)、伏見の三栖神社(みすじんじゃ)の祭礼行事「炬火祭(きょかさい)」が行われました。「炬火」とは炬火(たいまつ)のことで、葦(よし)の束に火を付けるために「松明」では無く「炬火」と記すそうです。午後8時に京阪電車の「中書島」直ぐ北にある三栖会館前で巨大な炬火に点火され、30人あまりの担ぎ手により竹田街道を京橋まで巡行する勇壮な祭りです。
(次回に祭の様子を少し掲載します)


さて、伏見には、三栖神社と呼ばれる神社は2つあり、一つは伏見区横大路下城ノ前町にある本社です。もう一つはそこから東、京阪電車の「中書島」近くにある伏見区三栖向町の金井戸神社で、こちらは三栖神社の御旅所になります。三栖神社は、創建等が不明な旧村社ですが、江戸時代の元禄時代から「炬火祭」を行い、三栖一帯の産土社として祀られてきました。

今回は時間的に遠方にある本社まで訪れることが出来ませんでしたが、「炬火祭」直前の御旅所に寄ってみました。この神社も扁額に三栖神社と記されているように、通称「三栖神社」と呼ばれています。近年、中書島をはじめ周辺の発展により氏子地域が広がったために本社から分離して、南の桃山町金井戸島にちなんで金井戸神社と改名したということです。

さて、三栖神社の御祭神は天武天皇です。672年、大海人皇子(天武天皇)が大友皇子と皇位をめぐって争った「壬申の乱」の際に、大海人皇子(天武天皇)に加担した軍がこの伏見の三栖の地を通過して、村人達が炬火(たいまつ)を灯して暗夜を照らして歓迎したという伝説や、大海人皇子(天武天皇)が大津京への行幸の途中で立ち寄って炬火(たいまつ)で歓迎された等の伝説があり、秋の「炬火祭」はこの伝説に由来して行われています。

次回は「炬火祭」の様子を少し掲載してみます。

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