京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

清水寺から東山五条に続く五条坂付近は、京焼、清水焼の発祥の地として知られ今も多くの陶器を扱う店が並んでいます。
若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)は、この陶器の町の中心にある小さな神社で、毎年八月の祭礼には陶器市で賑わいます。(陶器市は昨年少しだけ採り上げました)



東山区五条橋東五丁目にある若宮八幡宮は、本殿に応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祀り、左相殿に仲恭天皇を祀ります。昭和になって陶祖神の椎根津彦命(しいねつひこのみこと)を合祀したことから、陶器の町の陶器神社とも呼ばれ親しまれています。

平安時代の天喜元年(1057)河内源氏の棟梁・源頼義(八幡太郎義家の父)が後冷泉天皇の勅を奉じて、六条醒ヶ井(さめがい 左女牛)に創建したと伝わります。
仏教では、釈迦の入滅から二千一年目を末世末法の世に入るとしていて、日本では、仏教が伝来した欽明天皇十三年(552)が釈迦入滅一千五百年に当たると考えられてきました。そう考えると、天喜元年(1053年)は、二千一年目に当たることになり、後冷泉天皇は末法の世になっても国家が繁栄することを祈願して八幡宮を建立させたということです。畿内の八幡神の本拠・石清水八幡宮に対して、八幡の若宮と称し、また当初は六条八幡、左女牛八幡(さめがいはちまん)とも呼ばれていました。

八幡宮造営を任された源頼義は、子の義家と共に、翌天喜二年(1054)からの前九年の役で安倍氏を討伐して、八幡神の御加護により功を挙げました。当時京都の源氏の本拠地は六条堀川付近にあり、その傍に建立された神社は以降、源氏の守り神として、源氏一族や多くの武士からの信仰も厚く、源頼朝は建久元年(1190年)と同六年(1195)の二度の上洛の際、臨時の大祭を斎行し、弟の義経も神社の傍に居館を構えています。
室町時代には、足利尊氏以下の歴代将軍の崇敬を集め隆盛を極めましたが、応仁の乱により社殿は荒廃します。その後、十三代将軍義輝や弟義昭の発起により諸国の戦国大名の寄附により再建され、さらに、豊臣秀吉によって天正十一年(1583)に御旅所のあった東山に、さらに同十六年(1588)に大仏方広寺の北に移されています。

そして、慶長十年(1605)、照高院門跡道澄(近衛家出身で、聖護院門跡等を務め、三井寺を復興するなど活躍)が、徳川家康の支援も得て現在の地に移しました。その後、承応三年(1653)、後光明天皇が造営したものが現在の本殿です。
江戸時代以降も徳川家康以降の歴代将軍の崇敬を受け、明治十年(1877)に、東山区本町十六町目(東福寺の西)にあった塚本杜から仲恭天皇の神霊が移さています。
また、陶器の町の中心地らしく、昭和二十四年(1949)に陶祖神・椎根津彦命が合祀され現在に至ります。毎年八月の祭礼(8月7日〜10日)では、協賛行事として氏子の陶器業者を中心に五条通一帯で行われる陶器市で大いに賑わいます。



さて、本殿は、承応三年(1654)の再建と伝えられ、三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の庇を取り込んで前室とし、その前に向拝一間を付けた前室付きの流造です。屋根は元々は桧皮葺きでしたが、現在は銅板葺になっています。前室付きの流造本殿は、滋賀県下には多いそうですが、京都では珍しいということで京都市指定有形文化財に指定されています。その他、本殿下右手に陶祖神社、左側に天神社、稲荷社、祖霊社が並んでいます。

他に境内には、孝明天皇の御胞衣埋納所、至徳3年(1386)に足利義満が寄進した御影石の八角手水鉢、区民の木に選ばれた御神木のクスノキ(高さ20.3m、幹周2.95m)、足利尊氏が病気にかかった際に、若宮八幡宮に祈願して治癒したことを喜んで、神社に奉納した珍宝七種の一つの蓬莱石などがあります。この蓬莱石は長らく本殿の片隅に埋もれていたものが御神託により昭和になって発見されたということです。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

京都市東山区の東山七条付近は、京都国立博物館、三十三間堂、養源院、智積院、豊国神社、方広寺といった観光名所の集まる地域です。
この地域の主要な寺社はこれまでも色々採り上げてきましたが、今回は耳塚の北にあるマイナーなお寺です。(観光寺院では無く情報も少ないので、京都市の観光情報に基づいて書きます。)


東山区正面通本町東入本町4丁目にある「烏寺(からすてら)」は、正式には熊谷山専定寺(くまがいざんせんじょうじ)という、浄土宗西山禅林寺派に属するお寺です。
寺伝によれば、鎌倉時代の初め、専定(せんじょう)法師という旅僧が、この辺りの松の木の木陰で休んでいると、二羽のカラスが木の梢にとまって、「今日は、蓮生坊(源平の戦いで知られる熊谷直実の出家後の法名)の極楽往生の日だ。我々もお見送りしようではないか。」と語り合って南の空へ飛び立ったということです。専定法師が不思議に思って蓮生坊の庵を訪ねたところ、カラスが話していた同日(承元二年(1208)九月十四日)同刻に亡くなっていました。そこで法師は、この地を有縁の霊域と感じて草庵を結んだのが当寺の起りといわれています。

かつては、この故事を伝えるため、境内の松の梢に土焼のカラスが置かれていて、すぐ東にある方広寺の「大仏(方広寺)七不思議」の一つに数えられていたということです。(尚、方広寺境内には、七不思議に数えられる梵鐘内部の「淀君の幽霊」、石垣の大石「泣石」、五輪塔「馬塚」等があります。)

本堂内に安置されている本尊・阿弥陀如来坐像は、元々後白河法皇の念持仏と伝えられ、平安時代後期の作風を残し、また金箔で像内化粧を施してあるという貴重なものということで京都市の文化財に指定されていますが、拝観は出来ないようです。

全1ページ

[1]


.
hir**i1600
hir**i1600
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事